名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
蒼玉と白雁 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
年の瀬、宮中へ届けられたのは、一つの古びた烏帽子と一羽の白雁。それは、やがて宮中を揺るがす蒼玉盗難事件へと姿を変える。中宮・彰子は、女房の赤染衛門とともに、落とし物に刻まれた人生の痕跡をたどり、盗難事件の真相へ迫る。しかし最後に試されるのは推理ではなく、一人の罪人を裁く心だった――。これは、"石の中宮"が人の欲と更生を見つめた、静かな奇跡の物語。
私がこれまで見聞きしてきた、彰子様の不思議な御働きの中には、血なまぐさい大事件もあれば、始まりだけを聞けば笑い話にしか思えぬものもあります。
人が死んだ。怨霊が現れた。恋が化けた。そういう話なら、いかにも人は耳をそばだてます。
けれど、本当に妙味のある事件というのは、案外、どうでもよさそうな些細な事から始まるものかもしれません。
今回の一件も、まさにそうでした。
都では、歳末の慌ただしさがようやく一段落し、人々が新しい年の支度に浮き足立っている頃。宮中でも、賀の席や贈り物のやりとりが相次ぎ、女房房には香の匂いと絹の擦れる音が絶えず漂っていました。
そんな折、私は年始のご機嫌うかがいに彰子さまの御前へ上がりました。
いつものように几帳の内では、彰子さまが静かに火桶へあたっておられます。
――ただ、いつもと違っていたのは、その御前に妙なものが二つ並べられていたことでした。
一つは、ひどくくたびれた男物の烏帽子。もう一つは、丸々と肥えた白い雁でした。
私は、正直に言って、その時点では笑ってしまいました。
「……姫様」
「何です」
「新年早々、ずいぶんと珍妙なお取り合わせでございますね」
彰子様は、火桶のそばに座したまま、私の方を見て、少しだけ目を細められた。
「ええ。けれど衛門、こういうものほど、面白いのですよ」
それが、あの「蒼玉と白雁」の事件の始まりでした。
話は、前夜のうちに起きていました。宮中へ出入りする雑仕の一人に、平助という男がいます。誠実で、よく気のつく男でした。
その平助が、夜明け前、都の辻でちょっとした騒ぎに出くわしたといいます。年の暮れの名残で、町にはまだ酔客もいました。平助が土御門大路のあたりを急いでいた時、白雁を肩にかついだ長身の男が、数人の荒くれ者に絡まれているのを見かけました。
荒くれ者たちは酒の勢いもあってか、くだらぬ口論から肩を突き、白雁を肩にかついだ長身の男の烏帽子を叩き落としたそうです。
長身の男は杖を振り回して身を守ろうとしましたが、そのはずみで脇の店先の格子を壊してしまいました。そこへ平助が駆け寄ったため、争っていた連中は蜘蛛の子を散らすように逃げました。
ところが白雁を持っていた男の方も、役人が来たとでも思ったのでしょう、鳥を落とし、烏帽子も拾わず、そのまま薄暗い横道へ消えてしまったのです。
「つまり」
と、私は聞きました。
「その平助殿が、烏帽子と雁を拾ったのでございますか」
「そうです」
と、彰子様。
「しかも雁の脚には、小さな札が結ばれていました」
「札?」
私は身を乗り出しました。彰子さまは、傍らの文箱から細い紙切れを取り出された。そこには、
「伴中納言家の女房へ」
と書かれていました。
「まあ」
「つまり、どこかの女房へ贈られる途中だったのでしょう。ただし、差出人の名はない」
「烏帽子の方には」
「内側に、かすれた墨で『明』の一文字が記されているだけです」
私は烏帽子を手に取りました。黒漆も抜け、縁は擦り切れ、ところどころ墨で塗り直した跡まであります。上等の品であった名残はあるものの、今は見る影もありません。
「これで、持ち主が分かるのでございましょうか」
「さて、そこです」
彰子様はそう仰せになり、烏帽子の方へ目を移された。その目つきになった時は、私はもう知っています。彰子様は、すでにただの落とし物ではなく、読むべき文章としてそれを見ておられるのです。
私は、烏帽子から何が分かるというのか、半信半疑でした。布ならまだしも、くたびれた被り物一つです。でも、彰子さまは当然のようにおっしゃいました。
「持ち主は、もとはかなり良い身分か、それに近い教養のある人です」
「えっ」
「そして三年ほど前までは、もっとずっと余裕がありました。今は、目に見えて落ちています」
「そんなことまで」
「ええ」
私は思わず、烏帽子を裏返したり表にしたりして見ました。でも、私にはせいぜい「古い」「傷んでいる」くらいしか分かりません。
彰子様は、それをご覧になって少し笑われました。
「衛門は、見ています。けれど、見たものをまだ言葉にしていないだけです」
「では、どう見ればよいのでございます」
「まず大きさです」
と、彰子様は烏帽子を軽く持ち上げられた。
「これはかなり頭の大きな男のものです。つまり、少なくとも体格は立派で、額も広い」
「それで教養が?」
「もちろん頭の大きさだけでは断じません。ただ、もともと誂えも良く、裏地も上等。安物ではありません」
なるほど、よく見れば裏には色褪せた紅絹が張られています。今はくすんでいるが、当時はかなり贅沢な品だったでしょう。
「新しい物をすぐに替えられる人なら、ここまで使い込まぬでしょう。けれど、古びても捨てていません。つまり、以前は高価な品を求める余裕がありましたが、今はそうでない」
「落ちぶれた、と」
「ええ」
「ですが、まだ多少の矜持はあります」
「それは、墨で塗り直しているからですか」
「その通りです」
擦れたところを、そのままにはしていません。隠そうとする心があります。つまり、人からどう見られるかを完全には捨てていません。
「それから」
彰子様は烏帽子の縁を指先でなぞられた。
「風よけの紐を通していた穴があります。以前は、ちゃんと備えていた」
「今はなくなっている」
「そして付け直していません。つまり、以前より心が荒れているか、面倒を惜しむようになっています」
私は唸りました。
「なるほど……。確かに、それはそのまま人柄の緩みでございますね」
「ええ。それでも捨てぬのですから、酒や不摂生で身を持ち崩しつつも、完全な無頓着にはなっていません」
「お酒まで分かるのでございますか」
「額当ての内側をごらんなさい」
言われてみれば、汗染みが濃い。しかも室内の埃がびっしりついています。
「よく汗をかく。けれど運動をしている汗ではありません。座ってばかりいて、時折どっとかく汗です。酒や体調の悪さが考えられます」
私は思わず、烏帽子を置いた。
「気の毒なほど丸見えでございますね」
「人は、自分が身につけるものへ、思うより多くを残します」
それから、さらにとどめのように、彰子様はこう続けられた。
「そして、持ち主には、おそらく世話を焼く妻か女房はいません。あるいは、いたとしても、もう愛想を尽かされています」
「まあ!」
「何週間も塵を払われていないのです。少なくとも、気を配る人の手は届いていません」
そこまで来ると、私は半ば笑い、半ば感心するしかありませんでした。烏帽子一つから、知らぬ男の暮らしぶりが、ずるずると引き出されてきます。
「では姫様、その男は」
「おそらく、教養はあります。でも今は落ち、少し酒に溺れ、暮らしも荒れ、なおかつ白雁をどこかへ届ける程度には律儀です」
「最後のは、脚の札でございますか」
「ええ。自分で食べるためではなく、誰かへ持って行く途中でした。歳末の贈り物として」
私は、まったく知らぬその男に、急に少しばかり親しみのようなものを覚えました。
「けれど」
と、私はその雁の方を見ました。
「これで終わりなら、たしかに少し面白い落とし物、でございますね」
「そう」
と、彰子様も頷かれた。
「今の時点までは」
「……までは?」
その返事を聞いた時、私は嫌な胸騒ぎを覚えました。案の定、そこへ平助本人が、血相を変えて駆け込んできたのです。
「中宮様! 大変でございます!」
「どうしました」
「その、あの雁を、もう傷む前にと思いまして、下へおろして台所へ回したのですが……」
平助は息を切らし、手を震わせていました。そして、おずおずと掌を開きました。
その中にあったものを見て、私は思わず声を失いました。
蒼く光る石です。
小豆より少し大きいほど。でも、色はただの青ではありません。澄みきった冬の朝の空のようでもあり、火の芯のいちばん深いところの色のようでもあり、見れば見るほど冷たく、冴えた光を返します。
「これは……」
私の喉から出た声は、思ったより掠れていました。
「雁の、どこから」
「その……腹を割いて、腑を分けておりましたら、餌袋のあたりに固いものが」
彰子様は石を受け取り、灯に透かしてしばらく見ておられた。その横顔が、わずかに険しくなります。
「衛門」
「はい」
「これ、見覚えは」
「……ございます」
と言った途端、私の背筋が冷えました。数日前から、都じゅうの噂になっていたのです。伊予守の姫君が持つ名高い蒼玉が、賀の席のさなかに消えた、と。
あまりに見事な石ゆえ、唐物商の間でも“蒼炎石”と呼ばれ、ひと目見た者は忘れぬといいます。
「まさか」
「おそらく、その“まさか”です」
彰子様は静かに言われました。ただの落とし物だったはずの雁が、突然、都でもっとも騒がしい盗難事件とつながったのでした。
私はすぐに考えました。では、あの烏帽子の持ち主こそが、蒼玉盗みの犯人なのではないか、と。
でも彰子さまは、意外にも首を横に振られました。
「その可能性は、低いでしょう」
「なぜでございます?」
「もしこの石の価値を知っていたなら、白雁を落として逃げた後、何としてでも探すはずです」
「それは、確かに」
「けれど、持ち主は名乗り出てもいません。つまり、石のことを知らぬ可能性が高い」
「では、偶然に運び役にされた」
「ええ」
「雁に石を入れたのは、別の者」
「その筋です」
そこまで聞いて、私はかえってぞっとしました。宝玉を雁に隠すような知恵を回す者が、どこか別にいます。
「では、どうなさいますか」
「まず、烏帽子の持ち主を見つけます」
「やはり」
「その男が何も知らぬとしても、雁の出どころは知っているでしょう。そこをたどればよい」
そうして彰子さまは、すぐに紙を取られた。文面は簡潔で、こうです。
土御門大路にて白雁と烏帽子を拾得。伴中納言家の女房へ贈るはずの雁につき、心当たりある者は、明日暮れ六つ、宇治殿別業まで。烏帽子も返す。
私はその鮮やかな手際に感心しながらも、ふと気づいて尋ねました。
「雁は、返せませぬね」
「ええ。ですから同じくらいのものを用意させましょう」
「なんとまあ」
「相手に疑いを抱かせる必要はありません」
その日じゅうに、平助と数人の下男が、町へこの知らせを出しに行きました。そして翌日の暮れ方、果たして、男は来たのです。
来た男は、彰子様が想像していた通りの人物でした。背が高く、肩はなで、顔には知的なつくりがあります。でも、くたびれていました。袍は色褪せ、襟元は整っているようでどこか荒れ、頬と鼻は酒焼けのように赤い。年のころは四十を越えたあたり。おどおどしてはいないが、慎重に言葉を選ぶ癖があります。
「あなたが、この烏帽子の」
と、彰子様が問われると、男は深く頭を下げました。
「左様にございます。名は藤原明経と申します」
藤原、といっても、もちろんいくらでもいます。でも物腰には、たしかに学のある家に育った者の名残がありました。彰子さまは穏やかに言われました。
「しばらくお預かりしておりました。雁の方は、傷みを恐れて処置してしまいましたが、代わりのものをご用意しました」
そう言って、平助に新しい白雁を持ってこさせます。明経は、いかにもほっとしたようにその鳥を受け取りました。
「かたじけなく。年の暮れの贈り物でございましたので、いささか気がかりで」
「伴中納言家の女房へ贈るものだったのですね」
「ええ。もっとも、正しく申せば、私ひとりの贈り物ではありません」
「では」
「私は、漢詩を好む者たちの集まりへ折々顔を出しております。年の暮れになりますと、世話役が皆から少しずつ銭を預かり、その年の労をねぎらう贈り物として、白雁を一羽ずつ分けてくださるのでございます」
「その世話役というのは」
「一条の北にある青松亭の主人、道兼と申す者で」
私は内心、なるほどと思いました。それなら、あの男が雁を抱えて夜明け前に歩いていても不自然ではありません。
「では、その雁は道兼どのから受け取った」
「左様にございます」
「どこから仕入れたものか、ご存じですか」
ここで、明経は少し首をかしげました。
「いや、それまでは……。ただ、たいそう見事な鳥でございましたゆえ、どこで手に入れたのかと尋ねましたら、堀川筋の鳥商からと」
そこまで聞いて、彰子さまはもう十分というように頷かれた。その間、蒼玉のことには一言も触れません。明経は、本当に何も知らぬ顔です。
男が帰った後、私は言いました。
「やはり、あの方は無実でしょうか」
「ええ。少なくとも蒼玉については」
「では次は、青松亭」
「そうです」
こうして、ただの落とし主は早々に無罪放免となり、話は一気に都の裏側へ滑り込んでいきました。
その夜は大変冷え込み吐く息が白く、都の辻ではまだ門松の準備をする者、帰りの遅い下働き、酒に浮かれた若侍などが行き交っていました。
私と彰子様――といっても、もちろんそのまま出るわけにはいかぬので、目立たぬ牛車と供回りを少しだけつけて――は、一条北の青松亭へ向かいました。
亭主の道兼という男は、いかにも人当たりのよい酒亭の主でした。こちらが明経の名を出すと、すぐに愛想よく頷きます。
「ええ、ええ、毎年やっておりますとも。会の皆さまに、少し上等の白雁を分けるのが楽しみでして」
「その雁は、どこから」
と、彰子様。
「堀川の鳥商、宗貞から二十四羽まとめて」
「見事な雁でしたね」
「お目が高い。今年は特によい筋でございました」
この男の話ぶりには、何も影はなかった。ただ商いをしているだけの者の顔です。でも、さらにその先へたどると、ようやく空気が変わりました。
堀川の鳥商・宗貞は、屈強な体つきの男で、こちらが白雁の仕入れ先を尋ねた途端、あからさまに機嫌を悪くしたのです。
「何のためにそんなことを」
「ただ知りたいのです」
と、彰子様は柔らかく言われました。
「白雁に少し興味がありまして」
「興味?この年の暮れに、みんなそればっかりだ。どこの白雁だ、誰に売った、いくらだった、面倒くさい」
私は、ああこれは強情な男だと思いました。正面から問うても教えぬ手合いです。ところが彰子様は、さらりと向きを変えられた。
「では賭けをいたしましょう」
「は?」
「青松亭へ卸した雁は、郊外育ちでしょう。都の中で育てた鳥に、あの肉付きはありません」
宗貞が鼻で笑う。
「おやおや、都人は鳥を知らぬ。あれは都育ちだ」
「まさか」
「賭けますか」
「よろしい。一巻の上等な料紙と引き換えに」
宗貞は、勝った気で帳面を出してきた。そこには確かに仕入れ先が記してありました。
「見よ」
と男が指さした名は、音羽の梅原 きぬ女
でした。
「今年二十四羽。青松亭へすべて渡した。まだ文句ございますか」
彰子さまは素直に負けを認め、一巻の料紙を置いて立ち去られた。だが表へ出た途端、私の方を見て、目だけで笑われた。
「やはり賭けは便利ですね」
「まことに」
「教えぬ者ほど、勝てると思えば口を開きます」
「姫様、それは少々ずるうございます」
「時にずるさも道具です」
そのお顔を見るに、もう次が見えておられるらしい。ところが、音羽へ向かう前に、思わぬ近道が転がり込んできました。
宗貞の店を離れて少し行ったところで、背後から怒鳴り声が聞こえたのです。振り返ると、宗貞が、痩せた小男を相手に怒鳴り散らしています。
「だから何度言えば分かる!白雁のことなら、売った先に聞け!」
小男は青ざめ、今にも泣きそうな顔で何か言い募っています。宗貞は苛立ちきって手を振り、追い払いました。
その小男が、よろよろと暗がりへ離れようとした時、彰子様はためらいなくそちらへ歩み寄られた。
「待ちなさい」
男は、びくりとして振り返りました。灯の光がその顔を照らし、私は思わず、この男はもう半分化け物でも見たような顔をしている、と思いました。血の気がなく、目だけが落ち着かず泳いでいます。
「あなたは、あの白雁を探しているのですね」
男の唇が震えます。
「な、なぜそれを」
「わたくしは、知らぬことを少し知るのが得意なのです」
と、彰子様。
「あなたの知りたい雁は、音羽のきぬ女から宗貞へ渡り、そこから青松亭へ行き、さらに会の者へ配られた。違いますか」
小男は、まるで足元の地面が抜けたような顔をした。
「どうして……」
「立ち話では寒いでしょう。こちらへ来なさい。あなたの探しているものについて、話をしましょう」
私は、その場でほとんど確信しました。この男こそ、蒼玉に一番近いところにいた者だ。
別業へ戻ってから、男はようやく名を明かしました。
右近衛府の舎人・頼明。ある高貴な家へ奉公に出入りする立場で、蒼玉が盗まれた屋敷にもよく出入りしていたといいます。
「……わたくしを、どうなさるおつもりです」
と、男は膝をついたまま言った。
「まず、あなたが何をしたかを話しなさい」
彰子様の声は静かでした。
「それから考えます」
頼明はしばらく黙っていましたが、やがて堰を切ったように語り始めました。
蒼玉は、賀の席のさなか、主人筋の姫君が席を外したわずかな隙に化粧箱から消えました。屋敷はたちまち大騒ぎとなり、たまたま修繕に入っていた細工師が疑われ、すでに拘束されています。しかし、実際に石を盗んだのは頼明だったのです。
「どうしても、と思ったのです」
頼明は泣きそうな顔で言う。
「女房の一人が……。いえ、好きだったわけではありません。ただ、あの女が、あの石さえあれば、都を出てでも生き直せると言った。最初は冗談と思った。ですが……」
「本気にした」
「はい」
私は、そこでため息をつきたくなりました。男の愚かしさは珍しくありません。でも、その愚かしさのために無実の者が巻き込まれるのは、いつ聞いても腹立たしく思えます。
「盗んだ後、どうしたのです」
「すぐには持ち出せませんでした。屋敷中が騒ぎになり、どこも見張られていました。懐に入れて帰るだけでも、心臓が止まるかと思いました」
「それで、隠し場所を探した」
「はい。私は音羽に姉がいて、白雁を育てております。年の暮れに都の商人へ卸しているのです。そこへ持って行けば、一度腹へ入れてしまって、後で取り出せると思いました」
私は息を呑みました。やはり、そういう筋だったのです。
「姉には何も言わず、庭で一羽つかまえました。白くて、尾に黒い筋のあるやつです。喉へ蒼玉を押し込み、嚥ませました。それを後で受け取ろうとしたのですが……」
そこで頼明は、両手で顔を覆った。
「姉が、“お前の分はもう別に取ってある”と言ったのです。私が石を入れたのとは別の鳥を」
「しかも、似た鳥が二羽いた」
と、彰子様。頼明はびくりとした。
「……ご存じでしたか」
「見当はつきます」
「私は慌てて、さっきのがいいと言ったのですが、姉は聞かず、もう市場用の群れへ戻してしまいました。後で取り返そうとした時には、二十四羽まとめて宗貞へ渡ったあとでした」
「だから宗貞のところへ」
「何度も行きました。けれど教えてくれない。ようやく青松亭へ行ったと知り、そこで配られた先を探したのですが……」
「一羽は、買主が都で落とした」
「……」
「そして、その雁の腹から蒼玉が出た」
彰子様が卓の上へ石を置かれると、頼明は目を見開き、次の瞬間、がくりと崩れ落ちました。
「それです……! ああ、ああ……!」
「さて」
と、彰子様は言われた。
「あなたは、ただの愚か者では済みません。すでに一人、無実の細工師が疑われています」
「……はい」
「その者は、前にも盗みの嫌疑をかけられたことがあるのでしょう」
頼明は顔を上げた。驚きで目が濡れている。
「なぜ……」
「疑いをかけるには、ちょうどよい相手だった。だから、あなたも沈黙した」
頼明は何も言えなかった。ただ、震えるだけでした。
私は、この男を今すぐ役人へ突き出すべきだと思いました。蒼玉盗み。罪のなすりつけ。無実の者を牢へ送り込むところだったのだ。
でも、彰子さまはしばらく沈黙された。そして、やがて問いかけられた。
「あなたは、石を取った時から、こうなると分かっていましたか」
「……いいえ」
「途中でやめられた」
「……はい」
「けれどやめなかった」
「はい……」
「今は」
「こわいのです」
頼明は、子どものような声でそう言った。
「都から逃げたい。でも逃げれば、あの人にすべて押しつけたままになる。だけど、捕まれば……」
そこまで言って、男は声を失いました。
「衛門」
「はい」
「あなたなら、どうしますか」
不意に問われ、私は詰まりました。
「私、なら……」
私は頼明を見ます。青ざめ、汗をかき、今にも崩れそうな男。獰猛な悪党には見えない。でも、だからといって罪が軽いわけでもない。
「少なくとも、無実の細工師は助けねばなりません」
「ええ」
「そして、この男は……」
私はそこで言葉を切りました。牢へ送れば、きっと二度と立ち直れぬでしょう。けれど見逃せば、正義が歪みます。
すると彰子様は、小さく頷かれた。
「わたくしも、同じところで迷っています」
長い沈黙がありました。火桶の火が、ぱち、と鳴ります。やがて彰子さまは、蒼玉を文箱へしまわれた。それから、頼明の方を見て言われる。
「立ちなさい」
男はおそるおそる顔を上げた。
「今すぐここを出て、今夜のうちに、都を離れなさい」
私は思わず顔を上げた。
「姫様」
「ただし、細工師の疑いを晴らすための文は、こちらで整えます。蒼玉は、適当な形で返しましょう。あなたの名を出さずとも、細工師を放せるようにします」
「ま、待ってくださいませ」
と私は言いました。
「それでは、この者は」
「今ここで捕らえれば、細工師も助かるでしょう。けれど、この男は壊れます」
「それは……」
「そして、二度と人に戻れぬかもしれません」
頼明は、はっとしたように彰子様を見ました。まるで、そんな可能性を与えられると思っていなかった者の顔です。
「けれど、ここで逃してもらえたなら」
と、彰子様。
「今後あなたは、二度とこの夜を忘れぬでしょう。忘れぬなら、それがあなたの罰です」
頼明は、言葉にならぬ声を漏らし、額を床へ擦りつけた。泣いていました。みっともないほどに。
「失せなさい」
と、彰子様は最後に言われた。
「そして、生き直しなさい。もう一度でも同じことをしたなら、その時は誰も助けません」
頼明は何度も頭を打ちつけるように下げ、それから這うように退出していきました。私は長く息を吐きました。
「……よろしかったのでございましょうか」
「分かりません」
と、彰子様。
「ですが、今は年の改まる時です。人が生き直せるなら、その方がよい」
「細工師は」
「助けます。それだけは確かです」
その後のことを記しておきます。
蒼玉は、しかるべき手を経て、持ち主の家へ戻りました。騒ぎを大きくせぬよう配慮されたため、都では「不思議な経緯で見つかった」とだけ広まりました。
疑われていた細工師も、証拠不十分のうちに放たれました。右近衛府の舎人・頼明の名が表に出ることは、ついにありませんでした。これでよかったのかと、私は今でもときどき考えます。
悪事は悪事です。まして無実の者を身代わりにしかけたのです。許せぬ、と言えばその通りです。
けれど私はまた、あの時、床へ崩れ落ちて泣く頼明の姿も忘れられません。狡猾な悪党の顔ではありませんでした。ただ、自分の浅ましさに押し潰されている者の顔でした。
彰子様は、いつでも甘いわけではありません。むしろ冷たいと思うほど、公平でおられます。けれど時に、その公平さの中へ、法にはないもう一つの秤を差し入れられる。それは、この者を罰した先に、何が残るのかという秤です。
今回の一件で、私はまた一つ知りました。宝というものは、それ自体に魔があるのではありません。人の中にある欲を、強く照らし出してしまうのだと。
年が明けてしばらくした頃、私はふと、あの烏帽子の男――藤原明経がどうしているだろうかと思い出しました。
たぶん今も、少し酒に逃げ、少し世を拗ね、それでもどこかで学のある話をしているに違いません。
あの人は、自分が一夜のうちに都で最も高価な石を運ばされていたことを、ついに知らぬままでしょう。
彰子様は、その話をすると少し笑われました。
「知らぬからこそ、幸いなこともあります」
「では、あの白雁も」
「ええ。知らぬまま役目を果たしたのです」
「ずいぶん大役でございますね」
「衛門も時に、知らぬうちに大役を果たしているかもしれませんよ」
「それは、うれしいような怖いような……」
すると彰子さまは、火桶の向こうで静かに微笑まれました。
そう。あの事件は、結局のところ、蒼玉よりも人の方がよほど脆く、白雁よりも人の方がよほど哀れで、そして烏帽子一つからでも、その哀れは読めてしまうのだと教えてくれたのです。
〜出典〜
The Adventure of the Blue Carbuncle(蒼炎石)
作:Arthur Conan Doyle 訳:大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/50711_36969.html
〜舞台背景〜
『The Adventure of the Blue Carbuncle(蒼炎石、青いガーネット、青い柘榴石)』は、1892年刊行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』に収録された作品です。クリスマス直後のロンドンを舞台に、落とし物の帽子と一羽のガチョウから、ホームズが持ち主の境遇や事件の真相を次々と推理していきます。派手な殺人事件ではなく、何気ない落とし物から始まる日常の謎でありながら、人間観察の妙と論理的推理の面白さが凝縮された一編として高く評価されています。




