第81ページ 壊れたことのある人の優しさ
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
店の中には、静かな音楽が流れていた。
閉店後の『cafe 月灯り』は、昼間よりもっと穏やかだった。
窓の外では、小さな雨がまた降り始めている。
街灯の光が、水滴に滲んで揺れていた。
凛はカウンター席へ座ったまま、両手でココアのマグカップを包んでいる。
温かい。
でもそれ以上に。
今、自分がここへいていいと思えていることが、不思議だった。
少し前までの凛なら、“会いたい”なんて言えなかった。
寂しいとか。
助けてほしいとか。
そういう感情を出した瞬間、迷惑になると思っていたから。
でも今夜、真白は嫌な顔をしなかった。
困ったようにも見えなかった。
ただ自然に、「来る?」と言ってくれた。
それだけで、凛の胸の奥に長く張り付いていた孤独が、少しだけ剥がれた気がしていた。
「少し落ち着いた?」
真白がカウンターの中から静かに聞く。
凛は小さく頷いた。
「……うん」
本当はまだ苦しい。
社会への怖さも消えていない。
“普通になれない自分”への不安も、相変わらず胸の中にある。
でも。
一人で部屋にいた時より、呼吸がしやすかった。
「今日、かなり無理してた顔してたもんね」
真白はそう言って、食器を片付け始める。
凛はぼんやりその背中を見る。
真白は、いつも自然だった。
“頑張れ”とも、“もっと前向きに”とも言わない。
ただ、苦しい時に苦しいままでいられる空気をくれる。
凛には、それがとても大きかった。
「……真白さんって」
凛がぽつりと呟く。
「なんでそんなに落ち着いてるの?」
その質問に、真白は少し手を止めた。
「落ち着いて見える?」
「見える」
凛は素直に答える。
「なんか、ちゃんと呼吸してる感じする」
真白は少し笑った。
「昔は全然だったけどね」
その言葉に、凛は少し顔を上げる。
真白はしばらく黙っていた。
店の中にはコーヒーの匂いが残っている。
雨音。
静かな音楽。
その穏やかな空気の中で、真白はゆっくり口を開いた。
「俺さ、二十二くらいの時、一回ちゃんと壊れたんだよね」
凛の呼吸が少し止まる。
真白はいつも穏やかで。
人の苦しさを受け止める余裕があるように見えていた。
だから、“壊れた”という言葉が少し意外だった。
「イラストの仕事頑張りすぎて」
真白は苦笑しながら続ける。
「全然寝れなくなって、人とも会えなくなって、コンビニ行くだけで動悸してた」
凛は静かに聞いている。
真白はマグカップを拭きながら、小さく息を吐いた。
「その頃は、“ちゃんとしなきゃ”しかなかったんだよね」
その言葉に、凛の胸が少し揺れる。
ちゃんとしなきゃ。
それは凛もずっと抱えてきた言葉だった。
「売れなきゃ意味ないって思ってたし」
「休むのも怖かったし」
「周り見て、“みんな頑張ってるのに自分だけ駄目だ”って毎日思ってた」
凛は思わず俯く。
まるで今の自分みたいだった。
「で、ある日急に身体動かなくなった」
真白は静かに言った。
「本当にベッドから起きれなくなって、“あ、壊れたな”って思った」
凛の胸がぎゅっと痛む。
壊れる。
その言葉が、他人事に思えなかった。
今日の就活会場でも、凛は少し壊れかけていた気がする。
呼吸が浅くなって。
頭が真っ白になって。
“もう無理かも”と思ってしまった。
「その時さ」
真白は少し遠くを見るように笑った。
「一番きつかったの、“助けて”が言えなかったことなんだよね」
凛は小さく息を止める。
助けて。
その言葉。
凛も今までほとんど言えなかった。
「迷惑だと思ってた?」
凛が小さく聞く。
「うん」
真白は頷いた。
「あと、“頑張れない自分”見せたら終わりだと思ってた」
その言葉が、凛の胸へ深く落ちる。
本当にそうだった。
凛もずっと、“ちゃんとできない自分”を隠してきた。
苦しい時ほど笑って。
平気なふりをして。
限界まで一人で抱え込んでいた。
「でも結局、一人で抱え続ける方が壊れた」
真白は静かに言う。
「だから今は、“助けて”って言える人の方が強いと思ってる」
凛は何も言えなかった。
強い。
凛にとって“助けて”は、弱さだった。
迷惑だった。
でも真白は、それを“強い”と言った。
店の中へ、しばらく静かな時間が流れる。
凛はマグカップを見つめながら、小さく呟いた。
「……私、まだ怖い」
「うん」
「頼ったら、いつか嫌われる気がする」
その本音を口にした瞬間、胸が少し苦しくなる。
でも真白は、否定しなかった。
「多分さ」
真白は穏やかな声で言う。
「凛ちゃん、“人に迷惑かけた記憶”より、“我慢した記憶”の方が圧倒的に多いんだと思う」
凛は静かに目を伏せた。
本当にそうだった。
母へ心配をかけないように。
空気を悪くしないように。
嫌われないように。
ずっと我慢してきた。
「だから、“頼っても大丈夫”がまだ身体で信じられないんだよね」
その言葉に、凛の目が少し熱くなる。
身体で信じられない。
まさにその感覚だった。
頭では、“助けていい”と少しわかってきている。
でも身体はまだ怖がっている。
頼った瞬間、捨てられる気がする。
「……今日」
凛は小さく言った。
「本当は、家でちょっと消えたくなってた」
その言葉を口にした瞬間、涙が少し溢れる。
重いかもしれない。
怖い。
でも今は、隠したくなかった。
真白は静かに凛を見る。
そして小さく頷いた。
「そっか」
それだけだった。
大袈裟に驚かない。
説教もしない。
ただ、“そっか”と言ってくれる。
その静かな受け止め方が、凛には苦しいくらい優しかった。
「でも、凛ちゃん今ここ来たじゃん」
真白が穏やかに言う。
「それって、“本当は生きたい側”がまだちゃんとあるってことだと思う」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が強く揺れる。
本当は生きたい側。
凛はずっと、“消えたい”ばかりだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
今日、“会いたい”と思った。
一人で終わりたくなかった。
誰かのところへ行きたかった。
それは確かに、“生きたい側”の感情だった。
凛は涙を拭いながら、小さく笑った。
「……なんか、悔しい」
「何が?」
「まだ、生きたいのかもしれないって思うの」
真白は少しだけ笑った。
「それ、結構大事なことだよ」
凛は窓の外を見る。
雨はまだ静かに降っている。
東京の夜。
孤独な光。
でも今夜の凛は、完全に一人ではなかった。
“苦しい”を話しても。
“消えたい”に近い感情を見せても。
まだここへいていいと言われた。
その事実が、凛の中に少しずつ残っていく。
多分。
こういう小さな経験の積み重ねで、人は“助けを求めてもいい”を覚えていくのかもしれない。
凛は温かいココアを飲みながら、静かに思う。
壊れたことのある人の優しさは、多分、“頑張れ”じゃない。
“苦しいままでも、ここにいていい”を知っている優しさなのだと。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




