4話
マタセタナァ!
「なにハトが豆鉄砲食らったような顔してるのよ」
流暢なロシア語に停止していた理人の思考が再び動き出した。彼が思わず声の方向を向くと、そこにはスーツ姿でサングラスをかけた金髪の女性、カティアが居た。
「カティアさん!? えっ? これはどういう……」
「どうもこうも、見ての通りよ」
そう言ってカティアはサングラスの弦に軽く触れる。すると真っ黒だったサングラスのレンズが透き通っていく。よく見るとサングラスの表面にウィンドウの様なものが映っているのが見えた。
「とりあえず上がって下さい。暑いでしょう」
理人はリリアに入る様促す。作戦慣れしているカティアはともかく、リリアにはこの暑さは辛いのではと思った。
「ありがとうございます。では……」
あー、おー、とリリアが喉の調子を確認するように小さく言う。理人はその様子を見て立ち止まった。リリアは少しもごもごした後、すぅ、と息を吸い込んで声をだす。
「あー……お、おじゃぁま、しますっ!」
そう、彼女はたどたどしいながらも日本語で言ったのだった。これには理人も目を丸くした。
「えへへ、頑張って勉強しているんです」
ポカンと下状態の理人にリリアが微笑む。彼は一瞬、その笑顔に見惚れた。慌てて我に返り、二人に中に入る様に再び促した。リリアは帽子を脱ぎ、そしてどことなく待ちきれないと言った雰囲気で足もとのスポーツバッグを手に取り玄関をくぐったのだった。
玄関でリリアは屋内と屋外の段差に気付き一瞬土足のまま上がりそうになっていた所を止まった。そして玄関に腰掛け、ブーツを脱ぐ。靴を脱いで家に上がると、何だか変な気分になったのであった。
「カティアさん」
彼女はロシア語でカティアに話しかける。
「やっぱり靴を脱ぐって、ちょっと変な気分ですね」
「『郷に入れば郷に従え』よ、リリアちゃん。それにね、高温多湿の日本では靴を脱いでないとあっという間に靴の中が蒸れるわよ」
「あぁ、成程」
「だからね、っと」
カティアはリリアに念話を送る。暗号化を施した傍受を考慮した通信。
『足、清潔にしておいた方がいいわよ』
『はい、心しておきます』
そう、微笑みながら強気に答えるリリア。本当に変わった、そうカティアは思った。そんな二人の無言の会話を何やら気になり気に理人は見ていたが、何となくプライベートに関わりそうな事であることを察し、無視を決め込む。二人の後に後ろ手に鍵を閉め、理人も靴を脱いで玄関に上がった。
「こちらへ」
そう言って二人を先導する。階段横の薄暗い廊下を過ぎてリビングへ。スライド式の戸を開けると明るいリビングが現れる。暗い所に慣れていた目が一瞬だけ眩むが、すぐに慣れた。
「榛名」
そう言うと、台所からとてとてと音を立てて榛名が走ってきた。10歳程の少年の姿のままだったが、両手には食器洗い用のゴム手袋をはめていた。
「どうしたご主人――っ!」
榛名が理人の後ろのカティアの姿を見ると、苦々し気な表情に見る見るうちに変わった。尻尾がするりと股の間に収まる。しかし、カティアの後に続いてきた白銀色を見てその表情は驚愕と言った表情へと変わった。理人がこういう榛名の姿を見るのはかなり久方ぶりな気がする程、彼のそういう表情は稀な物であった。理人は榛名にお茶を用意するよう頼む。
「麦茶でいいかい?」
「あぁ、それでいい」
それだけの会話の後、榛名は来た時と同じようとてとてと音を立てて台所に入って行った。理人は二人の為にダイニングの椅子を引いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「ありがとね」
二人が座ると理人は反対側に回り、椅子に腰かけた。テーブルを挟んで向かい合わせ。変な汗が出て来た。沈黙。すぐに榛名が冷えた麦茶の入ったコップをトレーに載せて持ってくる。その姿はいつの間にか16歳程の、理人と同年代程度の姿になっていた。音も無く麦茶の入ったコップを配っていく。彼はコップを配り終えると、音を立てずに台所へと消えて行った。理人は敵前逃亡を敢行した榛名に心の中で呪詛を送る。
静けさが部屋に戻って来る。リビングに響くのは家の外から聞こえるアブラゼミの鳴き声だけだった。
「まぁ、何となくは分かっているとは思うのだけれど」
そんな中沈黙を破ったのはカティアだった。彼女は両手を組みながら、何処か悪戯が成功した子供の様な表情で言う。その様子に理人は今回の事は彼女が仕組んだという事を何となく察し、小さくため息をついた。
「と言う事で、リリアちゃんには今日から貴方の家に住んでもらいます」
理人は盛大に頭を抱える。その様子にリリアはやはり理人を困らせてしまったと、カティアの提案に乗ったことに心の中で少し後悔した。
「勘弁してくださいよ……」
「だぁめ。貴方が普段どんな生活をしているか見せるのも重要だしね」
それはもう普段暮らしている様子が赤裸々に見られる事だろう。生憎リリアが入る部屋の片付けも何も終わっていなかった。定期的に掃除は行っているが、それでも今はうっすら埃が積もっているだろう。
「彼女は賛成を?」
理人が尋ねる。
「ええ。でも貴方の迷惑になるんじゃないかって、ちょっと心配してたわよ」
なんていい子だ。理人は目の前の鬼畜金髪露介と違った、リリアの優しさに思わず涙しそうになった。
「何か今とても失礼な事を考えていた様な気がするのだけれども」
「そんな事ありませんよ、ええ、全然」
蒼い瞳が疑わし気に理人を見つめる。目を逸らさないようにして理人は回答をはぐらかした。
「まぁいいわ、お部屋は後でじっくり見させてもらうとして」
そう言ってカティアは席を立つと、リリアに向けて軽くウィンクをした。
「まずは若い子2人で、ね」
そう言って彼女は台所に消えて行った、台所から榛名の何をするやめてくれという悲鳴が聞こえて、理人は心の中でざまあみろと呟いたのだった。
理人とリリア、向かい合ってテーブルに座る。静寂が部屋に降りて来て、遠くで蝉の鳴いている音が聞こえる。何処となく気まずい雰囲気になるかなと思った矢先に、均衡を破ったのはリリアだった。
「……おひさしぶりです、理人さん」
たどたどしい日本語で彼女は言った。
「ブルガリア語で構いませんよ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
軽く微笑むと、流暢なブルガリア語――少し訛っている様な気もする――で彼女はしゃべり出した。
「怪我の方は大丈夫なのですか?」
「はい、すっかり。連合の医療は進んでるって実感しますよ」
そう言って理人は左腕をまくって見せた。そこに先日の傷はない。一応筋繊維は完全には戻っていないらしく、軽いリハビリは続けている。
「そちらこそ大丈夫なのですか? その」
「精神汚染、ですか?」
「はい」
「平気です。除染と言ってもそこまで酷くは無かったようですし」
「そうですか」
こういった事に不慣れな理人はどうしても上手く笑えずにどうしても少し引き攣った笑いになる。そんな彼とは対照的に、リリアは心の底から理人との再会を喜んでいた。そして同時に、これから始める彼との生活に心から期待を寄せていた。だから理人のどことなく煮え切らない態度に少し不満を覚えたのだった。
だから彼女は行動に出た。本来ならば多少打ち解けてからこの話題を切り出すつもりだったが、そんな事は待っていられなかった。強硬手段である。
「理人さん」
そう言ってリリアは両手で理人の右手をそっと握った。シルクだろうか、滑らかな長手袋越しに伝わる彼女の体温は理人が想像していたよりも高かった。リリアの金色の瞳の中の縦長に細舞った瞳孔が、理人の黒い瞳を真っすぐ射抜く。
「あの時貴方が私に手を差し出してくれた事が、それが私にとって人生で一番うれしかったんです。それが理人さんだと知って、私は貴方が私の人生の伴侶だと、確信しました」
「それってつまり――」
「理人さん、私、リリア・フェレ・ヴィトシャは貴女の事を好いていて、結婚を前提に付き合いを所望します」
理人の頭の中でようやくピース嵌った気がした。先程から彼女が理人に向けてくる感情。理人が今までに感じたことのない感情。
男女としての、好意だ。
リリアはその感情一つで日本まで来たのだろう。まだ16歳の少女のそこまでの覚悟に、理人は真正面から向き合う必要がある。そのことを彼は理解した。だとすれば、彼女の全力の問いに、理人も全力で向き合う必要がある。
「リリアさん」
「……はい」
「まだ俺達は手紙でしかちゃんと会話した事もないですし、唯一出来た会話もとてもじゃないけどちゃんと話せたと言えるような状況ではなかった。だから俺は貴女の事を何も知らない」
「……」
「現時点では、貴女の事をそう言った感情で見るという事が、俺にはできません」
「……っ!」
一瞬、リリアの顔に悲壮が走る。しかし、そんなリリアを不安にさせないように理人はリリアに握られた手を負けじとでも言わんばかりに握り返した。
「だから、貴女の事を教えてください。どんな食べ物が好きなのか、どんな物が好きなのか、どんな色が好きなのか。何処に行きたいのか、何を見たいのか、何を知りたいのか」
理人の黒い瞳が、リリアの金色の瞳を真っすぐ射抜く。
「君の事が、もっと知りたいんです」
駄目ですか? そう理人は尋ねる。
あっけにとられた表情で固まっていたリリアは、その答えに満面の笑みで肯定を返したのだった。
「よかったぁ……!」
リリアはそう言って片手を胸に当てて大きく息をつく。
「すみません、何か、誤魔化すみたいな言い方になっちゃって」
「いいえ、良いんです。よくよく考えれば、いきなり押しかけて急に告白したって困惑されるのは当然でしょうし」
でも、とリリアは続ける。
「理人さんの前で、この感情だけははっきりさせておきたかったんです」
何よりも先に。リリアは言った。
「先行きは長いですよ?」
「いいんです。それだけ理人さんを振り向かせるチャンスがあるってことですから」
それに。
「一番好きな物は、一番最後に、ね」
そう言って微笑むリリアの金色の瞳は何処か捕食者のそれを感じさせる。その瞳に見つめられた理人は、もしかしたらトンデモない娘に惚れられてしまったのかもしれないと思ったが、人生初めての経験に、悪い気はしなくも無かった。
「そう言えば」
「?」
「さっき言っていた、『手を取った時』って言うのは一体いつの話――」
「理人さん、口調」
「え、リリアさん?」
「『さん』はいりません。『リリア』でね? 口調ももっとフランクに。理人さんの普通が知りたいんです」
返事は『はい』か『ダー』でお願いしますね。瞳がそう語っていた。
「――わかったよ、リリア」
「はい。何ですか、理人さん?」
ニコニコと微笑みながらそう訊ねてくる。どうやら満足したらしい。手紙の印象から物静かな印象を理人は勝手に持っていたが、どうやらこの活発な方がリリアの本来の性格らしい。前に病院で出会ったリリアの両親が『娘が変わった』とは言っていたが、リリアも昔はこのような性格だったのだろうか。何が彼女を世界から引き離したのか、そしてそれは何なのか理人は気にはなった。だが同時にそれが彼女にとってデリケートな問題であることは十分承知していた。ならば自分は待つだけだ、何時か彼女がそのことを話してくれる日を。理人はそう思って疑問を意識の奥底にしまい込んだのだった。
「さっき言っていた『手を取った時』って言うのはいつの事なんだ?」
そう彼が言うと、リリアはすこし意地悪く笑った。
「理人さん、それを女の子に聞くのは野暮、ってやつですよ?」
そう言ってリリアは理人の唇にそっと人差し指を当てる。その事で、理人は何となくリリアが言いたい事を理解したのだった。
そういえば、と彼女が唐突に言う。
「理人さん、あの夢の事を覚えていますか?」
「あの事?」
「ほら、あの暗い夢の事」
暗い夢。そう言われても理人には心当たりが無かった。入院していた時の事だろうか?
「いや、本当に済まない。思い出せない」
「そうですか……」
理人に記憶は無かったが、心当たりは有った。リリアを気絶させるのに霊力を流し込んだ際、リリアと理人の間で相互的な記憶の流入が起きた可能性がある。そうカティアが言っていた覚えがある。
「ごめんなさい、何か変な事言ってしまったみたいで」
そう言って彼女は何処か申し訳なさそうな表情をした。
「あー……その、こんな事を言うのは酷かもしれないんだが」
理人は無意識に両手を組む。
「その夢、どんな感じだったか、とか具体的に話せるか?」
どうと言う訳ではない。ただ、何となく気になっただけだった。すると彼女は意外、と言いたげな表情を浮かべた。
そうして少し変な話にはなりますが、と言って彼女は語り出す。
「えーと、初めに、私は真っ暗な牢屋みたいな所にいるんです」
牢屋の格子の向こうの光が眩しすぎて私は牢屋の奥の影に膝を抱えて蹲っているんです。牢屋は内側に扉が付いていて、手には錆びた鍵。
そんな時に影が現れるんです。その影は私に手を差し伸べてくれたんです。
私はその手を掴むんです。でもその影は私が手を掴もうとすると、何かに怯えるみたいに逃げようとするんです。だから私、その影の手を思いっきり掴んで離さないんです。すると影から血が滲みだしてきて、どんどん私の手を汚していくんですけど、それでも握った手を離さないで、そうしたら牢屋の鍵が開いて。
「それで、夢は終わりました――理人さん?」
「ん――あぁ?」
リリアに話しかけられて理人は急に我に返った様な感覚を覚えた。体に感覚が戻ってくると、自分が背中にビッシリ汗を掻いているのに気づく。
何かがおかしい。
「変な事聞いて悪かった。俺から聞いておいて何だが、この話は終わりにしよう」
そんな理人の様子にリリアは何処か不自然な様子を覚える。彼女は竜故だろうか、それともリリアという個人の能力なのかは不明だが人の感情を感じるのが得意だった。
そんな彼女が話を聞いていた理人に感じた彼の感情は、恐怖だった。
それも人に心の深層を覗かれている時の様な、恐怖。彼女はその感情を理人の、何処か危うげな部分だとすぐに認識した。両親やカティアから聞いた、穂高理人という黒錆の様な少年の、どこか危うげな部分。これはきっとそれに繋がる何かなのかもしれない。
リリアはその感覚を心に大切にしまい込む。大切な物を、決して手放さい為に。
「そう言えば理人さんには、妹さんがいらっしゃるんですよね?」
「はい。16になるって言うのに、いつまでも甘えて来て。かわいい……も……んで……す……」
そこまで言って理人は背中が一気に冷え込むのを感じた。そうだ、完全に忘れていた。あの災害の様な存在の事を。あいつはリリアの事をほぼ知らない。しかもリリアは今日から理人の家に住む。しかも恋人宣言までしている。なんてこった。ここは地雷原だったのか。
「どうしたのですか、理人さん――あら、こんにちは」
ドアがゆっくり開く音。そして床に落ちるバスタオルの柔らかい音。ゆっくり理人が後ろを向くと、そこは表情の凍り付いたツツジが茫然として立ち尽くしていた。
次回、頂上決戦()