第83ページ 幸せそうな人を見るだけで、苦しかった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
カフェを出た頃には、雨はほとんど止んでいた。
夜の空気は冷たく、湿っている。
凛はコートの袖へ少し顔を埋めながら、静かな道を歩いていた。
さっきまで真白と話していた時間が、まだ胸の奥へ残っている。
“普通じゃない自分を責め続ける以外の生き方”。
その言葉。
凛は何度も頭の中で反芻していた。
でも。
わかった気がしても、すぐまた不安は戻ってくる。
社会へ馴染めない感覚。
周囲と同じ速度で生きられない苦しさ。
それは簡単には消えなかった。
駅前には、まだ人が多かった。
仕事帰りらしいスーツ姿の人たち。
笑いながら歩く大学生。
カップル。
酔った声。
誰もが、自分の居場所を持っているように見える。
凛はその光景を見ながら、小さく息を吐いた。
「……みんなちゃんと生きてる」
ぽつりと呟く。
それだけで少し苦しくなる。
自分だけ、何もできていない気がするから。
自宅へ帰る。
ワンルームの部屋は静かだった。
電気をつける。
白い光。
現実へ戻ってきた感じがする。
凛はバッグを置き、そのままベッドへ腰を下ろした。
疲れている。
でも今日は、不思議と少し眠るのが怖かった。
眠って、朝になって、また“社会”へ戻るのが怖い。
凛はスマートフォンを手に取る。
無意識だった。
SNSを開く。
タイムラインが流れていく。
『内定もらえました!』
『彼氏と旅行〜!』
『インターン楽しかった!』
『今日は友達とオール』
笑顔の写真。
楽しそうな動画。
充実した毎日。
その一つ一つが、凛の胸へ静かに刺さっていく。
凛は画面をスクロールしながら、少しずつ息が苦しくなるのを感じていた。
なんでこんなに苦しくなるんだろう。
本当は、他人の幸せを嫌いたいわけじゃない。
誰かが笑っていること自体は、悪いことじゃない。
でも。
“普通に幸せそうに生きている人”を見るたび、自分だけ世界から置いていかれている気がした。
凛はスマートフォンを握りしめる。
高校時代の同級生の投稿が流れてくる。
『社会人一年目大変だけど楽しい!』
その文字を見た瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
凛はまだ、社会へ出る前から苦しくなっている。
グループディスカッションだけで息が詰まる。
働く未来が怖い。
周囲は前へ進んでいるのに、自分だけ立ち止まっている気がする。
「……なんで私は普通にできないんだろ」
小さく呟く。
涙が少し滲む。
凛はスマートフォンを伏せた。
でも数秒後、また手に取ってしまう。
やめたいのに見てしまう。
比べて苦しくなるのに、確認せずにいられない。
誰かの幸せを見るたび、“自分にはないもの”ばかり目につく。
友達。
恋人。
内定。
明るい未来。
それら全部が、凛には遠かった。
凛はゆっくりベッドへ横になる。
天井を見る。
胸が重い。
さっきまで少し呼吸できていたのに。
また、自分だけ取り残されている感覚が戻ってくる。
昔からそうだった。
周囲と自分を比べてしまう。
みんな普通にできる。
だから自分も頑張らなきゃ。
でも頑張るほど疲れて。
またできなくなって。
そんな繰り返し。
凛は目を閉じた。
ふと、中学生の頃を思い出す。
クラスメイトたちが楽しそうに話している輪へ、どうしても自然に入れなかったこと。
話しかけるタイミングがわからなくて、一人で笑ったふりをしていたこと。
家へ帰るたび、「今日もちゃんとできなかった」と思っていたこと。
でも周囲は、“普通の青春”を生きているように見えた。
凛だけが、ずっと外側にいる感じだった。
「……疲れた」
小さく呟く。
本当に。
ずっと、“普通になろう”として疲れてきた。
でも最近の凛は、その疲れを誤魔化せなくなっている。
真白と出会って。
灯と話して。
七海の涙を見て。
“苦しい”を隠さなくなったから。
だから余計、自分の弱さがよく見える。
スマートフォンが震えた。
七海だった。
『今日大丈夫だった?』
そのメッセージを見た瞬間、凛の胸が少しだけ緩む。
『まあまあ』
凛は短く返す。
すぐ既読。
『嘘っぽ』
その返信に、凛は少し笑ってしまう。
七海は時々、凛の“平気なふり”を簡単に見抜く。
『SNS見て勝手に落ち込んでた』
凛は正直に送った。
数秒後。
『あー、わかる』
七海から返ってくる。
『みんな人生上手くいってるように見えるやつね』
凛はスマートフォンを見つめる。
『なんか、自分だけ止まってる感じする』
送信。
既読。
『でもさ』
『SNSって、“幸せな瞬間だけ切り取った世界”だからね』
七海は続ける。
『私もめっちゃ病む時あるよ』
その言葉に、凛は少し驚く。
七海はいつも明るく見える。
友達も多くて、社交的で、ちゃんと“普通の大学生”をやれているように見える。
『七海ちゃんも?』
『全然ある』
『なんなら帰って一人で泣く日とか普通にある』
その返信を見た瞬間、凛は静かに息を止める。
七海も苦しい。
笑っていても。
ちゃんとして見えても。
本当は不安を抱えている。
『なんかさ』
七海からまたメッセージ。
『凛ちゃんって、“幸せそうな人見て苦しくなる自分”に罪悪感あるでしょ』
凛は目を見開く。
まさにその通りだった。
人の幸せを見て苦しくなるなんて、醜い気がしていた。
性格が悪いみたいで。
だから余計、自分を嫌いになる。
『でもそれって、“自分もしんどい”ってだけだと思う』
七海のその言葉を見た瞬間、凛の胸がじわりと熱くなる。
自分もしんどい。
ただそれだけ。
誰かを不幸にしたいわけじゃない。
ただ、自分に余裕がないだけ。
『凛ちゃん最近、ちゃんと苦しいって認め始めたじゃん』
『だから前より痛み感じやすくなってるんだと思う』
凛はスマートフォンを胸へ抱える。
痛みを感じやすくなっている。
確かにそうだった。
昔はもっと、“無理やり鈍感”になろうとしていた。
でも今は違う。
苦しいも。
寂しいも。
羨ましいも。
全部、少しずつ認め始めている。
それはしんどい。
でも同時に、“生きている感覚”でもあった。
凛はゆっくり息を吐く。
窓の外では、雨がまた少し降り始めていた。
街の灯りが滲んで見える。
「……幸せそうな人見ると、苦しい」
凛は小さく呟く。
でも今夜は、その感情を“駄目なもの”だと決めつけなかった。
羨ましい。
置いていかれる感じがする。
自分だけ止まっている気がする。
そう思ってしまうくらい、自分も本当は“ちゃんと幸せになりたい”のかもしれない。
凛は目を閉じる。
社会はまだ怖い。
未来も不安だ。
でも。
“苦しい”を誰かへ話せる夜が増えている。
その小さな変化だけが、凛を少しずつ孤独の外側へ連れ出し始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




