人を殺してはいけないワケ
二日目
梅雨なのだから仕方ないが、どうも雨の日が続いている。こうも曇り空が続くと雨好きの俺でも少し飽きてくる。やはり雨はたまにだからいいのだ。
「なあ四宮、俺、どうしてお前を呼び出したんだっけか」
昨日と同じ、進路相談室。
俺は四宮よりも先に切り出した。
「理由もなく女子高生を密室に呼び出すなんて。先生、訴えられたら間違いなく負けますよ」
「思い出した。頬が腫れてた理由が聞きたかったんだ。誰かにぶたれたのか?」
四宮は身体を横に向けて、「センセ」とアンニュイな感じでつぶやいた。
十年経とうと先生と呼ばれるのは慣れない。なんだか背中がもぞもぞするのだ。きっとこういうところが、俺が教師に向いていないと言われる所以なのだろう。
四宮の目線の先には、鼠色の空が広がっていた。彼女は雨がよく似合う。頬杖をついたその横顔に俺は少し見惚れてしまいそうだった。
が、彼女はその甘い倦怠感を含んだ顔のまま、
「どうして人を殺してはいけないんですかねぇ」
と気だるそうに呟いた。
「……なんだかなあ」
うっかり気持ちが口から零れる。こういう残念なところも彼女の魅力の一つなのかもしれないが、それにしたってアンバランスだ。
「先生はどうして人を殺してはいけないと思います?」
四宮は机の上で腕を組み、そこに顔を乗せてこちらを見た。
「法律で決まってるから」
俺は即答した。こんな話にまともに付き合っている場合ではないのだ。
「うーわ、つまんない。がっかりです」
「教師としては模範解答だろ」
「だとしても、人としてはサイアクにつまらない解答だと思いません? 先生は私が人を殺そうとしているときに、『法律で決まってるからやめろ』って言って止めるんですか?」
どこか声の感じが違う気がした。表情もなんとなく暗い。昨日の二の舞にだけはなるわけにはいかなかった。
「俺が止めるまでもなく、お前は人殺しなんかしないだろ」
とりあえず、間髪入れずに、真顔で答えた。信頼の証明として。
でもそれは、単なる時間稼ぎにしかならなかった。
「根拠はなんです?」
生徒を信じない教師がどこにいるんだい?
俺は続けざまにそう言って、先ほどの言葉とバランスを取るためにおどけてみせるつもりだった。けれど、姿勢を正し真っ直ぐに目を合わせてくる四宮が、それを許さなかった。鉛色の空が世界を優しく包み込む。俺は言葉を探した。
「どうして人を殺しちゃいけないかって考えるのは、四宮が人を殺しちゃいけないことを知ってるからだ。それだけでもう結論は出てるし、うちのクラスから人殺しが出るなんて想像できないね」
それが本音だった。議論するに値しない問題。それが俺の答えだった。
本当の気持ちを言えば、四宮は許してくれるんじゃないかと、どこかで期待していたのかもしれない。でもそれは紛れもなく、俺の甘えだった。
そしてそれを、四宮が許すはずがなかった。
「なんですか? それ」
敵意を露わにした彼女の声は、淀んだ部屋の空気を切り裂いた。
「それっぽい言葉で誤魔化してるだけで、何も答えてないじゃないですか。どうして私は人を殺しちゃいけないのかって聞いてるんです。死刑制度がこの国にはあるじゃないかって言われたらなんて答えます? ルールに従って裁かれた犯罪者だから仕方ないとでも言いますか。それとも人の命は尊いとか、自分が殺されたら嫌だろう、だから他の人にもしちゃいけないよ、とか。そんな安い倫理で誤魔化しますか」
四宮は冷たく抑揚のない声で、淡々と彼女の正義を語った。
「結局、どれもおんなじようなもんです。人を殺すのはダメっていう結論ありきで、理由は全部後付け。どうやったら子どもができるか? っていう質問に対する答えと同レベルですよ。コウノトリが運んでくるって言ってるのと同じくらい何言ってるかわかりゃしない」
心底落胆したとばかりに大きなため息をつく。ためらうことなく他人に敵意をぶつけられるというのも、若さゆえかもしれないとふと思う。
ともかく、不本意な形ではあったが俺は彼女の本心を聞き出すという当初の目的に一歩近づけたらしい。
「じゃあ四宮はその問いの正しい答えはなんだと思うんだ?」
まっすぐに目を見ようとした。でも四宮は、もうこちらを向いてはくれなかった。
「話を聞いてなかったんですか? 私は人を殺していいと思ってますよ。命の価値なんて時と場合で変わります。そもそも世の中には、死んで欲しくない人と、死んでもいい人と、死んで欲しい人しかいないんですよ」
俺が聞きたいのは、そういうことじゃなかった。言葉の揚げ足をとったり、いちいち屁理屈をこねたりして、自分を正当化する生徒はたくさんいる。でもそういうときの彼らは、教師を打ち負かしたと得意げな顔をするものだ。こんなに悲しそうな顔を、したりはしない。
そう。彼女が結局、何に悩んでいるのか。何に苦しみ、何を思っているのか。どうして心のままに「つらい」と言うことができないのか。俺にはそれがわからないのだ。
もうたくさんだった。
彼女の話はいつまで経っても本題に入らない。仕事も次から次へと溜まっていく。お互いの為にも、一刻も早くこの問題を片づけなければならなかった。
「なあ四宮、俺の話も聞いてくれないか?」
「いいですよ」
わざと時間をかけて、窓の外を見つめる。まだ雨は止みそうになかった。
「……四宮はさ、多数決とか、人を殺してはいけない理由とか、いろいろ俺に話してくれただろ。それでちょっとは四宮の考えてること、わかるようになったつもりなんだ」
闇の中をもがきのた打ち回り、光を求めるように言葉を投げ散らかした。
神様が俺に天罰を下そうと不敵に笑った。でも俺は、それに気づかないふりをした。
「四宮、いじめられたり、嫌なことされたりしてないか? 俺が絶対味方になるから、本当のことを話してくれないか?」
俺の言葉の空虚さを糾弾するかのように、あんなにも雄弁だった四宮が急に口を閉ざした。アスファルトを叩く雨の音だけが室内を満たす。一秒が永遠にも感じられる。
どのくらいの時間が経っただろう。クスクスという芝居じみた笑いが、その重苦しい沈黙を終わらせた。
四宮は小さく笑い始め、腕を組んだかと思えば今度は肩を震わせ、声に出して笑った。演技にしては上手だったが、どこか嘘くさいその笑いがしぼむと、彼女はぐっとこちらを見据えた。
「笑わせないでくださいよ。絶対味方になる? それは私が人を殺したあとで言うべきセリフですよ」
かろうじて口角は上がっていたがその目は鈍い光を湛えるばかりで、笑顔とは到底形容できない表情をしていた。
「それはもう言ったろ。俺はお前が人を殺さないって知ってる」
「だから、さっきから言ってるじゃないですか。そういうのが気に食わないって言ってるんですよ。私と保月先生は生徒と教師である前に、人間と人間です。対等なんです。私には私の世界があって、そこは誰も入れないんです。知ったかぶりしないでください」
そんなこと、言われなくたってわかっていた。俺は自分がなぜこんなことをしているのかよくわからなくなってきた。ただ、四宮はひどく感情的で、子どもみたいに怒っていた。そのおかげで俺はまだ、冷静さを見失わずに済んだ。
「悪かった。たしかに今のは、不誠実だったのかもしれない。絶対に味方になるなんて簡単に言うべきじゃなかった。でも俺がお前の味方でいたいって思ってるのは本当だ。だってお前は俺の生徒なんだから」
四宮は目を細め、もう一度口角を上げ直して、今までにない優しい笑顔を見せた。
言葉はもう要らなかった。俺は彼女が言いたいことをすべて悟った。
「もう、いいですよ」
ひどく透き通った声だった。
「今まで話したとおり、私は世の中腐ってると思うんですよ。間違いだらけで面倒くさくて醜くて。救いようがないと思うんです。だから、全部が面倒になってしまった私は、何もかもが要らないと思うようになったんです。全部捨てたんです」
今になって、言葉を探した。教師としての言葉じゃなくて、彼女のためなんていうエゴでもなくて。ただ、胸を張って言える、自分だけの言葉を。
でも、もう手遅れだった。
「だから、まあ、そんなわけで。大丈夫です。先生が心配するようなことは何も起こってないです。いじめなんてないですから。そんなくだらないものに私は振り回されたりしません。話は以上です。先生も聞きたいことはそれだけでしょう?」
冷たく貼り付けた笑顔。ペルソナというのはきっと、こういうのを言うのだろう。普段通りの没個性的で、特に問題も起こさない、教師からすれば最も名前の覚えにくい存在。彼女が仮面の下で何を思っているのか、俺にはもう、ひとしずくだってわからなかった。
それじゃあ失礼します、と彼女は足早に進路指導室を出て行った。
一人残された俺は、仕事が溜まっているというのに、すぐには立ち上がることができなかった。
裏切られたと感じているのを、必死に隠す彼女の表情。
――自分は裏切られてなんかいない。だって、最初からこの人のことなんて信じていなかったもの。
そんな強がりが聞こえてきそうなほど、儚げに歪んだ笑顔。その顔を見たら、もう何も言えなかった。
ぐったりと机の上に突っ伏して、頭を抱え込む。錨を括りつけられたみたいに重たい体は、後悔の海に深く深く沈んでいった。
『人間は妥協すると、今度はその妥協を他人に押し付ける生き物だからな』
ふと、高校時代の担任の言葉が浮かんできた。
『理想を押し付ける奴は煙たがられるけどな、妥協を押し付けてくる奴よりはマシだからな。お前らほんと、気をつけろよ。試験勉強してねーわー、とかお互いに勉強してないアピールして安心してるヒマがあったら、え? まじ? 一日四時間勉強しないとかありえないわー、っていうウザい奴になれよ』
面白い話し方で、大事なことをそっと伝えてくれていたような気がする。今になって、良い先生だったなと思う。
――都合の良いときだけもらった言葉を思い出すなんて、俺もクズだな。
くだらない自分を慰めようと笑っても、下手くそな乾いた笑いが漏れ出るだけだった。四宮のように、上手くは笑えない。
これじゃあ昔と変わらなかった。いや、昔のほうがマシだった。自分という人間からさえも逃げ出したツケが今になって現れたのだ。四宮は本気で俺と向き合おうとしてくれたのに、俺はそれを拒んだ。俺は保月要でもなければ、教師でもなく、ただそれらしい言葉を吐き出すだけの肉塊に成り下がった。自分の立場とか、責任とかを笠に着て、上っ面をなぞるだけの正論を壊れたロボットのように繰り返す。クズ教師の典型。
だから四宮に、あんなことを言わせてしまったのだ。
見限られたって、当然だった。
昨日までの四宮の雑談は、本心を話すに足る相手なのか、チェックする面接だったのだろう。そして俺は、そのチャンスをふいにしたのだ。
――これじゃあ教師失格だ。いや、人間失格だろうか。
そんな心底つまらないことを考えて、ようやく俺の口から悲しい笑いが零れ落ちた。




