第139ページ 自分の文章を、少し信じてみる
自分で書いた言葉に救われた凛。
誰かへ向けて書いたはずの文章が、夜に揺れた自分を支えてくれた。
その体験は、凛の中に新しい問いを生む。
私は、自分の文章を少し信じてもいいのだろうか。
今回は、凛が「自分の文章なんて」と疑う癖と向き合いながら、自分の言葉を少しずつ信じる練習を始めるページです。
朝、凛は青いノートを開いたまま、昨日の最後の一文を何度も読み返していた。
『自分で戻る場所が増えている。
自分の文章も、そのひとつになった。』
その文字を見るたび、胸の奥が少しだけ震える。
昨日の夜、凛は不安になった。
真白から返信が来ない。
それだけで胸がざわついて、自分がまた重い言葉を送ってしまったのではないかと思った。
でも、凛はその不安に飲み込まれきらなかった。
青いノートへ戻った。
自分で書いた文章へ戻った。
『大きな答えではなく、次の一呼吸だけでいい。』
その一文を声に出して読んだ。
そして、本当に少しだけ呼吸が戻った。
それは大きな奇跡ではない。
不安が完全に消えたわけでもない。
真白から返信が来るまで、胸の奥にはまだ小さな震えがあった。
でも凛は、その震えを抱えながら、自分の言葉のそばに戻ることができた。
その事実が、朝になっても静かに残っていた。
自分の文章が、自分を助けた。
そう言うと、少し大げさに聞こえる。
けれど、昨日の夜の凛には確かにそうだった。
誰かへ向けて書いた言葉が、未来の自分への避難場所にもなった。
凛はペンを持ち、新しいページへ書いた。
『私は、自分の文章を少し信じてもいいのかもしれない。
でも、そう思うのが怖い。
自分の文章を信じるなんて、調子に乗っているみたいで怖い。
勘違いしていると思われそうで怖い。』
書いた瞬間、胸が少し痛んだ。
自分の文章を信じる。
その言葉は、凛にとってとても大きかった。
書くことは好きだ。
文章を書くと、言えなかった気持ちに形ができる。
青いノートの中で、自分の痛みに名前がつく。
作品の中で、置き去りにしてきた自分と再会できる。
それはもう、凛にとって大切なことになっていた。
でも、自分の文章を「信じる」となると、途端に怖くなる。
私の文章なんて。
まだ未完成なのに。
もっと上手い人はいくらでもいるのに。
誰かに届いたのは、たまたまなのに。
灯や七海や真白が優しいだけなのに。
そういう声がすぐに湧いてくる。
凛は続けて書いた。
『私は、自分の文章を信じる前に、必ず否定する言葉を探してしまう。
上手くない。
まだ足りない。
読んでくれた人が優しいだけ。
たまたま。
勘違い。
そうやって、少し嬉しかった気持ちまで急いで小さくしようとする。』
書きながら、凛は昨日の真白の言葉を思い出した。
「凛ちゃんの中に、自分で戻る場所が増えてるんだね」
その言葉は、とても嬉しかった。
けれど嬉しいと思った瞬間、凛の中にはまた別の声が出てきた。
そんな大げさなものじゃない。
ただ一文を読んだだけ。
真白さんが優しいからそう言ってくれただけ。
自分の文章がすごいわけじゃない。
凛はすぐ、嬉しさを打ち消そうとする。
傷つかないために。
期待しすぎないために。
調子に乗った自分を誰かに笑われないために。
でも、そのたびに凛は、自分で自分の灯りを吹き消しているのかもしれなかった。
凛はパソコンを開いた。
『夜に崩れそうなあなたへ』の章を読み返す。
昨日の夜に書き足した段落がある。
『誰かへ向けて書いたはずの言葉が、私自身を助けることがある。』
凛はその一文を見つめた。
この文章は、本当だ。
少なくとも、昨日の夜の凛にとっては本当だった。
なら、まずそこだけは信じてもいいのかもしれない。
文章が完璧かどうかではなく。
名作かどうかではなく。
誰かに評価されるかどうかでもなく。
昨日の夜、自分がこの言葉に戻れた。
その事実だけは、消さなくていい。
凛は青いノートへ書いた。
『自分の文章を信じるとは、すごい文章だと思い込むことではない。
昨日の私を少し助けた事実を、なかったことにしないこと。』
その一文を書いた時、胸の奥が少しだけ温かくなった。
信じる、という言葉が少し小さくなった。
自分を過大評価することではない。
誰より上手いと決めることでもない。
ただ、自分の文章が確かに自分のどこかへ届いたことを、認めること。
凛はパソコンへ向かい、新しいページを開いた。
『自分の文章を信じること』
仮の見出しを打つ。
その下に、ゆっくり文章を始めた。
『自分の文章を信じることが、私はずっと怖かった。
信じた瞬間、誰かに笑われる気がした。
勘違いしていると思われる気がした。
だから私は、誰かに褒められても、すぐに否定する言葉を探した。
優しいからそう言ってくれただけ。
たまたま届いただけ。
まだ全然足りない。
そうやって、嬉しかった気持ちを自分で小さくしてきた。』
凛は息を吸い、続ける。
『でも昨日の夜、私は自分で書いた言葉に戻った。
それは誰かの評価ではなかった。
賞でも、数字でも、感想でもなかった。
ただ、不安になった私が、自分の文章の中にある一文を読んで、少し呼吸を取り戻した。
その事実を、私はもう少しだけ信じてみたい。』
打ち終えると、凛は少し泣きそうになった。
自分の文章を信じることは、自分を信じることに似ている。
だから怖いのだと思った。
凛はずっと、自分を信じることが苦手だった。
母の言葉で、自分の感じ方を疑うようになった。
普通にできない自分を責め続けた。
人に褒められても、素直に受け取ることができなかった。
文章も同じだ。
自分から生まれたものだから、信じるのが怖い。
でも、だからこそ、少しずつ信じる練習が必要なのかもしれなかった。
スマートフォンが震えた。
灯からだった。
『昨日の章、まだ引きずってる?』
凛は少し笑った。
『引きずってる』
『自分の文章を信じてもいいのかなって考えてる』
すぐに既読がついた。
『信じていいでしょ』
あまりにまっすぐな返事に、凛は胸が熱くなる。
『でも怖い』
『わかる』
『でもさ、信じるって「私天才!」ってことじゃなくない?』
凛は画面を見つめた。
『自分の文章が自分に必要だったって認めることじゃない?』
凛の目に涙が滲んだ。
さっきノートに書いたことと似ていた。
灯の言葉は、いつも短くて、でも鋭い。
『それ、今ノートに似たこと書いた』
『じゃあ正解』
『凛ちゃんの文章は、凛ちゃんを助けたんだから、まずそこは信じていい』
まずそこは信じていい。
凛はその言葉をノートに書き写した。
七海が以前言ってくれた「傷つけるために書いているわけじゃないなら、まずそこを信じていい」と似ている。
凛はいつも、自分の動機や感情や文章を疑う。
でも、まず信じていいところもある。
昨日の夜、自分の文章が少し自分を助けた。
そこは信じていい。
大学へ向かう電車の中、凛はスマートフォンで昨日の章を読み返した。
何度か、直したいところが目についた。
もっと自然な表現にしたい。
繰り返しが多い。
少し説明しすぎているかもしれない。
でも今日は、すぐに直さなかった。
直す前に、一度だけ思った。
この文章は、昨日の私を助けた。
その温度を消さないように直そう。
凛はメモに書いた。
『直す時も、信じるところを残す。
全部疑いながら直さない。
この文章が持っている温度を、消さない。』
大学に着くと、七海がいつもの場所にいた。
「今日、何かちょっと強くなった顔」
「強くなってはない」
「じゃあ、少し信じようとしてる顔」
凛は驚いた。
「なんでわかるの」
「なんとなく」
二人は並んで歩いた。
凛は、自分の文章を信じるのが怖いことを話した。
昨日の夜、自分で書いた言葉に戻れたこと。
それでも、すぐに「大したことじゃない」と打ち消そうとしてしまうこと。
七海は真剣に聞いたあと、言った。
「凛ちゃんさ、褒められた時に即座に消火活動するよね」
「消火活動?」
「うん。嬉しい火がついたら、すぐ水かける」
凛は少し笑った。
でも、胸が痛かった。
本当にそうだ。
嬉しい気持ちが灯る。
その瞬間、凛は慌てて消そうとする。
調子に乗らないように。
期待しないように。
傷つかないように。
七海は続けた。
「でも、その火って別に悪い火じゃないじゃん」
「うん」
「小さい灯りくらい残しておけばいいのに」
凛はその言葉に、胸がじんわり熱くなった。
小さい灯りくらい残しておけばいい。
それは、今の凛に必要な言葉だった。
自信満々にならなくていい。
大きな炎にしなくていい。
ただ、小さい灯りを消さずに置いておく。
自分の文章が昨日の夜の自分を助けた。
その小さな灯りを、消さずに置いておく。
講義中、凛はノートの端へ書いた。
『嬉しい火がついた時、すぐ消さなくていい。
大きな炎にしなくていい。
小さい灯りくらい、残しておいていい。』
昼休み、凛は図書館へ行った。
パソコンを開き、『自分の文章を信じること』の続きを書いた。
『私は嬉しい気持ちが生まれると、すぐに消そうとしてしまう。
届いた。
書けた。
少し助かった。
そう思った瞬間、いや、でも、と否定の言葉を探す。
期待して傷つくのが怖いから。
調子に乗っている自分を誰かに見られるのが怖いから。
けれど、嬉しさを全部消してしまうと、私は自分で自分の灯りを消してしまう。』
凛は続ける。
『自分の文章を信じるとは、大きな炎を掲げることではないのかもしれない。
小さな灯りを消さずに置いておくこと。
昨日の私を少し助けた言葉がある。
灯ちゃんに届いた言葉がある。
七海ちゃんが「助かった」と言ってくれた章がある。
真白さんが静かに受け取ってくれた一文がある。
それらを、全部たまたまだと消してしまわないこと。』
打ち終えた時、凛の胸は少し熱かった。
怖い。
でも、書けている。
自分の文章を信じることについて、自分の文章で書いている。
そのことが少しおかしくて、少し嬉しかった。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店に入ると、真白はカウンターで静かに本を読んでいた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「今日は、自分の文章と話してきた顔」
凛は少し笑った。
「当たりです」
凛は席に座り、今日考えたことを話した。
自分の文章を信じるのが怖いこと。
灯に「自分の文章が自分に必要だったって認めること」と言われたこと。
七海に「嬉しい火をすぐ消火する」と言われたこと。
真白は静かに聞いていた。
そして、ココアを置きながら言った。
「信じるって、完璧だと決めることじゃないからね」
凛は顔を上げた。
「完璧だと決めることじゃない」
「うん」
真白は続ける。
「未完成でも、まだ直すところがあっても、その文章が持っている本当の部分を認めることなんじゃないかな」
凛はカップを包む手を見つめた。
未完成でも、本当の部分を認める。
それなら、できるかもしれない。
完璧だとは思えない。
でも、本当だった部分はある。
泣きながら書いた温度。
夜に戻れた一文。
七海に届いた怖さ。
灯が必要だと言ってくれた章。
真白を人として書こうとした一文。
それらを、未完成だからといって全部否定しなくていい。
凛は青いノートへ書いた。
『信じるとは、完璧だと決めることではない。
未完成でも、その文章が持っている本当の部分を認めること。』
夜、家へ帰った凛はパソコンを開いた。
今日の最後に、もう一段落書いた。
『私の文章は、まだ未完成だ。
直すところも、足りないところも、きっとたくさんある。
それでも、未完成だから信じてはいけないわけではない。
未完成なまま、昨日の私を少し支えた。
未完成なまま、友人の怖さに触れた。
未完成なまま、大事な人に受け取ってもらえた。
ならば私は、この未完成な文章の中にある本当の部分を、少しだけ信じてみたい。』
凛は続けた。
『私はこれからも、自分の文章を疑うと思う。
足りないところを見つけて落ち込む日もあると思う。
誰にも届かない気がして怖くなる日もあると思う。
でも、そのたびに思い出したい。
信じるとは、完璧だと決めることではない。
小さな灯りを消さずに置いておくこと。
昨日の私を助けた一文を、なかったことにしないこと。
私はその練習を、今日から少しずつ始める。』
打ち終えると、凛は静かに息を吐いた。
胸の中に、小さな灯りがある。
大きくない。
誰かに見せびらかすような光ではない。
でも、消したくないと思った。
凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。
『自分の文章を、少し信じてみる。
完璧だからではなく、本当だったから。
誰かに褒められたからだけではなく、昨日の私が戻る場所にできたから。
この小さな灯りを、今日は消さずに置いておく。』
書き終えると、凛はペンを置いた。
窓の外では、冬の夜が広がっている。
昨日よりも少しだけ、夜が怖くなかった。
自分で作った灯りがある。
それはまだ頼りなくて、すぐ揺れる。
でも確かに、凛の中にある。
凛はパソコンを保存し、青いノートを閉じた。
自分の文章を信じる練習。
それは、自分を信じる練習でもあった。
凛はその小さな始まりを、今夜だけは否定しないでおこうと思った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が「自分の文章を信じる」ことに向き合うページでした。
自分で書いた言葉に救われた。
でも、それを認めるのは怖い。
調子に乗っていると思われそうで、凛はすぐに嬉しさを消そうとします。
けれど凛は気づきます。
信じるとは、完璧だと決めることではない。
未完成でも、その文章が持っている本当の部分を認めること。
昨日の自分を助けた一文。
友人に届いた章。
大事な人が受け取ってくれた言葉。
それらを、全部たまたまだと消してしまわないこと。
凛は小さな灯りを消さずに置く練習を始めました。
次のページでは、自分の文章を少し信じ始めた凛が、初めて「誰かに読んでもらうための形」に整える作業へ進んでいきます。




