(40)嘘
「…っ、---------!」
こめかみを押さえられたまま、無意識下の抵抗なのか、身をよじる。
やがて呪文の詠唱が終わり垂華が手を離す。威咲は眠ったままだ。
「これでもう一夜を思い出すことは無い。知らなくなったんだ」
「記憶を破壊したの?」
「いや、封じ込めただけだ。可哀想でそこまで強い力は使えなかった。でもこれで正の力が増して魔物の影響を受けにくくなるはず。
多摩、くれぐれももう一夜のことは」
「言わないわ。気をつける」
多摩は安心したように言った。
夕方威咲は目を覚ました。ぼんやりと薄目を開けて周りを見回して、初め自分がどこにいるか分からなかった。
「ここ、どこ…?」
村の家じゃない。
あれ?だが自分はここを知っている。そうだ、ここは垂華君と多摩ちゃんの…あれ?
そうだ、お父さんが死んだからここまで来たんだ。
待って、じゃあどうやってここに来たの?誰かいたような。思い出せない。
思い出そうとすると頭痛がした。
そうだ、巫女と魔物が同居していて、垂華君に色々習った。そして…やっぱり他にも誰かいた。でも…頭が痛い。
思い出そうとするのをやめる。すると頭痛は収まった。
部屋を出て階下に降りると多摩がいたので疑問を尋ねてみる。
「?他には誰もいないわよ?それに、村からここまで連れて来たのはあたし達だし」
「そうだったかな…」
「きっと疲れて混乱しているのよ」
「ごめんねおかしなこと聞いて」
気のせいだったのか。なぜか記憶が混乱していて飛んでいる。思い出せなかった。
変な夢といい、私段々どうかしちゃっているのかな。
相談すると垂華と多摩に慰められた。仕方ないのだから気にすることは無いと。
だが朝食の目玉焼きを見た時、なぜだか突然涙が出てきてしょうがなかった。
朝食後に多摩が言った。
「とにかく、余計なことは考えないでいいから心を強く持ってね。じゃなきゃ魔物が出てくるわよ」
「うん、分かった…頑張らないとね」
腑に落ちない感じだったが、納得した様子で威咲は笑顔を作った。
良かった。この調子なら大丈夫そうだ。垂華と多摩はとりあえず胸を撫で下ろした。
それから半年が過ぎた。夏が過ぎ、季節は晩秋にさしかかる所だ。
一夜の生活で今一番面倒なのは男女関係だった。
恋愛してみようなんていう気は到底起きなかったし、もう本当にただ面倒にしか感じなかったので、最近ではその手の誘いは殆ど断っていた。
ヤル気がしないのを自分でも可笑しく思いながらオッサンとよく酒を舐めたりコーヒーを飲んだりゲームをしたりしていた。
ゲームで家事をする番を決めることもあった。釣りに行ったり映画に行ったりした。
オッサンとの関係に家族めいたものを探していたかもしれない。そんな感情を一夜は自分で否定しなかった。
昔ならそんなことは無いとひたすら孤独を突っ走っただろうが。だが特に表には出さない。それは流石に恥ずかし過ぎだ。
だが幸せに手を伸ばすこと、それが昔より素直に出来ていると自分でも思う。それはそれだけ大人になったということか。タクみたく丸くなっていっているのかなぁなんて自分でも可笑しい。
毎日職場に行って、たまに仲間と飲んだり遊んだり、そんな毎日だ。
威咲のことは忘れてはいなかったが、思い出として心の中で整理していた。思い出す度にもう会うことは無いからと思いながら。
セルビアの降水量は5~6月だけ少し多く後はずっと同じくらいらしい。因みに気温は夏も冬も東京より5度低いくらい。威咲の記憶が封じられたのは5月です。目玉焼きは一夜の得意料理のひとつでした。




