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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第138ページ  自分で書いた言葉に、救われる夜

「夜に崩れそうなあなたへ」の章を書いた凛。

救うのではなく、隣にいるための言葉。

夜を抜けた人としてではなく、まだ夜の途中にいる人として書いた言葉。


けれどその夜、凛自身が少し不安定になる。

誰かへ向けて書いたはずの言葉が、今度は凛自身を支えてくれる。


今回は、凛が自分で書いた言葉に救われるページです。

夜は、思っていたより静かだった。


 凛はパソコンを閉じたあと、しばらく机の前から動けずにいた。


 画面の中には、さっきまで書いていた言葉がまだ残っている気がした。


『急いで元気にならなくていい。』


『大丈夫じゃないままでも、今ここにいていい。』


『次の一呼吸だけでいい。』


 それは、夜に崩れそうな誰かへ向けて書いた言葉だった。


 でも、パソコンを閉じて部屋が静かになると、その言葉は少しずつ凛自身の胸にも戻ってきた。


 凛は立ち上がり、台所へ行って水を飲んだ。


 コップ一杯の水。


 ただそれだけなのに、喉を通る冷たさで、自分が少し息を詰めていたことに気づいた。


 書いている間は夢中だった。


 でも書き終えた途端、胸の奥に重さが落ちてきた。


 誰かへ向けて書いた章。


 夜に崩れそうな誰かへ。


 けれど、その「誰か」の中には、凛自身もいた。


 過去の凛も、今の凛も、未来の凛もいた。


 凛はコップを置き、部屋へ戻った。


 スマートフォンを見る。


 真白からの返信はまだなかった。


 夕方、凛は真白へ短く送っていた。


『夜に崩れそうなあなたへ、少し書けました』


 それに対する返事は、まだ来ていない。


 真白は仕事中かもしれない。


 店の片付けをしているのかもしれない。


 疲れていて、スマートフォンを見ていないのかもしれない。


 頭ではわかる。


 でも、夜の心は少し弱い。


 返信が来ないだけで、胸がざわつく。


 さっきまで誰かへ「次の一呼吸だけでいい」と書いていたのに、凛自身はもう、次の一呼吸より先の不安を数え始めていた。


 重かったかな。


 また作品の話ばかりしてしまったかな。


 真白さんも疲れているのに、私の言葉を受け取るのが負担になっているのかな。


 そんな声が、胸の中で少しずつ大きくなる。


 凛はスマートフォンを伏せた。


「……違う」


 小さく呟く。


 まだ何も起きていない。


 返信が来ていないだけ。


 それなのに、凛の心は勝手に物語を作ろうとしている。


 嫌われた物語。


 重いと思われた物語。


 距離を置かれる物語。


 凛は青いノートを開いた。


 ペンを持つ手が少し冷たい。


『真白さんから返信がない。

それだけで不安になっている。

まだ何も起きていないのに、私はもう自分を責める準備をしている。』


 書いた瞬間、少しだけ呼吸が戻った。


 凛は続けた。


『夜に崩れそうなあなたへ、と書いたのに、今夜の私は少し崩れそうになっている。

誰かへ書いた言葉を、自分には使えていない。

でも、もしかしたら、今こそ使う時なのかもしれない。』


 その一文を書いて、凛は手を止めた。


 今こそ使う時。


 自分で書いた言葉を、自分へ返す時。


 凛はパソコンをもう一度開いた。


 さっき保存した章を開く。


『夜に崩れそうなあなたへ』


 そのタイトルを見ただけで、胸が少し震えた。


 凛は、本文の中から一文を見つけた。


『大きな答えではなく、次の一呼吸だけでいい。』


 凛はその文章を声に出して読んだ。


「大きな答えではなく、次の一呼吸だけでいい」


 声にすると、少し不思議だった。


 さっき自分で書いた言葉なのに、今は誰かが凛へ言ってくれているように聞こえる。


 凛は椅子に座り直し、ゆっくり息を吸った。


 ひとつ。


 吐く。


 もうひとつ。


 返信が来るかどうか。


 真白がどう思っているか。


 作品が重いかどうか。


 明日も書けるかどうか。


 その全部を今夜考えなくていい。


 次の一呼吸だけ。


 凛は画面を見つめたまま、もう一度読んだ。


『急いで元気にならなくていい。』


 そうだ。


 今すぐ不安を消さなくていい。


 すぐに明るい気持ちにならなくていい。


 真白の返信が来ないことを平気になれなくてもいい。


 ただ、不安になっている自分を責めすぎない。


 凛は青いノートへ戻り、書いた。


『私は今、自分で書いた言葉に戻っている。

誰かへ渡すつもりだった言葉が、今夜の私を少し支えている。

書くことは、未来の自分に避難場所を残すことなのかもしれない。』


 その一文を書いた時、凛の目に涙が滲んだ。


 未来の自分に避難場所を残す。


 それは、とても大事なことのように思えた。


 過去の自分へ手紙を書いた。


 今の自分を置き去りにしないために、青いノートを開いた。


 そして今、凛は未来の自分へも言葉を残している。


 夜に崩れそうな時、戻れる言葉。


 休みが必要な時、罪悪感を少し和らげる言葉。


 会いたい気持ちを責めそうな時、小さめに持っていけばいいと思える言葉。


 母の言葉に揺れた時、今の痛みと昔の痛みを見分けるための言葉。


 それらは、凛の中に少しずつ避難場所を作っていた。


 スマートフォンが震えた。


 凛の心臓が跳ねた。


 真白からだった。


『読んでみたいけど、今日は少し片付けが長引いてるから、明日ゆっくり聞かせて』


『書けたこと、おめでとう』


 凛は画面を見つめた。


 胸の奥が、ふっと緩んだ。


 嫌われていなかった。


 重いと思われたわけではなかった。


 ただ、片付けが長引いていただけ。


 明日ゆっくり聞かせて。


 書けたこと、おめでとう。


 その言葉が、静かに凛の胸へ入ってくる。


 凛はしばらく返事を打てなかった。


 安心した途端、涙が出た。


 不安だった。


 本当に不安だった。


 でも、凛はその不安に飲み込まれきらなかった。


 スマートフォンを何度も確認し続ける代わりに、青いノートへ戻った。


 自分で書いた言葉へ戻った。


 次の一呼吸をした。


 それは、小さなことかもしれない。


 でも凛にとっては大きかった。


 凛は返信した。


『ありがとうございます』


『明日、少し聞いてもらえたら嬉しいです』


 送信してから、青いノートへ書いた。


『返信が来た。

でも、返信が来る前に、自分で戻れた時間が少しあった。

それを忘れたくない。』


 凛はその一文を見つめた。


 大事なのは、返信が来たことだけではない。


 もちろん嬉しい。


 安心した。


 でも、それ以上に、返信が来るまでの時間に、自分を完全に置き去りにしなかったことが大事だった。


 以前の凛なら、返信が来るまで不安に飲み込まれて、何度もスマートフォンを見て、自分を責め続けていた。


 今日は違った。


 不安になった。


 でもノートへ戻った。


 自分の言葉へ戻った。


 それは、凛の中に小さな戻る道ができている証のようだった。


 凛はパソコンへ向かい、『夜に崩れそうなあなたへ』の章の下に、新しい段落を書き足した。


『私はこの章を書いた夜、自分自身が少し崩れそうになった。

大事な人から返信が来ないだけで、不安が大きくなった。

重かったのではないか。

迷惑だったのではないか。

そんな声が、胸の中で何度も響いた。

けれどその時、私は自分で書いた一文へ戻った。

大きな答えではなく、次の一呼吸だけでいい。

その言葉を声に出した時、私は少しだけ今に戻ることができた。』


 凛は続ける。


『誰かへ向けて書いたはずの言葉が、私自身を助けることがある。

それは少し不思議で、少し恥ずかしくて、でもとても大切なことだった。

私はまだ、夜を完全に抜けた人ではない。

でも、夜の中で使える言葉を少しずつ持ち始めている。

それは、私が私へ残した小さな避難場所だった。』


 打ち終えると、凛は深く息を吐いた。


 この章は、また少し本当になった気がした。


 誰かへ向けた綺麗な言葉だけではない。


 その言葉を、自分自身が必要とした夜。


 その体験が入ったことで、章の温度が深くなった。


 翌朝、凛は少し眠たかった。


 でも、胸の奥には昨日の夜の小さな達成感が残っていた。


 真白からの返信が来るまで、不安にはなった。


 でも戻れた。


 自分で書いた言葉に戻れた。


 凛は青いノートを開き、朝のページへ書いた。


『昨日の夜、私は自分の文章に助けられた。

誰かに届ける言葉は、未来の私にも届くことがある。

だから私は、これからも言葉を残したい。

誰かのためだけじゃなく、未来の私が夜に迷子にならないためにも。』


 大学へ向かう電車の中で、灯からメッセージが来た。


『昨日の章、進んだ?』


 凛は返信した。


『進んだ』


『書いたあと、自分が少し不安定になって、自分で書いた言葉に戻った』


 灯から少し間を置いて返事が来た。


『それ、めっちゃ大事じゃん』


『自分の文章が自分の避難場所になるやつ』


 凛は画面を見て、少し笑った。


 自分の文章が自分の避難場所になる。


 本当にそうだった。


 凛は返信した。


『そうかもしれない』


『この章、前より本当になった気がする』


『本当になった章は強い』


 灯の言葉に、凛は胸が温かくなった。


 大学に着くと、七海がいつもの場所で待っていた。


「今日、昨日の夜なにか乗り越えた顔」


「顔で全部わかりすぎ」


「当たり?」


「当たり」


 二人は並んで歩いた。


 凛は昨日の夜のことを話した。


 真白から返信が来なくて不安になったこと。


 自分で書いた「次の一呼吸だけでいい」という言葉を読んだこと。


 それで少し戻れたこと。


 七海は静かに聞いていた。


「それさ、すごいね」


「すごい?」


「うん。自家発電みたい」


「自家発電」


「自分で作った灯りで、自分を照らしたってことじゃん」


 凛はその言葉に、胸を打たれた。


 自分で作った灯りで、自分を照らす。


 それは、今の凛にぴったりの表現だった。


 真白の灯り。


 灯の言葉。


 七海の軽さ。


 それらに助けられてきた。


 でも昨日、凛は自分で書いた言葉にも少し助けられた。


 誰かの灯りだけではなく、自分の中にも小さな灯りができ始めている。


 凛は講義中、ノートの端に書いた。


『自分で作った灯りで、自分を照らす。

誰かの言葉に支えられながら、私自身も私へ言葉を残せるようになっている。』


 昼休み、凛は図書館へ行った。


 『夜に崩れそうなあなたへ』の章を開き、昨日の文章を少し整える。


 強くしすぎない。


 でも、本当の体験として残す。


『私はこの章を書いたあと、自分自身が少し夜に沈んだ。

けれど、その時に戻ったのは、この章の中の言葉だった。

次の一呼吸だけでいい。

その一文を読んで、私は水を飲み、息をして、青いノートを開いた。

それだけで問題が解決したわけではない。

でも、崩れそうな私が、完全に崩れ切る前に戻る場所を見つけた。』


 凛は続ける。


『言葉は、誰かに届く前に、まず書いた本人を支えることがある。

私はそのことを、少し恥ずかしいけれど、確かに知った。

自分で書いた言葉に救われるなんて、と以前の私は笑ったかもしれない。

でも今は思う。

それでいい。

未来の私が迷った時に戻れる言葉を、今の私が残しておけるなら、それはとても大切なことだ。』


 打ち終えると、凛はゆっくり息を吐いた。


 章がまた少し整った。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 真白が「明日ゆっくり聞かせて」と言ってくれたから。


 店に入ると、真白はカウンターで凛を見て、少し申し訳なさそうに笑った。


「昨日、遅くなってごめんね」


 凛は首を横に振った。


「大丈夫です」


 それは、昔の大丈夫とは少し違った。


 本当に、少し大丈夫だった。


「不安にはなりました」


 凛は正直に言った。


「でも、戻れました」


 真白は少し目を細めた。


「戻れた?」


「はい。自分で書いた言葉に」


 凛は席に座り、昨日の章を少し見せた。


 真白は黙って読んだ。


 そして、ゆっくり言った。


「これ、すごくいいね」


 凛の胸が少し緩む。


「誰かへ向けて書いてるのに、凛ちゃん自身もその言葉を使ってる」


「はい」


「それが、この章の強さになってると思う」


 凛はカップを両手で包んだ。


「私、自分で書いた言葉に救われるの、少し恥ずかしかったです」


「うん」


「でも、昨日は本当に少し助かりました」


 真白は静かに頷いた。


「凛ちゃんの中に、自分で戻る場所が増えてるんだね」


 その言葉に、凛の目に涙が滲んだ。


 自分で戻る場所。


 それは、この作品の終わりにも繋がっている。


 大丈夫になりました、ではなく。


 大丈夫じゃない時に戻れる場所ができました。


 その戻れる場所のひとつが、自分の文章になっている。


 凛は青いノートへ書いた。


『自分で戻る場所が増えている。

自分の文章も、そのひとつになった。』


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 今日の最後に、章へ一文を足す。


『この文章が、いつか誰かの夜に届くかどうかはわからない。

でも、少なくとも昨日の夜、私はこの文章に少し救われた。

それだけでも、この章を書いた意味があったと思う。

誰かへ向けた言葉は、未来の私への手紙にもなる。

私はこれからも、夜に戻れる言葉を少しずつ残していきたい。』


 打ち終えると、凛は静かにパソコンを保存した。


 窓の外では、冬の夜が広がっている。


 昨日と同じ夜。


 けれど、凛の中には昨日より少しだけ灯りがある。


 誰かからもらった灯り。


 そして、自分で書いた灯り。


 その両方を胸に、凛は青いノートを閉じた。


 今夜もまだ、完全に強くなったわけではない。


 でも、戻る場所がある。


 それだけで、凛は少しだけ安心して眠れそうだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が自分で書いた言葉に救われるページでした。


「夜に崩れそうなあなたへ」と書いたあと、凛自身も少し不安定になります。

けれどその時、凛は自分で書いた言葉へ戻りました。


大きな答えではなく、次の一呼吸だけでいい。


誰かへ向けて書いた言葉が、未来の自分への避難場所にもなる。

凛はそのことを知ります。


次のページでは、この体験をきっかけに、凛が「自分の文章を信じる」という新しい課題へ向かっていきます。

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