第127ページ 名前のない大事な人を、どう書けばいいのか
焦りに飲まれそうになった凛は、「作品を眺める日」を選んだ。
直すのではなく、進めるのでもなく、ここまで置いてきた言葉の灯りを確かめる日。
少し呼吸を取り戻した凛が次に向き合うのは、「名前のない大事な人」の章だった。
真白との関係を、どう書けばいいのか。
恋と呼ぶには怖く、友達と呼ぶには足りない。
けれど、確かに大事な人。
今回は、凛が真白との関係を作品に書くことへの怖さと向き合うページです。
朝、凛はパソコンを開く前に、昨日の青いノートを読み返していた。
『今日は、作品を眺める日だった。
直さない勇気。
進めない勇気。
守りたい言葉を見つける時間。
焦りに飲まれそうだったけれど、少し戻ってこられた。』
その文字を見て、凛は小さく息を吐いた。
昨日、凛は作品を進めなかった。
大きく書き直すこともしなかった。
ただ、ここまで書いてきた章を眺めた。
入口の言葉。
小さな自分への手紙。
母の章の中心に置いた灯り。
働くことが怖い章にある、壊れないための地図。
夜に崩れそうな誰かへ向けた声。
それらを一つずつ見て、凛は気づいた。
自分は何もできていないわけではない。
まだ完成していないだけで、確かに言葉を置いてきた。
そのことが、凛を少しだけ落ち着かせてくれた。
でも、今日開こうとしている章は、また違う怖さを持っていた。
『名前のない大事な人』
その章のタイトルを思い浮かべただけで、胸が少しざわついた。
真白のことを書く章。
いや、正確には、真白そのものを書く章ではない。
凛から見えた真白。
真白と出会って、凛の中に何が生まれたのか。
誰かを大事に思うことが、どうしてこんなに怖いのか。
安心と不安が、どうして同時に存在するのか。
それを書く章だった。
凛はパソコンを開いた。
作品ファイルを開き、目次を表示する。
『第八章 名前のない大事な人』
その文字を見た瞬間、凛の指が止まった。
真白は、凛にとって大事な人だ。
それはもう否定できない。
カフェで初めて青いノートを渡してくれた日。
凛の言葉を、急かさずに聞いてくれた夜。
嫉妬を醜いだけの感情にしないでくれたこと。
「大事な人」と言ってくれたこと。
名前がないままでも大事にしていいと教えてくれたこと。
その全部が、凛の中に残っている。
けれど、それを書くのは怖かった。
真白を利用しているみたいにならないだろうか。
真白の優しさを、勝手に作品の材料にしていることにならないだろうか。
凛の中の感情を書けば、それは真白にも届いてしまう。
読まれるかもしれない。
真白が読んだら、どう思うだろう。
重いと思うだろうか。
困るだろうか。
自分がそんなふうに書かれていると知ったら、距離を置きたくなるだろうか。
凛は青いノートを開いた。
まず、怖さを書く。
『真白さんのことを書くのが怖い。
私の気持ちを書くことは、真白さんを巻き込むことになる気がする。
大事な人だから、雑に書きたくない。
でも、大事な人だからこそ、書かないままにはできない。』
書いた瞬間、胸が少し痛んだ。
大事な人だから、書きたい。
大事な人だから、書くのが怖い。
その矛盾が、凛を動けなくさせている。
凛は続けて書いた。
『私は、真白さんを説明したいわけじゃない。
真白さんを所有したいわけでもない。
私は、真白さんと出会って、私の中に何が起きたのかを書きたい。
それなら、これは私の言葉なのかもしれない。』
その一文を書いて、凛は少しだけ呼吸を取り戻した。
真白本人を書くのではない。
凛の中に起きたことを書く。
誰かを大事に思う怖さ。
会いたいと言う勇気。
相手の過去に触れた時の嫉妬。
名前のない関係の不安。
それは、凛の心の記録だった。
凛はパソコンへ向き直った。
新しいページを作る。
『名前のない大事な人』
見出しを打っただけで、心臓が速くなった。
でも、今日は一文だけでいい。
そう言い聞かせる。
凛はゆっくり打ち始めた。
『私には、名前をつけられない大事な人がいる。』
たった一文。
けれど、その一文を書いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
名前をつけられない大事な人。
それは、凛と真白の関係を一番近く表す言葉だった。
恋人ではない。
ただの友達でもない。
家族でもない。
先生でも、救ってくれる人でもない。
でも、大事な人。
凛は続けた。
『恋と呼ぶには、私はまだ怖がりすぎている。
友達と呼ぶには、その人の言葉は私の深いところまで届きすぎている。
救いと呼んでしまうと、その人に重すぎる役割を背負わせてしまう気がする。
だから私は、その人のことを、名前のない大事な人と呼ぶことにした。』
打ちながら、凛は少し泣きそうになった。
救いと呼びたい気持ちもある。
けれど、真白を“救い”にしてしまうのは怖かった。
真白は凛を救うために存在しているわけではない。
真白には真白の人生がある。
過去がある。
傷がある。
カフェの日々がある。
凛の知らない時間がある。
だから、真白を物語の中で都合のいい救済者にしたくなかった。
それでも、真白の言葉に救われたことは本当だった。
その矛盾を、どう書くか。
凛は手を止め、青いノートへ戻った。
『真白さんを救いの人にしない。
でも、真白さんに救われた私の時間は書く。
相手を役割にしない。
私の変化を書く。』
それは、大事な線引きだった。
凛はパソコンに戻り、続きを書いた。
『その人は、私を救うために現れた人ではない。
私の痛みを全部理解してくれる魔法のような人でもない。
その人にも、その人の時間があり、私の知らない過去があり、私とは別の場所で抱えてきたものがある。
それでも私は、その人の言葉に何度も呼吸を助けられた。
だからこの章で書きたいのは、その人がどんな人かではなく、その人と出会って、私がどんなふうに自分へ戻っていったかということだ。』
書き終えて、凛は深く息を吐いた。
少しだけ、書ける気がした。
真白を説明するのではなく、凛の変化を書く。
その方針が見えたことで、胸の怖さが少し形を持った。
スマートフォンが震えた。
真白からだった。
『今日は何の章?』
凛は画面を見て、心臓が跳ねた。
まるで見られていたみたいだった。
凛は少し迷った。
でも、嘘はつきたくなかった。
『名前のない大事な人の章です』
送信した瞬間、顔が熱くなる。
すぐに既読がついた。
『おお』
『それは怖そう』
凛は少し笑った。
真白はやはり、軽く「いいね」とは言わない。
怖そう、と受け止めてくれる。
『怖いです』
『真白さんのことを書くのが、怖い』
送ったあと、胸が苦しくなった。
言ってしまった。
でも、すぐに返事が来た。
『うん』
『怖いよね』
『でも、前に話した通り、凛ちゃんから見えた俺を書くなら、それは凛ちゃんの言葉だと思う』
凛は画面を見つめた。
前にも言われた言葉。
でも、今もう一度聞くと、胸に深く入ってくる。
『ただ、無理に綺麗に書かなくていいよ』
『俺をいい人にしすぎなくていい』
その一文に、凛は目を止めた。
いい人にしすぎなくていい。
凛は少し驚いた。
『いい人にしすぎなくていいんですか』
『うん』
『俺だって万能じゃないし、凛ちゃんをいつも安心させられるわけじゃないでしょ』
凛はその言葉を読んで、胸が少し痛くなった。
確かにそうだった。
真白は優しい。
でも、真白の返信が遅くて不安になる日もある。
真白の昔を知る佐倉美緒を見て、嫉妬した日もある。
真白が何を考えているのかわからず、怖くなる瞬間もある。
それを書かずに、真白をただ優しい人として描いたら、それは本当ではない。
『凛ちゃんが不安になったことも、嫉妬したことも、わからなくなったことも、書いていいと思う』
真白から続けて届いた。
『その方が、たぶん本当だから』
凛の目に涙が滲んだ。
本当。
それが、この作品で凛が大事にしたいものだった。
誰かを悪者にするためではなく。
誰かを理想化するためでもなく。
本当の温度を書く。
凛は返信した。
『真白さんを救いの人にしたくないです』
『でも、救われた時間は書きたいです』
少し間があった。
真白から返事が来た。
『それ、すごくいいと思う』
凛はスマートフォンを胸元へ置いた。
少しだけ涙が出た。
真白本人が、凛の中で真白を完璧な存在にしないでいいと言ってくれた。
それが、凛にはとてもありがたかった。
大学へ向かう電車の中、凛は今朝書いた文章を読み返していた。
名前のない大事な人。
その言葉は、まだ少し恥ずかしい。
でも、逃げずに書きたいと思った。
大学に着くと、七海がすぐに凛の顔を見た。
「今日は真白さんの章?」
凛は立ち止まった。
「なんでわかるの」
「顔」
「もう怖い」
「なんか、恥ずかしそうで重そうな顔してる」
「当たってる」
七海はにやりと笑った。
「名前のない大事な人?」
凛は顔が熱くなる。
「……うん」
「いいタイトルじゃん」
「怖い」
「そりゃ怖いでしょ」
七海は軽く言いながら、凛の隣を歩いた。
「でも大事な章になりそう」
「うん。たぶん」
「真白さんのこと、どう書くの?」
凛は少し考えた。
「真白さんを説明するんじゃなくて」
「うん」
「真白さんと出会って、私の中で何が起きたのかを書く」
七海は真面目に頷いた。
「それがいいと思う」
「真白さんにもそう言われた」
「本人公認じゃん」
「そう言うと怖い」
「でもさ」
七海は少しだけ声を柔らかくした。
「凛ちゃんにとって真白さんが大事なのは、見てればわかるよ」
凛は何も言えなかった。
「でも、真白さんだけで凛ちゃんが変わったわけじゃないじゃん」
七海は続ける。
「青いノートも、灯ちゃんも、お母さんとのことも、キャリアセンターも、凛ちゃん自身が書き続けたこともある」
凛は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だから、真白さんを全部の理由にしなくていいと思う」
その言葉は、とても大事だった。
真白は大事な人。
でも、凛の変化のすべてを真白だけに預けてはいけない。
凛自身が書いた。
泣いた。
怖いまま送った。
青いノートへ戻った。
母へ返信した。
キャリアセンターへ行った。
それらは、凛自身の力でもある。
真白はその道に灯りを置いてくれた人。
でも、歩いたのは凛だった。
凛は講義中、ノートの端へ書いた。
『真白さんは、私を全部変えた人ではない。
でも、私が自分へ戻る道に、灯りを置いてくれた人。
歩いたのは私。
でも、その灯りがあったから、歩けた夜がある。』
この言葉を、章に入れたいと思った。
昼休み、凛は図書館へ行った。
パソコンを開き、朝書いた続きを書く。
『その人は、私を全部変えた人ではない。
私を救済するための人でもない。
私の人生の答えでもない。
けれど、その人は私が自分へ戻る道に、いくつもの灯りを置いてくれた。
青いノート。
急がなくていいという言葉。
怖いままでもいいという距離。
大事な人だという、静かな肯定。
歩いたのは私だ。
でも、その灯りがあったから、歩けた夜がある。』
打ち終えた時、凛の胸が震えた。
これなら書ける。
真白を神様のように書かない。
救いそのものにしない。
でも、真白が置いてくれた灯りは、ちゃんと書く。
それが、凛の本当だった。
凛は続けた。
『誰かを大事に思うことは、私にとって温かいだけの出来事ではなかった。
大事になればなるほど、失うことが怖くなる。
返信が遅いだけで不安になり、相手の過去に自分の知らない人がいるだけで胸がざわつく。
会いたいと言いたいのに、重いと思われるのが怖くて飲み込む。
私はそのたび、自分を責めそうになった。
でも、その人は私の不安を、すぐに悪いものとして扱わなかった。』
凛は一度手を止めた。
嫉妬のことを書くのは、まだ少し恥ずかしい。
佐倉美緒の名前を出すか迷う。
そのまま書く必要はない。
凛が書きたいのは、特定の誰かへの嫉妬ではなく、相手の知らない時間へ触れた時の怖さだ。
凛は少し表現を変えた。
『その人の昔を知る誰かが現れた時、私は胸の奥が黒くなるのを感じた。
自分の知らない時間があること。
自分より自然にその人の名前を呼ぶ人がいること。
その事実が、私を小さく不安にさせた。
私はそれを嫉妬と呼ぶのが怖かった。
でも、嫉妬は醜さだけではなく、大事に思う怖さが形を変えたものでもあるのだと、少しずつ知っていった。』
打ちながら、凛はあの日の胸のざわつきを思い出していた。
嫌な自分。
醜い自分。
そう思った。
でも、真白はそれを責めなかった。
七海も、人間じゃんと言ってくれた。
嫉妬は、持っただけでは罪ではない。
それをどう扱うかが大事なのだと、凛は学んだ。
作品の中にも、それを書きたい。
凛はさらに続けた。
『私は、人を大事に思うことに慣れていなかった。
誰かを必要とした瞬間、自分が弱くなる気がした。
会いたいと思うことは、相手に迷惑をかけることだと思った。
寂しいと思うことは、重い人間になることだと思った。
だから私は、誰かを大事にするたび、自分を責める準備をしていた。
けれど、その人との時間の中で、私は少しずつ知っていった。
大事に思うことは、相手を縛ることと同じではない。
寂しいと思うことは、誰かを傷つけることと同じではない。
名前がなくても、大事にしていい関係がある。』
そこまで書いて、凛は深く息を吐いた。
この章は、想像以上に胸に触れる。
母の章とは違う痛み。
働くことの章とも違う怖さ。
真白の章には、温かさと不安が混ざっている。
だからこそ、書くと心が揺れる。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
今日は、真白に会うのが少し恥ずかしかった。
朝から真白の章を書いていたから。
店の扉を開けると、いつものベルが鳴る。
真白はカウンターで豆を挽いていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「今日は、少し照れてる?」
凛は固まった。
「……わかりますか」
「なんとなく」
真白は少し笑った。
凛はいつもの席に座る。
ココアを待つ間、胸が落ち着かない。
真白が目の前にいる。
その人について、自分は今日ずっと書いていた。
でも、真白をそのまま見ていると、作品の中の言葉とは違う、生身の真白がいる。
カップを持つ手。
少し眠そうな目。
豆を挽く時の静かな仕草。
それを見て、凛は思う。
やっぱり、真白を物語の役割にしてはいけない。
真白はここにいる人だ。
凛の作品の中だけにいる人ではない。
真白がココアを置いた。
「少し書けた?」
凛はカップを両手で包み、小さく頷いた。
「書けました」
「見せたい?」
その聞き方に、凛はまた救われる。
見せて、ではない。
見せたい? と聞いてくれる。
凛は少し迷った。
「全部はまだ怖いです」
「うん」
「でも、一文だけなら」
凛は青いノートを開き、昼に書き写した文章を見せた。
『その人は、私を全部変えた人ではない。
私を救済するための人でもない。
私の人生の答えでもない。
けれど、その人は私が自分へ戻る道に、いくつもの灯りを置いてくれた。』
真白はその文章を、静かに読んだ。
少し長い沈黙。
凛の心臓が速くなる。
やがて真白は、ゆっくり顔を上げた。
「これ、すごくいい」
凛は息を止めた。
「俺をちゃんと人間にしてくれてる感じがする」
その言葉に、凛の目に涙が滲んだ。
「人間」
「うん」
真白は穏やかに続ける。
「救いの役割じゃなくて、人として書こうとしてくれてる」
凛は胸が熱くなった。
それが、凛が一番気をつけたかったことだった。
伝わった。
真白本人に。
「よかったです」
凛は小さく言った。
「真白さんを、都合のいい救いみたいに書きたくなかったんです」
「うん」
「でも、灯りを置いてくれたことは本当だから」
「うん」
「それは書きたくて」
真白は少しだけ目を細めた。
「書いてくれてありがとう」
その言葉で、凛は泣きそうになった。
ありがとう。
真白がそう言ってくれるとは思わなかった。
凛は自分の感情を書くことを、真白を巻き込むことだと思って怖がっていた。
でも真白は、それを受け取ってくれた。
もちろん、まだ全部を見せたわけではない。
これから書き進める中で、また怖くなるかもしれない。
それでも、この一文を受け取ってもらえたことは、凛にとって大きかった。
夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。
今日の章を少しだけ読み返す。
真白に見せた一文の下に、新しい文章を加えた。
『大事な人を書く時、私はその人を理想の形に閉じ込めないようにしたい。
その人を救いにしすぎないこと。
自分の不安も、嫉妬も、寂しさも、なかったことにしないこと。
そして、その人がその人のまま存在していることを忘れないこと。
誰かを大事に書くとは、綺麗に飾ることではなく、その人を役割に閉じ込めないことなのかもしれない。』
打ち終えると、凛は深く息を吐いた。
今日も少し進んだ。
怖かった。
恥ずかしかった。
でも、進めた。
青いノートを開き、最後に書く。
『名前のない大事な人の章を書き始めた。
真白さんを救いの人にしない。
でも、灯りを置いてくれた人として書く。
歩いたのは私。
でも、その灯りがあったから歩けた夜がある。』
書き終えると、凛はペンを置いた。
胸の奥はまだ少し熱い。
真白との関係に、まだ名前はない。
これから名前がつくのかもわからない。
でも、今の凛には少しだけわかっている。
名前がなくても、大事なものは大事にしていい。
そして、大事な人を書く時は、その人を所有するのではなく、出会ったことで自分の中に生まれた変化を書く。
それが、今の凛にできる誠実さなのかもしれなかった。
窓の外では、冬の夜が静かに深まっている。
凛はパソコンを閉じ、青いノートをそっと重ねた。
今日は、名前のない大事な人を少しだけ書けた。
そのことが、怖いくらい嬉しかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が「名前のない大事な人」の章を書き始めるページでした。
真白をどう書けばいいのか。
救いの人にしすぎず、でも救われた時間はなかったことにしない。
その線引きに、凛は悩みます。
凛が見つけた答えは、真白本人を説明するのではなく、真白と出会って自分の中に何が起きたのかを書くことでした。
大事な人を書くとは、綺麗に飾ることではない。
その人を役割に閉じ込めず、人として大事に書くこと。
凛は少しずつ、その誠実さを学び始めています。
次のページでは、真白の章を書いたことで凛の中にまた「会いたい」という気持ちが強くなり、その感情をどう扱えばいいのか迷い始めます。




