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『フールの大冒険 ~本の世界に消えた両親を探していたら、聖なるマップに選ばれました~』  作者: ☆☆アダム☆☆


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第26話 雪山グラティス

精霊の塔を出てから三日。


北へ進むにつれて、景色は少しずつ白へ染まっていった。最初は街道の脇に残る程度だった雪も、いつの間にか森の地面を覆い、さらに進めば木々の枝まで分厚い雪を被っている。


そして森を抜けた瞬間、私は思わず足を止めた。


「……あれが、グラティス?」


遥か先に、雲を突き抜けるほど巨大な雪山がそびえていた。


ここからでは山頂さえ見えない。中腹には青く輝く氷河が何本も走り、太陽の光を受けるたび、巨大な宝石を埋め込んだような輝きを放っている。


綺麗だと思う。


それなのに、見ているだけで胸の奥が落ち着かなかった。


私は鞄から《聖なるマップ》を取り出す。


【雪山 グラティス】


そして、山頂に近い場所では――。


【???】


一つの印が、これまでにないほど強く明滅している。


「間違いない。この山にある」


私は地図を握り締めた。


その隣では、分厚い外套を着込んだオラクルがぶるぶる震えている。精霊の街で買った桃色の花飾りだけは、なぜかまだ首元に残っていた。


「さ、寒ぃ……」


「オラクルって毛があるじゃん。それでも寒いの?」


「毛がありゃ雪山でも平気なら、世の中の猫は全員登山家だ!」


「それは確かに」


私の肩では、メリーが何事もないようにパンを食べている。寒さより食欲の方が勝っているらしく、三日前に女王様から持たせてもらったパンを、今日も幸せそうに頬張っていた。


「メリーは寒くないの?」


「平気」


「なんで?」


「精霊だから」


「便利!」


オラクルが恨めしそうにメリーを見る。


「その小せぇ身体のどこに、そんな耐寒性能が入ってんだよ」


メリーはパンを一口かじり、しばらくもぐもぐしたあと、小さな胸を張った。


「気合い」


「精神論だったのかよ!」


思わず笑ってしまった。


けれど、メリーの表情がほんの一瞬だけ曇ったことに、私は気づいた。


「メリー?」


「……何でもない」


そう答えながらも、メリーは雪山から目を離さない。いつもの眠たそうな翠色の瞳は、今だけははっきりと緊張していた。


「この山……変」


「何が?」


「精霊の声が、いっぱいする」


私は周囲を見回した。


雪と木々しかない。精霊の姿も見当たらない。


「どこから聞こえるの?」


メリーは小さな指を上へ向けた。


「あの中」


その先にあるのは、巨大なグラティスの雪山だった。


第25話でメリーが言っていたことは、やっぱり間違いじゃなかった。


この山には――帰れなくなった精霊たちがいる。


◇ ◇ ◇


グラティスの麓には、小さな村があった。


木造の家が二十軒ほど集まり、どの屋根にも分厚い雪が積もっている。煙突から立ち上る白い煙を見るだけで、外の寒さとは対照的な暖かさを感じられた。


村の入口には古びた看板が立っている。


【グラティス麓村】


その下には、さらに大きな文字で注意書きがあった。


【登山者へ】


【山頂を目指すな】


私は読む。


オラクルも読む。


メリーも、私の肩から覗き込む。


三人で顔を見合わせた。


「……行くよね?」


「ここまで来て帰れるかよ」


「行く」


「だよね」


注意書きの効果は、私たちにはまったくなかった。


村へ足を踏み入れると、すぐに妙な人物が目に入った。


雪深い山村だというのに、一人だけ半袖。


しかも花柄の薄いシャツを着た大柄な男が、道端でかき氷を食べている。


「……」


私は見なかったことにした。


オラクルも同じだったらしく、そのまま通り過ぎようとする。


メリーだけは男の持っているかき氷をじっと見ていた。


「メリー。行くよ」


「冷たいパン?」


「どう見てもパンじゃないよ」


「待ちな!」


やっぱり声をかけられた。


仕方なく振り返ると、男は四十歳くらいだろうか。短い黒髪に日に焼けた顔、雪山暮らしらしい逞しい身体つきなのに、服だけが完全に真夏だった。


「お前ら、山に登る気だな?」


オラクルが即答する。


「違う」


その瞬間、私の鞄の中から☆3《真実のカード》が淡く光った。


【FALSE】


「フール!」


「私、何もしてないよ! 勝手に光ったんだもん!」


男は豪快に笑った。


「ははっ! 随分分かりやすい猫だな」


オラクルが不満そうな顔をする。


でも、私はそれより気になって仕方がないことがあった。


「それより……どうして半袖なんですか?」


男は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。


「防寒着だからだ」


「どこが!?」


どう見ても夏用の花柄シャツだ。


「見た目で判断するな。この服には火の加護がかかってる」


「あ、なるほど」


それなら納得――。


しようとした直後。


男の後ろに積もっていた雪が、じゅわぁぁ……と音を立てながら溶け始めた。


あっという間に地面が露出する。


オラクルが眉をひそめた。


「……加護、強すぎねぇか?」


「ちょっとな」


男が一歩歩く。


その足跡に沿って、また雪が溶ける。


二歩。


三歩。


雪道が消えていく。


「村の雪なくなっちゃうじゃん!」


「よく怒られる」


「そりゃ怒られるよ!」


メリーが男の花柄シャツをじっと見つめた。


「暑くない?」


男の動きが止まる。


「……暑い」


「脱げば?」


「寒いよりマシだ」


「極端すぎるよ!」


こんな雪山にも変な人はいるらしい。


少しだけ緊張が解けた。


◇ ◇ ◇


男の名前はガルド。


聞けば、何十年もグラティスで案内人をしているという。


ところが私たちが「山頂へ行きたい」と伝えた瞬間、それまでの豪快な笑顔が消えた。


「やめとけ」


今度は冗談ではない。


「やっぱり、そんなに危険なんですか?」


「ああ。昔のグラティスなら、ただ寒くて険しいだけの山だった。だが、今は違う」


ガルドは巨大な雪山を見上げた。


「時間がおかしい」


私は反射的にオラクルを見る。


オラクルも、ものすごく嫌そうな顔をしていた。


「……また時間?」


「俺も今、まったく同じこと思った」


メビウス村で、私たちは時間と記憶が狂った場所を経験したばかりだ。


もうしばらく時間関係の異変は遠慮したかった。


ガルドはそんな私たちの事情を知らず、話を続ける。


「二年前、一人の登山者が山から帰ってきた。本人は山で一日しか過ごしていないと言い張ったが、村では九ヶ月が過ぎていた」


「九ヶ月……」


「逆の例もある。一週間ほどで戻ってきた男がいたが、そいつだけ三十歳近く老けていた」


今度は笑えなかった。


オラクルの猫耳もぴくりと動く。


「山の中で、場所によって時間の流れが違うってことか?」


「そう考えられてる」


ガルドは頷いた。


「だが、一番奇妙なのは時間じゃない。氷だ」


「氷?」


「見せた方が早い」


私たちはガルドに連れられ、村の端へ向かった。


◇ ◇ ◇


そこにあったのは、人の背丈ほどもある巨大な青い氷だった。


透明なはずなのに、その奥は不思議なほど見通せない。光を反射しているというより、吸い込んでいるようにさえ見えた。


「綺麗……」


私は思わず近づき、表面へ手を伸ばす。


「触るな」


ガルドの鋭い声に、寸前で手を止めた。


「どうして?」


「中をよく見ろ」


言われた通り、目を凝らす。


最初は何も見えなかった。


でも。


青い氷の奥に、小さな白い影がある。


「……蝶?」


一匹の白い蝶だった。


羽を大きく広げ、まるで今にも次の羽ばたきを始めそうな姿で止まっている。


凍死したようには見えない。


飛んでいる途中の一瞬だけを切り取り、そのまま氷の中へ閉じ込めたようだった。


「これは半年前に見つかった」


メリーが私の肩から飛び、氷へ近づく。


「死んでるの?」


「分からん」


「分からない?」


ガルドの答えに、私は眉を寄せた。


「氷を溶かそうとした奴がいたんだ」


「どうなったの?」


ガルドの顔が強張る。


「炎を当てた瞬間、そいつの右腕だけが七十歳の老人みたいになった」


「ええっ!?」


オラクルが露骨に氷から距離を取った。


「……触らなくて正解だったな」


私も伸ばしかけていた手を、すぐ身体の後ろへ隠す。


「もう絶対触らない」


怖すぎる。


でも。


メリーだけは氷から離れなかった。


「メリーもやめて!」


「……いる」


「何が?」


メリーが見ているのは、白い蝶ではない。


もっと深い場所。


青い氷の向こう側を、翠色の瞳でじっと見つめている。


「精霊」


「え?」


「小さい声がする」


メリーの四枚の羽が、微かに震えた。


「助けてって……言ってる」


さっきまで残っていた笑いが、一瞬で消えた。


私は青い氷を見つめ直す。


目には見えない。


それでも。


メリーには聞こえている。


第25話からずっと追ってきた、帰れなくなった精霊たちの声。


「この氷の中にいるの?」


「ここだけじゃない」


メリーが雪山を見上げる。


「もっと上。いっぱい」


私は《聖なるマップ》を開いた。


すると。


昼までは存在しなかった光が、グラティスの山中に次々と現れた。


一つ。


二つ。


三つ。


さらに。


もっと上にも。


【未確認反応】


【精霊反応】


そして、そのすべての先。


山頂近くでは――。


【???】


一つ目の未知の印が、強く明滅している。


捕らわれた精霊。


時間を閉じ込めるような青い氷。


そして【???】。


全部が、この山にある。


「……登るしかないね」


「やっぱりそうなるよなぁ……」


オラクルが雪山を見上げ、心底嫌そうにため息を吐いた。


ガルドが私たちを睨む。


「話を聞いてたのか? 山の時間がどうなってるかも分からんのだぞ」


「聞いてました」


「だったら――」


「それでも行きます」


私は《聖なるマップ》を閉じた。


「この山で探してるものがあるんです。それに、助けを求めてる精霊たちもいる」


ガルドはしばらく私の顔を見ていた。


やがて。


深く息を吐く。


「……頑固そうな嬢ちゃんだな」


「よく言われる」


オラクルが答えた。


「何でオラクルが答えるの!」


「事実だろ」


メリーまで小さく頷く。


「頑固」


「メリーまで!?」


ガルドが豪快に笑った。


でも。


すぐに真剣な顔へ戻る。


「なら今日は休め。グラティスを舐めるな。明るいうちに装備を整えて、朝一番で――」


その時だった。


メリーが突然、雪山を見上げた。


「……?」


「メリー?」


返事がない。


翠色の瞳が、山の上を見つめている。


「どうしたの?」


「今……」


メリーは小さく眉を寄せた。


「変な感じした」


「精霊の声?」


「違う」


「じゃあ何?」


少しだけ考えて。


メリーは首を横に振った。


「分からない」


私はグラティスを見る。


雲に隠された山頂。


そこでは変わらず【???】が輝いている。


そして。


なぜだろう。


ほんの一瞬だけ。


誰かに――こちらを見られていたような気がした。


けれど、雲に覆われた雪山をいくら見つめても、人影らしきものは見えない。


「……気のせいかな」


「だったらいいけどな」


オラクルも山頂を警戒していた。


ガルドの言う通り、今日は登らない方がいい。三日間歩き続けてきたうえ、グラティスでは何が起こるか分からない。


私たちは麓村の宿へ向かうことにした。


◇ ◇ ◇


宿は小さかったけれど、暖炉の火が絶えず燃えていて暖かかった。


私は外套を脱ぐと、暖炉の前へ両手を伸ばす。


「生き返る……」


「お前、さっき俺の毛を馬鹿にしたくせに普通に寒がってんじゃねぇか」


オラクルは私の隣で丸くなっていた。


「馬鹿にしてないよ。それにオラクルの方が寒そうじゃん」


「猫は寒いのが嫌いなんだよ」


「泥棒猫、丸い」


メリーがオラクルの頭上を飛びながら言う。


「誰が丸い!」


「丸い」


「これは暖を取ってんだ!」


「丸い」


「二回言うな!」


私は笑いながら荷物を下ろした。


メリーはというと、寒さなんて気にならないらしく、すぐに宿の食堂を覗き込んでいる。


「フール」


「なに?」


「パンの匂いする」


「メリーの探知能力、パンにだけ異常に強くない?」


「大事」


「精霊の声より先にパン見つけるなよ」


オラクルが呆れる。


でも。


メリーがこうして普段通りでいてくれると、少し安心する。


夕食を済ませたあと、私たちは部屋へ戻った。


テーブルの上へ《聖なるマップ》を広げる。


グラティス。


昼間に確認した精霊反応は、まだ消えていなかった。


【精霊反応】


【精霊反応】


【精霊反応】


山の中腹から上へ、いくつもの光が点在している。


そして、その先。


【???】


「こいつが一番上か」


オラクルが地図を指差す。


「うん。山頂にかなり近い」


「精霊の反応も、上に行くほど増えてんな」


言われて気づいた。


確かにそうだ。


山の麓では少ない。


中腹。


さらに上。


山頂へ近づくにつれて、光の数が増えている。


「メリー」


返事がない。


振り返る。


ベッドの上で。


メリーはパンを抱えたまま寝ていた。


「……早っ」


「三日前からずっと歩いて――ねぇな。お前の肩に乗ってたな」


「魔力使ってるから疲れるんじゃない?」


「パン食って寝てるだけに見えるぞ」


「聞こえてる……」


メリーが目を閉じたまま呟いた。


「起きてた!」


「泥棒猫、うるさい」


「俺だけ!?」


メリーは身体を起こし、眠そうに目を擦った。


「メリー。地図見て」


「ん……」


ふわふわ飛んできて、私の肩へ座る。


地図上の精霊反応を見た瞬間、眠そうだった目が少し開いた。


「いっぱい」


「やっぱり全部精霊?」


「たぶん」


「助けられそう?」


メリーは答えなかった。


代わりに、地図へ小さな手を当てる。


淡い光が指先から広がった。


「……?」


しばらくして。


「閉じ込められてる」


メリーが言った。


「氷の中?」


「うん。でも……」


「でも?」


「変」


またその言葉。


「何が変なの?」


「時間が混ざってる」


私とオラクルは顔を見合わせた。


ガルドが話していた時間異常。


「メリーには分かるの?」


「少しだけ」


メリーが地図上の一つの光を指差す。


「この子、昨日いる」


次。


「この子、明日いる」


「……え?」


そして別の光。


「この子は、ずっと今」


理解できなかった。


「昨日にいるって……どういう意味?」


「分からない」


「メリーが言ったんでしょ!」


「感じるだけ」


説明する言葉がないらしい。


でも。


少なくとも。


グラティスで起きているのは、単純に時間が速くなったり遅くなったりしているだけではない。


過去。


現在。


未来。


それ自体が、どこかで混ざっている?


考えただけで頭が痛くなってきた。


「明日、慎重に行くしかねぇな」


オラクルが言う。


「うん」


私は《聖なるマップ》へ書き込んだ。


【青い氷に触れない】


【場所によって時間が異なる可能性】


【精霊は氷に封じられている】


そして。


【時計の紋様を持つ黒服の人物】


第25話でメリーから聞いた情報だ。


まだ本人を見たわけじゃない。


でも、忘れないように残しておく。


「今日は寝よう」


地図を閉じようとした。


その時だった。


メリーの羽が――ぴんと立った。


「……!」


「メリー?」


小さな身体が固まっている。


「いる」


「何が?」


メリーは窓を見る。


「さっきの変なの」


私は立ち上がった。


オラクルも一瞬で眠そうな顔を消す。


「外か?」


メリーが頷く。


三人で窓へ近づいた。


外はもう真っ暗だった。


雪が静かに降っている。


村の家々から漏れる明かり。


それ以外には――。


「……あ」


いた。


村の外。


グラティスへ続く山道。


一人の人間が歩いている。


黒い外套。


顔はフードに隠れて見えない。


背は高い。


そして。


風で外套が僅かに開いた瞬間。


胸元に。


白い紋様が見えた。


円。


その内側に刻まれた十二の印。


中央から伸びる二本の針。


「……時計」


メリーから聞いたものと同じだ。


「オラクル」


「ああ」


いつもの軽い声ではなかった。


オラクルの金色の瞳が細くなる。


「TIMEだ」


「……え?」


心臓が跳ねた。


「どうして分かるの?」


「紋章だ」


オラクルは窓の外から目を離さない。


「あの時計の印。裏で何度か聞いたことがある。正体不明の集団が使ってる紋章だ」


「それが……TIME?」


「ああ」


初めて。


はっきりとした形で繋がった。


アルセウスの情報屋ですら、ほとんど掴めなかった組織。


TIME。


その人間が。


今。


目の前にいる。


「追う!」


私は外套を掴んだ。


「待て!」


オラクルが腕を掴む。


「何で!?」


「相手が何者かも分かってねぇ!」


「でもTIMEなんでしょ!」


「だからだ!」


強い声だった。


私は動きを止める。


「No.12を忘れたのか?」


胸が詰まった。


忘れるわけがない。


あの圧倒的な力。


まともに戦えば、私たちでは勝てなかった。


「TIME全員が同じ強さとは限らねぇ。でも、逆もある」


「もっと強いかもしれない……」


「ああ」


悔しい。


目の前に手掛かりがあるのに。


でも。


無謀に飛び出して全滅したら何の意味もない。


その時。


テーブルの上に置いていた《聖なるマップ》が、激しく光った。


「今度は何!?」


開く。


【WARNING】


新しい表示。


【???への接近者を検知】


続いて。


【距離――縮小中】


私は窓を見る。


黒衣の人物は。


グラティスへ登っている。


そして地図上。


【???】へ向かう光が一つ。


ゆっくり。


確実に。


山頂へ近づいていた。


「……狙ってる」


「何を?」


「【???】を」


黒衣の人物が何者かは分からない。


TIMEの何番なのかも。


どうしてグラティスに来たのかも。


でも。


私たちが追っている【???】と同じものを狙っている。


「明日じゃ遅い」


私はオラクルを見る。


今度は彼も止めなかった。


「……そうだな」


ガルドは朝まで待てと言った。


正しいと思う。


夜の雪山なんて危険だ。


しかも時間まで狂っている。


それでも。


【???】を先に奪われるわけにはいかない。


そして。


あの山には、助けを待っている精霊たちもいる。


「行こう」


「装備整えろ」


オラクルが短剣を確認する。


私は外套を羽織った。


メリーも小さな鞄を背負う。


「メリー、大丈夫?」


「うん」


「眠くない?」


「ちょっと」


「無理しないでね」


「パンあるから大丈夫」


「その理論まだ続いてるんだ……」


こんな時でも。


少しだけ笑えた。


◇ ◇ ◇


宿を出る。


夜の冷気が一気に身体を包んだ。


「さむっ!」


「だから朝まで待ちたかったんだよ!」


オラクルが叫ぶ。


「今さら言わないで!」


「俺は最初から雪山嫌だって言ってる!」


「泥棒猫、うるさい」


「お前は寒くねぇからいいよな!」


私たちは黒衣の人物が残した足跡を追った。


雪はどんどん強くなる。


村の明かりが遠ざかり。


やがて。


完全な闇と雪だけになった。


《聖なるマップ》の光が、唯一の道標だった。


【???への接近者】


その印は。


想像以上に速い。


「この人……速すぎない?」


「普通に登ってる速度じゃねぇ」


オラクルが雪へ残された足跡を見る。


「走った形跡もねぇ。なのに距離だけがどんどん開いてる」


「時間……?」


グラティスの異常。


もし黒衣の人物が、それを利用しているなら。


「急ごう」


でも。


私たちが焦るほど。


雪山は簡単に進ませてくれなかった。


十分歩いたと思ったのに。


地図を見る。


「……え?」


「どうした?」


「村から、ほとんど離れてない」


振り返る。


遠くに。


さっき出たばかりの麓村の明かりが見える。


「嘘だろ……」


オラクルも言葉を失う。


体感では。


少なくとも一時間近く歩いた。


でも。


実際には。


ほとんど進んでいない。


メリーが雪の上へ降りた。


「ここ、時間遅い」


「じゃあ別の道を探さないと」


《聖なるマップ》を見る。


道は一本。


でも。


その周囲に。


青い氷の反応がいくつもある。


私は昼間見た蝶を思い出した。


時間を閉じ込めたような氷。


「もしかして……」


青い氷を避けるように進めば。


時間の流れが違う場所を選べる?


「オラクル」


「何だ?」


「地図見ながら行こう。青い氷から離れる」


「根拠は?」


「ない!」


「堂々と言うな!」


「でも他にないでしょ!」


「……それもそうだ!」


三人で進路を変える。


青い氷を避け。


精霊の反応を目印に。


少しずつ上へ。


すると。


今度は村の明かりが急速に小さくなっていった。


「進んでる!」


「正解か!」


でも。


喜んだのも束の間。


《聖なるマップ》が再び警告を出す。


【時間流速――上昇】


「上昇?」


その意味を考えるより先に。


雪の上へ落ちた一枚の葉が。


目の前で。


茶色く枯れた。


「……」


私とオラクルは同時に後ずさった。


「こっちも駄目!」


「別ルート!」


夜のグラティス。


同じ山の中なのに。


時間が止まり。


遅れ。


速くなる。


地図とメリーの感覚を頼りに。


私たちは。


まるで見えない迷路の中を進んでいった。


◇ ◇ ◇


その頃。


グラティス山頂。


吹雪の届かない。


奇妙なほど静かな場所に。


巨大な氷塊があった。


青く。


透明で。


その中心には。


一人の女性が眠っている。


長い銀白の髪。


閉じられた瞳。


氷の中にいるというのに、その姿には傷一つない。


まるで。


眠りについた瞬間のまま。


永遠に時間を止められているようだった。


その氷の前。


黒い外套を纏った人物が立つ。


胸元には。


時計の紋章。


「……ようやく見つけた」


低い声が。


静かな山頂へ落ちた。


その瞬間。


女性を閉じ込めていた氷に。


ピシッ。


小さな亀裂が走る。


黒衣の人物が顔を上げた。


そして。


氷の中で。


ずっと閉じられていた女性の瞼が――。


ゆっくりと。


開いた。

今回は本格的に《グラティス編》へ突入しました。

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