① 地毛登録届
体育館の袖で、月影るかは自分の名前を小さく三回練習した。名前を噛む新任教師になるわけにはいかない。今日から給料をもらうのだから。
「続きまして、本年度着任の先生方を紹介します」
壇に上がる。何百という真新しい制服が、こちらを見ている。
「月影るかです。よろしくお願いします」
拍手。そのどこかで、「芸名?」という囁きが起きて、くすくすと小さく広がった。
(本名です)
一礼の角度でそれに答え、るかは壇を降りた。降りてから、練習したのは名前ではなくお辞儀の方だったかもしれないと思った。
私立聖陽学園は、附属の中高と、系列の大学を、同じ法人の中に持っている。ひとつの塀の内側で、制服が私服に変わり、部活がサークルと名前を変えても、顔ぶれはそう入れ替わらないのだという。
式の前夜、るかは新入生の名簿を一度だけ通して読んだ。読むつもりはなかったのに、気づいたら最後の頁だった。
式が終わると、新任の仕事は誘導係だった。体育館から各教室へ、新入生の流れを廊下の角で右に曲げる。それだけの仕事のはずだった。
流れが、角のところで詰まっていた。
「一年生、会長に捕まってる」「髪、すっご」「金じゃん」と、流れの中の囁きが教えてくれる。教えてもらわなくても、詰まりの中心は見えた。
「——だから、これは地毛なんです」
人垣の真ん中に、金色の頭の新入生がいた。向かい合っているのは、腕章をつけた三年生。まっすぐな姿勢、まっすぐな視線。今朝の式辞で壇上に立っていた生徒会長だ。
「入学初日にする話としては、簡潔に済ませたいの。染髪は校則で原則禁止。あなたのそれは」
「地毛です」
「根元が黒い」
「……最近、日に当たってなくて」
(無理がある)
るかは教師として仲裁に入るべきだと判断し、判断しただけで足が止まった。生徒会長の背中には、割って入る隙間というものがなかった。
「校則細則第十二条。頭髪の加工は原則として認めない。ただし——」
「ただし?」
「地毛による場合はこの限りではない」
「じゃあ、この限りじゃないです」
「地毛であることの確認が必要よ」
「確認って、どうやるんですか? 地毛証明の書類とか、あるんですか?」
生徒会長が、止まった。二秒。
「……現行の様式には、ない」
「ないなら、違反にもできなくないですか?」
金色の頭が、にこ、と笑った。喧嘩をしている顔ではなかった。むしろ楽しそうだった。周りの人垣から、小さく笑い声が起きる。
「様式は」と生徒会長は言った。「作れる」
「えっ」
「様式がないなら作る。それだけの話。——月影先生」
「はいっ?」
いきなり名指しされて、るかの声は裏返った。初対面である。向こうは新任紹介で名前を覚えたらしい。
「地毛登録届の様式を、教務と詰めていただけますか。年度内に運用できる形で」
「私が?」
「先生方のどなたかにお願いする案件です。いま、ここに、いらっしゃるので」
(いた私が悪いのか。誘導係なのに。私は流れを右に曲げるだけの係なのに)
「……検討します」
「お願いします。——あなたも。様式ができたら、提出すること」
「はーい」
伸ばした返事は、反省の音を一つも含んでいなかった。生徒会長は一瞬だけ何か言いかけ、言わずに、腕章の位置を直して人垣の外へ歩き去った。詰まっていた流れが、ほどけて動き出す。
金色の新入生は、その場でくるりと振り返って、るかを見た。
「先生」
「……なに」
「コスプレ部の見学って、どこに行けばいいんですか?」
「部活動紹介は来週。……って、なんで私に訊くの」
「なんとなく。断れなさそうな顔、してたので」
(否定の材料が見つからないのが悔しい)
「ほら、教室。ホームルーム始まるよ」
「はーい」
同じ伸ばした返事を残して、金色の頭は流れに乗って角を曲がっていった。角の向こうで、同じ中学から上がってきたらしい子が「のん、こっち」と手を振った。金色の頭は、その名前の方へ振り向いて笑った。一年C組の花村さん。呼ばれているのは、のん。今朝配られた名簿の名前が、呼び名ごと、もう顔と一致している。
渡り廊下を春の風が抜けて、るかの手の中の名簿の端をめくった。誘導係の仕事は、あと二十分残っていた。




