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第3章 第三の座標

 未来都市・第零会議室。


 芳樹の前に浮かぶホログラム地球には、青い点と赤い点が幾筋もの軌跡を描いていた。


 青は科学連合国の作戦行動。赤はリンたち奇襲部隊の侵入と撤退ルート。


「ここ、ここ、それからここも。全部、同じ座標計算パターンを使ってる」


 浜原がタブレットを叩きながら言う。


座標移動ムーブポイントじゃなくて、魔法式で計算された跳躍。でも、裏の数値だけ見れば、苫原のテレポートとほぼ同じよ」


「つまり、話が通じる相手ってことね」


 西園寺が未物原子の虚数ボードに、赤い軌跡をなぞるように新しい式を書き込む。


「科学的な空間座標と、魔法陣の座標指定は、理屈が違うだけで結果は同じ。なら、その共通部分に中立科学連携ちゅうりつかがくれんけいの窓口を挟める」


 芳樹は、地図のある一点を指さした。


「ここだ。リン・トレールとリオ・トレールが、最初に未来都市へ侵入したときの座標。あいつらの最初の通路を、中立科学連携専用の第三の座標に書き換える」


「ちょ、ちょっと待って」


 芳美が手を挙げる。


「要するに、お兄ちゃん。戦場への裏口を、そのまま交渉のための裏口にすり替えるってこと?」


「そういうこと」


 芳樹は、指をパチンと鳴らした。


 世界地図の上に、淡い光の輪が一つだけ浮かび上がる。


「ここを潜った魔法使いや魔女は、科学連合国本部にも、魔法教会本部にも行けない。代わりに、どちらにも属さない中立の空間にたどり着く」


「……そこに、私たちが先に待ち伏せして、話をするってわけね」


 優希が静かに頷く。


「家族を守るために戦場に出てきた子たちを、せめて、一度だけでも殺す前に理解するために」


「勘違いするなよ」


 芳樹は、あえて軽く笑った。


「これは甘さじゃない。もし交渉が決裂したら、その場で原因ごと殴り倒すための場所でもある」


 それでも――と、彼は心の中で続ける。


 もしその扉から、リンではなく、傷だらけのリオが転がり込んできたなら。


 彼女を利用する前に、まず治療してやりたい、と。


 科学と魔法。どちらも、自分の大切な誰かのために銃を構えている。


 その銃口の向きが、やがて世界中を焼き尽くす「第三次世界大戦」に繋がることを、


 この時点で完全に理解している者は、まだほとんどいない。


 だが、中立科学連携だけは知っている。


 ――世界が燃え上がる前に、


 少なくとも一度だけ、引き金に触れた手を止める場所が必要だということを。


 中立科学連携が用意した「第三の座標」は、形式上はただの数列にすぎなかった。


 だがその数列を、科学側は軌道エレベーターの中枢コンピュータに、魔法側は転移陣の座標として共有する――そんな無茶な計画が、密かに走り始めていた。


「……そろそろ来る」


 未来都市・第零会議室。


 照明を落とした室内で、佐藤芳樹は目の前の空間に浮かぶ「点」を凝視していた。


 そこには、彼の現在物象プレゼントマターで作られた、何もないはずの空間がぽっかりと穿たれている。ただし世界の外縁だけが、未物原子と座標移動の式でぎっちり補強されていた。


「魔術教会側の転移式、完全に釣られてる。座標変換、あと三秒」


 浜原が端末を叩く。指先が小刻みに震えているのは、緊張か、電撃能力の副作用か。


「向こうは、奇襲部隊とSDSエスディーエスの小隊を同じ座標にぶつけるつもりみたいね」


 西園寺が、虚数ボードを見ながら肩をすくめる。


「魔術教会直属のsearch and destroy of science。科学殲滅専門の狂犬たちよ」


「こっちは、その座標を丸ごと第三の座標にすり替える」


 芳樹は小さく息を吐いた。


「魔法教会の奇襲部隊と、科学殲滅部隊SDS。その両方を、いったんここで止める」


 パチン、と指が鳴る。


 次の瞬間、点が「扉」に変わった。


 光も音もない、ただ輪郭だけが世界から切り抜かれたような穴。


 そこから――二つの影が同時に飛び出す。


 一人は、黒い戦闘ローブに身を包んだ魔術教会直属の男だった。肩には、鋭い三本線で「SDS」と刻まれたエンブレム。

 もう一人は、教会式のローブに魔法陣を走らせた少女――リン・トレール。


「――っ!?」


 二人は互いに衝突しかけたところで、同時に動きを止めた。


 そこは基地でも教会でもない。壁も天井も、床の境目すら曖昧な、白く均質な空間。遙か遠くに、薄く地球の輪郭だけが浮かんでいる。


「座標……ズレた?」


 リンが瞬きを繰り返す。


「ここは魔法同盟国領域でも、科学連合国領域でもない……識別陣が反応しないな」


 SDS隊長は周囲に目を走らせ、眉をひそめた。


 杖を構え、詠唱を始めようとする――だが、トリガーとなる魔力の発動だけが、どこにも引っかからない。


「……魔法が、撃てん?」


「結果側のベクトルを全部、こっちで握ってるからな」


 白い空間の奥から、ゆっくりと歩み出てきた影――佐藤芳樹。


 その後ろには、白衣姿の西園寺と、腕を組んだ芳美、端末を構えた浜原たちが控えている。


「ここは第三の座標。科学でも魔法でもない、中立科学連携の部屋だ」


「中立、だと?」


 SDS隊長が鋭い眼光を向ける。


「魔術教会が設立したSDSは科学を根絶やしにするための組織だ。そんな我々を、わざわざここに引きずり込んだ意味は?」


「簡単よ」


 西園寺が、くいと眼鏡を押し上げる。


「科学殲滅部隊と、魔法教会正規奇襲部隊を、いったん世界の外に避難させた。本来なら科学都市の研究所も、魔法の学院も血まみれになってたはずの衝突を――ここに付け替えたの」


 リンが、はっと顔を上げる。


「……さっきの転移式、やっぱり引き寄せられてたんだ。科学者を捕えるはずのSDSと、援護に入るはずだった私たちが、揃ってこの部屋に……」


「お前たちの敵は、本来互いじゃないはずだ」


 芳樹は、リンとSDS隊長を交互に見た。


「リン・トレール。お前は妹のリオを取り戻したい。SDSの隊長、お前は魔女狩り計画実験で家族を失い、科学そのものを憎んでいる。どっちも、自分の誰かのために剣を取ったって意味じゃ同じだ」


「同じにするな」


 SDS隊長が、低く唸る。


「我々は科学を滅ぼすために刃を研いだ。魔法を穢した疑似の理屈を、この世界から消し去るために」


「私は……」


 リンは、ぎゅっと杖を握りしめる。


「私は、魔法を信じて捕まった妹を取り戻したいだけ。科学を全部滅ぼせなんて、本気で思ったことはないです」


 魔法同盟国の中でも、両者の立場は真逆だ。


 それでも、根っこにあるのは「家族を守りたい」という、同じ感情だと芳樹には見えた。


「だからこそ、ここに連れてきた」


 彼は静かに言う。


「科学連合国の前線に出る前に、魔法側の両極端と話しておきたかった。科学を全部壊したい奴と、科学とも話をしたい奴。どっちも魔法同盟国の中にいるってことを、こっちも理解しておく必要がある」


「……中立科学連携、ね」


 SDS隊長は鼻で笑う。


「科学を守りたい連中が、中立を名乗るか」


「科学だけを守るつもりなら、わざわざ敵の暗部組織を安全な部屋に引きずり込んだりしないよ」


 芳美が、きっぱりと言った。


「私たちは、お兄ちゃんの心臓も、未来都市の人も、あんたたちが守りたい誰かも――できるだけ全部、守りたいだけ」


 白い空間の天井に、かすかなひびが走る。


 現実世界の座標が、転移の揺り戻しを始めていた。


「時間切れ、か」


 芳樹は指を鳴らす。


 扉の向こうに、それぞれの世界への道が開く。


「今日ここで話したことは、魔法同盟国にも、科学連合国にも報告する義務はない。信じるかどうかは自由だ。ただ――」


 彼は、リンとSDS隊長を正面から見据えた。


「リオ・トレールの居場所を突き止めたら、実験材料としてじゃなく一人の人間として保護する。それができなかったら、中立科学連携なんて看板は即座に降ろす。SDSも、魔法教会も、その時は好きに中立を罵倒してくれて構わない」


「……馬鹿みたいに、正面から言い切るわね」


 リンがかすかに笑う。


「同感だ」


 SDS隊長も、口元だけで笑った。


「だが科学を破壊する側として覚えておこう。科学の中に、少なくとも一つ、話の通じる中立科学連携という窓口があることを」


 光が裂け、二人は元の世界へと引き戻される。


 残されたのは、中立科学連携のメンバーだけだった。


「……これで、魔法側の中も、ちょっとは見えたね」


 浜原が小さく肩を回す。


「ああ。魔法同盟国は一枚岩じゃない。だからこそ、科学連合国も一色で動かないほうがいい」


 芳樹は、まだ余韻の残る空間を見上げた。


「第三次世界大戦が始まる前に、せめて、何人かだけでも引き金から指を離せる奴を見つけておきたい。科学側にも、魔法側にもな」


 白い空間がほどけ、第零会議室の光と空調の音が戻ってきた瞬間、佐藤芳樹は、ほんのわずかに膝が笑うのを感じた。


 (……言語野を一部、演算に持っていかれたな)


 中立空間の維持、魔法側二人分の攻撃結果ベクトルの封印――心臓に優しくない作業を、短時間とはいえフル回転でやった後だ。

 胸の奥の手術痕がじん、と重く疼く。


「お兄ちゃん?」


 すぐ横にいた芳美が、アホ毛レーダーをぴくりと震わせてのぞき込んでくる。


「顔色、また悪くなってる」


「駄目だこりゃぁ、ってほどじゃねぇよ」


 わざといつもの口癖を混ぜて返すと、芳樹は軽く胸を叩いた。


「ただ、ちょっと世界の線をいじりすぎた。少し休めば戻る」


「休む前に、報告が先ね」


 白衣の裾を払って立ち上がった西園寺が、虚数空間ボードに残った式を指先で消しながら言う。


「中立科学連携としての初仕事。魔法側のSDSと奇襲部隊を、物理戦場じゃなく会議室にすり替えてきたわけだし」


「向こうの反応は……悪くはなかったと思う」


 宮原優希が、静かに補足した。


「少なくとも、リン・トレールは話の通じる側にいる。SDS隊長は……あれはあれで、筋が通っていた」


「科学を根絶やしにするって言ってる時点で、十分厄ネタだけどね」


 浜原が肩をすくめる。


「でも、中立科学連携って名前は、向こうの暗部にも一応届いた。悪名でも、名が通ってるほうが交渉は楽だよ」


「問題は――科学連合国側のほうだ」


 芳樹は、会議室の扉の方向に視線をやった。


「鷹司元帥は理解してくれるだろうが、監視査委員会は、そう簡単に中立を飲まない」


 科学連合国軍監視査委員会・査問室。


 壁一面にモニターと記録装置が並ぶ、窓のない部屋で、桒原孝彦委員長が静かに書類をめくっていた。


「――で、佐藤芳樹君。君は、魔術教会側のSDS小隊ならびに奇襲部隊を追跡中、突如として全記録が欠損したと報告している」


 落ち着いた声だが、その眼差しは獲物を観察する猛禽のように鋭い。


「はい。通信ログ、映像ログともに空白の三十秒があります」


「空白の間に、何も起きなかったと言えるかね?」


「科学連合国の公式記録としては何も起きていません」


 芳樹は、あくまで淡々とした口調で返す。


「現地時間にして三十秒間、現実世界の座標上では一切の変化がなく、損害もなし。SDSも奇襲部隊も、予定された戦場から外れた座標に迷子になり、そのまま撤退しました」


「迷子、ね」


 桒原は口元だけで笑う。


「君が中立科学連携のリーダーに就任してからというもの、現場で都合よく起こる偶然が増えたようだが?」


「偶然ですよ」


「……ふむ」


 しばしの沈黙。


 査問室の空気が、じわりと重くなる。


「芳樹君。誤解のないように言っておくが、我々は君を疑っているのではない」


「そうですか?」


「君が何かしていることは、最初から承知の上だ。問題は、それが科学連合国の利益に適うかどうか――ただ、それだけだ」


 桒原は書類を閉じ、指先で机を軽く叩いた。


「君の現在物象は、理論上、我々の監視も、記録すらも容易にすり抜けうる。その君が自ら中立を名乗り、科学連合国以外にも力を貸すかもしれない。それを許容するかどうかは、元帥の決裁事項だが――監視査委員会としては、君の胸の内を知っておきたい」


「胸の内、ですか」


 芳樹は、軽く息を吐き、椅子にもたれた。


「俺の優先順位は単純です。第一に、妹と仲間。第二に、未来都市と科学都市。第三に、この世界全体。その順番は、たぶん一生変わりません」


「魔法同盟国は?」


「第三に含まれます。あいつらの中にも、家族を守るためだけに戦ってる奴がいる。そいつらを、まとめて叩き潰すのは――俺の趣味じゃない」


 桒原は、その答えをしばらく噛みしめるように黙っていた。


「……了解した。監視査委員会としては、君の中立行動を、当面容認する」


「以外ですね」


「勘違いするな。それは君を信じたからではなく、鷹司元帥が君に賭けたからだ」


 桒原は立ち上がる。


「第三次世界大戦が始まる前に、君がどこまで世界を誤魔化せるか――それもまた、我々の観測対象だ」


 同じ頃、黒い海を見下ろす断崖の上。


 魔法同盟国・魔術教会本山の地下室では、SDS隊長が報告を終えたところだった。


「……第三の座標?」


 フードを深くかぶった評議員の一人が、低く繰り返す。


「科学でも魔法でもない空間、と君は言う。そこで魔法は発動せず、我らの攻撃も封じられた」


「はい」


 SDS隊長は、わずかに視線を落とす。


「中立科学連携――そう名乗る少年がいました。名は、佐藤芳樹。科学連合国側の最強超能力者です」


「科学の最前線が、中立を名乗ると?」


 評議員たちの間に、不快そうなざわめきが走る。


「科学は疑似だ。あくまで魔法の真似事にすぎぬ。その彼らが、第三の座標などと――」


「……しかし」


 別の老魔導師が口を開いた。


 リンにリオの情報を伝えた、あの老人だ。


「魔法もまた、万能ではない。教会が科学を疑似と呼ぶように、科学もまた魔法をオカルトと切り捨てる。だが、その両方の隙間に生まれた何かを、我々はまだ知らない」


「老人殿は、科学に肩入れするおつもりか?」


「逆だ」


 老魔導師は、軽く首を振った。


「ワシは、両方が自分こそが正しいと信じ込んだまま戦争に突き進むのを恐れておる。佐藤芳樹とやらは、その流れに石を投げ込んだ。それが我々にとって毒となるか、薬となるか――それを見極める価値はある」


 沈黙。


 SDS隊長は、そのやりとりを黙って聞いていた。


「……いずれにせよ」


 最終的に評議会が出した結論は、短かった。


「SDSはこれまでどおり、科学殲滅を使命とする。ただし、中立科学連携――その名を持つ者が戦場に現れた場合、勝手な独断攻撃は禁じる」


「承知しました」


 隊長は頭を下げる。


 その胸の内で、先ほどの白い部屋と、そこで交わされた言葉が、じわじわと形を変えつつあった。


 (科学は、全部燃やすべき敵――そのはずだった。なのに)


 家族を守りたいと語った、科学側の少女の瞳。


 自分たちと同じ色をしていたことだけが、どうしても頭から離れない。


 科学連合国・極秘研究施設。


 分厚い強化ガラスの向こうで、一人の少女が眠っていた。


 白い拘束服に包まれた身体。


 うっすらと開いた唇から、規則正しい呼吸だけが漏れている。


 ――リオ・トレール。


 コードN0854。魔法教育教会の生徒にして、魔法妖術演算実験の最重要サンプル。


「魔力パターン、やはり美しいですね」


 モニター前で、白衣の研究員が感嘆の息を漏らす。


「純度が高い。超能力とはまったく別系統の演算式として成立している。このデータがあれば、三大能力実験計画も――」


「やめろ」


 低い声が、それを遮った。


 研究室の扉にもたれかかるようにして、佐藤芳樹が立っていた。


「その先の台詞は、ここでは言うな。人間を材料にする計画は、もう全部お蔵入りのはずだ」


「しかし、芳樹君――」


「この子は、データの塊じゃない。リン・トレールの妹で、誰かの家族だ」


 芳樹は、ガラスの向こうのリオを見つめた。


 眠っているはずの彼女の眉が、ほんの少しだけひそめられる。


 (聞こえてるかどうかは、わからないけどな)


「中立科学連携の名で、この施設を観測対象に切り替える。リオ・トレールの処遇は、軍でも教会でもなく――中立科学連携の判断に委ねる」


「勝手なことを」


「勝手だよ」


 あっさり認めて、芳樹は指を鳴らした。


 パチン――。


 ガラスの表面に、薄い光の膜が張られる。


 物理的な衝撃も、魔法的な干渉も、ベクトルごと外側へ逃がす簡易結界。


 現在物象の応用としては、あまりに単純なシールドだ。


「この部屋に、実験という名の暴力を持ち込ませないための最低限だ。それでも文句があるなら――」


 彼は、ちらりと研究員たちを見やる。


「中立科学連携に正式抗議してくれ。科学連合国が、科学のために人間を壊そうとしているってな」


 誰も、何も言えなかった。


 その夜。


 未来都市の空には、人工オーロラと、戦略衛星の軌跡が交差していた。


 科学連合国も魔法同盟国も、それぞれの正義の名のもとに兵を動かし始めている。


 まだ、誰も正式には「第三次世界大戦」とは呼ばない。


 だが、中立科学連携だけは知っていた。


 ――世界がそう名付ける日が、もうすぐそこまで来ていることを。


 そしてその火蓋が切られる場所に、自分たちが間違いなく立ち会うことを。


 理工学都市の夜は、本来ならば静かだ。


 高層の研究棟群の間を縫うように、無人輸送車が自律走行で往来し、路面を走る導波路には淡い青白い光が脈打っている。上空には、科学連合国軍の監視ドローンが一定の軌道を描きながら周回していた。

 ――その「静かさ」が、少しずつ狂い始めていることに、最初に気づいたのは機械ではなく、人間だった。


「……風が、変だ」


 理工学都市外縁部。冷たい夜風が吹き抜ける工業地区の屋上で、フードを目深にかぶった少女が、そっと手を伸ばす。

 リンは、目を閉じて息を吸い込んだ。


 街を吹き抜ける風の流れ。その中に混じる、熱源の分布、排気の構造、監視用ドローンのプロペラが刻む周期的な乱れ――それら全てを、感覚と魔法式で重ね合わせる。


「上空の巡回経路、把握。視界妨害の魔法は?」


 低い声で問うたのは、彼女の隣に腰を下ろしている青年だ。魔法同盟国の特殊部隊に所属する魔術師、リカルド。黒い外套の袖口から、魔力を帯びた光の紋がちらりとのぞく。


「もう張ってあるわ。こっちを見ようとしても、少し視線がずれる程度だけど……機械相手ならこれで十分」


 リンは指先で小さな魔法陣を弾いた。都市上空を旋回していた一機のドローンが、ほんのわずかにカメラの向きを外し、彼女たちが潜む屋上を死角へと押しやる。

 視界の隙間。監視網の穴。


 そこを、魔法同盟国は狙ってきた。


「合図を。第一班、工業区の制御中枢。第二班は、研究棟群への突入。わたしたちは――」


「中央管制塔ね」


 リカルドが口角を上げる。


「理工学都市の頭脳を叩けば、あとは好きに暴れてもらえる」


 リンはうなずくと、首に提げた通信用の魔導具に触れた。


「――鳥の名前に告ぐ。夜明け前の空は、まだ暗い。準備はいい?」


 こっちはとっくに真っ暗だぜ


 軽口混じりの声が返ってくる。爆破担当の魔術師、ガルドの声だ。


 工業区のガス配管、全部安全な方向に向けておいてやった。お前らが暴れた拍子に、いい感じに吹き上がるはずだぜ


「暴れるのはあくまで結果よ。目的は――」


「わかってるさ。理工学都市の演算コアを落として、科学連合国の戦略頭脳に穴を開ける。だろ?」


 リンは小さく笑った。


「……じゃあ、始めましょうか」


 その呟きと同時に。


 理工学都市の夜が、爆ぜた。


 最初の爆発は、工業区の端のガスタンクだ。


 轟音とともに、オレンジ色の火球が夜空を裂く。遅れて、衝撃波と熱、飛散する破片。それらすべてが、緻密に計算された安全側――人員の少ない方向へと逸らされていた。

 爆炎がそびえ立つのは、都市防衛システムのセンサー群にとっては、これ以上ない「異常発生地点」である。


 数十機のドローンと地上自律兵器が、その一点に向けて一斉に軌道を修正する。


 ――その裏側を、音もなく滑り込む影があった。


「陽動、成功。行くよ!」


 リンが屋上から飛び降りる。足元に展開された風の魔法陣が、落下の衝撃を吸収し、そのまま滑るように地表を走らせる。

 彼女の背後では、リカルドと数名の魔術師が次々と飛び降り、無言で追従する。


 理工学都市の街路に足を踏み入れた瞬間、足元の導波路が警告色に変わった。赤いラインが走り、上空にホログラムの警戒文が浮かび上がる。

 警告。未登録熱源の侵入を確認――


 機械的な声が言い終わる前に、リンは腕を振り抜いた。


「【風刃ウィンド・スラッシュ】!」


 高速で圧縮された風の刃が、路面を走る無人装甲車の砲塔を、容易く切断する。切断面から火花が散り、車体が横転した。

 続いて、リカルドが詠唱も早口でなぞる。


「【光のルクス・ランス】!」


 眩い光の槍が、街角に設置された自動機銃塔を貫き、内部の制御回路を焼き切った。


 立て続けの制圧。理工学都市の防衛AIが状況を再評価する前に、彼らはすでに次の路地へと姿を消している。

 同じ頃。


 理工学都市中央部、円筒状の巨大な建造物――中央管制塔の高層フロアで、ひとりの少年が、ホログラムの地図をにらみつけていた。


「……工業区のガスタンクが、一斉に爆発? しかも、破片の飛び方が綺麗すぎる」


 佐藤芳樹。


 科学連合国、中立科学連携のリーダーにして、未来都市と科学都市で第一位に君臨する最強の超能力者。理化学系能力現在物象の使い手だ。

 彼の目の前には、理工学都市全域の立体マップが表示されていた。その上に、爆発地点、熱源、通信の途絶、異常な電磁パターンが、次々と赤い点で上書きされていく。


 だが、芳樹の視線は、工業区の派手な光ではなく――その「陰」に生まれた、小さな空白に向いていた。


「……こっちだな」


 工業区から中央区画へと向かう数本のルート。そのうち一本だけ、カメラログに、ごく短いフレーム欠損がある。

 人間の目で見れば見落とすほどの、コンマ数秒の欠損。


 だが、彼は人間離れした演算能力で、そのフレーム欠損の「前」と「後」の差分から、そこを通過した影の形、人数、速度まで割り出していた。


「未登録の熱源、7。うち三つは魔力反応。この流れは……魔法同盟国の精鋭部隊ってところか」


「お兄ちゃん、その顔。完全に戦闘モードだね」


 背後からひょいっと顔を出したのは、白衣の裾を翻す少女――佐藤芳美だった。


「芳美」


「理工学都市の防衛、私たちに任されたんでしょ? だったら、行かないと」


 彼女は口の端を上げると、指先で自分の髪をつつく。一本の髪の毛がぴん、とアンテナのように立ち上がり、周囲の生命反応を探り始めた。


「うん、来てる来てる。こっちに向かって、かなりのスピードで接近中。あと三十秒もすれば、中央区画入口で鉢合わせだよ」


「さすがだな。……駄目だこりゃぁ、完全に奇襲だ」


 芳樹は額に指を当て、軽くため息をついた。


 だが、その声には焦りはない。むしろ、どこか楽しげな色さえ混じっている。


「ま、奇襲だろうが正面突破だろうが――」


 右手の指を、ぱちん、と鳴らす。


 視界の前方、中央区画への大通りに、厚み数十センチの透明な壁が、何もない空間から現れた。ガラスのように見えながら、実際には完全に別種の物質――芳樹が演算で生成した、超高密度の防御障壁である。


「ここは通さないさ。お前らに、現在物象してやるぜ」


 中央区画への入り口。


 リンたちが曲がり角を抜けた瞬間、視界いっぱいに透明な壁が立ちはだかった。


「っ……!」


 反射的に、リンは脚に風をまとわせて急停止する。間一髪で衝突を免れたが、背後からついてきていた魔術師たちが次々とぶつかり、ドミノ倒しのように重なった。


「な、なんだよこれ……」


「透明な防壁……魔法の気配は、ない」


 リカルドが額に汗をにじませながら、手のひらで壁に触れる。冷たく、硬い。だが、魔力の流れは感じない。魔法ではない。


「超能力――」


 そう呟いた瞬間、頭上から声が降ってきた。


「その通り。魔法じゃない。こっちは科学連合国の、超能力だ」


 見上げれば、中央管制塔から伸びる歩廊の上に、白衣の少年がひとり、風にコートをなびかせて立っていた。

 佐藤芳樹。


 リンは、その名を即座に思い浮かべる。魔法同盟国側の情報部から、幾度となく聞かされてきた、科学側最強の超能力者の名だ。


「やっと会えたね、科学連合国の天才さん」


 リンは、壁越しに微笑む。


「理工学都市、ちょっと借りに来ただけなんだけど?」


「貸す気はないね。ここは科学連合国の頭脳だ。――バカじゃ俺は倒せない、って言ったら信じるか?」


「生憎、私はそんなにバカじゃないつもりなんだけど」


 軽口を交わす二人の間で、空気がぴしりと張り詰める。


 次の瞬間、リンは迷わず詠唱に入った。


「【圧縮風衝コンプレスト・ガスト】!」


 防壁の前面に、超高圧の風が叩きつけられる。ガラスを粉々に砕くほどの圧力だが、透明な壁はびくともしない。逆に、その風が弾かれ、軌道を変えて、彼女たちの背後へと吹き返された。


「――っ!」


 髪が激しくはためき、コートの裾が持ち上がる。リカルドが咄嗟に光の盾を展開して、後方への被害を抑えた。


「攻撃が……押し返された?」


 リンが目を見開くと、頭上の少年は肩をすくめてみせた。


「こっちに向かってくるベクトルは、デフォルトで反射する設定なんでね。風でも、弾丸でも、エネルギーでも、大体は外側に弾き飛ばす」


 それは、彼の能力がもたらす、自動防御――絶対反射。彼の身に向かうベクトルを、無意識下で常に外側へと向けてしまう、理不尽なまでの防御性能だった。


「ただし、今のは壁に組み込んだ限定版だけどな」


「……チートにもほどがあるでしょ」


 リンは息を吐き、すぐに次の手を組み立てた。


 正面からの攻撃は反射される。だが――


「横と、下はどうかしら?」


 彼女は地面に手をつき、魔法陣を描く。


「【土崩し(クラッシュ・アース)】!」


 路面が轟音を上げて砕け、壁の根元から土砂がめくれ上がる。防壁の支えを奪い、足元から崩そうという狙いだ。

 だが、その狙いを読んだように、芳樹は指を鳴らした。


「そこまで単純だったら、中立科学連携のリーダーはやってないさ」


 地面を構成していたコンクリートの内部にまで、彼の演算が入り込む。路面という「物質」の重力ベクトルが、瞬時に再設定され、土砂は持ち上がることも、崩れ落ちることも許されないまま、奇妙な安定を保ってしまった。

 リンの魔法で生じた亀裂が、まるで時間を止められたように、途中で動きを失う。


「っ……!」


 (地面の重力ベクトルごと固定した……?)


 攻撃の一手、封じられた。


 その一瞬の隙を、別方向から突いたのは――


「うわ、真正面からは無理そうだね。じゃあ――上から、行こっか!」


 陽気な声と共に、防壁のすぐ上、空中に白い影が飛び込んできた。


 白衣をなびかせ、背中から鋼鉄の翼を広げた少女。両腕は刃へと変形し、脚部はバネのような筋肉で膨れ上がっている。

 佐藤芳美。


 変形体型トランスの能力で全身を武器に変えた彼女が、防壁とリンたちの間の空間に、逆光を切り裂くように降り立った。


「お兄ちゃん、正面受けてくれてありがとー! あとは、こっちの仕事!」


 その笑顔は、戦場に似つかわしくないほど無邪気だ。


 だが、リンは本能的に悟っていた。


 ――この少女は、見かけ以上に危険だ、と。


「リカルド、後衛は任せる。ここから先は、突破力勝負よ!」


「了解。……光は、暗闇でこそ映えるからな」


 リカルドは後方の魔術師たちを庇うように位置取り、光の陣をいくつも展開する。狙撃用、迎撃用、防御用――精密に角度を調整された光の槍と盾が、空中に整然と並んだ。

 その前で、リンと芳美が、一歩ずつ前に出る。


 風と鋼鉄。


 魔法と超能力。


 理工学都市の大通りを挟んで、二人の少女が、初めて真正面からぶつかり合った。


 その一瞬を、中央管制塔の上から見下ろしながら、芳樹は胸元を押さえた。


 (……ちょっと、心臓に来るな)


 生まれつきの心臓病。いくら能力が圧倒的でも、身体そのものは人間のままだ。連続して重い演算を行えば、その負担はすべて彼の心臓にのしかかる。

 爆発のベクトル反射、防壁の生成、路面の重力制御――短時間にやりすぎた。


 心拍数がわずかに乱れ、視界が一瞬だけ暗くなる。


「……駄目だこりゃぁ。長期戦は、ほんと性に合わねえ」


 それでも、彼は笑った。


「ま、すぐ終わらせれば問題ないか」


 指を鳴らす音が、再び夜空に響く。


 理工学都市を揺るがす、科学連合国と魔法同盟国の戦闘。その幕は、今まさに、上がったばかりだった。

 理工学都市・中央区画。


 冷たい夜気を切り裂くように、二人の少女が同時に踏み込んだ。


 リン・トレールの足元に、淡い緑の魔法陣が花開く。圧縮された風がブーツの裏から噴き出し、彼女の身体を弾丸のように前へと押し出した。

 対する佐藤芳美は、背中の鋼鉄の翼を一度だけ大きく羽ばたかせ、地面を砲弾並みの勢いで蹴り出す。筋肉が盛り上がり、骨格ごと戦闘用に変形していく。


「【風弧刃ウィンド・アーク】!」


 リンが杖を横薙ぎに振る。


 その軌跡をなぞるように、三日月形の風の刃が連続して走り、空中から芳美を切り刻まんと迫る。


「お兄ちゃんの妹、ナメるなぁっ!」


 芳美は笑い声とともに、翼を盾のように前へ畳んだ。


 鋼鉄と生体組織が融合した翼が、風刃を真正面から受け止める――と思われた次の瞬間、翼全体がぐにゃりと変形し、刃の軌道をなめらかに滑らせて流してしまう。

 風が弧を描き、二人の脇をすり抜けて街灯の列をまとめて薙ぎ払った。


変形体型トランスってのは、こういう芸当もできるんだよね~」


「物理ルール、だいぶ無視してない!?」


 リンが目を見張る。


 芳美は、翼を刃へと再変形させながら、地面を滑るように接近してきた。


「そっちこそ、風と一緒に魔法陣まで滑らせてくるの反則でしょ!」


 交錯。


 リンの杖の先端から放たれた高圧の風弾と、芳美の腕の刃が、真ん中で激突した。


 金属が軋むような音とともに、衝撃の波が周囲に広がる。舗装路に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、近くに停めてあった無人車両がまとめて持ち上がるように跳ねた。


「【光のルクス・ランス】、散弾仕様!」


 後方からリカルドの声が飛ぶ。


 空中に展開された魔法陣から、無数の細い光の針が雨のように降り注いだ。


 狙いは、芳美の死角――背中側。


「っ、させない!」


 芳美は即座に反応した。


 背中の翼を「盾」ではなく「鉄板の雨」に変形させてばらまき、自分の周囲に厚い金属片の壁を作り出す。細い光の針の多くがそれに弾かれ、火花となって散った。

 一部が隙間を抜け、芳美の腕や頬をかすめる。


「いったぁ……」


 白い肌に細い切り傷が走り、血がにじんだ。


 だが、その傷は数秒と持たず、むずむずと肉が盛り上がってふさがっていく。


「再生能力持ち……厄介ね」


「そっちも十分厄介だってば!」


 二人は同時に距離を取り、互いに息を整える。


 その頭上では――


 中央管制塔の上層歩廊で、佐藤芳樹は、理工学都市全体の立体映像を睨み続けていた。


 工業区の炎はなお上がり続け、別働隊と思しき魔術師たちが研究棟へ向かっているのが分かる。


「こっちも、そろそろお出ましってわけね」


 西園寺の声が、通信回線越しに響く。


 彼女は理工学都市の別棟、臨時の中立科学連携サブ拠点から、未物原子の演算で全体の装甲を引き上げていた。


「研究棟群の外壁、未物原子コーティング完了。あれなら多少の魔法じゃ穴は開かないわ」


「助かる。……ただ、中央管制塔は俺が守る」


 芳樹は、わずかに苦笑する。


「ここ、落とされたら全都市の防衛制御がダウンするからな。バカじゃ俺は倒せないって言い張るには、一番落としちゃいけない場所だ」


「心臓は?」


 通信の向こうで、西園寺がさらりと訊く。


「駄目だこりゃぁ、ってほどじゃない。長引かせなきゃ問題ないさ」


 そう言い切って、彼は歩廊の手すりから身を乗り出した。


 足元の空間に、薄い板のような足場が次々と生成されていく。


 現在物象で作られたベクトルの階段だ。重力をいじり、自分だけが踏める見えない階段を空中に敷き詰める。


「ちょっと、近くまで行ってくる」


 彼は空を歩くように、戦場へと降りていった。


 地上。


 リンと芳美の間合いが詰まる瞬間、周囲の空気が、ふっと軽くなった。


 重力が、一瞬だけ弱くなる。


「――え?」


 リンが踏み込みの感覚の違いに戸惑った隙を、芳美の脚が捉えた。


 変形した脚部がバネのようにしなり、鋭い回し蹴りがリンの側頭部を狙って飛ぶ。


「【風盾ガスト・シールド】!」


 咄嗟に風の盾を展開するリン。


 だが、重力が軽い分だけ踏ん張りが効かず、衝撃を完全には殺しきれない。


 盾ごと弾き飛ばされ、彼女の身体が路面を滑り、近くの自販機に背中から激突した。


「リン!」


 リカルドが叫ぶ。


「大丈夫っ……!」


 リンは歯を食いしばり、自販機を蹴って立ち上がる。


 額から血が流れ、片目にかかる。それでも、杖の先は微塵も揺れていない。


「今の、重力……」


「お兄ちゃんの仕業だよ!」


 芳美が、嬉しそうに――しかし誇らしげな声で言う。


「相手の足場の重さをちょっと変えるくらい、朝飯前なんだよね。ね、お兄ちゃん!」


 その呼びかけに応じるように、空中からひらりと白衣の影が降り立った。


 佐藤芳樹。


 彼は二人のちょうど中間、十数メートル先の路面に、音もなく着地した。


 足元にベクトルの陣が淡く光る。


「よう。魔法教会の優等生さん」


 軽い口調。


 だが、リンの肌が総毛立つ。


 目の前の少年から放たれている何かが、あまりにも静かだからだ。


 魔力でも殺気でもない。


 ただ、世界そのものへの理解が異常なレベルに達した者だけが持つ、「揺れない重さ」。


「――佐藤芳樹、ね」


 リンは、額の血を拭いながら、彼の名を口にした。


「さっき中立科学連携とやり合った時は話が通じそうだと思ったけど……今はただの、理工学都市の防衛者?」


「どっちもだよ」


 芳樹は肩をすくめる。


「中立科学連携のリーダーであり、科学連合国の人間であり、芳美の兄貴。それを全部足したのが俺だ」


「……欲張りね」


 リンが苦笑する。


「妹さんを守りながら、都市も守って、世界も守ろうとして。そんなの、心臓がいくつあっても足りないわよ」


「残念、ひとつしかない。しかも中古品だ」


 冗談めかしつつ、自分の胸を小さく叩く。


 その下には、長期戦に向かない弱い心臓と、大手術の痕跡が静かに鼓動している。


「だから、長引かせるつもりはない。――ここから先は、さっさと片を付ける」


 次の瞬間。


 空気が「止まった」。


 リンの頬を伝っていた血の雫が、空中でぴたりと動きを止める。


 風も、塵も、視界の端で飛んでいた破片も――全てが、まるで世界から切り取られたかのように静止していた。


「っ……!? 時間停止!?」


 リンの背筋に冷たいものが走る。


 だが、すぐに気づく。


 自分の心臓は、まだ動いている。


 リカルドの魔力の鼓動も、芳美の呼吸も、耳に届いている。


 ――止まっているのは、「動き」だけだ。


「ベクトルを、一時的にゼロ固定してるだけさ」


 芳樹の声が、ありえないほどくっきりと響いた。


「世界全部を止めるなんて器用な真似はできない。ただ、この大通りの、運動量と加速度だけを、一瞬ゼロに縫い付けただけ」


 彼は歩き出す。


 止まった破片の間を、ゆっくりと。


「魔法の弾も、飛んでる瓦礫も、敵味方の不意打ちも。今動いているものは、いったん全部、休んでもらう」


 リンは、自分の指先を無理やり動かそうとする。


 だが、筋肉に命令が届いても、その先の「動き」がベクトルとして世界に反映されない。


 (これが……現在物象……)


「安心しろ。すぐ解いてやる」


 芳樹は、リンの目の前で立ち止まった。


 彼女の瞳と、真正面から視線を合わせる。


「その前に、一つだけ聞かせろ、リン・トレール」


 声は、驚くほど穏やかだった。


「お前は、本気で理工学都市を焼きたいと思ってるか?」


「……!」


 喉が詰まる。


 言葉が、出ない。


 魔法は、自分の意志に忠実だ。


 この問いに嘘をつけば、その歪みは、いずれ自分の詠唱を蝕む。


 (私は――)


 頭に浮かぶのは、故郷の村を焼いた炎。


 火刑台に縛られたリオの顔。


 科学者たちの冷たい視線。


 そして、白い中立空間で見た、科学側の少女の瞳。


 自分と同じ、「家族を守りたい」と言っていた瞳。


「……全部、焼きたいわけじゃない」


 ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。


「魔女を実験材料にした研究所は、叩き潰したい。妹を奪った連中には、同じ痛みを味わわせたい。でも――そこに住んでる、名前も知らない子どもたちまで焼きたいわけじゃない」


 芳樹は、しばらく黙って彼女を見ていた。


 やがて、短く息を吐く。


「……なら、まだ間に合う」


 彼は指を鳴らした。


 パチン――。


 止まっていた世界に、再び音と動きが戻る。


 落ちかけていた血の雫が頬を滑り、破片が地面に落ち、風が路地を駆け抜ける。


「リン!」


「お兄ちゃん!」


 リカルドと芳美の声が、ほぼ同時に重なった。


 だが、その瞬間にはもう、さっきまでの「衝突の瞬前」ではなかった。


 芳樹は、リンの前から一歩だけ退き、距離を開けていた。


「理工学都市の研究棟に、魔女実験の痕跡はもうない。少なくとも、この国の表向きの計画としてはな」


 彼は、あえてゆっくりと言う。


「もし、まだ残ってるとしたら――それは俺も潰したい。お前らに焼かれる前に、な」


「……何、それ。こっちの仕事を横取りするって言いたいわけ?」


 リンの声に、ほんの少しだけ笑いが戻る。


「中立科学連携、仕事の範囲が広すぎない?」


「欲張りだからな」


 芳樹も笑った。


「だから、提案だ。お前ら奇襲部隊は――今日のところは理工学都市から退け。その代わり、中立科学連携名義で、理工学都市内部の黒い研究を徹底的に洗う。結果は、魔術教会側にも共有する」


「そんなの、信じろってのが無理よ」


「信じなくていいさ」


 彼はあっさりと言い切った。


「ただ一個だけ覚えておけ。魔女を材料にした計画を俺が見つけたら――中立とか科学とか関係なしに、その場で全部ぶっ壊す」


 リンの胸の奥で、何かがかすかに揺れた。


 リオの寝顔。


 科学側の施設の白い壁。


 そして、この少年の、妙にまっすぐな言い方。


「……勝手にしなさい」


 結局、出てきたのはそんな言葉だった。


「でも、理工学都市の防衛網の穴は全部記録したわ。次に来るときは、本気で落としに来ると思っておいて」


「ああ。その時は、その時で、また現在物象してやるさ」


 彼は指を鳴らす。


 理工学都市上空に、巨大な光のサインが描かれた。


 魔法同盟国部隊、撤退中――科学連合国軍への、明確な情報提示だ。


 同時に、工業区で暴れていた炎が、ベクトルを変えられて徐々に弱まっていく。ガスの流れが逆転し、熱エネルギーが上空へ逃がされているのだ。


「悪いけど、第三次世界大戦の火蓋を切る場所に、ここを選ぶつもりはない」


 芳樹の言葉に、リンは肩をすくめた。


「……あんた、本当に欲張りで、面倒くさいやつね」


 彼女は背を向ける。


「リカルド、撤退するわ。今日の目的は――情報収集に変更。理工学都市の反応を見られただけで、十分」


「了解」


 魔術師たちが、一斉に後退の陣形を取る。


 風と光の魔法陣が彼らの足元に展開され、夜の街路を、一陣の疾風のように駆け抜けていった。

 残されたのは、まだ息を弾ませている芳美と、歩廊から降りてきた科学連合国の防衛部隊だけだった。


「……お兄ちゃん、手抜きした?」


「全力だよ」


 芳樹は、胸を押さえながら苦笑する。


「全力で、戦争の始まりを一個、延長した」


 理工学都市の夜空には、まだ爆発の残光が残っていた。


 それでも、都市は燃え尽きてはいない。


 第三次世界大戦と呼ばれるはずだった「最初の戦い」は、


 ほんのわずかな選択の差で、前哨戦へと姿を変えたのだった。


 理工学都市の空に残っていた炎の名残が、ようやく夜風に千切れて消え始めたころ。


 中央管制塔の屋上で、佐藤芳樹はひとつ、深く息を吐いた。


 胸の奥で、不規則な鼓動がわずかに跳ねる。


 (……ギリギリ、セーフだな)


 理工学都市は無事。研究棟も、管制塔も、住民区画も焼けていない。


 だがその一方で、魔法同盟国は「理工学都市の防衛反応」と「中立科学連携の介入条件」を、しっかりと記録して持ち帰ったはずだった。


「お兄ちゃん」


 背後から、遠慮のない足音とともに声が掛かる。


 血の跡はすでに消え、どこもかしこも新品同然に再生した佐藤芳美が、缶ドリンクを二本ぶら下げて現れた。


「はい、心臓お疲れ様コーラ」


「……ネーミングがひどい」


 苦笑しつつ受け取り、缶の冷たさを胸の前でしばらく当てる。


 炭酸の微かな刺激が喉を通り抜けるころには、乱れていた鼓動も、ようやく落ち着き始めていた。


「さっきの子、リンちゃんだっけ?」


「ちゃん付けする距離感じゃないと思うがな」


 それでも、と芳美は夜空を見上げる。


「でもさ、あの子、本気で街を焼く顔じゃなかったよ」


「……ああ」


 さっき「全部焼きたいわけじゃない」と言ったときのリンの表情を、芳樹も思い出していた。

 憎しみも、怒りも、復讐も、全部抱えて、それでも最後の一線で踏みとどまろうとする顔。


「第三次世界大戦って名前がつく戦争は、たぶんもう止められない」


 ぽつりと、彼は呟いた。


「科学側にも、魔法側にも、引けない理由を持ってるやつが多すぎる。でも――その中で何人かだけでも、引き金から指を離せるやつを増やせれば、戦争の形は変えられる」


「戦争そのものを止めるんじゃなくて、形を変える、か」


 芳美は、兄の横顔をじっと見つめる。


「相変わらず、欲張りだね」


「欲張りなのは、お互い様だろ」


 二人の笑い声を、夜風がさらっていった。


 魔法同盟国側。


 断崖に張り付くように建つ魔術教会の塔の一室で、リンは報告を終えたところだった。


「――理工学都市中枢への再侵入は、不可能。超能力者、現在物象による反射障壁とベクトル制御により、攻撃は一部を除き無効化。ただし、防衛側は全面殺戮を選択していない。住民区画への攻撃も、迎撃も、一切なし」


 老魔導師は目を細め、静かに頷いた。


「つまり、やつらはまだ線を見ておるというわけじゃな」


 リンは黙って拳を握る。


「魔女実験の痕跡も、見当たりませんでした。ですが、中枢へのアクセス権を押さえれば、隠された層の有無も――」


「それは、向こうの中立科学連携とやらが先に嗅ぎ回るじゃろう」


 老魔導師の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


「戦争とは、不便なものだ。科学連合国の中に、魔女実験を憎む者が生まれ、魔法同盟国の中に、科学と話したいと願う者が生まれる。その不便さが、戦場の地形を複雑にする」


「……不便なのは、嫌いじゃないです」


 リンは、静かに言った。


「単純な正義と悪の戦いなんて、嘘ですから。私が見た科学側の子も――たぶん、私とあまり変わらない」


 白い空間で見た少女。


 理工学都市でぶつかり合った、鋼鉄の翼の少女。


 そして、その二人の兄として立っていた少年。


「次は、本気で殺し合うことになるかもしれないけど」


「その時は、その時じゃ」


 老魔導師は、杖の先で床を軽く叩いた。


「ワシらの役目は、その殺し合いがどれだけ世界を変えるか、よく見届けることよ」


 科学連合国軍本部。


 最高評議会の円卓の上には、理工学都市の戦闘記録が、いくつもの角度から投影されていた。

 炎上する工業区、爆ぜるガスタンク、侵入する魔術師たち――そして、中央区画で対峙する二人の少女と、白衣の少年。


「――これを前哨戦と見るか、開戦と見るか、だな」


 鷹司元帥の低い声が、重い沈黙を破る。


「公式記録上、理工学都市における死者はゼロ。負傷者は軽傷数名。魔法同盟国側の被害も、確認できている範囲では戦闘不能が数名だ」


 円卓の一部がざわめく。


 この規模の奇襲で、死者ゼロは異常と言っていい。


「中立科学連携の介入の結果だろう」


 監視査委員会の桒原が、腕を組んだまま言った。


「君が戦場を再構成したのは、映像を見れば明らかだ、芳樹君」


 視線が一斉に芳樹に集まる。


 彼は椅子の背にもたれながら、わずかに肩をすくめた。


「理工学都市を焼き払われたくなかっただけですよ」


「ついでに、第三次世界大戦の火蓋も閉じてきた、というわけか」


 鷹司の口元に、皮肉とも称賛ともとれる笑みが浮かぶ。


「――いいだろう。今回の理工学都市奇襲を、中立科学連携による防衛成功として正式に記録する」


 円卓の一角から、反対の声が上がりかけた瞬間、元帥は軽く手を上げて制した。


「勘違いするな。これは、中立科学連携に全権を委ねるという意味ではない。第三次世界大戦に向けて、我々はまだいつでも引き金を引ける位置にいる。ただ――」


 そこで彼は、立ち上がってホログラムを一つ指差した。


 中央区画で、自販機に背中から叩きつけられ、それでも立ち上がるリン。


 その前で、指を鳴らす白衣の少年。


「世界の誰もが引き金に指をかけたままの戦場で、指を離すという選択があると教えたやつが、一人だけいた。その事実は、きちんと記録しておくべきだ」


 鷹司は、円卓越しに芳樹を見据える。


「佐藤芳樹。中立科学連携リーダーとしての裁量を、ここに正式に拡大する。次に魔法同盟国との正面衝突が起こる時――お前がこれはまだ第三次世界大戦じゃないと言うなら、私はそれを最大限尊重しよう」


「……ハードル、高すぎません?」


 そう言いつつも、芳樹の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


「その代わり、いざもう戦争を避けられないと言うなら――」


「その時は、元帥の戦争を全力で手伝いますよ。バカじゃ俺は倒せない、って思い知らせるためにな」


 重い沈黙の底で、わずかな笑いが生まれた。


 理工学都市奇襲事件。


 後に歴史教科書では「第三次世界大戦・零日前夜」と記されるこの出来事は、


 公式には武力衝突と中立科学連携の初陣として淡々と記録されるだけだった。


 だが、そこに関わった者たちの心には、別の意味で刻まれている。


 ――世界大戦の火蓋は、まだ降りていない。


 けれど、その綱はもう、誰かの指先で、ぎりぎりのところまで引かれているのだと。


 ――フランス・パリ郊外。


 鉛色の雲の下、森の向こうに、尖塔と石壁が連なる魔法教育教会本部のシルエットが浮かび上がっていた。

 石畳の中庭は、すでに戦場だった。


 炎の柱と電磁弾が交錯し、砕けたアーチの隙間から、遠くパリ市街のエッフェル塔がかすかに覗いている。


「――光属性、防御に回して! 火と風は正面、土は足場を固めて!」


 吉崎マヤの号令に、上級生たちが一斉に詠唱を重ねる。


 五大属性の魔法陣が重なり合い、教会本棟の前に光の壁を築いた。


 その壁を、科学兵隊の弾丸と衝撃波が叩く。


「こっちも、そろそろ本気出さねーとな」


 佐藤芳樹は、砕けた聖堂の柱にもたれかかりながら、静かに息を整えた。


 心臓の奥で、不規則な鼓動が強く跳ねる。長期戦は本来、もっとも避けるべき展開だ。


「お兄ちゃん、顔色悪いよ」


 頭上から軽い声が降ってくる。


 振り向けば、鋼鉄の翼を広げた芳美が、瓦礫の上に降り立ったところだった。


「寮と幼年部棟のシェルター、全部確認してきた。中の子たち、一人も傷付いてないよ」


「なら、よし」


 芳樹は短く頷き、指を鳴らす。


「――現在物象」


 教会本棟と寮棟を結ぶ回廊の上に、透明な橋がいくつも出現する。


 科学兵隊の機動鎧部隊がその上を走り、魔法使いたちの頭上から回り込んでいく。


「上だっ!」


 マヤが気づき、杖を振る。


 風の槍が空中を切り裂き、機動鎧の装甲をかすめる。


「浜原!」


「了解、空域制圧!」


 浜原が電子操作エレクトロンを発動し、空中に電磁の網を張る。


 雷光が風の槍ごと分解し、別方向へと散らしていった。


「科学のくせに……!」


 マヤは、歯噛みしながら叫ぶ。


「ここは、魔法を信じる子どもたちの場所なんだよ!家も、家族も奪われて、その代わりに与えられた居場所なんだ!」


「それは――こっちも同じだ」


 瓦礫を踏みしめ、芳樹が前に出る。


「こっちのガキどもも、家族を殺されて、居場所を焼かれて、それでも笑って生きてる。だから俺は、お前らの全部を敵にする気はない。――が、戦争を始めた大人たちは、ちゃんと叩きに来た」


「言い訳はいらない!」


 マヤの瞳が、虹色に変わる。


 五大属性を同時解放――教会でも数えるほどしかいない、全力の発動だ。


「五大属性一斉砲撃――!」


 炎、水、風、土、光が一つの奔流となり、石畳を抉りながら科学兵隊へと殺到する。


「ったく、常識外なのは魔法側も同じかよ……」


 苦笑しつつ、芳樹は両腕を広げた。


「現在物象――ベクトル全面反転」


 彼の足元に展開された演算陣が光る。


 押し寄せる五色の奔流の向きだけを掴み取り、そのまま天へと跳ね上げた。


 巨大な光の柱が、パリの空を突き抜けて昇る。


 遠く市街地からも、その異様な閃光ははっきりと見えただろう。


「上に逃がしたってことは……私たちの攻撃、本気で殺す気はなかったって理解でいいのかな」


 煙の向こうから、マヤの声がした。


 肩で息をしながらも、その目はまだ折れていない。


「そっちこそ、まだ本気で殺してないだろ。この距離、この火力で、寮ごと焼く気なら、とっくにやれてたはずだ」


 芳樹の言葉に、マヤは一瞬だけ沈黙する。


「……だったら、なんで撃ってくるのさ」


「俺にも、守りたいもんがあるからだよ」


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