1.連れ去り
死にたかった。ずっと苦しかった。
全てから逃げたかった。
誰もいない廃ビル。恐怖心さえ取り払えば、簡単に入れる。
危険はむしろ大歓迎。
死にたい人にはご褒美なのだ。
学校の屋上は入れない。刃物で死ぬのは怖い。
車に轢かれようにも、交通量の多いところが近所にないし、この辺りに電車は通っていない。あと単純に申し訳ない。
裕福なばかりで小さな小さなこの町では、死ぬにも努力が必要なのだ。
飛び降りが確実だと思って、ビルに入った。
ちょっと遠いビル。町外れにあって、ツタが覆ってる。ここはずっと前から使われてないし、多分持ち主も存在を忘れてるだろう。
元から良い噂なんて欠片もないビルなので、人が飛び降りたって皆「いつかあると思ってた」と言うに決まってる。
落書き、ビールやお菓子の袋。
そういうのは初めの方にしかなくて、階段は意外と綺麗だった。
一段、一段、コツコツと足音を響かせる。ビルは三階まである。
エレベーター?そんなものとっくに壊れてる。
もし使えても、恐ろしくて使う気にならない。
危険は大歓迎だって言ったけど、訂正する。痛みなく死ねないなら意味がないよ。
足が疲れたけど、なんとか屋上に到着。
ドアを開けると、ビュォォォォ、と風が吹き荒れた。寒い。
髪の毛がバサバサと靡く。風を受け止めながら屋上に出る。
コンクリートの屋上には、枯葉が沢山落ちていた。それらが暴風に煽られてくるくると転がる。
住宅街なので、周りにこのビル以上に高い建物もほとんどない。だから視界は開けていた。
ゾッとするほど青い空が視界に迫る。
美しい海を眺めているような、凪いだ心で、私は踏み出した。
パシッと手を掴まれた。驚いて後ろを見た。男性だった。
柄が悪い服を着ていた。筋肉質で、若い。雰囲気だけで伝わる危うさがあった。
その手は大きくて、熱かった。
途端に恐ろしさがこみ上げてきた。
死ぬ恐怖ではなく、変な男に掴まれた恐怖だった。
自分でも異常だと思う。
だけど、もう死ぬんだ、逃げられるんだ、と思えば、その恐怖も引いていった。
私は真っ直ぐ彼を睨みつけた。
「離してください」
「だってどうせ死ぬんでしょ?」
「そうですけど」
「じゃあその命、ちょうだいよ」
「嫌です」
「なんで」
「……」
答えられなかった。自分でも分からなかった。ただ強く嫌だと思った。
沈黙が続いた。
一層強い風が吹いて、私たちの間を駆け抜ける。
考えて、私は彼をまた真っ直ぐ見た。
よく見れば、彼の瞳は藍色だった。真っ黒な瞳に青空が反射したからだった。
「自分の死を、誰かに邪魔されたくないから」
「じゃあなんで死にたいの?」
「逃げたいから」
「何から逃げたいの?」
「……すべてから」
ただ生きることをもうやめたかった。
彼は私の答えを聞き、ニッコリ笑った。不気味だ。
彼は訝しげな表情をする私に、一言。
「じゃあ、俺が逃がしてあげる」
「どうやって?」
「簡単だよ」
彼は私の腕を強く引っ張った。
気づけば、私は彼の胸の中にいた。
胸板がかたくて、心臓の音が規則正しく鳴っていた。
また風が吹いた。鳥が騒いだ。
知らない人に抱かれている。その恐怖と、少しの安堵感。自分でも分からない感情。
「俺が、君を連れ去れば良い」
連れ去る。
つれさる。
つれてさる。
にげる。
さる。
ゆうかい?
誘拐。
考える。どうせ私はここから逃げたしたいだけ。ただその手段が死であるというだけ。
であれば、死が逃避に変わっても何も変わらないのでは?
「その手があった」
「良い案だろ?」
「確かに!」
私は高揚感に包まれた。
人の体温に触れている。何故かひどく安心した。ずっと、私は誰とも人間らしく関われなかったから。
「じゃあ、行こう、一緒に」
「うん」
それから私は、彼と一緒に廃ビルを出た。
町には誰もいない。たまに車の音がするだけ。
遠くでまた、鳥が鳴いた。
空は澄んでいた。
彼と共に車に乗る。
黒い車。時々見たことがあった。深く気に留めたことはなかったが。
「名前は?」
彼が聞いた。
「いなほ」
「可愛い名前だな」
「あなたは?」
「俺はゆうき」
「ゆうき?」
「そ、勇気」
車が動き出す。行き先は分からない。
でも嬉しかった。私は全てから逃げられる。今までよりひどいところなんて、きっとないだろう。
「勇気はなんで私を連れ去るの?」
「えー、ほら、やっぱり君みたいな美女は放っておけないじゃん?」
「風俗とかに沈めようって?」
「んー、ふっふっふっ」
多分あっていた。風俗……人を癒やせるなら、それも悪くない選択なのかもしれない。ただ人を癒やすために自分の体を使うだけだ。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや、ほら……ね」
「風俗で働いても良いよ」
「えっそう?」
「でもその代わり、ずっと一緒にいて」
一人は嫌だ。それに、こんなイケメンと暮らせるなら、幸せかもしれない。そう思っての言葉だった。
「一緒にって」
「同棲?」
「何で疑問形なんだよ」
勇気は戸惑い半分といった様子だった。当然だと思う。
「カップルじゃないから」
「えー、俺と付き合うの、嫌?」
「恋愛したくないし」
私は恋人とのキスの味を知らないけれど、きっとそれは愛を知らない私には空虚なものだろうから。
「そうかあ。じゃあ仕方ないな」
「何歳?」
「22」
「若いね」
「稲穂には負けるよ」
「私15だよ。大して変わんない」
「何言ってるんだよ。7歳差じゃねぇか」
「年の差婚……」
「え、俺今もしかしてプロポーズされてる?」
軽い調子で会話が続いた。
「そうじゃないけど」
「えー、ちょい傷付く」
「ごめんなさい」
「謝んなくて良いって。ジョークだよジョーク」
「そっか」
勇気は苦笑していた。爽やかな目元が笑うとぐっと幼くなる。それは女性をときめかせる類いのものだろう。
「勇気モテそう」
「モテないよ俺」
「女慣れしてる」
「ば、バレたか」
「やっぱり」
「でも付き合ってる奴はいないな~」
「婚約者とか妻も?」
「いるわけないだろ」
「まだ22だもんね」
「ん。社会人4年目」
「高卒か」
「そう、それ」
4年目なら結構長い。全然恋人がいてもおかしくないのに、不思議だ。でも、私を風俗に沈めるなんてことをしようとしてる人なら、まともな人ではないだろうし、ありえるのかな。
「私が成人になった時、勇気は27歳だね」
「20代後半だな」
「ロリコンじゃないよね?」
「んなわけあるか」
「ゲイ?」
「違う」
バッサリ切られた。
心なしか顔が死んでた気がする。
「どこで働いてるの?」
「ひみつ……のアッコちゃん」
「なにそれ」
「うっそ知らねぇの?」
「会社名?」
「うわ、なにそれ笑う」
段々勇気の口調が崩れてきた。わざと崩しているのが半分、気を許してきたのが半分のような感じ。この人はいつも二つ感情を持っている。
「魔法使いサリー?」
「え、やっぱり知ってるじゃん」
「聞いたことあるから、それかなって」
「そう、それ!」
「もしかしてアニメ会社?」
「違う違う」
「じゃあどこ?」
「……ブラック系」
「社畜なんだ」
「違う!」
とうとう勇気は笑い出した。どうやらツボに入ったらしい。
「これがカルチャーショックってやつかぁ」
「7歳差ってむずかしい」
「どっちも若者なのになあ」
「ね。どんな会社なの?」
「うーん…………」
勇気は黙り込んでしまった。もしかしてタブーだったのかな。
不安になって、何となく窓の外を見た。
気づけば知らないところまで来ていた。
「ここどこ?」
「ここ? えーっと、ああ、もう隣の県だよ」
「はやっ」
「だろ~?」
「すごいね車」
「乗ったことないの?」
「……家から出してもらえなかったから」
学校までは徒歩で行っていたので、車を見たことはあっても、乗ったことはなかった。
「ふーん、不思議な家だねえ」
「そうなのかな」
「そうだよ。普通、遊園地とか水族館とか、連れてってもらうもんだと思ってたけど」
「行ったことない」
「そりゃつまんねぇな」
「勇気は? 行ったことある?」
「俺は……」
勇気が寂しそうな顔をした。
なんだか答えたくなさそうだった。
窓に透明な何かが付いていて、何かと思ったら雨だった。
「……楽しいのかな、遊園地」
「んーまあ多分な」
「雨降ってきたね」
「そうだな。さっきまで天気良かったのになあ」
言いながら、信号で止まった。
「好きだよ勇気」
「うおっ、いきなりなんだよ」
「ほら、なんか寂しそうだったから」
お父さんは、お母さんを殴った後はいつもそう言って慰めていた。だからきっと、この言葉は人を慰める言葉。
でも、そのわりに勇気は変な顔になるばかりだった。
「それで愛の告白かぁ?」
「ううん、親愛の告白」
「俺とは友達が限界だってか」
「ふふ、でもきっと親友だよ」
「親友かあ。そんなら楽しそうだな」
「でしょ?」
とにかく雰囲気が良くなったので、私はホッとした。
「猫好き?」
「唐突だな。まあ好きだよ」
「イヌ派かネコ派か」
「俺は猫だな」
「私も」
「おお~同士」
「長毛か短毛か」
「俺短毛」
「私は長毛派」
「別れたな」
「だね」
信号が青になって、車が発進する。
「俺さあ昔、野良猫飼ってたんだよね」
「そうなの?」
猫……かわいいだろうな、と私は羨ましくなる。勇気も心なしか顔が明るくなっていた。
「うん、ちっせえ猫でさ、チマって名前つけてたんだよ」
「チマ……どんな猫?」
「白ぶちの黒猫。短毛で耳が綺麗な三角形。俺にずいぶん懐いてさあ」
「楽しそう。うらやましい」
「だろ~? でも、一年で死んじゃってさ」
「そっか」
急に話が重たくなった。それなのに、勇気は軽い口調で続けた。
「多分病気だったんだよ。俺、気付かなくて」
「だから短毛が好きなの?」
「まあそうだな」
「きっと可愛かったんだね」
「……まあな」
勇気は微妙な顔をした。
「私も猫飼いたい」
「良いけど、ちゃんと健康管理してやれよ」
「もちろん!」
勢いよく返事した。
「もし飼えたら、リラクマちゃんって名付ける」
「りらくまちゃん?」
「好きだから、リラクマ」
「ああ、あのぬいぐるみか」
「リラクマはぬいぐるみだけど生きてるから違うよ。ぬいぐるみっぽい謎生物なの」
「はいはい」
気のない返事をされた。
「ああいうの、興味ない?」
私はちょっと悲しくなって言った。
「んーーまあそうだな」
「そっか。私たちの共通点、今のところ、猫だけだね」
「そうだなぁ」
「もっと質問しても良い?」
「いーよ」
勇気は上機嫌に言った。
「どんな歌がすき?」
「煙草っぽい歌」
「なにそれ。煙草好きなの?」
「好き。めっちゃ好き」
「なにそれ妬ける」
「良いよもっと妬いてよ」
「やっぱり妬かない」
「お前天邪鬼だな」
確かにそうかもしれない。半分適当に笑う。
「煙草吸うのやめてよ」
「えー、やだ」
「死んじゃうよ」
「別に良いよ」
「そっか」
本当に死んでも良さそうだった。どうでも良いらしい。意地張ってるわけじゃないっぽい。
「……好きなものは?」
「猫、煙草、あと銃とか」
「銃? 使うの?」
「まさか。見るだけ。アレかっけぇんだよ」
「ちょっと分かるかも」
「マジで?」
勇気は驚いていた。意外だったようだ。
「うん。構造とか、見た目の重厚感とか、あと引き金を引けば命を奪えるところとか」
「分かる。でも使うのはやめろよ~、だいたい暴発するから」
「そうなの?」
「ん、そうなの。ちゃんとした筋からじゃないとな」
「そっか。怖いね」
「軽いな」
「現実味がなくて」
「確かにそうだな」
「お前はそうだな」と言われている気がした。突き放されるのは怖い。また、私はなにか間違えたんだろうか。
「好きな人いる?」
「なに急に」
「ほら、勇気もお年頃だから」
適当なことを言ってごまかす。本当は、少しでもまた距離を近くしたいからだった。
「それ言うなら稲穂の方がお年頃だろ」
「私はいないから。してみたかったの恋バナ」
「ふーん、お前くらい可愛いんなら、彼氏くらいいそうだけどな」
「勇気って急に褒めるね」
「だって本当に可愛いだろ」
「可愛くないし、いないよ」
「謙遜すんなって」
「ホントだよ。私、可愛くないよ。勇気の目が悪いんだよ」
「おい、ナチュラルに悪口言うなよ」
「ごめんなさい」
本当に怒っているわけではなさそうだった。でも、人の心は分からない。もしかしたら本当に怒っていて、冗談っぽくしてなんとか我慢しているだけなのかもしれない。




