梅雨の海
三日目
昨晩は散々だった。
いくら布団で目を閉じようとも眠ることができず、酒の力を借りると今度は悪夢にうなされた。浅い眠りを繰り返し、もぞもぞと寝返りを打っていると気づけば朝日が昇っている。こんな最悪な夜はいつ以来だろうか。
暗澹たる気持ちを抱えたまま、それでもどうにか一日を乗り切り、帰りのHRのためクラスへと向かう。だがそこに、四宮の姿が無かった。
高校生にもなって相変わらずチンパンジーのように騒がしい生徒たちをどうにか大声で統括し、席に着かせる。動きがとろい奴らが数人まだ立ち歩いていたが気にせず配布物を回し、連絡事項を伝える。
HRももう終わりという頃になっても四宮の席は空白のままだった。よく見ると、四宮の机の周りには物がない。
「誰か、四宮どこ行ったか知ってるか?」
そのたった一言で、クラスの空気が変わったのがわかる。
たとえほんのわずかな動揺であっても、四十人もの人間のそれが集まれば、大きなさざ波となって押し寄せてくる。嫌でもわかった。何かあったのだ。
しばしの沈黙がクラスをせわしなく流れる。誰もが目を伏せ、あたりの気配を窺う。草食動物のようなそんな姿を俺はさっと一瞥し、彼らの中に潜む肉食動物を探す。
そして、むすんだ唇の端がすこしだけ持ち上がっている三人を、俺はすぐに見つけることができた。
トゥルルル。トゥルルル。トゥルルル……。
十回ほど、間抜けな呼び出し音を聞いたあとだった。
「はい、もしもし」
その声はとても面倒臭そうだったので、俺は逆にとびきりの明るい声を出す。
「おう、四宮」
紙一枚ぶんの間を置いて、「なんです、先生」と四宮はさらに面倒臭そうに言った。
「今日、時間あるか?」
「はい?」
「ちょっと俺と遊びに行かないか?」
ふざけたセリフを、堂々と口にする。このセリフだけで一発懲戒免職だと思うと逆になんだか愉快な気分になってきた。
「先生、言ってませんでしたっけ? 私この通話録音してますからね」
「いいよ、クビになっても。で、どう?」
「……いいですよ。先生の退職祝いに付き合ってあげます」
四宮は半ば呆れた具合に、半ば笑いながら、そう言った。
四宮の家の近くで待ち合わせて、車で迎えに行くと、白いシャツとロールアップしたジーンズとパンプスという女子高生らしくないこなれた格好をした彼女が、電信柱の近くに立っていた。四宮は車に気付き、ふっと首をもたげたが、その姿がひどく色っぽく見えた。少しだが化粧をしているようだった。
助手席がちょうど彼女の正面に来るようにして車を停めると、四宮は特に躊躇いもなくドアを開けた。
「先生、車持ってたんですね」
四宮が何の感慨もなく呟く。
「いや、盗んできたんだ。君のために」
「どうせならもっといい車盗んでくださいよ」
「はは、一本取られた」
四宮が声を出さずに口元を緩める。俺はそっとそれを横目で確認して、
「さ、行こうか。どこか行きたいとことかある?」
と切り出した。
「ないです。お任せします」
四宮は即答した。
「じゃあ、海とかどう? なんか無性に海が見たい気分なんだけど」
「いいですね。六月の海って見たことない気がしますし」
「だよな。よし、じゃあとりあえず海に向かうってことで。なんか行きたいとこ思いついたら言ってくれ」
四宮はこくりと頷いた。
車は走り出した。けれど、車内には静寂が広がるばかりだった。だからといって音楽やラジオに頼る気も無い。俺はともかく若い女の子が喜びそうなネタはないかと考え、
「四宮はさ、彼氏とかいないのか?」
と振ってみた。
すると四宮は、まるで三百年生きた魔女のように「昔はいましたよ」と言うので、俺はその返事を笑っていいのかどうかわからなかった。
「四宮は可愛いから、すぐ次の彼氏ができるさ」
「先生、今日ただのセクハラオヤジになってません?」
「おかしいな、イケメンが言えばセーフな台詞を選んでるつもりなんだけど」
「鏡見てから言ってくださいよ」
「ひでぇ」
四宮はくすりと小さく笑ってから、その笑いを無理やり収めた。
「……なんか、どうでもよくなっちゃったんですよね。もちろん楽しい時もあって、それで一時の心の隙間は埋まるんですけど、なんか、だからって世界は変わらないよなって思っちゃうっていうか」
ゆっくりと赤信号に向かってブレーキを踏む。心配になりそうなくらいゆっくりとしたペースで横断歩道をおばあさんが横切った。
「今日は絶対説教クサいことは言わないつもりでいたんだけど、君の二倍近く生きている人間としていちおう言っとくとだな……」
「その前置きウザいんではやく先言ってください」
「ああ、わりい。そうだなぁ……世界ってさ、自分が知覚できるものの全体のことだろ? つまり自分という観測者を通してしか世界を語ることはできないだろ?」
「はい、それで?」
信号が青に変わり、俺はもう一度アクセルに足をかける。
「だからさ、自分のかけてる主観という名の色眼鏡はどうしたって外せないんだよ、人間は。だからその眼鏡をかけてると、世界のぜんぶが輝いて見えるような、そんな魔法をかけてくれるのがほんとの恋ってやつだと思うんだよ、俺は」
「ああ、つまりお前はまだほんとの恋を知らないだけだってことですね。まったく、年長者の衒学的な話はこれだから嫌なんです。長くて脱線が多いばかりで中身がない」
「とりあえず、げんがくてきってなに?」
「ペダンチックってことですよ」
「ごめん、もっとわからない。説明してよ」
「無暗に難しい言葉を使って、自分の言ってることがさも正しいかのように上から物を言う人のことでぇす」
「う、なるほど。悪い」
「先生は案外、簡単に謝りますよね。ペダントのくせに」
「ペダンチックの名詞形がペダントか。いや、別に上からものを言ってるつもりはないんだよ、自分が好きに話してるだけで。だから不快にさせたんだったら悪いとは思う」
「そういう素直なところは素敵ですよ」
「俺も四宮のそういうブレないところが好きだよ」
軽々しく口にした俺の言葉を、四宮はもう、セクハラとは言わなかった。
一時間ほど車を走らせて、海へとたどり着いた。近くのパーキングに車を停めて、海へと歩き出した。
二人っきりの車内から出て、俺と四宮の間には少しだけ距離ができる。けれど、彼女の持つ大人っぽいポシェットに手が触れるか触れないかくらいのその距離を、俺は絶対に詰めようとはしなかった。
革靴で砂浜を歩くのは今日が人生最初で最後になるだろう。でも四宮はきっと人生で、あと何度かは踵の高い靴で砂浜を歩くだろう。俺は歩きにくそうにしている彼女に合わせ、なるべくゆっくり歩くことにした。
海の上には一切の建造物が無く、グレーのカーテンを幾重にも降ろしたかのような曇り空がよく見える。四宮も同じことを思ったらしく、「天気、悪いですね」とつぶやいた。
「まあ、梅雨だからな」
「人、いませんね」
「人混みは嫌いだ」
「まあたしかに」
「夏の海なんて、俺たちには似合わないさ」
「そう言われてみれば、私たちらしいのかもしれませんね」
波間に消えていくあぶくのように、俺たちはそんな取り留めのない話をし続けた。
四宮はもういいやとパンプスと靴下を脱いで、それを手に持った。彼女の透き通るような白い足が砂にまみれて、その輪郭を薄らと描き出す。
ワイシャツにスラックスに革靴といういで立ちの中年男と、大人っぽい恰好をした、でもどうしたってティーンにしか見えない美しい少女が、平日の夕方、海にいる。周りからはどう思われるのかわかったものではないが、今さらそんなことはもうどうでもいいことだった。
海沿いをぼーっと二人で歩いていると、三十分ほど経っただろうか。「どっかカフェとかで休憩するか?」と尋ねると、四宮が小さく頷いた。携帯で近場を調べると感じのいいケーキ屋があったので、そこに行くことになった。
海沿いに建つケーキ屋はウッドハウスのようなこじゃれた店で、テラスまであった。四宮はピンク色のムースの上にフルーツの乗ったケーキを、俺はチーズケーキを頼んだ。
もちろんお金は出すつもりだったが、四宮は「おごってくれるんですか?」と律義に笑った。
「ケーキって、見た目、甘さと酸っぱさのバランス、最後まで飽きずに食べられるか、の三つが大事だと思いません?」
三口ほど食べた四宮が言った。
「あんまりケーキ食べないからわからんけど」
どうして女の子とケーキはこんなにもよく似合うのだろうかと不思議に思っていた俺は、咄嗟にそんな返事しかできなかった。
「チーズケーキは大好きなんですけど、ひと口目が一番美味しい、という点ではケーキとしてはダメだと思うんですよ。見た目も単調だし。だからってタルトが史上最強っていうわけでもないんです。あれはフルーツそのものの美味しさに頼りすぎていて、もはやフルーツの値段イコール美味しさ、みたいな感じになっちゃってますし」
どうやら彼女はケーキというものの概念というものについて考えようとしているらしい。にこにこ笑って「きゃー、おいしい」などと言うようなタイプでないことはわかっていたが、ケーキ一つ掴まえてそこまでつらつら語れるのだからやはり彼女は変わっている。
「まあ職人の腕とか言い始めると、バターと砂糖と卵と小麦粉だけであんなに美味しい焼き菓子をつくれる人々は魔法使いだって心底思うんですけど」
「はは、魔法使いって。そこだけは女の子らしいな」
「ともかく、私はチーズケーキもタルトもマドレーヌも大好きなんです。でも、やっぱりケーキと言えばフルーツが乗っていて見ただけでドキドキして、甘酸っぱくてひと口食べるたびに味が違っていて、最後のひと口まで楽しめる。そういうものこそが王道だと思うわけですよ」
「うん、わかったわかった。それでそのケーキはどう?」
「けっこう美味しいです。こんな辺鄙な場所にこんなこじゃれた店を立てるなんて余程キザでいけ好かないシェフなんだろうと思いましたけど、自分に酔ってるだけのことはありますね」
「それはよかった。で、チーズケーキ食べる?」
「一口だけ、頂きます」
おいしい、と少し悔しそうに言う四宮を見ていたら、次のひと口が最初のひと口よりもずっと美味しく感じられた。
帰りは海沿いのアスファルトの道を、二人でのんびりと歩いた。
どこまでも続く、どんよりと曇った六月の空。それを優しく照らし出す沈みかけの夕日。湿っぽい砂。でもどこか、胸の真ん中に穴が開いたみたいな清々しさ。俺はこの時間を、一生忘れないという確信があった。
「先生、私は今とても気分がいいです」
ぼそりとそう言った。彼女が自分と同じ気持ちだというだけで、俺はなんだか少し嬉しい気持ちになった。
「だから、先生が命乞いをするなら見逃してあげないこともありません」
「命乞いって?」
四宮の言いたいことは分かっているのに、なんだか話を先に進めてしまうのがもったいなくて、わざとそんなことを言った。
「跪いて靴を舐めれば、先生が懲戒免職にならずに済むということですよ」
乾いた笑いが二人の間に降ってきて、じめじめとした空気を少しだけ中和する。
「たしかになぁ、懲戒免職は避けたいよなぁ」
四宮はフフッと品よく笑った。
「往生際が悪いですよ、女子高生連れ回しておいて何を今さら」
「まあ、明日あいつらに話聞くまでは、やめるわけにはいかないからな。教師」
何でもないようにさらりと言ったつもりだったが、四宮はやはり口を閉ざした。彼女の心の準備が整うまで待つことにした。
「……あいつら?」
少しを間を置いてから、凪いだ海にさえかき消されそうなくらい小さな声で問うた。
「牧野、立花、田部井。とりあえずはあの三人」
四宮が息を呑む。
「時間かかって、ごめんな」
俺は彼女の動揺を包み隠そうと、できるだけ柔らかい声を出した。
四宮と会う前、HRが終わった直後から、俺はすべての業務を後回しにして牧野たち三人についての聞き込みをした。
迷いは消し飛んだ。自分の中で、何かが弾けたのだ。
まだくよくよ悩んでいた。自分がどうすべきかもわからなかった。でも、自分がしたいことだけは、はっきりしたのだ。
「うちのクラスの牧野、立花、田部井の様子が少し気になるんですが、なにか授業とかで変わった様子はありませんでした?」
何度も何度も、その言葉を繰り返した。
勘でしかなかった。教師として生きてきた十年の勘。保月要として生きてきた三十二年の勘。理由はうまく説明できない。ただあの三人が怪しいと、心が叫んでいたのだ。
聞き込みの結果、その不安は少しずつ現実のものとなり始めた。
感情が身体を突き動かす。教室に戻り、四宮の机の中を覗き込んだ。続けざまに廊下に並んだロッカーを開ける。
頭が真っ白になり、もう何も考えられなくなった。
廊下を走って、非常階段を開け、くすんだ空の下に外に飛び出す。ギリギリと奥歯を噛み、呻き声を漏らさぬように必死に耐える。こんな顔、誰にも見せるわけにはいかなかった。
四宮の空っぽの机には、ゴミがたっぷりと詰め込まれていた。空っぽのロッカーの中には油性ペンで口汚い言葉が無数に書き記されていた。
頭の中を悶々とめぐる、怒りにも似た強い感情。
でも、ただの怒りではなかった。自分の身体を端から焦がしていくようなこの気持ちを、怒りなどという甘い言葉で表現することはできなかった。
自分に対する狂おしいほどの憎しみ。存在への圧倒的な絶望。完膚なきまでの自己否定。そして、それを押し返そうとする最後のプライド。それが答えだった。
--今日まで、教師をやめなくてよかった。四宮を救えるなら、俺は何もいらない。
約束でも覚悟でもない。誓いと決別だった。
「四宮、俺は力になりたいんだ。四宮が苦しんでるのに、何もできないのは嫌なんだ。俺を信じてくれないか?」
「先生は……」
四宮は長く長く言葉を切った。波の音がやけに大きく感じられる。俺はじっと、続く言葉を待ち続けた。
「じゅうぶん、力になってくれましたよ」
四宮の優しい言葉は、俺を突き放すためのものでしかなかった。
待ち焦がれていたはずのその言葉は、思っていたよりもずっと早く降ってきて、俺の無能を証明しようと大きな染みをつくった。
帰りの車の中は密度の濃い沈黙が広がった。四宮は窓の外を向いたまま、もう何も口を聞かない。俺ももう、なんと言葉を掛けていいかわからなかった。降り出した雨だけが静寂を許してくれているようだった。
行きに四宮を乗せた場所に、ゆっくりと車を近づける。外は押し潰すような闇が広がっていて、街灯の明かりは頼りなかった。
「雨降ってるし、ほんとに家の前じゃなくていいのか?」
完全に車を停める前に、俺はもう一度だけ声を掛けた。
「ここからすぐですから。だいじょぶです」
「気を付けてな」
「はい、ありがとうございました」
四宮はろくにこっちを見もせず、そそくさと車を降り、雨の匂いの立ちこめる夜の中へ消えていった。
俺はほんの少しの間、窓を開けて、車を停めたままにしておいた。パラパラと、雨は少しずつ車の中へ入ってくる。
あたりにもう、人の気配がまったく無くなったのを確かめてから、俺はゆっくりとアクセルに足をのせた。




