35話 静かな町の入り口
翌朝、私は福島駅前のバス乗り場に立っていた。川俣町行きのバスは本数が少ない。乗り遅せば次はかなり待つことになる。
停まっていたバスに乗り込み、整理券を取って席に座る。車内には地元の高齢者が数人いるだけで、静かだった。
やがてバスは発車する。駅前の建物が流れ、見慣れた街並みが少しずつ離れていく。
最初は住宅や店が並んでいたが、次第に建物は減り、畑や空き地が目立つようになる。さらに進むと、道は緩やかに上り始めた。
山が近づく。気づけば、周囲は木々に囲まれていた。道路は細くなり、カーブが増える。
窓の外には川が見えた。流れは速く、岩に当たる水の白さが目立つ。渓谷沿いをなぞるように、バスは進んでいく。
さっきまでの街の気配は、もうほとんど残っていなかった。車内も静まり返っている。エンジン音と、時折響くブレーキの音だけが耳に残る。
私は窓の外を見ながら、ここならやり直せるかもしれないと考えていた。人が少ない場所。余計な関係もない。一から始めるには、ちょうどいい。
バスは山を抜け、やがて川俣町に入った。
降り立つと、空気が違う。乾いていて、どこか軽い。目立った賑わいはない。通りを歩く人も少なく、車の音もほとんど聞こえない。
想像していた通りの町だった。
私はゆっくりと歩きながら周囲を見る。古い家が並び、ところどころに人の気配の薄い建物もある。
掲示板には、農作業の手伝いの張り紙が貼られていた。
「いけるかもしれないな……」
小さく呟く。
住む場所もありそうだ。仕事も、選ばなければ何かはある。そう思えた。
近くの商店に入り、話を聞いてみる。
奥から出てきた年配の女性に、住む場所について尋ねると、あっさりと答えが返ってきた。
「空き家はあるよ。でもね、紹介がないと難しいね」
予想はしていた。
「仕事はどうですか?」
「あるにはあるけど……身分わかるものはあるの?」
その一言で、会話が止まる。
「今は、なくて......」
そう答えると、女性は小さく頷いた。
「それだと、どこも無理だね。今はちゃんと確認するから」
やわらかい言い方だったが、意味ははっきりしていた。
店を出る。
さっきまで現実だった景色が、少し遠くなる。
場所は間違っていない。静かで、無理もない。やり直すには、ちょうどいい。
だが、私には入るための条件が足りなかった。
その後も少し歩いたが、結果は同じだった。どこへ行っても、最後は同じところで止まる。
名前と住所、そしてそれを証明するもの。それがなければ、何も始まらない。
昼過ぎ、私はバス停に戻っていた。
来た道を引き返す。
バスは再び山へ入る。行きと同じ道のはずなのに、景色はどこか遠く感じた。
渓谷を流れる水の音だけが、やけに耳に残る。
夕方、福島駅に戻る。
人の多さと音が、現実を引き戻してくる。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
川俣町は間違っていなかった。ただ、このままでは入れない。
問題は場所じゃない。
私自身だった。




