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多数決の功罪


     一日目


 文化祭の準備というのはどうしてこうも毎年毎年、半年近くもかけてやらねばならないのだろう。

実行委員を決め、クラス展示を決め、グループを決め、班長を決め……。

提出書類の催促をし、スケジューリングの出来ていない生徒の無茶な願いを聞き、揉め事の仲裁をし……。

 考えただけでも面倒臭くて死にたくなってきた。

「ねぇ保月先生。多数決って、人間の作り出した悪しきものたちの中でも、とびきりおぞましいものだと思いませんか?」

 おまけに、こんなことを言い出してくる奴もいる。頭痛がするのも自然の摂理というやつだ。

 進路指導室の扉をピシャリと閉めた彼女が開口一番にこんなことを言うのは、ついさきほど、文化祭の出し物を決めたところだったからだろう。

「お化け屋敷じゃ嫌なのか?」

 向かいの席に悠々と腰かける彼女へ、質問を返してみた。

「別になんだっていいですよ、文化祭なんて。強いて言えばラクなのがよかったですけど。そんなことより先生はどう思いますか? 多数決」

 こっちが話をはぐらかそうとしているのに気づかれてしまったらしい。

「うーん、まあ他の色んな決め方よりはマシなんじゃないか。なんだかんだで」

 クラスで何か決めるときは大概多数決だ。委員長だろうが文化祭の展示だろうが意見が割れるときは多数決で決める。それが一番平和的で早く決まる方法なのだから仕方ない。だが俺の答えは、どうやらお気に召すものではなかったらしい。

 彼女は心底残念そうに眉をひそめた。美少女はそういう顔をしても様になるからずるい。

「薬にも毒にもならない、つまらない答えですね」

 あからさまに小ばかにしたような態度をとってくるが、いちいち相手にはしてやらないことにした。

「俺は常識人だからな。……さて、今度は俺の質問に答えてくれ」

 仕切り直しとばかりに深く椅子に掛け直すと、彼女もほぼ同じタイミングで咳払いをした。

「まあ聞いてください。私がいかに多数決を憎んでいるかについて」

そう言うと、彼女は担任教師である俺に対して、まるで子どもに言って聞かせるように話し始めた。

「私は多数決を認めません。だって多数決は、正義や善を見つけるための方法ではないんですから。よく多数決で決まったものがいつ何時であっても最大多数の幸福へと人々を導く、みたいに考えている人がいますけど、見当違いもいいところです。多数決は単なる予定調和に過ぎないんですから」

 若者の叫びはロックでやってくれよと思ったが、彼女は言葉を切ってくれない。仕方なく、聞いているよという意思表示のためにあいづちを返す。

「みんなの奥底にある一番それらしい選択肢を、それが正しいものだって確かめあって、念を押すんです。『これはみんなで出した結論だから、どうなってもみんなの責任だからね』って。ふざけた話ですよ。みんなで一緒に少数意見を叩き潰して、誰も悪くない、みんな正しいって言い聞かせる。そしてみんなで地獄に落ちていくんです。大多数の愚か者どもと一緒に奈落の底に叩き落される賢者の気持ちにもなってほしいものですよ、まったく」

 感情たっぷりに、そして滔々と流れるように彼女は話し続ける。

 じっと聞いていると、少しだけ彼女の振り切った意見に対する違和感も薄まっていくような気がした。熱のこもった言葉と冷め切った彼女の瞳はまるでコーヒーとミルクのようで、澄んだその瞳をじっと見つめていると吸い込まれてしまいそうにもなる。

 しかし、上っ面だけの共感など、彼女も求めていないだろうし、俺にだってそんな暇はなかった。こんな話をするために俺は彼女を呼び出したわけではないのだ。

 俺、()(づき)(かなめ)が彼女、四宮(しのみや)()()と面談をすることになったのは、今日の放課後、四宮の頬が腫れているのを見つけたからだった。

 教師としての情熱などとうの昔に失った俺でも、さすがにそれを見て見ぬふりはできない。第一、放置しておいてあとあと発覚したらもっと面倒なことになる。だから仕事の山を残すことに葛藤を抱きながらも、四宮を呼び出すことにしたのだ。けっして多数決の善悪について語るためなどではない。

いちおう保健室から氷をもらってきたが、四宮はそれを早々に机の上に置いて見向きもしなかった。役割を見失った氷嚢は机の上に小さな水たまりをつくり、ただでさえ空気が籠りがちなこの部屋の湿度をさらに上げている。

 椅子を引いて立ち上がり、少しだけ窓を開ける。今日はあいにくの天気だが、雨の匂いは嫌いではなかった。

「まあでも大多数が選んだんだから、きっとそれが一番いい選択なんじゃないのか? 民主主義ってそういうもんだろうし」

 四宮の言葉が途切れた瞬間を狙い、俺はぼそりと反論を投げかけてみる。

 すると、彼女は待っていましたとばかりに目を細めた。

「先生、人間は理想を語らなくなったら終わりです。現実と折り合いをつけるんじゃなくて、現実をどうにか望む形に捻じ曲げてやらなきゃいけないんです。だいたいそんな曖昧な言葉で綺麗にまとめようとするのは大人の詭弁ですよ」

「面白いこと言うな、四宮は」

 俺の軽口を鼻で笑い飛ばし、「いいですか、先生」と彼女は前のめりに話を続けた。

「人は群れずにはいられない弱い生き物なんです。そして数は力なんです。個人がどんなことを考えていようが、多数の前で個は抹殺されます。どれだけ正しいことを述べようとも、圧倒的多数の前にはすべて無力で、賢者の言葉は愚者には届かない。つまり、多数決は数の暴力なんです」

 四宮は姿の見えない同志諸君に向けて演説をしているようだった。俺はなんとなく彼女の正面に戻るのが嫌で、窓辺に立ったままでいる。

「たとえば多数決で出された結論は不当なものだと考えて、それに従いたくないと考える人間がいたとしましょう。けれどその人は、実際には多数決に背くことはできないんです。だって、その人は知っているんですから。多数決という公平で、正しいとされている方法に背いてしまえば、文字通り多数の人間を敵に回すことになると。こうして聡明なその人はジレンマに陥ります。絶望的な話ですよ、まったく。多数決の偽善を、欺瞞を、恐ろしさを知っている人間が、しかしその本質を知るが故に多数決に従わざるを得ない。これを暴力と呼ばずなんと呼びましょう」

 彼女は大げさに顔を手のひらで覆ってみせた。

 そしてゆっくりとその手を広げ、指の間からその大きな瞳をのぞかせた。

「……いや、そう考えると話の筋が通っているのかもしれませんね。恐怖を感じるほどの悪であるからこそ、人はそれに従わざるを得ない。そういう意味では多数決を手放しで崇拝する人々と、やっていることは何ら変わらないんでしょう。けど、踊らされていると知っていて踊るか。踊らされていることにも気づかずに踊るか、という差はありますよね。まあどちらがより幸せかというのは、難しいところですが」

 四宮はそこで一旦、口を閉ざした。どうやら「残酷な真実を知る方が幸せか、知らない方が幸せか」という命題に、今度は思いを馳せているらしい。

 俺はというと、そんな哲学的な疑問はネットにでもなんでも上げればいいのになぜ彼女は担任教師なんぞにこんな話をするのだろうか、という目前の謎について、真剣に悩み始めたところだった。

たかが文化祭の出し物でそこまで熱くなれるのは教師としては素晴らしいと思うが、どうにも話の意図が読めない。とはいえ、無理やり話を切るわけにもいかなかった。

 何か婉曲的に伝えたいことがあるのかもしれないし、ただ単純に話を聞いてもらいたいだけなのかもしれないし、はたまたここまでは前置きで、そのうち本題に入るのかもしれないからだ。

 ともかく話したいだけ話させて、「生きる理由」でも「幸せの定義」でもなんでも聞いてやるべきなのだろう。

 俺は残業と明日の早出の覚悟を決めるとともに、四宮と目を合わせた。そして、もったいぶるようにゆっくりと頷いた。

「わかるよ。四宮の言いたいことは。なんとなくだけど」

 どうぞ先を続けてください。そういう意味を込めたはずだった。

けれど、四宮は、

「じゃあ先生。反論してください」

 と、今度は打って変わって少女のような声で言った。

「反論?」

 風に吹かれた雨が室内に入ってきて、冷たい雨粒が首筋にあたる。

「だって先生、私の言いたいことがわかったのに私の言い分が正しいとは思ってないじゃないですか。じゃあちゃんと論破してくださいよ」

 そういうことは、有難い本とかと睨めっこしながら自問自答を繰り返して、勝手に独り相撲をして解決して頂きたいものだ。

 だがもちろん、職種上、まことに残念ながらそんな丸投げは許されない。

 俺は仕方なく、窓を閉めて席に戻る。四宮はエサを待つ雛鳥のように机の下で足をばたつかせていた。

「うーん、身も蓋もないことを言ってしまえば、どんな結果が待っているかわからない以上、誰にも絶対の正解なんてわからないと思うんだけどな」

「それは仰る通り、身も蓋もないです」

 やはりだめか。仕方ない。彼女好みの解答を考えるとしよう。

「多数決っていうのは自分の意志に基づいて自分の行動を決定できる、っていうのを多くの人に保証できるシステムだろ。人間が正しい道を選べるなら、多数決は合理的なシステムだと思わないか?」

「でもそれって、人間が正しい道を選べるなら、ですよ」

 四宮はそっと足を椅子の奥へとしまい込んだ。

 俺は「正解」と言う代わりに、にっこりと笑ってみせる。

「だな。だからやっぱり、みんな一緒に地獄に落ちればいいんだよ」

「え?」

 彼女は教師らしからぬ言葉を使うことに驚いたらしい。自分はさっきまで散々生徒らしからぬ言葉を使っていたくせに勝手な話だが、ともかく狙い通りだった。

 ――教師はきつい言葉を使ってはならない。

 そんなフワッとした枠の中からはみ出せば、それだけで言葉に説得力が生まれる。

 俺は余韻の残るうちに、言葉を繋いだ。

「愚者を説得できなかった賢者も同罪ってことさ。中途半端に頭が良くても、世の中を変えられなきゃ何の意味もないんだよ。それに、何だかんだで世界は人間が思ってるよりも頑丈でさ、そんなに簡単に世界はぶっ壊れてくれなくて、でも問題だけは次々降ってきて。不死身のゾンビみたいにわらわら湧き上がってくる問題に対して『なぜ』とか『どうして』とか『誰のせい』とか、大人はそんなことばっかり言ってるわけにもいかなくてさ。だから、何はどうあれ目の前の結果に向き合わないと、次の問題と戦えないんだよ」

 雨の音がゆっくりと室内を満たしていく。

 口元に手をやって真剣に考え事をしている目の前の生徒はちゃんと傘を持ってきているだろうかと、俺は少しだけ心配になった。

「なんかいいように丸め込まれた気がしないでもないですけど、結論が『みんな地獄に落ちちまえ、地獄に落ちてから頑張れ』ってのだったので、まあとりあえず納得しました」

 四宮はいつのまにか余裕たっぷりの偉そうな顔に戻っていた。

「ならよかった」

 ふっと気を抜いたその時だった。

「でも、それは、みんなで一緒に地獄に落ちるときの話かな、とも思います」

 言葉の温度が急に変わった気がして、咄嗟に四宮の丸い瞳を見つめる。

 一瞬、空が光り、視界が奪い去られた。

「だって少数派だけがつらい思いをすることって、たくさんありますもん。たとえば、そうですね、いじめとか?」

 遅れてやってきたズドンという大きな音が腹の底に鳴り響く。

 雨の匂いはいつからか、嵐の匂いに変わっていた。

 四宮は電車が止まったら困るからと言って、その日はすぐ帰っていった。

 冷たい瞳が、嘘くさいその仕草が、何かを伝えようとしていたはずなのに。

 俺はぜんぶ雷のせいにした。


 部活動の監督を終え、宿題のチェックを終え、とりあえず今日の仕事を終わりにする。机の電気を消し、学校を後にした。

 真っ暗な道を歩いていると、すぐ横を自転車がすり抜けていった。危ないと思いながらも、後ろを向いて歩くわけにもいかない。どうしようもない世の中だ。まあ跳ねられたら慰謝料をふんだくって教師なんかやめてしまえばいいだけだが。

 スーパーが開いている時間に間に合った。ビールとつまみを買って、家へと向かう。暗いアパートの一室には、朝脱いだままの状態でパジャマが放ってあった。俺はスーツを脱いで風呂に入ると、もう一度それを着て、テーブルについた。

 昔はあまり酒を飲まなかったのに、最近は毎日ビール一本くらいは飲んでいる。これが歳をとるということなのだろうか。そういえばこの頃、テレビを見ても面白いと思えなくなっている。ああ嫌だ。早く死にたいとは思うが、老いるのは嫌で嫌で仕方がない。

 CMばかりのテレビを消して床に寝転がる。足を伸ばすと部屋の隅に積んであったファイルの山を蹴り飛ばした。もう見返すこともないファイルたちは、ただでさえ狭い部屋をさらに狭くしている。さっさと捨てておけばよかった。

 がさりと足の上に乗ってきたファイルを、思いっきり足を持ち上げ退かそうとすると、今度は顔に乗ってきた。邪魔臭いったらない。

 上半身を起こしてファイルを退かす。表紙には、「教師二年目、一年三組」と俺にしては力のこもった字で書いてあった。たしか、初めて担任を持った年だった。

 酔った勢いでなんとなくファイルを開くと、汚い字でこう書いてあった。

『いじめをいかになくすか』

 そんな青臭いタイトルに続けて、自分勝手な持論が事細かに記されている。

 ――どうすれば人を傷つけることが悪いことだと伝わるか?

 ――いじめをする側こそ愛情が足りていないのではないか?

 そんな内容だった。

 見ている側に自殺願望を抱かせる、紛れもない黒歴史だった。

「バッカじゃねえの」

 教師十年目の俺は独り言を吐き出した。思ったよりも、ずっと大きな、みっともない声だった。

ともあれ、こんなものは酒の肴にすらなりはしない。ファイルを放り投げ、ビールを胃に流し込む。温くなった液体が喉を通過すると、苦い後味ばかりが際立った。

 次第に、声を荒げた自分にさえも沸々と嫌悪感が湧いてきた。

 昔は、教師であろうとしていた。自分なりに、一人の人間として生徒にぶつかって、うまくいかなくて、でも全力で向かい合って……。

 そしてそれを繰り返して、どうにもならないことを知ったのだ。

 どうしたって人は変わらない。俺がいてもいなくても、結果は同じ。優しいやつは優しいし、人の痛みが分からないやつは一生わからないままだった。

 ――別に、勉強なんかできなくたっていい。そんなことに価値はない。

そう言いたくて、俺は教師になった。今思えば、とんだ思い上がりだが、その理想を貫くことさえもできず、目に見えるものにばかり追い立てられる毎日と、何をしても意味が無いという虚無感にばかり押し潰された。

 どっちがほんとうにカッコ悪いかは、わかっているつもりだ。

 だけど、どこかで折り合いをつけなければ、生きていくこともできそうになかった。それもまた、確かだった。

 自分に妥協し、現実の前に理想を語ることもできなくなって、社会と折り合いを付けて……。

「でも、仕方ないじゃないか。みんなそうやって生きてるじゃないか」

 誰に向かってかわからないが、言い訳を並べたくなって、思わずまたつぶやいていた。アルコールは俺の腹の奥底から、嫌でも本音を引きずり出してしまう。

 生きるためには、働かなくちゃならない。情熱がなくたって、夢も希望もなくたって、毎日暮らしていかなきゃいけない。

 割り切ったつもりになっていても、奥深くに仕舞い込んでいるだけで、そいつはふとした拍子に顔を出してきて、後ろからそっと俺を抱き締める。

 じめじめと、どうしようもなく部屋には湿気が満ちていて、季節の移り変わりを告げていた。窓に近づき夜空を仰ぐと、雲の切れ間から欠けた月がのぞいていた。

 気付くと缶ビールが空になっている。もう少し飲みたい気分だったが、明日も朝は早いし、放課後は先延ばしにした四宮との面談が控えている。俺は電気を消し、浅い眠りについた。




お読みいただきありがとうございます。以前投稿させていただいたものを書き直しております。もし、以前のものを読んで頂いたことがございましたら恐縮ですが、内容はかなり変更しておりますので、最後までお読みいただけたら嬉しいです。

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