3話
今回は短め
廊下は日差しが届いておらず、いつも薄暗いためひんやりしている。理人はタオルを首にかけたままリビングへ向かう。廊下の突き当りのリビングの扉を開くと理人の顔をひんやりとしたそよ風が撫でた。奥に立てられた扇風機が回っている。
「おや、ご主人、妹君はどうした」
エプロン姿の榛名が台所から出てくる。料理する時に不便だからだろうか、高校生くらいの姿に変化していた。
「いや、ちょっとお仕置きをな」
すると榛名は『うげぇ』とでも言いたげな表情で理人を見てくる。
「ご主人。流石にその言い方は気持ち悪いぞ。だが安心しろ。僕はご主人がどのような性癖だろうと受け入れるさ」
「おいちょっと待て」
なにかのっぴきならない言葉が聞こえた気がして理人は思わず榛名を止めた。
「言っとくが俺は男でもある前にあいつの兄だ。妹に欲情する事は決してない」
「ご主人がそう思っていても彼女はどうかな」
「それは……まぁ……」
思わず暗い表情でため息をつく理人。ヤケクソ気味に笑う。
「まぁいいさ、ツツジも所詮俺と同じガキだ。時間が来れば熱も冷めるだろう」
そう言って理人は話題を変えようとテーブルの上に積まれた郵便物を見やる。新聞、近所のスーパーマーケットのカラフルな広告、町内会のお知らせ。そう言った郵便物の中に彼は違う物を見つけた。
彼はテーブルの傍まで歩み寄り、それを手に取る。安物感が漂う印刷された郵便物の中に混じって異質な雰囲気を放つ便箋。手に取って分かる。上質な紙を使用しているのだろう。そして便箋は赤い蝋で封がされ、そこには印が押してあった。盾に絡むドラゴンの紋章。彼には見覚えがあった。先月護衛したリリアの実家、古きドラゴンの家系であるヴィトシャ家の紋章だ。表にある差出人の欄には、リリア・フェレ・ヴィトシャの名前が整ったキリル文字で書かれていた。
「……?」
理人が手紙を手に取ると違和感はさらに大きくなった。封筒の内側にぎっしりと張り巡らされた防諜用の認識阻害術式。そしてそこには霊力の代わりに先週正気を失ったリリアと戦った時に感じた、ドラゴンブレスが渦巻いている。無理矢理覗こうとして術式を壊しでもしたら、かなり強力な障壁を張っていても肘から先は消し飛びそうな程のレベルだった。
「随分厳重だな」
術式を丁寧に辿っていくと封の所に仕掛けが施してある。特定の霊力に反応して解除される術式。自分宛に送ってきたのだから自分が開く事を想定しているのだろうと理人は読んでそこにそっと指先で触れ、彼の霊力を流し込む。
効果はすぐに表れ、指先に微かに感じた静電気の様な痛みと共に術式が発動する。封蝋が風化していくようにボロボロと崩れていき、ぴったりと閉じられていた便箋が開いた。同時に込められていたドラゴンブレスが術式の中で減衰して消えていく。理人はそっと封筒の中身を取り出す。中に入っていたのはなんてことの無い、何の変哲も無いただの手紙であった。不審に思った理人が開いてみると、そこには見慣れたリリアの字体で、ブルガリア語の文章が綴られていた。
普段理人とリリアが文通している時、理人はブルガリア語、リリアは日本語で文書を書くようにしていた。不自然に思って手紙を読んでみると、その理由はすぐに示されていた。
親愛なる理人さん
突然連絡してすみません。とても重要な内容なのでいつもの様に日本語ではなく、ブルガリア語で書く事をお許しください。
重要な内容? そう思って理人は手紙を読み進める。その様子を傍から見ていた榛名はそんな理人の様子に違和感を覚えていた。任務の時の様な張りつめた物ではない、また別の緊張と言うべきだろうか。その感覚は理人が手紙を読み進めていくうちに大きくなっていく。
とうとう理人が手紙を読み終わり、静かに畳んだ。
「……ご主人?」
固まったままの理人に対して榛名が尋ねる。すると理人は震える声で言った。
「……ヤバい」
「……?」
理人は確信していた。『ヤバい』という単語を意味も無く多用するのがあまり彼は好きではなかったが、これは心の底からこの言葉が当てはまると確信していた。
「ヤバい」
「2度も言わなくていい、ご主人。具体的になにがヤバいんだ?」
すると理人は手紙を広げてある部分を指差して榛名に見せる。榛名はキリル文字が読めない。理人に聞いた。
「何て書いてあると?」
理人は微かに震える指で文章をなぞっていく。
「『理人さん。この度私は日本に留学する事が決まり、つきましては貴方の家に9月から厄介にならせていただきます』」
榛名は一度目を大きく開くと、そのまま大きなため息をつき、それから眉間に指を当てて眉を寄せた。
「……確かに、こいつはヘヴィーだな」
みるみるうちに榛名の姿が変化していく。いつもの10歳程度の少年の姿に。彼も相当堪えたらしい。
「で、5W1Hはどうなってる?」
「事柄、人物、理由、場所は分かってる。今の所わかってないのは時間と方法だ」
そこで理人は少し考える。あまり触れたくはない事だが、いくらプライバシーの問題があるとはいえリリアの潜在的危険性を考慮すると、流石に輸送は連合が関わることになるだろう。軍用機をチャーターするか、民間の航空会社を用いるとしても、護衛を付けるはず。となると来るのはギリギリになるか? 理人はカレンダーを見る。8月27日の表示。もう来てもおかしくはないが、今日手紙が届いたのを考慮しても8月30日前後か。
「片付けをしないとなー……」
リリアが住むことになる部屋、場所の確保。家財道具も送られてくるだろう。2階の広い部屋が空いている。そこなら丁度いい。まだ時間はあるはずだ、きっとある。
そんな事を半ば放心しながら考えていた理人は、風呂場のさらに向こうの玄関から聞こえてくる話し声に気付く事ができなかった。
チャイムがリビングに響き渡った。その音で理人は我に返った。
「俺が出てくる」
「了解」
榛名にそう言い残して理人は玄関に向かった。薄暗い廊下に出て玄関に向かって歩みを進める。玄関のドアの向こうには人影が。誰だろうか?
「はいはい、今開けます」
そう言いつつ理人は無意識に扉の向こうを探った。片方は知らない気配。もう片方は良く知った気配。無意識のうちに危険性は無いと判断しつつ、彼は玄関の鍵を開けて扉を開く。
「はい、どのような用事で、す……」
扉を開いた理人の言葉が、詰まった。
右側にいたのはよく見知った人物。カティア・クリチェフスカヤだった。髪を切ったのか、前回見た時よりセミロングの金髪が短くなって整っている様な気がした。
それよりも、理人の脳内を占めていたのはその隣の人物。理人の正面。白いキャプリーヌを被り、かすかに青みがかった白いサマードレスを纏った彼女に理人の思考は釘付けになっていた。
雪を抱いた山の様な銀色の、腰まで届く、流れるような髪。積もったばかりの雪の様な肌。燃え盛る炎の様な――不思議と、このような感想を抱いた――美しさの容姿、そして真夏の太陽の様に金色に輝く瞳。その黒い瞳孔は、縦長にすぼまっている。
そんな彼女、リリア・フェレ・ヴィトシャは、理人を見ると心から嬉しそうに、笑う。
「お久しぶりです、理人さん」
想定外すぎる事態に理人の思考が追いつかず、かろうじて理人が発せた言葉は――
「あ、はい」
――だった。日本語で。




