8.エピローグ
事件から三か月が過ぎた。
フェルマン商会は解体され、その資産は王家によって差し押さえられた。隣国へ流れていた情報網も大きく断たれ、事件に関わった者たちの取り調べは今も続いている。
エヴァンス伯爵家にも、ようやく穏やかな日々が戻っていた。
父がカントリーハウスへ戻る日、クリステアは門まで見送るため庭へ出た。初夏の風が木々を揺らし、色とりどりの花が静かに咲いている。あの日、自分が処刑されるはずだった未来など、最初から存在しなかったかのような穏やかな景色だった。
「そういえば」
父が思い出したように口を開く。
「最近、縁談の話が何件か来ている」
クリステアは思わず苦笑した。
「もう、そんな話ですか」
「伯爵家へ婿入りしたい者は多いからな」
父も小さく笑う。
「もちろん、すべて断っておいた」
「お父様」
「焦る必要はない」
父は立ち止まり、クリステアをまっすぐ見つめた。
「今度は、お前が自分で選べばいい」
その言葉に、クリステアは静かに頷いた。
二年前、ダレンとの結婚は伯爵家を守るための政略結婚だった。後悔しているわけではない。あのときは、それが自分にできる最善の選択だった。
けれど、これから先は違う。誰かのためではなく、自分自身の人生として未来を選んでいいのだと、父は言ってくれている。
「ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれた。
しばらく二人で庭を歩いていると、父がふと遠くを見つめた。
「今回の件は解決したが、国境の情勢は以前より不安定になっている」
「フェルマン商会の事件が影響しているのですか」
「それもあるだろう。しかし、それだけではないようだ」
父は静かに続ける。
「皇太子殿下には、王子がお一人しかおられない。王位継承を不安視する声も少しずつ出始めている」
クリステアは足を止めた。王子が、一人。以前の世界では違った。確か、皇太子には二人の子どもがいたはずだった。王都の式典で、仲良く並んで立つ姿を見た記憶がある。けれど今、その記憶を持っているのはクリステアだけだった。
父は何も気づかず話を続ける。
「国境でも小競り合いが増えている。以前なら起きなかったような衝突まで報告されるようになった」
クリステアは黙って耳を傾けた。これも改ざん前とだいぶ違う。一本の糸を引けば、世界という織物は思いもよらない場所まで形を変える。
父が幼い頃に話してくれた言葉は、間違っていなかった。あの日、クリステアは生きたいと願った。その願いは確かに叶えられた。伯爵家は守られた。ダレンの陰謀も止めることができた。
けれど、その代償が何だったのかは、今も分からない。失われた命があったのかもしれない。生まれてこなかった未来があったのかもしれない。誰かの幸せが、別の誰かの不幸へ変わったのかもしれない。その答えを知る術は、もうなかった。
「……後悔しているか」
不意に父が尋ねた。
クリステアは少しだけ考え、静かに首を横へ振る。
「分かりません」
それが偽らざる本心だった。正しかったとも、間違っていたとも言えない。ただ一つだけ確かなのは、あの日の牢の中で、何もしないという選択だけはできなかったということだった。
「もし、もう一度あの日へ戻ったとしても」
クリステアは遠くの空を見上げる。
「私は、きっと同じ願いを口にします」
父は何も言わなかった。ただ娘の隣へ静かに立ち、同じ空を見上げていた。
青空の向こうでは、世界は今日も静かに動き続けている。あの日と少し違う世界で。それが本当に正しい未来なのか、それとも誰かの未来を奪ってしまった世界なのか。
その答えを知る者は、誰もいなかった。




