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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第149ページ  真白へ見せる前に、心を整える

七海と灯の感想を受け取り、凛は少しだけ「作者として選ぶ」ことを覚え始めた。

感想を全部採用しない。

でも、全部無視もしない。

作品の中心へ戻して、理由を書いて選ぶ。


今回は、感想を反映した試し読み四章を、いよいよ真白へ見せる準備をするページです。

朝、凛はパソコンを開く前に、青いノートを机の真ん中に置いた。


 昨日のページには、七海と灯の感想をもとに、自分で選んだ修正の記録が残っている。


『感想を全部採用しなかった。

でも、全部無視もしなかった。

理由を書いて選んだ。

七海ちゃんと灯ちゃんの灯りを借りて、私の言葉を少し深くした。

感想と一緒に、作品を育てることができた日だった。』


 凛はその文字をゆっくりなぞるように読んだ。


 感想と一緒に、作品を育てる。


 少し前の凛なら、その言葉だけで怖くなっていたと思う。


 誰かの感想が入ったら、自分の作品ではなくなってしまう気がしていた。


 誰かに言われた通りに直さなければ、失礼な気がしていた。


 逆に、直しすぎれば、自分の声が薄くなる気がしていた。


 でも昨日、凛は少しだけ違うやり方を覚えた。


 七海の感想は、読者の呼吸を教えてくれた。


 灯の感想は、痛みの芯を教えてくれた。


 その二つをそのまま貼りつけるのではなく、自分の言葉に戻して作品へ返した。


 それは、誰かに従った修正ではなく、作品を育てるための選択だった。


 凛はパソコンを開いた。


『生きづらさに、名前をつけるなら_試し読み用_感想反映案』


 ファイル名を見るだけで、胸が少しどきどきする。


 七海へ渡したもの。


 灯へ渡したもの。


 そして二人の感想を受けて、少し深くなったもの。


 次は、真白へ見せる番だった。


 凛は青いノートに書いた。


『今日は、真白さんへ見せる準備をする。

怖い。

七海ちゃんや灯ちゃんに見せる怖さとは、また違う。

真白さんには、作品の流れだけじゃなく、私自身の変化も見られる気がする。』


 書いた瞬間、胸の奥が静かに震えた。


 真白に見せるのは、特別に怖かった。


 七海は友人として、凛のそばで笑いながら支えてくれる人だった。


 灯は、痛みの芯をまっすぐ見つけてくれる人だった。


 真白は、そのどちらとも違う。


 凛が作品を書き始めてから、何度も言葉をくれた人。


 急がなくていいと教えてくれた人。


 終わりは次の朝へ続く句読点でいいと言ってくれた人。


 名前のない大事な人として、凛の作品の中にもいる人。


 だからこそ、真白に見せるのは怖かった。


 真白がこの四章を読んだ時、凛の作品をどう見るのだろう。


 凛自身をどう見るのだろう。


 七海や灯の感想を反映したことで、作品が変わったことに気づくだろうか。


 凛の声が残っていると感じてくれるだろうか。


 それとも、どこか無理をしていると思うだろうか。


 凛はノートへ続けた。


『真白さんに見せると、私はたぶん、作品だけではなく、私自身を見られる気がして怖くなる。

でも、作品は私そのものではない。

私が書いたものではあるけれど、私の全部ではない。

そこを忘れない。』


 その一文を書いて、少しだけ呼吸が戻った。


 作品は、凛の全部ではない。


 大切なもの。


 痛みから生まれたもの。


 未来へ渡したいもの。


 でも、凛のすべてではない。


 真白がどんな感想を持っても、それは作品への感想であり、凛の存在そのものへの判決ではない。


 凛は、それを何度も自分に言い聞かせた。


 パソコンの画面へ戻る。


 まず、真白へ渡す前に、四章を最初から確認することにした。


 ただし、今日は大きく直さない。


 昨日直したばかりだ。


 今日は、真白へ渡すために、説明のメモを整える日。


 凛は新しいページを作り、冒頭に短いメッセージを書いた。


『真白さんへ。

七海ちゃんと灯ちゃんに読んでもらった四章を、少しだけ直しました。

今回は、作品全体の流れと、凛の声が残っているかを見てもらえたら嬉しいです。

感想は急がなくて大丈夫です。

重かったら途中で止めてください。』


 書き終えて、凛は少し迷った。


 真白へ。


 その文字が画面にあるだけで、顔が熱くなる。


 七海へのメッセージとは違う緊張があった。


 でも、このメッセージは必要だった。


 真白にも、自由を渡したかった。


 急がなくていい。


 途中で止めていい。


 全部を背負わなくていい。


 作品を渡す時、相手の自由も一緒に渡す。


 真白が言ってくれた言葉を、今度は真白へ返すような気持ちだった。


 凛は一章目を読む。


『私はずっと、普通になりたかった。』


 もう何度も読んだ一文。


 それでもまだ、少し痛い。


 でも、怖いだけではなくなっていた。


 これは入口だ。


 凛が自分を責める以外の言葉を探す物語の入口。


 小さな私への章を読む。


 昨日足した一文がある。


『私も、ここを書くたびに少し息が止まります。

小さな私へ優しい言葉をかけようとすると、今でも胸の奥が痛みます。

だから、もしあなたもここで苦しくなったなら、一緒に少しだけ止まりましょう。』


 凛はそこを読んで、ゆっくり息をした。


 灯の感想がきっかけで生まれた一文。


 でも、今読むと、凛自身の言葉になっている。


 ちゃんと自分の声で書けている気がした。


 働くことが怖かった章では、七海が絶対残してと言った一文がある。


『私は働くことそのものより、働くことで自分を失うことを怖がっていたのだと思います。』


 その一文を支えるように、昨日足した文章も続いている。


 働く場所の中で、自分の声が少しずつ聞こえなくなっていくこと。


 「大丈夫です」と言い続けるうちに、本当に大丈夫かどうかもわからなくなること。


 凛は読みながら、胸の奥が少し静かになるのを感じた。


 怖さに名前がついている。


 働くことへの怖さは、まだ消えていない。


 でも、以前のようにぼんやりした巨大な影ではなくなってきた。


 最後に、夜に崩れそうなあなたへの章。


 灯に「優しすぎるかも」と言われて、凛は本音の痛さを少し足した。


『私は、こんなふうに優しい言葉を書きながら、今でも夜が怖い日があります。

誰かから返信が来ないだけで、自分が重い人間になった気がする夜があります。

母の言葉を思い出して、もう終わったはずの痛みが、今の部屋まで追いかけてくる夜があります。

「大丈夫」と送ったあとで、布団の中でまったく大丈夫じゃない自分を抱えている夜があります。』


 凛は読み終えて、少しだけ目を閉じた。


 痛い。


 でも、この痛さは必要だった。


 簡単に「大丈夫」と言えないからこそ、次の一呼吸だけでいいと書ける。


 この章は、前より少し信じられるものになった気がした。


 凛は青いノートへ書いた。


『真白さんへ渡す前に確認した。

四章とも、前より少し深くなった。

でも、私の声は消えていない気がする。

怖いけど、渡せるかもしれない。』


 その時、スマートフォンが震えた。


 七海からだった。


『今日、真白さんに渡す日?』


 凛は少し笑った。


 なぜ、いつもわかるのだろう。


『準備してる』


『怖い』


 すぐに返事が来る。


『そりゃ怖い』


『でも、七海と灯のダンジョン通過済みだから、装備は増えてる』


 凛は思わず笑ってしまった。


『装備』


『休憩所、芯の一文、作者の判断、受け取る力』


『けっこう強い』


 凛は画面を見つめながら、胸が温かくなった。


 休憩所。


 芯の一文。


 作者の判断。


 受け取る力。


 確かに、少しずつ増えている。


 凛は返信した。


『装備、忘れないようにする』


 大学へ向かう時間になり、凛はファイルを保存した。


 まだ真白には送っていない。


 でも、準備はできた。


 大学では、七海と少しだけ話した。


「真白さんには、何を見てもらうの?」


「作品全体の流れと、凛の声が残っているか」


「いいじゃん。真白さん向き」


「でも怖い」


「うん。でも怖いのは、ちゃんと大事にしてるからでしょ」


 七海の言葉に、凛は頷いた。


 怖いのは、大事だから。


 何度も書いてきた言葉。


 それでも、そのたびに必要になる。


 昼休み、灯からもメッセージが来た。


『真白さんに渡すの?』


『今日準備してる』


『怖い?』


『怖い』


『でも真白さんなら、作品を急がせずに読んでくれそう』


 凛はその返事を見て、少し安心した。


 そうだ。


 真白なら、急がせずに読んでくれる。


 きっと、すぐに正解を出そうとはしない。


 静かに読んで、静かに言葉を返してくれる。


 だからこそ怖い。


 でも、だからこそ読んでほしい。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店の前に着くと、少しだけ足が止まった。


 いつもの扉。


 いつもの灯り。


 いつものベル。


 でも今日は、バッグの中に試し読み用のファイルが入っている気がした。


 実際にはスマートフォンの中にあるだけなのに、とても重く感じる。


 凛は深呼吸した。


 扉を開ける。


 ベルが鳴る。


 真白が顔を上げる。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


「今日は、渡す前の顔」


 凛は少しだけ笑った。


「はい」


 真白は何も急かさず、いつもの席を目で示した。


 凛は座り、ココアが出てくるまで、手を膝の上で握っていた。


 カップが置かれる。


 甘い香りが立ち上る。


 凛はカップを両手で包み、少しだけ温度をもらった。


「真白さん」


「うん」


「試し読み用の四章、七海ちゃんと灯ちゃんに読んでもらって、少し直しました」


「うん」


「次に、真白さんに見てもらいたいです」


 言えた。


 言ってしまった。


 胸が大きく鳴る。


 真白は静かに頷いた。


「もちろん」


 その返事は、予想していたよりも穏やかだった。


 大きく喜ぶわけでも、驚くわけでもなく、ただ静かに受け取るような声。


 その穏やかさに、凛は少し泣きそうになった。


「でも、急がなくて大丈夫です」


「うん」


「重かったら途中で止めてください」


「うん」


「今回は、作品全体の流れと、私の声が残っているかを見てもらえたら嬉しいです」


 真白は少し目を細めた。


「わかった」


 凛はスマートフォンを開き、用意していたファイルを送った。


 送信済みの表示が出る。


 真白のスマートフォンが小さく震えた。


 渡した。


 七海に続き、灯に続き、真白へも。


 凛の胸は、緊張と安心でいっぱいになった。


 真白は画面を見て、すぐには開かなかった。


「今ここで読む?」


 凛は一瞬迷った。


 目の前で読まれるのは怖い。


 でも、真白がどう読むのか見たい気持ちもある。


 けれど、凛の心はまだ準備できていなかった。


「今日は、送るだけでもいいですか」


 真白はすぐに頷いた。


「もちろん」


 その一言に、凛は深く安心した。


 送るだけの日。


 読む日。


 感想を受け取る日。


 直す日。


 それぞれ分けていい。


 ここでも同じだった。


 凛は青いノートを取り出し、短く書いた。


『真白さんに送った。

今日は送るだけでいいと言えた。

目の前で読まれなくてもいい。

私の速度を守れた。』


 真白はその様子を見て、静かに微笑んだ。


「凛ちゃん、ちゃんと自分の速度を選べてるね」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 自分の速度。


 この作品を書き始めた頃、凛はいつも誰かの速度に合わせようとしていた。


 普通の速度。


 母の望む速度。


 社会の速度。


 友人たちの速度。


 真白との距離さえ、早く名前をつけなければいけない気がしていた。


 でも今、凛は言えた。


 今日は送るだけでいいですか。


 それは小さな言葉だった。


 でも、凛にとっては大きな選択だった。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開かなかった。


 今日は真白へ渡した日。


 直す日ではない。


 感想を待つためだけに、自分をすり減らす日でもない。


 凛は青いノートを開き、今日のことを書いた。


『真白さんへ試し読み四章を渡した。

七海ちゃんと灯ちゃんの感想を反映したもの。

作品の流れと、私の声が残っているかを見てもらいたいと伝えた。

今日は送るだけでいいと言えた。

目の前で読まれる怖さから、自分を守れた。』


 凛は少し手を止めた。


 真白がどう読むかは、まだわからない。


 どんな感想が返ってくるかもわからない。


 でも、今日は渡せた。


 それだけを認めたい。


 凛は続けて書いた。


『七海ちゃんへ渡した時、私は作品を相手の時間へ預けることを知った。

灯ちゃんへ渡した時、違う感想を怖がりすぎなくてもいいと知った。

真白さんへ渡した今日、私は自分の速度を守ってもいいと知った。

送る日、読む日、受け取る日、直す日。

全部を一日に詰め込まなくていい。』


 書き終えた時、凛の胸は静かだった。


 不安はある。


 もちろんある。


 真白が読むまで、何度も気になってしまうだろう。


 でも、今夜の凛は少しだけわかっている。


 感想が来るまで、自分の生活を止めなくていい。


 作品を渡したあとも、凛は凛の時間を生きていい。


 凛は最後に書いた。


『真白さんへ見せる前に、心を整えた。

怖いまま渡した。

でも、自分の速度を守れた。

今日はそれでいい。

私の作品は、少しずつ誰かの手に渡っている。

そのたびに私は、自分を置き去りにしない方法も少しずつ覚えている。』


 凛はペンを置いた。


 窓の外には、冬の夜が広がっている。


 七海の灯り。


 灯の灯り。


 そして、真白へ渡した新しい灯り。


 作品は、もう凛の部屋の中だけにはいない。


 でも凛は、ひとり置き去りにされたわけではない。


 青いノートがある。


 戻る言葉がある。


 自分の速度を選ぶ力が、少しだけ育っている。


 凛はその小さな力を胸に、静かに目を閉じた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が感想を反映した試し読み四章を、真白へ渡すページでした。


七海には「読者の呼吸」を。

灯には「痛みの芯」を。

そして真白には「作品全体の流れ」と「凛の声が残っているか」を見てもらう。


凛は少しずつ、相手ごとに何を見てもらいたいのかを選べるようになっています。


そして今回は、真白へ送ったあと、すぐ目の前で読んでもらうのではなく、

「今日は送るだけでいい」と自分の速度を守ることができました。


次のページでは、真白からの感想を待つ夜、凛が不安になりながらも、自分の生活を止めない練習をしていきます。

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