表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

花は散り、その身を焦がす

蒼井の前日譚

 

 この初夏の陽射しのようにじりじりとした視線に皮膚を焼かれるような感覚だった。

 はじめはたまたまだと思っていた。見慣れない人間に対する観察程度の気持ちだと。

 いつからかそれがそのままでいてくれという己の願望になっていき、いつからか誤魔化しようも逃れようもない熱さを含んだものになっていた。

 だけど私はまだ初夏頃の、ほんのすこし騒つくくらいの熱だと、自分に言い聞かせている。

 ──反面、いつその瞳が夏真っ盛りのそれのような熱情を孕むのだろうかと恐怖に思いながら……、今日も彼を待つ。決してそれが背徳感と優越感から来るものだなんてそんなこと認めるつもりは、ない。とはいえ、私の脆弱な身体と同じで心もまた脆弱であることは自分自身痛いほどわかっていた。だからその灼熱を向けられるころには私は私を抑えられる自信がなかった。しかし皮肉なことに、そこに至るころには私の身体は思い通り動かすことが出来ず結局私は私に押さえつけられるしかなかったのだが。……本当に皮肉だ。


「おはようございます。蒼井さん」

「おはよう秀平くん」


 彼に呼ばれる自分の名のなんと甘美なことか。

 精悍な顔にしっかりした体躯、澄んだ眼差しどれを取っても自分とは正反対な彼、秀平くんは朝には不釣り合いな色を含んだ輝きで私を見ていた。

 なぜ彼がひ弱で情けないだけの私にそのような顔を見せるのか、聞きたくても聞けない日々悶々とする。

 その視線に仄暗い悦びを感じている自分がいること自覚しているにも関わらず、誤魔化すことの上手くなった汚い大人の私。

 やはり彼のような健全な青少年に私のような不埒者は触れてはいけないのだ。思うことすら汚しているようで畏れ多い。


「お加減はいかがですか?」

「うん、今日は少し……悪いかもしれない。咳が出るんだ」

「大丈夫ですか? 先生をお呼びしますか?」

「いやそれには及ばないよ。大丈夫だ」

「……そうですか、では今日はゆっくり休んでくださいね。悪くなればすぐ言ってください」

「いつもすまないね。ありがとう」

「いいえ、当然のことですよ」


 普段はほとんど感情の動かない顔が時折見せる笑み。それを見るたびに彼に惹かれまたそんな表情を見せてくれることに嬉しくなる。

 浅ましいと己を蔑んでいるのに、どうしても喜びを感じる。日に日に抑えられなくなる自分の感情が行き着く先は一体どこだというのだろう──どうせもう、永くはない命のくせに。


 私の一日は驚くほど単調だ。朝日と共に目を覚まし、三度秀平くんの持ってきた食事を取り彼とその日の話をする。日が暮れれば床に入り眠る。月明かりの綺麗な夜は本を読んだり気まぐれに手帳をつけたりする。単調だけれども酷く穏やかな日々。

 こんな時間は今までの私の人生にはなかったものだ。

 それをとても愛しいと、思う。



 私は旧家の三男坊として生まれた。華族の血を引く由緒正しいわが家。また曽祖父が起こした商いは時代の流れに上手く乗り今では知らぬ者はいないほどの大きなものになった。その家を継ぐのは二人の兄たち。それぞれ優秀でお互い切磋琢磨し更に自分を磨いていた。兄たちより歳の離れた私は然程優秀ではなく跡取り候補に入ることもなければ、家督争いという無用な火の粉を払うため何れ家を出、一人身を立てなければならなかった。

 兄たちはそんな私を鍛え育ててくれ家に残るように言ってくれたけれど、私は絹に包まれた会話が横行する社交界や油断ならない商売の世界はどうしても好きになれなかった。だから三男坊に生まれたことはある意味僥倖とも言えた。あんな巨大で重たいものを背負う性根は持ち合わせていなかったのだ。

 家を出たのは二十歳を過ぎた頃だったと思う。頑固で厳しい父はもう二度とうちの敷居は跨ぐなと言い、気弱で儚い母は泣き通し、二人の兄はそれぞれ何かあれば頼るようにと念を押すように言い私の行く先を案じてくれた。三者三様の別れに頬は緩んだが、これからは一人だ、覚悟を決めた私は振り返ることなく家を去った。

 ──だから私は、見送る誰もが心配そうな顔をしていたことを知る由もなかった。


 家を出てからは様々なことをした。自分の性癖をはっきり自覚したのものこの頃だった。昔から女性にそう言った興味を抱かず己も周りも多少違和感を持っていたが、その理由をようやく知るのだった。

 私は特定の居住地を持たず各地を転々としていた。もちろん路銀は必要なため各々の場所で一定期間働き金が出来たら街を出るというのを繰り返していた。

 当時働いていたのは住み込みの飯屋だった。昼は商人たちの憩いの場、夜は少々物騒な破落戸たちの集会所。そんな場所だからか、夜は私のように住み込みの男の従業員が多かった。

 ある日、仲間の一人からこんなことを言われた。


 ──お前はあっちもいけるのか。


 その時初めて、ここが裏でひっそり男娼を売っている闇酒場だと知った。驚いた顔をした私に男は丁寧に説明してくれた。

 この店は、本当に本当にひっそりと商売しているらしくお客もそれはさる筋の高貴な方が多いこと。男色が外部に漏れては困る方の秘密の隠れ家なんだそうだ。だから外には一切情報が漏れないよう、客も従業員も口の堅いものだけが選ばれる特別な場所であること。私の見目は受けがいいらしく仕事も誠実なため働いてみてはどうかと。

 何より、お前はその筋ではないのかと。

 自分でも薄々そうではないかとは思っていた。だが、元々性的なことに淡白な私は確かめる術を持たずはっきりと自覚していた訳ではなかった。けれどこの男はそんな私の内面を見抜きあまつさえ働いて、つまり身体を売らないかと言ってきたのだ。

 私はこれでも旧家の人間。生まれも育ちも確かな下手をすればこの店の顧客にも劣らない身分だというのに。選民意識など持っていないと思っていたが、あまりの扱いに衝撃を受け茫然自失してしまった。少し時間をくれと、男に辛くもいい私は与えられている部屋に飛び込んだ。

 夜の職務を放棄して私は一晩考えた。男が口添えしてくれたのか邪魔するものは誰もいなかった。


 私は、男が好きなのだろうか。


 そんなこと考えたこともなかった。──いや、それは嘘か……いつだったか、兄が自分の友人を家に連れてきたことがあった。軍部に勤めてるというその男は短く刈り上げた黒髪と浅黒く日焼けした肌を軍服に包んでいた。逞しく鍛えられているのが服の上からでもよくわかる精悍な青年だった。


「初めまして、私は鷹見というんだ。君の兄さんにはいろいろ世話になっていてね、宜しくな」

「よ、よろしくお願いします……」


 白い歯を爽やかに見せた笑顔に鼓動が早くなるのを感じた。


 鷹見は兄との商談のために定期的に我が家に訪れた。そのうち顔を見れば挨拶や世間話くらいはできるくらいに親しくなった。彼はとても造詣が深く、多岐にわたる話のどれもが面白くためになった。一介の軍人であることが勿体無く思うほど。会話に夢中になることもしばしばで時を忘れて語り合ったこともある。また武にも秀でているらしく軍部一の出世頭だと兄は言っていた。

 知性も経験も併せ持ち武にも覚えのある才気あふれる素晴らしいお人、と尊敬と憧憬を抱くのに時間はかからなかった。


「鈴成くんは、いつ見てもほんとうに美しいな」

「鷹見さん。それは男の僕にいう言葉ではないと思いますよ」


 剛毅な見た目にしては軟派なことを言う鷹見。臆面もなく放たれた言葉にまず反応したのは頬だった。覚えのない火照りに疑問を感じながら苦笑いを返す。


「つれないなぁ」


 と、同じように微笑む男に自分の返答が間違っていなかったと何故かひどく安堵した。

 そこからは自分でもよくわからない内に距離を窺うよう、ある一線を越えないよう気を張りながら会話を続けた。気が付けば固く拳を握るほど緊張感していたにも関わらず、鷹見の見せる笑みやふいの仕草にドキリとしては誤魔化すように笑っていた。


「君は可愛い人だね、まったく」

「あはは、何を仰られるのか。鷹見さんは不思議な方ですね」


 訳も分からず、けれどなにがしかの危機感を持った私を年嵩の彼はきっと見抜いていたのだろう。鷹見は何も言うことはなかったけれど目が合うと意味ありげに深める笑みがなによりも雄弁な答えだった。


「先日、蘭国に行ってね。これはお土産」

「わあ。わざわざすみません。……これは蘭国で有名な硝子細工ですか?」

「うん。美しいだろう? 君に似合うと思ってね、つい買ってしまったよ」

 手渡されたのは花を模した色鮮やかな硝子細工。壊さないようそっと手のひらに乗せ光に翳す。

「とても綺麗で……嬉しいです。ありがとうございます」

「喜んでもらえて何よりだ」


 照らされた硝子が作り出す影もまたその色をしていて私はしばし目を奪われる。すると前方よりキンと突くような殺気に似た何かを感じた。

 普段の鷹見は溌剌な親しみやすい好青年で巷にいるような気安い雰囲気さえあった。

 が、時折その名の如く、鷹のような眼をする時があった。まさに今、私に見せているような、その狙い澄ました鋭い視線を見かける度、言い知れぬ不安と背を這う痺れに悩まされる。

 この思いの正体に気付くのが怖かった。ふっと脳裏をよぎる言葉も。


「た、かみさん……?」

 口の端が引き攣るの自覚しながら男に問い掛ける。

「ん?なにかな」

「いえ、なんでも……」

「そうかい? 君が知りたいのならなんでもコタエてあげるよ?」

 意味深長に笑う彼に再びぞくりと背を震わす。

「ほ、ほんとうに、大丈夫で、す……」

「ふぅん……残念だな」


 出し抜けに惑わすような言葉を吐く歳上の偉丈夫。

 嫌悪はなかった。それがたった一つの真実だったのだ。


 思えば恋情だとか思慕だとか、そこに至るほどの強い想いはおそらくなかったと思う。だから、今まで気づかずにいた。もしくは、ただ気がついていないふりをしていたのかもしれない。──もうそれは定かではないけれど。

 鷹見はある頃を境に訪れなくなり、私も時とともに忘れ記憶は薄れていたのだから。

 ただ、初めて高鳴りや赤面を覚えた相手は確かに男だったのだ。それだけが今に至る純然たる事実。

 なぜ恐怖していたのかもわかった。それに気付いてしまえば自分が男に懸想する性質のものだと認めざるをえないから。そんなこと当時は認めるわけにはいかない。これでも私は名門蒼井家の人間だったから。


 けれど、家を離れた私はようやく本来の自分を認めることが出来たのだ。


 ──しかしそれと身を売るということは同じではない。少なくとも私はそうして金銭を稼ぎたくなかったし、自分の性癖を売春という形で満たしたいと望んでいる訳ではない。それは私の矜持でもあり潔癖さの証でもある。身体は心を許したものにのみ捧げたいという……。

 ここを出よう。ここにはもういられない。残っていてはいずれ身を売らねばならなくなるかもしれない。それは嫌だ。

 幸い、金はほどほどに貯まっているしここを出ても暫くは困らないだろう。

 この店の秘密を知ってすんなり出て行けると思えないので、このままひっそりと誰にも見つからないよう消えてしまおう。

 そうして私は夜陰に紛れ、店を去ったのだった。


 それからまたゆく当てもなくあちらこちらとふらふら放浪の旅を続けた。行く先で働き、時に恋をし思いを遂げたこともあった。また恋慕され受け入れられず去ることもあったし、窮屈な居場所に耐え切れず飛び出したこともあった。

 ある時など難癖をつけられ物騒な連中に追われたこともあった。その場所の花魁たちが私の見た目を気に入り匿ってくれ難を逃れることが出来た。あの花魁たちには今でも大変感謝している。そのままその遊郭の下男として働いていたが、春の終わりに体調を崩した私は、兄の伝手を頼りに訪れた養生先、あの、ひっそりと佇む物静かな邸で、彼と出会うのだ。

 清廉な夏の香りがする、けれど酷く淫靡な眼差しの、彼に──


お読み下さりありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ