第28話 氷に映る過去
夜のグラティスは、昼間とはまるで別の山だった。
激しい吹雪が視界を白く塗り潰し、月明かりさえ厚い雲に遮られている。足元の雪を踏みしめるたび、ギュッ、ギュッと乾いた音が鳴り、その音だけが暗闇の中へ吸い込まれていった。
「さ、寒い……!」
私は外套の襟をぎゅっと閉めた。
少し前を歩くオラクルは、黒い毛並みのほとんどを分厚い防寒着で覆っている。それでも猫耳までは隠しきれず、寒さに耐えるようにぺたりと伏せていた。
「だから朝にしようって言ったんだ……」
「でも、TIMEに先に【???】を取られたら困るでしょ!」
「命まで取られたら、もっと困る!」
私の肩に座るメリーは、ふわふわの桜色の髪に雪を積もらせながら、不思議そうに首を傾げた。
「寒い?」
「寒いよ!」
「メリー平気」
「それ、さっきも聞いた!」
「気合い」
得意げに胸を張るメリーを見て、オラクルが恨めしそうに顔をしかめる。
「精霊って便利だな……」
「猫も毛ある」
「さっきフールにも同じこと言われた!」
こんな状況なのに、二人と話していると不思議と恐怖が和らいだ。
けれど、《聖なるマップ》を開いた瞬間、気持ちはすぐに引き締まる。
【現在地:グラティス中腹】
地図の上方では、山頂にある【???】が明滅している。
そして、その少し下には――黒い点。
TIMEを示す反応だった。
「まだ動いてる」
「俺たちより速いな」
オラクルも私の横から地図を覗き込み、険しい表情になる。
「このままじゃ先に着かれる」
「だったら急ごう」
私は速度を上げようとした。
けれど、オラクルがすぐに腕を掴む。
「いや。だからって走るな」
「なんで?」
何も言わず、オラクルが足元を指差した。
雪の下へ目を凝らすと、薄い青色の線が何本も走っている。
「……氷?」
「たぶんな」
オラクルは足元から小さな石を拾い、数歩先へ放った。
コツン、と軽い音を立てて石が着地する。
その瞬間だった。
パキッ――。
氷に細い亀裂が走ったかと思うと、次の瞬間には地面一帯が轟音とともに崩れ落ちた。
「ええええっ!?」
目の前に、巨大な穴が口を開ける。
吹雪の中を覗き込んでも、底は見えない。
もし勢いのまま走っていたら、私たちも一緒に落ちていた。
「オラクル……」
「だから走るなって言っただろ」
「……ありがとう」
「もっと感謝していいぞ」
すると、肩の上にいたメリーが淡々と言った。
「泥棒猫、たまに役立つ」
「たまにを付けるな!」
少しだけ緊張が緩んだものの、油断はできない。
私たちは崩れた場所を大きく迂回し、慎重に山頂を目指すことにした。
◇ ◇ ◇
標高が上がるにつれ、雪の中に青い氷が目立つようになっていった。
昼間に村で見たものと同じ、内部から淡い光を放つ不思議な氷だ。
しかも、ただ凍っているだけではない。
ある氷の中には、真っ赤な花が咲いていた。
春の野原で見るような瑞々しい花で、葉も茎も少しも枯れていない。雪山の中にあるということさえ忘れてしまいそうなほど、生き生きとした姿のまま閉じ込められている。
「これ……本当に凍ってるの?」
思わず顔を近づけると、すぐに後ろから襟首を掴まれた。
「触るな」
「触らないよ」
「昼間、触りかけただろ」
「ちゃんと学習したから!」
メリーが氷の近くまで飛んでいき、翠色の瞳を細めた。
「止まってる」
「時間が?」
「うん」
花は死んでいない。
枯れているわけでもない。
ただ、咲いたその瞬間のまま時間を止められ、氷の中へ閉じ込められている。
さらに進むと、同じような氷が次々に現れた。
飛び立つ直前の鳥。
雪の上を駆けていたらしい小さな鹿。
そして、さらに山を登ったところで――私はとうとう足を止めた。
「……人?」
目の前に、私たちの身長を遥かに超える巨大な青い氷柱が立っていた。
その内部に、一人の男が閉じ込められている。
分厚い登山服を着た男は、両手を前へ伸ばし、顔には恐怖を浮かべていた。まるで何かから必死に逃げている途中、その一瞬だけを切り取られたような姿だった。
「生きてるのかな……」
「分からん」
オラクルも、さすがに表情を曇らせる。
メリーが慎重に氷へ近づき、小さな手を伸ばした。
けれど触れる寸前で、その手を止める。
「精霊じゃない」
「じゃあ、この人は……」
その時だった。
氷の中にいる男の目が――ぎょろりと動いた。
「ひっ!」
私は反射的にオラクルへ飛びついた。
「見た!? 今、目が動いた!」
「見た! 離れろ!」
オラクルに引っ張られ、私たちは氷柱から距離を取る。
男はそれきり動かなかった。
けれど、見間違いじゃない。
確かに目が動いた。
「グラティスの氷……本当に時間を止めてるんだ」
精霊の女王が言っていた言葉を思い出す。
――雪山で見えるものを、すべて信じてはいけません。
その意味が、少しずつ分かってきた気がした。
◇ ◇ ◇
それから一時間ほど登った頃だった。
突然、吹雪が弱くなった。
「……?」
それまで身体を叩き続けていた風が止まり、雪の音も消えていく。
静かすぎる。
まるで山だけではなく、世界から音そのものが消えてしまったようだった。
「オラクル?」
返事がない。
私は振り返った。
「オラクル?」
誰もいなかった。
「……え?」
さっきまで肩の上にいたはずのメリーも消えている。
見渡しても、あるのは白い雪原だけ。
「オラクル! メリー!」
声を張り上げても、返事はなかった。
咄嗟に走り出しそうになって、私は足を止める。
オラクルに何度も言われた。
雪の下に何があるか分からない。走るな、と。
「落ち着いて……」
震える手で《聖なるマップ》を開く。
そこに浮かんでいたのは、嫌な文字だった。
【現在地:不明】
「また……?」
胸の奥に、メビウス村で感じたものとよく似た不安が広がる。
その時。
背後から、声がした。
「フールちゃん」
身体が固まった。
その声を、忘れるわけがない。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは――赤い服を着た小さなゴブリンだった。
「……赤?」
手には、大きな骨付き肉。
あの日と同じ姿で、あの日と同じ顔で笑っている。
「お腹すいたでぷ」
心臓が大きく鳴った。
何も言えない私へ、赤い子が笑いかける。
「フールちゃん」
その横へ、もう一人現れた。
緑の子。
大切そうに、分厚い本を抱えている。
「久しぶりでぷ」
そして。
黄色い子。
背中には、いつものお金袋。
「会いたかったでぷ!」
「……みんな」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
三匹とも、何も変わっていない。
あの日と同じ。
私がずっと、もう一度会いたいと思っていた姿のままだった。
「本当に……?」
赤い子が、小さな手をこちらへ伸ばす。
「こっち来るでぷ」
「……」
「また一緒に旅するでぷ」
胸の奥が苦しくなる。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
もう一度だけでいいから、あの声を聞きたかった。
一緒に歩きたかった。
くだらないことで笑いたかった。
「赤……」
私は一歩踏み出した。
「緑……」
もう一歩。
「黄色……」
三匹は、嬉しそうに笑っている。
そのすぐ先に青い氷があることさえ、この時の私には見えていなかった。
私は手を伸ばした。
あと一歩。
届く。
そう思った瞬間――。
「フール!!」
後ろから腕を強く引かれた。
「きゃっ!」
私はその場へ倒れ込む。
同時に。
目の前の景色が、ガラスのように砕け散った。
三匹の姿が消える。
代わりに現れたのは――巨大な氷の崖だった。
あと一歩。
本当に、あと一歩進んでいたら。
私はそのまま谷底へ落ちていた。
「……」
呼吸がうまくできない。
「フール!」
オラクルが私の肩を掴む。
「しっかりしろ!」
「……オラクル」
少し離れたところでは、メリーが心配そうにこちらを見ていた。
二人ともいる。
ちゃんと、ここにいる。
「何を見てた?」
オラクルに聞かれても、すぐには答えられなかった。
気づけば、頬が冷たくなっていた。
メリーが近づいてくる。
「フール……泣いてる」
指先で頬へ触れる。
涙だった。
「三匹が……いた」
オラクルの表情が変わる。
「赤と、緑と、黄色。みんな笑ってた」
声が震えた。
精霊の女王が言っていた。
グラティスの氷は、過ぎ去ったものを閉じ込める。
もちろん、あれが本物じゃないことくらい分かっている。
三匹はもういない。
どれだけ願っても、戻ってこない。
分かっているのに。
「……会いたかった」
オラクルが何も言わず、私の頭へ手を置いた。
「ああ」
「もう一回だけでも……会いたかった」
「ああ」
否定しない。
慰めようともしない。
ただ、そこにいてくれる。
それだけでよかった。
少しして、メリーが私の頬へ飛んできた。
小さな身体で、ぎゅっと抱きついてくる。
「メリー……?」
「いる」
「え?」
メリーは少しだけ考えてから、小さな声で続けた。
「赤と緑と黄色は……いない」
胸が痛んだ。
けれど、メリーは私の額へ小さな手を当てる。
「でも、ここにいる」
次に、私の胸へ触れた。
「ここにも」
上手く言葉にできないらしい。
それでも、何を伝えようとしているのかは分かった。
三匹と過ごした時間まで、消えてしまったわけじゃない。
私が覚えている限り。
あの子たちがくれたものは、ここに残っている。
「……ありがとう」
私は涙を拭い、ゆっくり立ち上がった。
そして、もう一度山頂を見る。
「行こう」
オラクルが頷く。
「今度は離れんなよ」
「うん」
メリーも私の肩へ戻る。
「メリーもいる」
「うん。離れないでね」
今度は、誰かの幻に連れていかれないように。
三人で進む。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いたところで、突然メリーが肩から飛び立った。
「待って」
「どうしたの?」
彼女が向かったのは、何の変哲もない雪の壁だった。
ところが、近づいたメリーの羽が淡く光り始める。
「精霊」
「また声がするの?」
「いる」
メリーが両手をかざした。
すると、積もっていた雪がふわりと舞い上がり、その奥から青い氷が姿を現す。
「……!」
私は息を呑んだ。
氷の中に、何十もの小さな光が閉じ込められている。
赤。
青。
緑。
金。
精霊たちだった。
眠っているように目を閉じ、誰一人として動かない。
「こんなに……」
メリーの顔から、いつもの明るさが消えた。
「みんな……」
小さな身体を震わせながら、氷へ手を伸ばす。
私は慌ててその手を掴んだ。
「ダメ!」
「でも!」
「下で見たでしょ。触ったら何が起きるか分からない!」
「……」
メリーが悔しそうに唇を噛む。
助けたい気持ちは、私だって同じだった。
だからこそ、ここで無理をするわけにはいかない。
私は《聖なるマップ》を開いた。
【精霊反応】
【封印状態】
その下へ、新しい表示が浮かぶ。
【封印源:上方】
「上……」
私たちは揃って山頂を見上げた。
オラクルが低く呟く。
「封印の根っこが上にあるってことか」
「そこをどうにかすれば、この子たちも助けられるかもしれない」
メリーがすぐに顔を上げた。
「行く」
「うん」
「急ぐ」
「でも、慎重にね」
「……うん」
そこだけは絶対に譲れない。
◇ ◇ ◇
夜が明け始めた頃。
長い登山の末に、私たちはとうとう雲の上へ出た。
吹雪が消え、東の空から朝日が差し込む。
その光を受けて、目の前には信じられない光景が広がっていた。
山頂。
そこに、巨大な氷の宮殿が建っている。
いや、宮殿というより――氷そのものが神殿の形へ変化したように見えた。
何本もの巨大な青い氷柱が空へ伸び、透き通った階段が中央へ続いている。そして神殿の中心には、一際大きな氷の結晶がそびえていた。
その中に。
一人の女性がいる。
長い髪。
両手を胸の前で重ね、静かに目を閉じている。
まるで永い眠りについた女神のようだった。
「……誰?」
私が呟いた瞬間、《聖なるマップ》が強く光った。
【特殊存在を確認】
【名称――】
表示が一瞬だけ乱れる。
やがて、一つの名前が浮かび上がった。
【セレスティア】
「セレスティア……」
そして。
山頂を示していた【???】が、これまでで最も強く輝いた。
間違いない。
私たちが追ってきた【???】は、この女神と深く関係している。
けれど。
次の瞬間。
地図の端にある黒い点が目に入った。
「……!」
近い。
すぐ近くまで来ている。
オラクルも同じものに気づき、顔を上げた。
「来てる」
朝日に照らされた雪原の向こう。
一人の黒い人影が、ゆっくりと氷の神殿へ向かって歩いてくる。
胸元には、見覚えのある時計の紋章。
そして刻まれている数字は――。
【Ⅹ】
TIME No.10。
私たちと同じ【???】を求める者が。
とうとう、同じ場所へ辿り着いた。
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