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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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125/150

第125ページ  作品が、私の手を離れ始める

七海に「働くことが怖い章」を読んでもらった凛は、自分の言葉が誰かの中にある怖さにも触れることを知った。

自分だけの痛みだと思っていたものが、誰かの痛みにも名前を渡す。


それは嬉しいことだった。

けれど同時に、少し怖いことでもあった。


今回は、凛が「作品は自分だけのものではなくなっていく」という喜びと怖さに向き合うページです。

朝、凛は昨日の七海からのメッセージを何度も読み返していた。


『凛ちゃん、これ、めちゃくちゃ大事な章だと思う』


『私も読んでて助かった』


 その文字を読むたび、胸の奥がじんわり温かくなる。


 七海に読んでもらってよかった。


 怖かったけれど、送ってよかった。


 働くことが怖い。


 未来が怖い。


 自分を失う働き方が怖い。


 そんな気持ちを言葉にした章は、凛にとって自分の弱さを差し出すようなものだった。


 けれど七海は、それを弱さとして笑わなかった。


 むしろ、自分の怖さも少しだけ見せてくれた。


 七海も怖かった。


 明るく笑いながら、軽い言葉で凛を支えてくれる七海も、未来の前で震えていた。


 そのことを知った時、凛は少し泣きそうになった。


 自分だけではなかった。


 凛だけが立ち止まっているわけではなかった。


 みんなそれぞれ、見えない場所で怖さを抱えている。


 ただ、その隠し方が違うだけ。


 凛は大丈夫と言って隠す。


 七海は笑って軽くする。


 灯は「わかる」と短く返しながら、夜の中で自分を保っている。


 真白は穏やかに聞いてくれるけれど、きっと真白にも、まだ語っていない傷がある。


 そう思うと、世界が少し違って見えた。


 凛は青いノートを開き、ペンを持った。


『作品を誰かに渡すと、私の言葉は私だけのものではなくなる。

灯ちゃんが読めば、灯ちゃんの夜と繋がる。

七海ちゃんが読めば、七海ちゃんの怖さと繋がる。

私の言葉なのに、読んだ人の中で別の意味を持ち始める。

それが嬉しい。

でも、少し怖い。』


 書き終えると、凛はペン先を見つめた。


 作品が、自分の手を離れ始めている。


 まだ完成していない。


 まだ一部しか見せていない。


 それなのに、凛の言葉はもう、灯や七海の中で別の温度を持ち始めていた。


 それは不思議な感覚だった。


 自分の中で泣きながら書いた言葉が、誰かに届いた瞬間、その人の記憶や痛みと混ざっていく。


 凛が意図した通りに読まれるとは限らない。


 凛が思っていた以上に深く届くこともあれば、違う受け止め方をされることもあるかもしれない。


 そう考えると、少し怖かった。


 自分の言葉が、自分の管理できない場所へ行く。


 誰かの心の中で、凛の知らない形になる。


 嬉しい。


 でも怖い。


 凛は続けて書いた。


『私は、作品を全部自分の手の中に置いておきたいのかもしれない。

傷つかないように。

誤解されないように。

大事に扱ってもらえるように。

でも、誰かへ届けたいなら、少しずつ手を離す必要があるのかもしれない。』


 その一文を書いた時、胸の奥が少し痛んだ。


 手を離す。


 凛はそれが苦手だった。


 人間関係でもそうだ。


 相手がどう受け取るか、どう思うか、どう反応するかを想像しすぎて、自分の言葉を出せなくなる。


 母へも、真白へも、七海へも、灯へも。


 言葉を渡す前に、相手の反応を何度も想像して、怖くなって、飲み込んでしまうことが多かった。


 でも最近、凛は少しずつ渡している。


 怖いまま。


 震えながら。


 青いノートに戻りながら。


 それでも渡している。


 灯へ作品の一部を送った。


 七海へ働くことの章を送った。


 真白へ過去の自分への手紙を見せた。


 そのたびに、凛の言葉は少しずつ凛の手を離れた。


 そして、誰かの言葉を連れて戻ってきた。


 凛はパソコンを開いた。


 作品ファイルを開き、『働くことが怖かった』の章を読み返す。


 昨日、七海の感想を受けて書き足した文章がある。


『怖さの隠し方が違うだけで、私たちはそれぞれ未来の前で震えているのかもしれない。』


 凛はその一文を見て、少しだけ胸が熱くなった。


 これは、七海に読んでもらわなければ生まれなかった文章だった。


 凛一人で書いていたら、きっと自分の怖さだけで終わっていた。


 でも七海が自分の怖さを返してくれたから、この章は少し広がった。


 自分だけの章から、誰かも入れる章になった。


 それは嬉しい。


 でも、作品が少しずつ自分以外の声を含み始めることでもある。


 凛はパソコンへ新しい段落を打ち込んだ。


『作品は、自分だけで作っているようで、少しずつ誰かの声を含んでいく。

灯ちゃんの「わかる」。

七海ちゃんの「私も怖い」。

真白さんの「自分の言葉を最後まで連れていく」。

その言葉たちが、私の文章の奥に静かに混ざっている。

だからこの作品は、私一人の痛みから始まったけれど、私一人だけのものではなくなり始めているのかもしれない。』


 打ち終えると、胸が震えた。


 私一人だけのものではなくなり始めている。


 それは、少し怖い言葉だった。


 でも、同時に温かかった。


 凛はずっと一人で抱えてきた。


 普通になれない苦しさ。


 母との傷。


 働くことへの怖さ。


 誰かを大事に思う不安。


 書くことへの願い。


 それらを全部、自分の中だけに閉じ込めていた。


 でも今、その痛みは少しずつ、誰かとの間に置かれている。


 灯と。


 七海と。


 真白と。


 まだ見ぬ読者と。


 自分だけの暗い部屋にあったものが、少しずつ共有できる言葉になっていく。


 凛はスマートフォンを手に取った。


 七海へメッセージを送る。


『昨日読んでもらった章、七海ちゃんの言葉を受けて少し書き足した』


 すぐに既読がついた。


『おお、私参加してる?』


 凛は少し笑った。


『してるかも』


『やった。出演料はプリンで』


 凛は吹き出した。


 重くなりかけた心が、七海の言葉で少し軽くなる。


『でも本当に、七海ちゃんが話してくれたから書けたところがある』


 送ると、少し間があった。


 七海から返事が来る。


『そっか』


『じゃあ私も役に立ったね』


『すごく』


 凛はすぐに返した。


 七海から、照れ隠しのようなスタンプが送られてきた。


 凛はそのスタンプを見ながら、少しだけ笑った。


 誰かの言葉が作品へ入る。


 それは、誰かを利用することとは違う。


 相手をそのまま書くのではなく、相手と関わったことで自分の中に生まれた気づきを書く。


 凛は少しずつ、その違いを覚えている。


 真白の言葉を思い出す。


 “凛ちゃんから見えた俺”を書くなら、それは凛ちゃんの言葉なんだと思う。


 七海のことも同じだ。


 七海そのものを書くのではない。


 七海と話して、凛が何を感じたかを書く。


 七海の怖さに触れて、凛の作品がどう変わったかを書く。


 それは凛の言葉だった。


 大学へ向かう電車の中、凛は青いノートを読み返した。


『誰かへ届けたいなら、少しずつ手を離す必要があるのかもしれない。』


 その一文が、胸に残る。


 作品だけではない。


 人との関係も、そうなのかもしれない。


 真白への気持ちも、凛は全部自分の中で管理しようとしていた。


 好きなのか。


 依存なのか。


 安心なのか。


 名前をつけようとして、怖くなって、嫉妬して、また責めそうになった。


 でも真白は、名前がないまま大事にしてもいいと言ってくれた。


 それも、凛にとっては少し手を離すことだった。


 関係を急いで決めつけず、相手の気持ちも、自分の気持ちも、時間の中で変わるものとして置いておく。


 完全に管理しようとしない。


 それは怖い。


 でも、少し自由でもある。


 大学に着くと、七海がいつもの場所で待っていた。


「出演者です」


 開口一番にそう言われて、凛は笑ってしまった。


「出演料プリンなんでしょ」


「うん。高級プリンね」


「高級なんだ」


「当然」


 二人は笑いながら教室へ向かった。


 その途中で、七海が少しだけ真面目な声になった。


「でもさ、昨日の章、本当に読めてよかった」


 凛は七海を見る。


「怖いって言葉にすると、少し怖さが小さくなるんだね」


 凛は静かに頷いた。


「私もそう思う」


「今まで私、怖いって言う前に笑って流してたから」


「うん」


「笑うのはやめないと思うけど」


「うん」


「でも、怖いって言ってもいいのかもって、少し思った」


 その言葉に、凛の胸が温かくなった。


 七海が、自分の怖さを少し許している。


 それは、凛の文章が七海の中で何かを動かしたということなのかもしれない。


 凛は小さく言った。


「七海ちゃんがそう思ってくれたなら、書いてよかった」


 七海は少し照れくさそうに笑った。


「凛ちゃん、だんだん本当に作家っぽくなってきたね」


「それはまだ怖い」


「じゃあ、作家見習い」


「見習いなら少し」


「作家見習い凛ちゃん」


 凛は笑いながら、でも胸の奥が少し熱くなるのを感じていた。


 作家。


 その言葉はまだ大きすぎる。


 でも、見習いなら。


 言葉を探して、書いて、誰かへ渡して、また戻ってくる。


 その練習をしている人なら、今の凛にも少し近いかもしれない。


 昼休み、凛は図書館へ行った。


 作品の全体を見直したかった。


 自分だけのものではなくなり始めている。


 その感覚を、作品のどこかに書きたかった。


 けれど、書き方を間違えると、まるで読者のためだけに書いているようになってしまう気もした。


 凛は、そこを間違えたくなかった。


 作品は、まず自分を置き去りにしないためにある。


 でも、その先で誰かへ届くこともある。


 自分のためか、誰かのためか。


 その二つを、どちらか一つに決めなくてもいいのかもしれない。


 凛はパソコンへ向かい、新しい文章を書いた。


『この作品は、最初は私のために始まった。

自分を責める以外の方法を探すため。

過去の私を迎えに行くため。

母を理解しようとしながら、自分の傷を消さないため。

働くことへの怖さを、ただの甘えとして捨てないため。

けれど、少しずつ誰かへ渡していくうちに、この作品は私だけのものではなくなり始めた。』


 凛は続けた。


『誰かへ届いた言葉は、その人の中で別の温度を持つ。

灯ちゃんの夜。

七海ちゃんの未来への怖さ。

真白さんの静かな傷。

私の言葉は、私の手を離れた先で、私の知らない何かと繋がっていく。

それは怖い。

でも、それが作品になるということなのかもしれない。』


 書いた後、少しだけ震えた。


 作品になるということ。


 その言葉を、自分の文章に使った。


 以前なら、絶対に書けなかった。


 作品なんて呼んでいいのか。


 自分の痛みを作品にするなんて、大げさではないか。


 そう思っていた。


 でも今は少しだけ思う。


 これは作品になり始めている。


 少なくとも、凛にとっては。


 自分の痛みを、誰かへ渡せる形に整えようとしている。


 それは、作品と呼んでもいいのかもしれない。


 放課後、灯からメッセージが来た。


『七海ちゃんにも読んでもらったんだね』


 凛は少し驚いた。


『七海ちゃんから聞いた?』


『うん。すごいよかったって言ってた』


 凛は少し恥ずかしくなる。


『怖かったけど、読んでもらってよかった』


 灯からすぐ返事が来る。


『凛ちゃんの作品、ちゃんと広がってるね』


 その言葉に、凛は息を止めた。


 広がっている。


 まさに今日、凛が感じていたことだった。


『広がるの、少し怖い』


 凛は正直に送った。


『わかる』


『でも、広がった先で戻ってくるものもあるじゃん』


『七海ちゃんの本音とか』


 凛は画面を見つめた。


 広がった先で戻ってくるもの。


 そうだ。


 作品を渡すと、自分の手を離れる。


 それは怖い。


 でも、戻ってくるものもある。


 灯の感想。


 七海の本音。


 真白の言葉。


 それらが、凛の作品を少しずつ育てている。


 凛は返信した。


『戻ってくるものがあるから、また書けるのかもしれない』


 灯から返事が来る。


『それ、作品に入れな』


 凛は笑った。


『入れる』


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店内は静かで、窓の外には薄い夕暮れが残っていた。


 真白はカウンターで、いつものようにグラスを拭いている。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


 凛が席に座ると、真白はココアを作りながら言った。


「今日は、作品が少し遠くまで行った顔」


 凛は目を丸くした。


「本当に何でもわかるんですね」


「当たった?」


「当たりました」


 凛は笑って、今日感じたことを話した。


 七海に読んでもらったことで章が広がったこと。


 作品が少しずつ自分だけのものではなくなっている気がすること。


 嬉しいけれど怖いこと。


 灯に「広がった先で戻ってくるものもある」と言われたこと。


 真白は静かに聞いていた。


 そして、ココアを凛の前へ置きながら言った。


「作品って、手紙に似てるのかもしれないね」


「手紙?」


「うん」


 真白はカウンター越しに、少し遠くを見るように言った。


「書いている時は、自分の言葉だけど、出した瞬間に相手のものにもなる」


 凛は黙って聞いていた。


「相手がどう読むかは、完全には決められない」


「はい」


「でも、返事が来ることもある」


 その言葉に、凛の胸がじんわり温かくなる。


 作品は手紙に似ている。


 出した瞬間に、相手のものにもなる。


 それは怖い。


 でも、手紙だからこそ返事が来る。


 凛は青いノートを開き、その言葉を書き留めた。


『作品は手紙に似ている。

書いている時は私の言葉。

でも渡した瞬間、相手のものにもなる。

どう読まれるかは決められない。

でも、返事が来ることもある。』


 真白はそれを見て、静かに笑った。


「凛ちゃん、今、本当に作品を書いてる人の顔してる」


 凛は少し照れた。


「七海ちゃんにも作家見習いって言われました」


「いいね」


「作家は怖いけど、見習いなら少し受け取れます」


「じゃあ、見習いで」


 真白の声が優しくて、凛は少しだけ笑った。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 今日の最後に、作品へ文章を書き足す。


『作品は手紙に似ている。

書いている時は、私の言葉だ。

けれど誰かへ渡した瞬間、その言葉は相手の記憶や痛みや夜と混ざり、私の知らない温度を持ち始める。

それは怖い。

でも、返事が来ることもある。

「わかる」という短い声。

「私も怖い」という告白。

「ここがよかった」という温かい印。

その返事が、私の作品を少しずつ育てていく。』


 凛は続けて打った。


『だから私は、作品を完全に自分の手の中へ閉じ込めておくことはできないのだと思う。

もちろん、すぐに大きく広げなくていい。

まだ怖い。

まだ守りたい。

でも、信頼できる人へ少しずつ渡していくことで、この作品は呼吸を覚えていく。

私一人の痛みから始まった言葉が、誰かと繋がる言葉になっていく。

その怖さと嬉しさを、私はこれからも書いていきたい。』


 打ち終えた時、凛は深く息を吐いた。


 胸の奥に、小さな熱がある。


 作品が広がっていく。


 怖い。


 でも、少し嬉しい。


 凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。


『作品が、私の手を離れ始めている。

怖い。

でも、返事が来る。

誰かの本音が戻ってくる。

そのたびに、作品も私も、少しずつ育っている気がする。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。


 この作品は、まだ完成していない。


 でも、もう呼吸を始めている。


 灯の夜へ。


 七海の未来への怖さへ。


 真白の静かな言葉へ。


 そして、まだ見ぬ誰かの心へ。


 いつか届くかもしれない。


 凛はその可能性を、怖いまま、少しだけ信じてみたいと思った。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が「作品は自分だけのものではなくなっていく」という喜びと怖さに向き合うページでした。


灯に渡した言葉。

七海に渡した章。

真白からもらった言葉。


それらが混ざり、凛の作品は少しずつ呼吸を始めます。


作品は手紙に似ている。

書いている時は自分の言葉でも、渡した瞬間、相手のものにもなる。

どう読まれるかは決められない。

でも、返事が来ることもある。


凛はその怖さと嬉しさを知りながら、少しずつ作品を外の世界へ渡す練習を始めています。


次のページでは、作品が広がる喜びを感じた凛が、同時に「もっと良くしなきゃ」という焦りに襲われ、再び書くこととの距離を見直していきます。

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