第113ページ 未来を書くのが、いちばん怖かった
凛は、書き続けるために「書かない日」を選んだ。
それは怠けではなく、自分を守るための選択だった。
灯に届いた喜びも、期待される怖さも、どちらも抱えたまま、凛は少しずつ“書くこととの距離”を学び始めている。
今回は、休むことを選んだ翌日、凛が再び作品へ向かい、自分の未来について書き始めるページです。
働くこと、書くこと、真白との関係、母との距離。
まだ何も決まっていない未来を前に、凛は初めて「怖いけれど、生きてみたい」と言葉にしていきます。
翌朝、凛はいつもより深く眠れた気がした。
目覚ましの音で目を開けた時、身体の重さは残っていたけれど、頭の中のざわめきは少しだけ静かだった。
昨日、凛は作品を書かなかった。
パソコンを開かなかった。
続きを進めなかった。
灯に作品を読んでもらい、「ちゃんと作品だよ」と言ってもらえたあと、すぐに次を書こうとしていた自分を止めた。
それは簡単なことではなかった。
書かないと、せっかく生まれた流れが消えてしまう気がした。
灯にがっかりされる気がした。
自分の中の熱が冷めてしまう気がした。
でも、凛は青いノートだけを書いた。
期待に追われて書くのではなく、自分の呼吸を整える日を選んだ。
書き続けるために、書かない日を作る。
その選択は、まだ少し怖い。
でも朝になって、凛は思った。
昨日、無理に書かなくてよかったのかもしれない。
無理をして書いていたら、たぶん凛はまた“ちゃんとしなきゃ”の中へ戻っていた。
灯に良いと思われる文章。
真白に褒めてもらえる文章。
七海に読ませても恥ずかしくない文章。
そんなふうに、誰かの目ばかりを考えて、自分の言葉から離れていたかもしれない。
凛は布団から出て、机の前へ座った。
青いノートを開く。
昨日の最後に書いた言葉が目に入る。
『書かない日も、作品を捨てた日ではない。
書き続けるために休む日もある。』
凛はその一文を指先でなぞった。
少しだけ、自分に優しい言葉だと思った。
昔の凛なら、休むことをこんなふうに書けなかった。
休む日は、遅れる日だった。
怠ける日だった。
誰かに置いていかれる日だった。
でも今は少し違う。
休むことは、壊れないための選択でもある。
作品を続けるため。
働き方を探すため。
人との関係を大事にするため。
自分を見失わないため。
休むことにも、意味がある。
凛は深呼吸し、パソコンを開いた。
画面にファイル名が表示される。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
凛は少しだけ緊張した。
一日休んだだけなのに、作品へ戻るのが怖い。
昨日の自分と今日の自分が、同じ熱で書けるとは限らない。
昨日できたことが、今日もできるとは限らない。
でも、それでいい。
凛は自分にそう言い聞かせた。
書ける分だけ書けばいい。
今日の自分の言葉で書けばいい。
昨日の続きを、昨日と同じ自分で書こうとしなくていい。
凛は文書ファイルを開いた。
前回書いた章の終わりに、灯へ作品を渡した日のことが書いてある。
『怖いままでも、渡せた。
それだけで今日は、少しだけ私の言葉を信じられた。』
その文章を読み返すと、胸の奥がじんわり温かくなる。
灯に届いた。
それはもう、なかったことにはならない。
凛が怖いまま渡した言葉を、灯は受け取ってくれた。
その記憶は、これから凛が書けなくなる日にも、きっと小さな支えになる。
凛はカーソルを次の行へ移動させた。
今日は何を書くべきだろう。
母とのこと。
小さな凛のこと。
灯へ渡したこと。
期待への怖さ。
いろいろ書いてきた。
でも、ふと凛は思った。
未来のことを、まだちゃんと書いていない。
働くことが怖い未来。
書くことを続けたい未来。
真白とどうなるかわからない未来。
母との距離がまだ曖昧な未来。
何も確定していない。
だからこそ、怖くて書けなかったのかもしれない。
過去を書くのも苦しい。
でも、未来を書くのはまた別の怖さがあった。
過去はもう起きたことだ。
傷ついたことも、寂しかったことも、変えることはできない。
でも未来は、まだ決まっていない。
決まっていないからこそ、希望を書いてしまうのが怖い。
期待して、叶わなかった時が怖い。
生きてみたいと思って、また壊れた時が怖い。
凛はキーボードに指を置いたまま、しばらく動けなかった。
未来。
その言葉だけで、胸がざわざわする。
就職できるのだろうか。
働き続けられるのだろうか。
文章を書くことを続けられるのだろうか。
真白との関係はどうなるのだろうか。
母と、いつかもう少し楽に話せる日が来るのだろうか。
それともまた、どこかで全部苦しくなって、自分を責める日々へ戻ってしまうのだろうか。
わからない。
何もわからない。
だから怖い。
凛は青いノートを開き、先にノートへ書くことにした。
『未来を書くのが怖い。
過去は痛いけれど、もう起きたことだから書ける。
でも未来は、期待が混ざる。
期待すると、叶わなかった時に傷つく。
だから私は、未来を考える前に諦める癖がある。』
書いた瞬間、胸が少し痛んだ。
未来を考える前に諦める。
それは、凛がずっとしてきたことだった。
どうせ普通には働けない。
どうせ誰かと深く関われない。
どうせ書くことを仕事になんてできない。
どうせ母とはわかり合えない。
どうせ自分は変われない。
そうやって、期待する前に諦めておけば、傷は浅く済む気がした。
でも本当は、諦めても傷ついていた。
期待しないようにしても、寂しさは消えなかった。
欲しがらないようにしても、安心したい気持ちはなくならなかった。
未来を諦めたふりをしても、本当はどこかで未来がほしかった。
凛はペンを握り直し、続けて書いた。
『本当は、少しだけ未来がほしい。
壊れない働き方を見つけたい。
書き続けたい。
大事な人と、急がず関係を育てたい。
母との距離も、私が苦しくない形で探したい。
怖いけれど、全部を諦めたいわけじゃない。』
書き終えた時、凛は小さく息を止めた。
全部を諦めたいわけじゃない。
その言葉は、凛の中から自然に出てきた。
少し前の凛なら、そんなふうに言えなかったかもしれない。
未来は怖い。
社会も怖い。
人間関係も怖い。
でも、それでも全部を捨てたいわけではない。
むしろ最近は、捨てたくないものが増えた。
青いノート。
真白との時間。
七海の軽い言葉。
灯の「わかる」。
母から届く、不器用だけれど少し変わり始めたメッセージ。
そして、自分の作品。
それらがあるから、凛は少しずつ未来を考え始めている。
怖いけれど。
凛はパソコンへ向き直った。
そして、ゆっくり打ち始めた。
『未来のことを書くのが、いちばん怖かった。
過去の痛みなら、泣きながらでも言葉にできる。
でも未来には、まだ叶っていない願いが混ざる。
願いを書くことは、傷つく準備をすることのようで怖かった。』
打ちながら、凛の胸は静かに震えていた。
でも手は止まらない。
『それでも私は、少しだけ未来がほしい。
普通に働ける自信はまだない。
誰かとずっと一緒にいられる自信もない。
文章を書き続けられる保証もない。
母をいつか許せるかどうかもわからない。
でも、壊れない働き方を探したい。
書くことをやめたくない。
大事な人を、大事なまま持っていたい。
母との距離も、自分を置き去りにしない形で探していきたい。』
凛はそこで手を止めた。
胸が熱い。
少し怖い。
でも、嫌な怖さだけではなかった。
自分が未来へ手を伸ばしている感覚があった。
不確かで、頼りなくて、すぐ折れてしまいそうな手。
でも確かに、伸ばしている。
その時、スマートフォンが震えた。
真白からだった。
『今日は書いてる?』
凛は少し笑った。
まるで見られているみたいなタイミングだった。
『書いてます』
『未来のことを書こうとしてます』
既読。
『おお』
『それは怖そう』
凛はその返事に、思わず笑ってしまった。
真白はいつも、凛の怖さを軽く扱わない。
未来を書くなんて前向きでいいね、と簡単には言わない。
怖そう、と言ってくれる。
それだけで、凛は少し安心する。
『怖いです』
『期待したら傷つきそうで』
送ると、真白からすぐ返事が来た。
『期待って、傷つく可能性もあるけど、生きる方向へ身体を向ける力でもあると思う』
凛はその一文をじっと見つめた。
期待は、傷つく可能性。
でも、生きる方向へ身体を向ける力。
その言葉が、胸の中で静かに広がる。
凛は今まで、期待を危険なものだと思っていた。
期待すると、裏切られる。
期待すると、失った時に苦しい。
期待すると、自分が壊れる。
でも、期待があるから、人は未来へ少しだけ身体を向けられるのかもしれない。
真白へ会いたい。
作品を書き続けたい。
壊れない働き方を探したい。
そう思うことは、怖い。
でも、その怖さの中に、凛の“生きたい側”がいる。
『期待するのが怖いです』
凛は送った。
『うん』
『怖いままでいいと思う』
『大きな期待じゃなくて、小さい期待からでいいんじゃない?』
凛は首を傾げる。
『小さい期待?』
『今日少し書けたらいいな、とか』
『明日ココア飲めたらいいな、とか』
『来週、相談会の紙を少し見返せたらいいな、とか』
『そういうやつ』
凛は画面を見つめながら、胸の奥がゆっくり温かくなるのを感じた。
小さい期待。
未来と聞くと、凛はいつも大きなものを想像していた。
就職。
自立。
恋愛。
家族との和解。
夢。
人生。
それら全部を一度に考えるから、怖くなる。
でも未来は、もっと小さいものからできているのかもしれない。
今日、少し書く。
明日、温かいものを飲む。
来週、相談会の紙を見る。
怖くなったら青いノートを開く。
真白に会えたら少し話す。
灯に無理せず返事をする。
七海と笑う。
そういう小さな期待を積み重ねた先に、少し遠い未来があるのかもしれない。
凛は青いノートへ、真白の言葉を書き写した。
『未来は、大きな期待だけでできているわけじゃない。
小さな期待から始めていい。
今日少し書けたらいい。
明日温かいものを飲めたらいい。
来週、自分に合う働き方の紙を見返せたらいい。
そのくらいの未来なら、少し信じられるかもしれない。』
書き終えると、凛は深く息を吐いた。
未来が少しだけ小さくなった。
巨大な壁ではなく、小さな段差のように見えた。
それなら、今日の凛にも一歩だけ進めるかもしれない。
大学へ向かう時間になり、凛はパソコンを保存して閉じた。
まだ書き足りない気もした。
でも、今日はこれ以上無理しない。
朝から未来のことを書いた。
それだけで十分だった。
大学へ向かう電車の中、凛はスマートフォンのメモに今日の予定を書いた。
『講義に出る。
昼は七海ちゃんと食べる。
帰りに相談会でもらった紙を少し見返す。
夜、書けそうなら少しだけ書く。
書けなかったら青いノートだけでいい。』
こうして書くと、今日一日が少しだけ見える形になる。
以前の凛は、予定を立てることも苦手だった。
予定を立てると、それを守れなかった時に自分を責めるから。
でも今は、少し違う。
守るための予定ではなく、自分を助けるための目印として書いてみる。
できなかったら終わりではない。
できたら少し嬉しい。
そのくらいの軽さで持てるようになりたい。
大学に着くと、七海がすぐに声をかけてきた。
「今日、顔ちょっと前向き?」
「前向きっていうか、未来のこと書いてた」
「おお。でかいテーマ」
「でかすぎて怖かった」
「だよね」
二人は教室へ向かいながら話した。
凛は真白に言われた“小さい期待”の話をした。
七海はうんうんと頷きながら聞いていた。
「それいいね」
「小さい期待?」
「うん。私も大きい未来考えると死ぬけど、今日帰りにコンビニでプリン買うくらいなら信じられる」
凛は笑った。
「プリン」
「大事でしょ、プリン」
「大事かも」
七海は真面目な顔で言った。
「未来って、就職とか結婚とか夢とか、そういうでかいものだけじゃないよね」
凛は静かに頷いた。
本当にそうだと思った。
未来は、もっと小さくていい。
明日の朝、起きること。
誰かにおはようと言うこと。
温かいものを飲むこと。
一行だけ書くこと。
苦しくなったら休むこと。
そういう小さなことを、未来と呼んでもいいのかもしれない。
昼休み、凛は七海と学食でうどんを食べた。
七海は宣言通り、帰りにプリンを買う話をしていた。
凛はその話を聞きながら、少しだけ心が軽くなる。
未来の話をしているのに、怖くない。
プリンの未来。
ココアの未来。
一行書く未来。
そんな小さな未来なら、凛も持てる気がした。
講義が終わったあと、凛は図書館へ寄った。
相談会でもらった紙をバッグから取り出す。
『得意なこと』
『苦手なこと』
『安心しやすい環境』
『不安になりやすい環境』
項目を見ただけで、少し緊張する。
でも今日は、全部埋めようとしないことにした。
一つだけ書ければいい。
凛はシャーペンを持ち、『安心しやすい環境』の欄へ書いた。
『静か。人が多すぎない。急かされすぎない。自分のペースで考える時間がある。言葉を丁寧に扱える。』
そこまで書いて、少し手が止まる。
自分の安心しやすい環境を言葉にすることは、少し嬉しかった。
今までは、苦手なことばかり見ていた。
できないこと。
無理なこと。
怖いこと。
でも、自分が少し呼吸しやすい場所も、ちゃんとある。
静かな場所。
青いノート。
カフェのカウンター。
図書館の隅。
七海と罪悪感を半分にした喫茶店。
灯とメッセージを交わす夜。
そういう場所や時間を集めていけば、自分に合う未来の形が少し見えてくるのかもしれない。
凛はもう一つ、『苦手なこと』の欄へ書いた。
『大きな声が飛び交う場所。常に人の顔色を見なければいけない場所。失敗をすぐ責められる空気。休みにくい雰囲気。』
これも大事な情報だった。
自分を責めるためではなく、自分を守るための情報。
凛は紙を見つめながら、小さく思った。
自分を知ることは、弱さを数えることではないのかもしれない。
壊れないための地図を作ることなのかもしれない。
夜、凛は『cafe 月灯り』へ寄った。
真白はカウンターで本を読んでいた。
店内は静かで、雨が降り始めたのか、窓の外が少し濡れている。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「今日は書けた?」
「朝、少しだけ」
「未来のこと?」
「はい」
凛はいつもの席へ座り、真白が出してくれたココアを両手で包んだ。
「未来って、大きく考えると怖いけど」
「うん」
「小さい期待なら、少し持てる気がしました」
真白は穏やかに笑った。
「どんな期待?」
「今日、少し書けたらいいなとか」
「うん」
「帰りに温かいもの飲めたらいいなとか」
「うん」
「七海ちゃんはプリンって言ってました」
真白が少し笑った。
「七海ちゃんらしいね」
「はい」
凛も少し笑う。
その笑いの中に、以前より少し自然な温度があった。
凛は続けた。
「あと、相談会でもらった紙を少し書きました」
「おお」
「安心しやすい環境と、苦手な環境」
「どうだった?」
「怖かったけど、少し地図みたいだと思いました」
「地図?」
「はい。自分を責めるためじゃなくて、壊れないための地図」
真白はその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「いい言葉だね」
凛は少し照れた。
「作品に書けそう」
「うん。書いた方がいいと思う」
その言葉に、凛の胸が少し温かくなる。
作品へ入れたい言葉が、また一つ増えた。
壊れないための地図。
凛は青いノートを開き、その場で書き留めた。
真白はそれを見ながら、何も急かさずにいてくれた。
夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。
朝書いた未来の章へ、今日の出来事を足す。
『未来を考えることは、私にとってずっと怖かった。
けれど未来は、就職や夢や人生の大きな答えだけでできているわけではない。
今日少し書くこと。
明日温かいものを飲むこと。
苦しくなった時、青いノートへ戻ること。
自分が安心しやすい環境を知ること。
そういう小さな未来を、私は少しずつ集めていきたい。』
凛は続けて打った。
『自分を知ることは、弱さを数えることではない。
私が壊れないための地図を作ることだ。
苦手な場所を知ること。
安心できる場所を知ること。
疲れた時に休む方法を知ること。
それは、普通から逃げることではなく、私が私のまま生きていくための準備なのだと思う。』
打ち終えた時、凛の胸には静かな熱があった。
未来はまだ怖い。
何も決まっていない。
働き方も、作品の行方も、真白との関係も、母との距離も。
でも、今日の凛は思う。
全部を今すぐ決めなくていい。
大きな未来を一気に信じられなくてもいい。
小さい期待を、一つずつ持てばいい。
明日、少しだけ起きる。
少しだけ食べる。
少しだけ書く。
少しだけ誰かと話す。
その積み重ねが、いつか凛の未来になるのかもしれない。
凛は青いノートを開き、最後に一文を書いた。
『怖いけれど、生きてみたい。
大きな未来はまだ信じられない。
でも、小さな明日なら、少しだけ信じてみたい。』
書いた瞬間、涙が滲んだ。
生きてみたい。
その言葉を、自分が書ける日が来るとは思っていなかった。
強い決意ではない。
明るい希望でもない。
まだ震えている。
まだ頼りない。
でも、それは確かに凛の中から出てきた言葉だった。
凛はノートを閉じ、デスクライトを消した。
部屋が暗くなる。
窓の外では、雨が静かに降っている。
明日が怖い日は、これからもある。
未来を信じられなくなる日も、きっとある。
でも今日、凛は小さく書いた。
怖いけれど、生きてみたい。
その一文だけで、今夜は少しだけ眠れる気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が初めて「未来」について書くページでした。
過去を書くことも苦しいけれど、未来を書くことにはまた別の怖さがあります。
期待して、叶わなかったら傷つく。
だから凛は、未来を考える前に諦める癖を持っていました。
けれど今回、凛は気づきます。
未来は、大きな夢や就職や人生の答えだけでできているわけではない。
今日少し書くこと。
明日温かいものを飲むこと。
自分が壊れないための地図を作ること。
そんな小さな期待も、未来と呼んでいいのかもしれない。
「怖いけれど、生きてみたい」
凛がこの言葉を書けたことは、とても大きな一歩でした。
次のページでは、この小さな未来への願いを胸に、凛が作品の章立てを整理し、本格的に“ひとつの本”として形にし始めていきます。




