俺と蓮美さん
雪は降るというより漂っていた。
二月の夜、風に流される白が街灯の下でふわりふわりと揺れる。積もるほどではないが確実に体温を削っていく冷たさだった。
美月幸人は肩をすくめながら歩いていた。
持っているのは黒ずんだバッグがひとつだけ。中身はほとんど空に近く、貴重品以外は全部燃えた。そう、全て燃えてしまったのだった。
三日。たった三日、人間はこんなにも簡単に“居場所”を失うのだと思い知った。
コンビニの明かりを避けるように歩く。入れば何か買わなければならない、金はもうほとんど残っていなかった。
「働かせてください!」
何度も言った言葉が頭の中で空回りする。就職氷河期、どこも雇ってはくれない。履歴書を出しても顔も見ずに断られることすらあった。
そんな中で見つけたのが、とある張り紙。
『住み込み可 アルバイト募集』
剥がれかけた紙に雑に書かれた文字。それでも、それは今の幸人にとって唯一の光だった。
疲れ切った身体を引きずり辿り着いた店はほとんど閉まっていた。シャッターが半分下りていて、営業しているのかも分からない状態だ。しかし完全な暗闇ではなかった。
店の奥にかすかに火が揺れている。その柔らかな灯りに加えてもうひとつ、それは紙煙草の火。
躊躇ったのは一瞬だった。このまま外にいればたぶん同じことだ、幸人はシャッターの隙間に手をかけわずかに持ち上げる。すると金属の擦れる音が静かな夜に響いた。
「……すみません」
声は自分でも驚くほど掠れていた。
店の中は妙に静かで、電気はついていない。蝋燭の火がものも言わずにゆらゆらと空気を揺らしている。その光の中でひとりの男が椅子に腰掛けていた。
長い脚を組み、背もたれに軽く体を預けている。赤黒い髪はツーブロックになっていて綺麗に整えられており、眼鏡の奥の視線はこちらをまっすぐ見ていた。
指先には煙草。白い煙がゆっくりと上へ昇っていく。それは妙に優雅な光景に見えた。場違いなほどに。
「汚ねぇガキだな」
低い声だった。歓迎の色は一切と言って良いほどにない、それでも幸人は一歩踏み出し中に入る。冷え切った空気と違い店の中はわずかに暖かく、それだけで足が止まりそうになる。頭を振って気を紛らわし、言葉を探す。
張り紙。仕事。住み込み…疲れからなのか頭が上手く回らず言葉がすぐに出てこない。何度も何か言い出そうとして、唾を飲み込み、繰り返し、ようやく口から出た「働かせてください」の言葉。それしか言えなかった。
急かす事もなく、何も言わず、男は煙を吐いていた。幸人が言葉を絞り出すと視線だけで幸人をなぞる。
靴。濡れた裾。手の震え。そして、顔。
「帰る場所がねぇのか」
視線を合わす事もなく男は言う。何か言わなければ、と思う。けれど言葉にすると何もかもが崩れてしまいそうで。ただ静かに頷く事しかできなかった。
蝋燭の火がわずかに揺れる。男から吐き出された煙がまるで生きているかのように幸人にまとわりついてきている気がして、少しの恐怖感が芽生えた。震える身体を自ら抱きしめると「顔、終わってるぞ」と淡々とした言葉が投げつけられた。
言葉は強いもののその場で追い出されないことが分かった。恐怖心は消えないが、それだけで胸の奥が少しだけ緩む。
そこから少しの沈黙。外では雪がまだ漂っていて、時折頬を掠める空気に冷たさが混じる。時々車の通る音が近くなり遠く消えていく。やがて男は煙草を灰皿に押し付けた。
心地よかった火が消える。
その音がやけに大きく聞こえた。
「住み込みでいいなら使う」
その言葉に顔を上げる。意味を理解するのに少し時間がかかっていると、幸人の反応も待たずに「荷物、」と軽く短く問われる。
「……これだけです」
バッグを少しだけ持ち上げると、「そうか」と興味なさそうに一瞥して男は立ち上がった。長い足から想像はついてはいたが、かなりの長身で整った顔立ちもあり立っているだけで圧がある。
「上、使え」
それだけ言って背を向ける。説明もなく男は階段を登り、幸人はその場に立ち尽くす。助かったのかどうかまだ分からない。ただ、追い出されなかったそれどころか住ませてくれるとも言った。これほどまでに恵まれてて良いのだろうか?今更ながらに喜びが込み上げて来た。
「早く来い」
上から荒々しい声で呼ばれる。「はい!」と大きく返事をして幸人も二階へ上がった。全く知らない人だが、もうひとりではない事と住居と仕事が見つかった安心感で幸人は胸がいっぱいだった。
これから自分がどれだけの恐怖に巻き込まれるかも知らずに。




