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60話 下鴨神社


 しばらく、私たちは何も話さなかった。

鴨川の流れる音だけが、静かに続いている。

雪は川の向こうを見たまま、小さく息を吐いた。


 「少し歩こっか」


 私は黙って頷く。

二人で鴨川デルタを後にした。

夜の京都は、人通りが少なくなっていた。

街灯に照らされた道を、雪はゆっくり歩く。

私は半歩ほど後ろをついていく。

近くにいるはずなのに、どこか距離を感じた。


 しばらく歩いたところで、私は口を開く。


 「どこへ向かうんですか」


 「下鴨神社」


 それだけだった。

私はそれ以上聞かなかった。


 静かな道が続く。

やがて大きな鳥居が見えてきた。

夜の神社は、人影もまばらだった。

雪は鳥居の前で立ち止まり、一度だけ見上げる。


 「昔も来たんだ」


 私は雪を見る。


 「私とですか」


 「うん」


 迷いのない返事だった。

私は首を横に振る。


 「覚えていません」


 「そうだよね」


 雪はそれ以上、否定もしなかった。

二人で鳥居をくぐる。

境内は静かだった。


 足音だけが砂利に響く。

私は前を歩く雪の背中を見つめる。


 「どうして、私なんですか」


 雪は歩みを止めなかった。


 「他の人じゃ駄目だったんですか」


 少し間が空く。


 「駄目だった」


 短い返事だった。


 「あなたじゃないと意味がない」


 私は言葉を探す。


 「だから、その理由を聞いてるんです」


 雪は少しだけ笑った。


 「ちゃんと話すよ」


 そう言って振り返る。


 「でも、一度に全部話したら、たぶん信じてもらえない」


 私は否定できなかった。


 未来から来た自分でさえ、いまだに現実味を持てずにいる。

雪の話を、すぐに受け入れられる自信はなかった。


 再び歩き始める。


 木々に囲まれた参道へ入ると、街の音が遠くなった。

空気まで変わったような気がする。

雪は前を向いたまま、小さく言う。


 「私ね」


 私は顔を上げる。


 「あなたと、長い時間を過ごした」


 その一言だけだった。

それ以上は続かない。

私は雪を見る。


 横顔は穏やかだった。

だが、その言葉の重さだけは隠せていなかった。

 

私には覚えがない。

それでも雪は、確かにその時間を生きてきた。

その事実だけが、静かな夜の境内に残っていた。

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