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俺と蓮美さん  作者: kzH
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何かおかしい家

階段はやけに軋んだ。


一段、踏むごとに音が鳴る。古い木の乾いた音がやけに大きく感じられた。下の店内は静かで冷たい空気が出入りしていたが、2階に上がると途端に生活の匂いがして暖かい空気が広がっていた。記憶にない筈の実家への安心感のようなものが胸に沁みる。


「…失礼します」


誰にともなく呟いて二階へ上がりきる。薄暗い廊下、壁は古びているが掃除はされているらしく埃っぽさはない。奥にいくつか扉が並んでいる。電気はついていないが、下から漏れる蝋燭の灯りがわずかに階段口を照らしていた。


「こっちだ」


奥の部屋の襖が開き、男が顔だけ出す。相変わらず表情は薄い。


「はい」


慌てて足を動かし、部屋へ入る。畳の部屋だった。

最低限のものしかない。押し入れと、布団が一組。小さな机。生活感はあるのに、誰かがここで長く過ごしていた気配は薄い。


「寝室。俺もここで寝る」


それだけ言うと男は部屋から出ていく。


「風呂は勝手に使え」


淡々とした説明だけして置いていかれそうになり、「あの、」と思わず声をかける。男の動きが止まり振り返る。


「なんだ」


「えっと、ありがとうございます…あと、その、お名前は」


礼と共に頭を下げてから名前を聞くと、少しだけ間があったあとに低い声が響いた。


「蓮美 優」


それだけ言うと蓮美は行ってしまい、一人になった途端に力が抜ける。その場に座り込みしばらく動けずにいた。畳の感触がじわりと膝に伝わり、冷え切っていた体が少しずつ温度を取り戻していく。


「助かったぁ」


声に出すと現実味が増した。

屋根がある。寝る場所がある。追い出されていない。


普通に考えるとできすぎていると思う。けれど今の自分にとっては本当に有難く、何よりも望んでいた事だ。もしかしてハメられてたりするのかな?なんて考えかけて、やめた。考えたら気持ちが揺らいでしまう気がして、彼の善意を裏切るような事にはなりたくなくて。幸人はそういう性格だった。


荷物を置いて部屋を見回し、見つけた押し入れを開けると予備の布団やタオルが整然と入っていた。生活に困ることはなさそうだ。

こんな場所を見ず知らずの自分に使わせる。どうしてだろうか、いくら働き手を募集していたからと言って。しかもよく考えるとここで見ず知らずの自分と寝ると言っていた気がする。けれど、その「普通じゃなさ」が今はありがたかった。きっとずっと、寂しかった。


廊下に出る。風呂の場所を探すためだった。

電気のスイッチを手探りで探し、ようやく見つけて押す。蛍光灯が一瞬チカチカと瞬いてから、白い光が廊下を照らした。


その瞬間。

ふと背後で何かが動いた気がした。


「……え?」


思わず振り返る。


廊下の奥。さっきまで見えなかった暗がりが、光に押し出されている。何もない。ただの廊下だ。


けれど、確かに。


「今……」


視線を凝らしてみるが何もいない。

静かだ。あまりにも。

耳鳴りのような感覚がじわりと広がる。


「……気のせい、か」


小さく呟く。そう思うことにした。思い込むことにしたのだ。


その後、風呂場はすぐに見つかった。

古いがきちんと手入れされていて、湯も張られていた。蛇口をひねると少し遅れて湯気が立ち上り、冷えた指に熱を伝える。


「わあ、あったかい」


緊張が解け、服を脱ぎ浴室に入る。熱い湯が体に触れた瞬間、思わず息が漏れた。指先から感覚が戻ってきて、冷え切っていた体が少しずつ温まる。早く湯船に浸かりたい気持ちを抑え、髪を洗おうと椅子に座ると浴室の曇った鏡に自分の顔がぼんやり映った。


「……ひどい顔」


呟いて、少し笑う。男の言葉を思い出した。


『顔、終わってるぞ』


その通りだと思った。その時。


背後で微かに音がした。


ぴたり、


近いけど水音とは違う。


「……?」


振り向くが誰もいない。


当たり前だ、ここは浴室で扉も閉めている。

けれどもう一度。


ぴた。


今度ははっきり聞こえた。


足音のような、何かが床に触れるような音。


「…誰か、いますか」


声が震える。しかし返事はない。


代わりに浴室の隅、排水口のあたりに視線が吸い寄せられる。


黒い。何かが、そこにあった。


「……」


ただの影だと思おうとする。そう、湯気のせいだと。

そう思おうとしたその瞬間。それがゆっくりと動いた。


「……っ」


息が止まる。


黒いそれは、細く、長く、まるで濡れた髪のように。

いや、まさしくそれは髪の毛で。排水口からこちらへと伸びていた。


「――っ!!」


反射的に後ずさる。


足が滑り、壁に背中を打ちつける。視線を逸らせない。逸らしたら何かが起きてしまうと本能が叫んでいた。そしてそれは確かに増えていた。さっきよりも、明らかに。水に濡れているはずなのに、不自然に軽い動きを見せる。


「な、に……これ……」


声がかすれる。髪は少しずつ伸び、ゆっくりと確実にこちらへ近づいてくる。まるで床を這うように。這い寄るように。


恐怖心に飲み込まれ、何も考えられなくなりぎゅっと目を瞑る。その時。


「騒ぐな」


低い声が背後から落ちた。


「……っ!」


振り向くといつの間にか浴室の入口に蓮美が立っていた。店で吸っていたのと同じ、煙草の匂いが微かにする。その視線は幸人ではなく床に向いていた。


「お前まだいたのか」


面倒くさそうに呟く。その一言で床を這っていた“それ”がぴたりと止まった。

暫しの沈黙のあと、するりと。まるで最初から何もなかったかのように黒い髪は排水口へと引き戻されていった。


「……え」


状況が理解できない。ただ呼吸だけが荒くなる。


蓮美はそれを一瞥してわずかに眉を寄せた。


「ビビりすぎ」


「……今の、」


あまりの出来事に言葉にならない様子の幸人に男はため息をつきながら「風呂入るなら早くしろ。冷めるぞ」それだけ言って扉を閉めた。そしてまた静寂が戻る。


取り残されたまま、幸人はその場に立ち尽くしていた。先ほどの排水口を見つめながら。しかしそこにはもう何もない。けれど確かに、さっきまで“いた”。


(……ここ、)


喉がひどく乾く。理解が追いつかないまま、ただ一つだけ確かなことがあった。


ここは普通の家じゃない。


そしてそれでも、ここを出るという選択肢を幸人は持ってはいなかった。

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