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君を待っていたとは言えなくて  作者: reika1021


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3/10

第3章:噓のかたちの愛

朝の色が窓際の白に溶け込み始めるころ、澄玲は珍しく寝坊をした。前夜、なかなか寝つけなかったためだ。頭の中で、紙コップの記憶や到着ロビーでの会話が繰り返し形を変えては消えていった。


澄玲は、何度も寝返りを打ちながら天井の木目を見つめていた。「透禾さんこそ、いつも丁寧な言葉遣いですよね」と自分が口にしたその一言と、「敵いませんね」という返ってきた言葉が繰り返し耳の奥で再生される。


気づけばカーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。


目覚まし時計のアラームに気づかなかったのはこれが初めてで、澄玲は跳ね起きるように体を起こして時刻を確認した。心臓は夢と現実の境目でまだ揺れているようだった。


支度を急ぎながら、澄玲は鏡に映る自分の顔を一瞥した。目の下にわずかな疲れの色がにじんでいたが、それでも歩く速度は自然に速くなった。


今日はいつもより遅い時間になる。もう出発ロビーには誰もいないかもしれない、という考えが支度をする指先を微妙に急がせていた。


駅までの道のりを澄玲は珍しく小走りで進み、信号が赤に変わる寸前で横断歩道を渡りきって息を弾ませながら電車に乗り込んだ。車内の空気はいつもより湿っていて、窓ガラスにはうっすらと吐息による曇りができていた。


出発ロビーに着いたのはいつもより十五分ほど遅い時間だった。人の流れはすでに厚みを増し、あちこちでキャリーケースの車輪の音が重なり合っていた。澄玲はいつもの柱の脇を通りながら視線を巡らせた。


もういないかもしれない、そう思いながらも視線は勝手にいつもの場所を探していた。始発近くの静けさはすでに失われ、代わりに多国籍な話し声とアナウンスがロビー全体に響き渡り、にぎやかな雰囲気を醸し出していた。


その喧騒の中で、澄玲の目は迷わず一点に吸い寄せられていった。


透禾がいる。


その姿を見つけた瞬間、澄玲の中で何かが緩んだ。安堵とそれを上回る小さな喜びが、同時に押し寄せてきた。しかし、その喜びをすぐに顔に出すわけにはいかなかった。


「おはようございます」


声をかけると、透禾は少し驚いたような表情を浮かべた。


「おはようございます。今日は珍しいですね」


「寝坊しました……お待たせしました」


澄玲は、自分の言葉に小さく戸惑った。待たせたというのは、思い込みかもしれない。透禾はただ、いつも通りここにいただけかもしれない。


それなのに、口をついて出た言葉はまるで約束していたかのような響きを持っていた。


透禾は一瞬だけ視線を泳がせてから、穏やかな声で答えた。


「いえ、僕もちょうど今着いたところなので」


その言葉に澄玲は素直にうなずいた。ちょうど今着いたところ、という言葉を信じることで、澄玲は自分の中の期待をそっと打ち消した。


信じた方が楽だった。信じなければ、透禾がここでどれくらいの時間誰かを待っていたのかと考えてしまいそうだった。


実際には、透禾はいつもより二十分近く早く出発ロビーに着いていた。今日、澄玲が遅れているらしいと知ったのは、同僚からの何気ない一言だった。それを聞いた瞬間、透禾は自分でも説明のつかない焦りを覚え、気づけば柱の脇でずっと澄玲の到着を待っていた。


待っている間、透禾は何度もスマートフォンの時刻表示を確認した。時間が経つにつれ、焦りは少しずつ別の感情に変わっていった。心配と呼ぶには落ち着きすぎていて、ただの興味と呼ぶには重すぎる感情だった。


その中間にある感情の名前を、透禾はまだ持ち合わせていなかった。


柱の脇に立ちながら、透禾は行き交う人々の中に澄玲の姿を探し続けた。似た背格好の女性が通るたびに視線が反射的に動いた。違うとわかるたびに落胆しながらも、透禾はその場を離れようとはしなかった。


誰かをこれほど一心に待つのは久しぶりのことだった。


けれど、それを正直に話すことはできなかった。「待っていた」と言えば、澄玲にとって重すぎる言葉になってしまう気がした。


負担をかけたくない、その一心で透禾は、「ちょうど今着いた」という事実とは異なる言葉を選んだ。


「今日、便の状況はどうですか?」


透禾が尋ねる。


「まだこれからです。少し急がないと」


「無理しないでくださいね」


その一言に澄玲は小さく笑った。心配してくれる言葉がこんなにも簡単に胸の奥まで届くことに自分でも驚いている。


始業のチャイムが鳴り、澄玲は小さく頭を下げて自分の持ち場に向かった。澄玲は歩きながら先ほどのやり取りを何度も反芻した。待たせたという言葉に対して、透禾が返した「ちょうど今着いた」という答え。


その言葉の裏にある本当の気持ちを、澄玲はまだ知らないままだった。


業務が始まると、澄玲はいつも以上に集中して仕事に取り組んだ。搭乗案内、荷物確認、乗り継ぎの説明。忙しさに身を委ねることで、今朝の胸の高鳴りを少しずつ鎮めていく。


カウンターの向こうから外国人の旅行者が慌てた様子で近づいてきた。搭乗口を間違えたらしく、澄玲は端末で経路を確認しながら身振りも交えて案内した。


相手が安堵した表情を浮かべて去っていくのを見送りながら、澄玲は自分の呼吸が少しだけ落ち着いていることに気づいた。仕事に集中している瞬間だけが、今朝の記憶を遠ざけてくれる。


しかし、ふとした拍子に思考は元の場所へ戻っていく。案内表示の更新作業中、澄玲は自分がいつもより丁寧に、そして少し遅い速度で作業を進めていることに気づいた。急ぐ理由がないわけではないのに、指先がどこか名残惜しそうに動いている。


まるで今この時間を長引かせたいとでもいうように。


昼近く、休憩室で一人になった澄玲は窓の外を眺めながら缶コーヒーを開けた。今日は甘めのものを選んだ。理由は自分でもうまく説明できなかった。


ただ、なんとなく、その味を選びたい気分だった。


休憩室の隅から、同僚たちが午後の予定について話す声が聞こえてくる。誰かの笑い声、誰かの相槌。その輪に加わる気分にはなれず、澄玲は窓際の席で外の景色に意識を向けていた。


滑走路を挟んだ向こうに雲の切れ間があり、そこから薄日が差し込んでいた。澄玲は、光の帯が地面を這うように移動していく様子をしばらく眺め続けた。


一人で物思いにふけるのは澄玲にとって珍しいことで、いつもなら休憩時間は同僚との会話や明日のシフト確認で埋まっている。しかし、今日に限っては、その隙間に透禾の存在が入り込んでいた。


入り込んでいるというより、最初からそこにいたのかもしれない、と澄玲はふと思った。


滑走路の向こうで一機の旅客機がゆっくりと離陸していく。機体が空へ浮かび上がる瞬間、澄玲は今朝の自分の言葉をふと思い出した。「お待たせしました」。


その言葉が思いのほか自分の本音に近かったことに、澄玲は今さらながら気づいていた。


離陸していく機体を見送りながら、澄玲は缶コーヒーを一口飲んだ。甘さが舌先に広がり、今朝の紙コップの記憶と重なって胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていく。誰かに待たれることの重みを澄玲は今初めて、自分の側から感じ始めていた。


午後、澄玲は倉庫への搬送指示を受け、連絡通路を歩いた。窓の外を流れる雲の影が床にゆっくりと移動していく。誰かに待たれることと誰かを待つこと。


そのどちらがより心を揺さぶるのだろうかと澄玲はぼんやりと考えていた。


通路の途中で澄玲は自動販売機の前で足を止めた。今朝、透禾が飲んでいた缶の銘柄をふと思い出したのだ。無意識に覚えていた自分に気づき、澄玲は小さく息を吐いた。


覚えることはいつのまにか澄玲の側にも根づいており、透禾だけが覚えている側の人間ではないという事実は、言葉にせずとも澄玲の中で確かな輪郭を持ち始めていた。


台車を押しながら倉庫へ向かう途中、同じ通路を地上運航管理の職員が数人通り過ぎていった。その中に透禾の姿はなかったが、彼らの制服の色を見るだけで澄玲の胸はわずかに反応した。自分でも制御しきれない反応の速さに澄玲は苦笑いを浮かべるしかなかった。


夕方、搭乗案内の一区切りがついたころ、澄玲は窓際に立って空を見上げた。橙色の光が薄くにじみ、ビルの輪郭を柔らかく縁取っている。今日一日、透禾のことばかり考えていた自分に気づき、澄玲は小さく苦笑した。


制服のポケットから社員証を取り出し、澄玲は裏側に貼られた小さな写真シールを一瞥した。入社したばかりのころに緊張した面持ちで撮られたもので、あのころの自分はこんなふうに誰かの存在に心を揺さぶられる日が来るとは想像もしていなかった。


時間の流れがこんなにも静かに人を変えていくのだと澄玲は改めて思った。


ロッカーで帰り支度を整えながら、澄玲は鏡越しに自分の表情を確かめた。今日一日、何度も浮かんでは消えた小さな喜びの名残がまだうっすらと頬に残っている気がした。


勤務を終えて到着ロビーへ向かう途中、澄玲はふと足を止めた。今日はいつもより少し早い時間だったから、透禾はまだ来ていないかもしれない。


そう思った瞬間、澄玲は自分の足が自然に歩みを緩めていることに気づいた。


待つつもりはなかったが、少しだけゆっくり歩きたい気分だったと、澄玲は自分に言い聞かせながら到着ロビーの手前で立ち止まり、掲示板をぼんやりと眺めた。


掲示板には来月の合同訓練の日程が改めて張り出されていたが、澄玲は文字を目で追いながらも意識のほとんどを背後の通路に向けていた。誰かが近づいてくるたびに、澄玲の心臓はわずかに跳ねた。


違うとわかるたびに小さな落胆が胸をかすめた。そんな一喜一憂を繰り返しながら、澄玲は自分がどれほど素直にこの時間を待ち望んでいたかを思い知らされた。


数分後、遠くから見知った足音が近づいてきた。振り返らなくても、それが誰の足音かはすぐにわかった。


「お疲れさまです」


透禾の声だった。


「お疲れさまです。……今、来たところです」


澄玲は掲示板から視線を外しながら、さりげなく答えた。嘘ではなかったが、その数分前から澄玲がこの場所で足を止めていたことまでは言わなかった。


透禾の頬がわずかに上気しているのを、澄玲は見逃さなかった。急いで来たのだろうか。それとも、別の理由があるのだろうか。


尋ねたい気持ちを抑え、澄玲はただ小さく微笑んだ。


透禾は特に疑う様子もなく隣に並び、重なった足音が静かな通路に響いていった。


「今日は、朝から大変でしたよね」


「はい……でも、透禾さんが待っていてくれたので少し安心しました」


澄玲は、言ってから自分の言葉に驚いた。待っていてくれたという表現を無意識に使っていたのだ。透禾は一瞬だけ足を止めかけ、それからゆっくりと歩き出した。


「待っていたというか」


透禾はそこで言葉を切り、何かを続けようとして結局は違う言い方に変えた。


「たまたま、時間が合っただけです」


その答えに、澄玲は小さくうなずいた。「たまたま」その言葉を、澄玲は今日何度目かの偶然として受け止めた。


偶然が重なりすぎているという違和感を、澄玲は気づかないふりで押し込めた。数えてみれば、この一週間だけでも、たまたまと呼ぶにはできすぎた瞬間がいくつもあった。それでも、その積み重ねをあえて数え上げないことが、澄玲にとっての安全な距離の保ち方だった。


到着ロビーの明かりがそれぞれの影を長く伸ばし、旅行者たちの声や荷物カートの音、遠くで響く到着案内の声が、今日も変わらずいつもの空港の音を形作っていた。


「明日はちゃんと早起きします」


澄玲が笑って言うと、透禾も柔らかく笑った。


「無理しなくていいですよ……また待ってますから」


その一言に、澄玲は思わず足を止めた。「待ってます」という言葉が今日初めて隠されることなく渡された気がした。透禾自身も言った直後にわずかに動揺した様子を見せた。


「あ、いや、その」


「大丈夫です……嬉しかったので」


澄玲は素直にそう答えた。取りつくろう余裕もないほど、その一言が胸に響いていた。透禾は何か言いかけたが、結局は小さく笑うだけにとどめた。


到着ロビーの照明の下、通り過ぎる旅行者たちの流れはいつの間にか静けさへと変わり、荷物受取所のベルトコンベアは動きを止め、案内音声の頻度も落ちていた。夜が深まるにつれ、この場所だけが特別な静けさに包まれていくのを感じた。


遠くで清掃スタッフが床にモップをかける音が規則正しいリズムで響き、その単調な音が互いの間の沈黙を際立たせていた。澄玲は隣に立つ透禾の呼吸の間隔をふと意識してしまう。


自分の呼吸と重なりそうで重ならない、その微妙なズレさえも今夜は妙に愛おしく感じられた。


職員通路を並んで歩きながら会話は途切れがちだったが、その沈黙は心地よかった。互いに今交わした言葉の意味をそれぞれの速度で噛み締めているようだった。


通路の窓から見える誘導路にはこれから出発する便の機体が並んでおり、オレンジ色の誘導灯が機体の輪郭を柔らかく照らしていた。澄玲は、この景色を今までとは違う目で見ている自分にふと気づいた。


同じ空港、同じ通路、同じ光。それなのに隣を歩く人の存在ひとつで、すべての意味が変わって見える。


自動ドアの向こうに夜の滑走路が広がり、誘導灯の連なりが今夜はいつもより優しく瞬いているように見えた。


「じゃあ、また明日」


透禾が先に言った。


「はい。また明日……待っててくださいね」


澄玲がそう返すと、透禾は驚いたように目を見開いてから、ゆっくりと頷いた。


「はい、待っています」


短いやりとりだったが、そこに込められた重みはこれまでのどの会話よりも確かだった。澄玲は歩き出しながら自分の頬が熱くなるのを感じていた。


透禾もまた、駐車場へ向かう道すがら、今交わした言葉を何度も反芻していた。「待ってます」という言葉を初めて隠さずに口にできた。そのことがこれほど胸を軽くするとは思っていなかった。


車に乗り込んでからも、透禾はしばらくエンジンをかけずにいた。フロントガラス越しに見える空港の灯りが今夜はいつもよりにじんで見えた。目の奥が熱を持っているのかもしれないと気づき、透禾は小さく苦笑した。


誰かを想うことがこれほど単純に体に表れるとは思っていなかった。


夜の街を歩く人々の足音、遠くの信号が変わる音、川面を渡る風の匂い。東京の夜はいつもと変わらない顔をしているが、今日だけはどうしても違う温度を含んでいるように感じられた。


自宅への道すがら、澄玲は自転車をこぎながら今日一日の出来事を何度も思い返していた。朝の「お待たせしました」と夜の「待っています」の二つの言葉の間に、澄玲の一日は静かに満たされていた。


いつも通り過ぎるだけの商店街も今夜は少し違って見えた。閉店間際の花屋の灯りが歩道にオレンジ色の光を落としており、その中を通り抜けながら澄玲は自分の口元が緩んでいることに気づき、慌てて表情を戻した。


誰も見ていないとわかっていても、緩んだ顔を見られるのが少し恥ずかしかった。


橋を渡る時、澄玲は一度だけペダルを漕ぐ足を緩めた。川面に映る街灯りが揺れながら崩れ、また形を取り戻していく。その繰り返しを見つめながら、澄玲は自分の気持ちに少しずつ名前が付いていっているのを感じていた。


欄干にもたれて夜風を受けながら、澄玲は今日一日を振り返った。寝坊した朝、罪悪感にも似た焦り、そして透禾がくれた言葉。名前をつけることを避け続けてきたこの感情が今夜だけ、はっきりと形になりつつあった。


認めることへの怖さよりも、認めないままでいることへの寂しさのほうが今は少しだけ勝っていた。


透禾もまた、自宅に着いてからしばらく玄関先で立ち尽くしていた。「待っています」という言葉をこれほど簡単に口にできたことが自分でも不思議だった。好きな相手には慎重になる。


それが、これまでの透禾のやり方だったはずだった。


けれど今夜だけは、その慎重さの外側に確かな何かが芽生えていた。その正体を透禾はまだ言葉にできていなかったが、知ることがこれからの日々を変えていく予感は確かにあった。


部屋に入り灯りをつける前に、透禾は窓辺に立って外を見た。遠くにわずかに見える誘導灯の光が今日という一日を締めくくるように瞬き、透禾は「待っています」と口にした瞬間の澄玲の表情を繰り返し思い返していた。


驚いたように見開かれた目、それからゆっくりと緩んだ口元。あの一瞬の変化がこれほど鮮明に記憶に残るとは思っていなかった。


明日また同じ場所で会えるだろうか。会えたとして、今日交わした言葉の続きをどう紡げばいいのだろうか。答えの出ない問いを抱えたまま、透禾はようやく明かりをつけ、上着を脱いだ。


食卓の椅子に腰を下ろし、透禾は冷めた麦茶を一口飲んだ。喉を通る冷たさが火照った頭を少しだけ落ち着かせてくれた。今日という日をこれまでの毎日と同じ棚にしまうことは、もうできない気がした。


何かが確かに動き出している、という予感だけを胸に抱いて、透禾は静かに夜を過ごしていた。


空港の灯りは今夜も、誰かを待ち、誰かを見送り、誰かを迎えるために絶えることなく灯り続けている。その光の下で澄玲と透禾の気持ちは少しだけ、形を持ち始めていた。


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