第十九話「名状しがたき既視感たち」
星の配置が正しくなると、何かが目覚めるという話がある。
ぱんでむの窓から見える景色は、いつも混沌とした光の渦だ。宇宙の星々がどう並んでいるのかなんて、ここからは分からない。
でも今日処理した世界線を振り返ると——なぜか、ぬらぬらとした触手の感触や、深淵から響く不協和音が脳裏をよぎる感触があった。
気のせいだと思う。たぶん。
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第一章「月曜の朝」
◆ 朝、業務室
月曜だった。
朝のエグチを食べながら端末を開いた。今日の案件数は二十八件。週明けから重い案件が並んでいる。コーヒーを入れた。今日はブラックにした。深い闇のような色が、今の気分に合っていた。
一件目を開いた。
◆ 第000世界線「深海に沈んだ都市が浮上しつつある世界線」
概要欄を読んだ。
「【報告】第000世界線において、南太平洋の深海に沈んでいた非ユークリッド幾何学的な巨大都市が浮上を開始した。都市の浮上に伴い、周辺海域の物理法則が歪曲しており、観測した住民が「角度が間違っている」と叫びながら精神を崩壊させている。このまま浮上が続くと、世界線全体の三次元構造が崩壊し、多次元的な『何か』が流入する」
……角度が間違っている都市。
詳細を読んだ。非ユークリッド幾何学による建築。三次元では本来成立しないはずの角度で壁や柱が立っている。それが世界線の物理演算に「ゼロ除算」に似たエラーを引き起こしていた。
都市の幾何学構造を三次元的に再定義した。無理やり直角と平行を適用し、ユークリッド幾何学の範囲内に収まるよう座標を補正した。
都市は浮上を停止し、再び深海へ沈んでいった。崩壊しかけていた住民の精神に、忘却のパッチを当てた。
処理時間:三十八分。
……「正しい角度」に戻すだけで、世界は平和になる。私たちの認識こそが、この世界を縛る鎖なのかもしれない。
二件目を開いた。
◆ 第909世界線「宇宙の真理を記した魔道書が流通している世界線」
概要欄を読んだ。
「【報告】第909世界線において、読むだけで発狂するとされる古い魔道書の電子書籍版がベストセラーになっている。問題は、書物に記された「名状しがたき神々の真名」が音声合成ソフトによって読み上げられた結果、ネットワーク上に物理的な「粘液」が溢れ出し、サーバーセンターが生物的な組織に変異している」
……魔道書の電子書籍化。
詳細を読んだ。文字列が持つ「音の波形」が、高次元の物質を呼び出す触媒になっていた。データセンターが巨大な「胃袋」のような器官に変異し、エンジニアを捕食しようとしていた。
全データの周波数フィルタリングを行った。魔道書に該当する文字列を「猫の鳴き声」の音声データに置換した。変異したサーバーを物理消去し、バックアップから正常な環境を復元した。
処理時間:二十四分。
……宇宙の真理が猫の鳴き声になった。それはそれで、一つの真理かもしれない。
三件目を開いた。
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第二章「午後の案件たち」
◆ 第666世界線「盲目にして白痴の神が夢を見ている世界線」
概要欄を読んだ。
「【報告】第666世界線において、宇宙の中心で眠る超越的生命体の「寝返り」が確認された。この生命体の夢が世界線の現実を構成しているため、寝返りによって「重力が音楽になる」「色彩が味覚になる」といった五感の混濁が発生。住民の九割が感覚過負荷で機能停止している」
……神様の寝返り。
詳細を読んだ。超越的生命体の脳波が乱れている。このままでは夢が「悪夢」に変わり、世界線が消失する恐れがあった。
超越的生命体に高濃度の「鎮静信号」を直接送信した。夢の解像度をあえて下げ、現実を安定させる「静止画モード」を適用した。
感覚の混濁が収まり、重力は重力に、色彩は色彩に戻った。超越的生命体は再び深い眠りについた。
処理時間:四十五分。
……私たちが現実だと思っているものは、誰かの微睡みに過ぎないのかもしれない。それが覚めた時、私はどこにいるんだろう。
四件目を開いた。
◆ 第502世界線「漁村の住民が魚に変異し始めた世界線」
概要欄を読んだ。
「【報告】第502世界線において、寂れた漁村の住民たちが、海に棲む半魚人との交配を数世代にわたり繰り返している。現在、全住民の皮膚が鱗に覆われ、鰓が発生。住民が「深きものども」として海へ帰還しようとしており、陸上の社会システムが放棄されている。ナラティブの「人間性」が喪失中」
……海へ帰る人々。
詳細を読んだ。遺伝情報の侵食が激しい。しかし、住民たちは自らの変異を「福音」として喜んでいる様子が記録されていた。
遺伝子の変異自体は止めず、世界線の属性を「人間社会」から「海洋生物社会」に正式に変更した。ナラティブの分類を変更したことで、システム上の「異常」判定を解除した。
村は水没したが、彼らは海の中で新しい文明を築き始めた。
処理時間:十六分。
……幸せなら、魚になってもいいのかもしれない。人間であることに、それほど大きな価値があるのだろうか。
五件目以降、触手、粘液、そして狂気に満ちた世界線を淡々と修正した。
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第三章「夕方と、今日の整理」
◆ 夕方。業務を終えて
二十八件、全部終わった。夜の九時二十分だった。
今日は、自分の理性が試されるような一日だった。
角度の狂った都市。粘液を吐くサーバー。神の夢。海へ帰る村人。
どれも、どこかの禁断の書物で読んだ気がする。
……でも、そんな本を手に取った記憶はない。
コーヒーを飲んだ。冷めていた。ブラックの苦味が、現実の輪郭を教えてくれる気がした。
今日特に気になったのは、第502世界線の村人たちだった。
彼らは人間をやめて、海へ消えていった。私はそれを「正常」として処理した。
もし私が、この「事務員」という役割をやめて、どこかの深淵に飛び込んだとしたら。
秩序ちゃんはそれを「正常」として分類してくれるだろうか。
……まあ。
第7世界線の観測画面を開いた。
◆ 第7世界線
夜だった。静かな春の夜だ。
老人が縁側に座っていた。今日は一人で、空を見上げていた。
この世界線の星々は、いつも正しく並んでいる。狂った角度も、名状しがたき色の流星もない。
ただ、暗い空に光がある。
老人はそれを見つめて、時折、満足そうに鼻を鳴らした。
宇宙的な恐怖も、次元の崩壊もない。
ただ、明日もこの星が見えることを疑わない平穏がある。
それを見ていると、私の脳裏にへばりついていた「名状しがたき何か」が、するりと剥がれ落ちていった。
今日も、そこにある。
その宇宙が、私を安心させた。
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第四章「今日の終わり」
◆ 夜。203号室
部屋に戻った。
カップ麺を作った。今日は味噌にした。濃厚な味が、今日の一日の狂気を上書きしてくれる気がした。
食べながら、今日の案件を振り返った。
宇宙は広くて、私の理解を超えたものばかりだ。
どこかの洞窟の壁画に描かれたような。どこかの狂った詩人が詠んだような。
……気のせいだ。
カップ麺を食べ終えた。始末書を五枚書いた。冒涜的な事象の記述には気を使った。
横になった。
目を閉じる前に思った。
神の夢が終わる時、世界は消えるという。
でも、私が目を閉じても、ぱんでむは消えない。業務も残っている。
それは救いなのか。それとも、もっと深い絶望なのか。
……まあ、明日は火曜だ。
寝た。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 夜十一時三十分
今日の件数:二十八件。
処理完了:二十八件。
未処理:ゼロ件。
始末書記入漏れ:五枚(本日中に対応済)。
エグチ:一個(朝)。
カップ麺:一個(味噌味)。
特記事項:第7世界線、今日も継続中。老人が星を見ていた。今日の案件は宇宙的恐怖に満ちた世界線が多かった。非ユークリッド幾何学を修正。人間を辞める自由も、システム上は許容されるべきだと感じた。
……以上。




