第八話 The Night They Stopped Screaming
──ミシガン州デトロイト市内のデリにて
ヴァイオラ・マクティアが最後にデリへ出勤したのは、火曜の夜だった。
それから三日後、店主が警察へ通報する。
最初の一日は「体調不良かもしれない」と誰もが思い、二日目は「連絡が取れないのはスマホが壊れたんじゃないか」と言い合っていた。
だが三日目、デリの店主が低い声で言った。
「マクティアが無断欠勤、しかも三日もなんて初めてだ。……カレン、見に行ってくれないか。男の俺が行くより、女性のお前のほうが良いだろう」
昼過ぎ、カレンは警官と共にヴァイオラの部屋の前にいた。
アパートのドアを叩いても、返事はない。
管理人が合鍵を持ってくる。
解錠音とともに、古いヒンジがきしんだ。
玄関の空気は、生温く湿っていた。
部屋の中は、静まり返っていた。
テレビはついたまま。
コーヒーメーカーの中には乾いた残りかす。
ソファの上には猫の毛が付着している。
整頓された部屋の中、床には、血が乾いて黒く固まっていた。
指先で触れた警官が眉を寄せる。
「……三日以上は経ってるな」
床のそばには、削り取るように深くえぐれた爪痕。
倒れた椅子。
部屋の窓は、外気を取り込むようにわずかに開いていた。
「……ヴァイオラ?」
カレンの声は掠れ、返事は無かった。
カーテンの裾が裂け、ベランダ側の窓の鍵は半分開いたままだ。
風が入るたび、薄く残った毛が舞い上がる。
猫のものだろうか。
部屋の中には、何もなかった。
ただ、人が暮らしていた痕跡だけが、きちんと整って残っている。
朝に淹れたままのコーヒー、洗面台の歯ブラシ、乾きかけのタオル。
でも、どこにもヴァイオラも、猫のシャーベットもいない。
──まるで、分子ごと持っていかれたみたいに。
警官の一人が呟いた。
「失踪者の部屋って、普通は荒れてるもんだろ……?」
「誘拐なら争った形跡がある。ここは……」
鍵は内側から掛かっていた。
窓も、施錠されたままだった。
──彼女は、ここで消えたのだ。
音も、形も、何も残さずに。
まるで、そこから彼女が“蒸発”したかのようだった。
────
──またひとり、消えた。
けれど、もう誰も驚かなかった。
ニュースは、他の事件や選挙報道に埋もれて三〇秒ほどで終わり、SNSでは、行方不明者リストの更新を知らせるボットが淡々と通知を流す。
「デトロイト市内で成人女性の失踪が確認されました」
アナウンサーの無機質な声が、朝のカフェに置かれたテレビのスピーカーから漏れる。
しかし、誰も顔を上げない。
出勤前の客たちは、コーヒーを啜りながらスマホを見ている。
「またか」
そう呟いた青年の声にも、もう恐怖はなかった。
失踪の数は、ここ一か月で二〇を超えた。
警察は「誘拐犯の連続事件の可能性」と言い、メディアはその誘拐犯を「デトロイト・シャドウ」と呼び始めた。
しかし誰も、その“影”を見た者はいなかった。
ただ、夜になると、街のどこかで、何かが這うような音がするだけだった。
────
──デトロイト市東部 セントクレア湖沿い住宅区
「ジェイミー!」
トースターの中でパンが跳ね上がる軽い音がした。
エイダ・ラブリーは手早くそれを皿に移し、ナイフでバターを塗る。
コーヒーメーカーのポンプ音と、二階から聞こえる足音。
キッチンの窓からは、まだ薄い朝の光が差し込んでいた。
「ジェイミー、もう出る時間よ!」
二階から、わずかに眠そうな声が返る。
「わかってるー!」
いつも通りの朝。
けれど、TVから流れるニュースだけが、その“いつも”を壊していた。
「デトロイト市にて女性行方不明──市内で今月五件目」
アナウンサーの声は淡々としていて、まるでそれが毎日の変わらない天気予報であるかのようだった。
ジェイミーが眠そうにリュックを背負って階段を下りてくる。
栗色の髪の少年が母親の顔を見るなり、口を開いた。
「ねぇママ、また誰かいなくなったの?」
「……大人の話よ。気にしないで」
エイダはそう答えながら、カップに注いだコーヒーを一気に飲み干した。
苦味が喉を過ぎる。
「ジェイミー、早く朝食を食べて」
皿の上に乗せられたP&Jサンドイッチをジェイミーはもそもそと食べる。プラスチックコップに注がれたミルクを飲み干して、ジェイミーは立ち上がる。
息子の頬にキスをして、二人は家を出た。
外の空気はひどく湿っていた。
車のドアを開けたとき、どこか鉄の匂いが混じったような風が頬を撫でた。
エイダは眉をひそめ、周囲を見渡す。
ガレージの影──。
そこに、一瞬だけ光が走った。
青白く、細く、まるで水の中の反射のような光。
見間違いだ、と言い聞かせる。
ジェイミーを助手席に乗せ、車を発進させた。
ラジオでは、昨日と同じニュースが流れていた。
だがエイダは、もう耳を傾けることができなかった。
さっき見た“あの光”が、頭から離れなかった。
──同日・夕方
帰宅ラッシュの時間、デトロイトの空は灰色の雲に覆われていた。
エイダは仕事を早めに切り上げ、ジェイミーを迎えに行った。
学校の駐車場には、いつもより多くの保護者の車が並んでいる。
誰もが窓を閉め、エンジンをかけたまま落ち着きなくスマートフォンを見つめていた。
エイダの車へ、ジェイミーが駆け寄ってくる。
その笑顔を見て、エイダはほっと息をつく。
「どうだった? 今日は」
「うん、いつも通り。楽しかったよ……でもね」
ジェイミーはシートベルトを締めながら、少し声を落とした。
「ジャスミンがいなくなったんだって。
朝はいたのに、給食のあとから誰も見てないんだ」
エイダの手が、ハンドルの上で止まる。息が止まるような心地がした。
「……先生は?」
「“おうちの人が迎えに来たんじゃないか”って言ってたけど、放課後になっても帰ってこないんだって。ジャスミンのお母さんから、学校に連絡が来たんだってさ。ジャスミン、どこ行っちゃったんだろ」
車の中に沈黙が落ちる。
信号が青に変わっても、エイダは動かなかった。
後ろの車がクラクションを鳴らす。
彼女はゆっくりアクセルを踏み込みながら、息子の横顔を見た。
ジェイミーは窓の外をじっと見ている。
夕暮れの街を、青白い光がすれ違う車のボンネットに反射した。
「ママ……ジャスミンも、“光”を見たって言ってた」
その言葉に、エイダの喉がひゅっと鳴る。
何かを言おうとしたが、声にならなかった。
カーラジオから、かすかにニュースが流れる。
『行方不明者は現在、一七名。警察は連続誘拐事件の可能性も──』
エイダは無意識に音量を下げた。
街の風景が、いつもより暗く見えた。
家までの道が、やけに長く感じられたのだ。
──その日の夜。
静まり返った家の中に、何かが軋む音がした。
「……ジェイミー?」
半ば寝ぼけながら声をかけたエイダの耳に、次の瞬間、
甲高い悲鳴が突き刺さる。
「ママ!!!」
血の気が引く。
廊下を駆け抜け、エイダはジェイミーの部屋のドアを開けた。
カーテンが風に舞っている。
開け放たれた窓の下──ベッドの足元で、“何か”がジェイミーを呑み込んでいた。
「ジェイミー!!!」
エイダは叫びながら駆け寄る。
けれど、もう少年の上半身は見えなかった。
青白く光るぬめった体が、喉の奥で蠢くようにジェイミーを飲み込んでいる。
見えるのは、まだ必死に藻掻き地面を蹴るように動く足だけ。
パジャマの裾が泥と粘液にまみれ、光を反射していた。
「ジェイミーを離してぇ!!!」
エイダは手近なモップを掴んだ。
恐怖も理屈もなかった。
ただ、力任せにその青白く発光する体を叩きつける。
鈍い音。
粘膜が裂ける。
二メートルはあるだろう大トカゲが、わずかに震えた。
「ジェイミーッ!!!」
彼女は叫びながら、もう一度叩く。
だが、その一撃が届くより早く、少年の足がずるりとトカゲの胃袋の中へと消えた。
床に残ったのは、体液のような粘液の線と、母の手の中に握り込まれたモップの柄だけだった。
トカゲは美味そうに舌で口を舐めると、窓の枠へと前脚を掛け、上手く窓枠へ乗せられない後ろ脚をバタバタと動かし、影はゆっくりと遠ざかっていく。
それが夜に溶けるまで、エイダは何度も、何度も愛しい息子の名を呼び続けた。
──翌朝。
サイレンの音が遠くで途切れ、デトロイト市警の車がエイダ・ラブリーの家の前に停まった。
玄関先には近所の人々が集まり、ざわめきが生まれては消えていく。
「中に……あの子がいたの!」
エイダは泣き腫らした目で叫ぶ。
寝巻き姿のまま、髪は乱れ、指先には泥と血がこびりついていた。
婦人警官がそっと肩に手を置く。
「マダム、落ち着いてください。お子さんが“攫われた”ということですね?」
「違うの! 攫われたんじゃないの! 飲み込まれたのよ、あのトカゲに!」
若い巡査が顔をしかめ、もう一人の警官が目配せをする。
彼らは家の中へ入り、淡々と捜索を始めた。
リビングの床には、乾きかけた粘液と泥の線が残っていた。
だが窓ガラスは割れておらず、鍵も内側から掛かっている。
荒らされた形跡も、争った痕跡もない。
「侵入の形跡は……無しだな」
「外から入れる窓もない。鍵も全部内側から閉まってる」
「ジェイミーの靴は!? 学校のカバンも、上着もそのままなのよ!」
エイダの声が震える。
「信じて! あの子、ベッドの上で……消えたの!」
婦人警官が小さく息を吐き、静かに記録用紙を閉じた。
「マダム、昨夜眠れましたか? 最近、睡眠薬などは?」
「……ふざけないで、幻覚じゃないのよ! 本当にいたのよ、こんなに大きなトカゲが!」
「はい、分かります。ただ──大きなショックで、幻覚を見た可能性もあります。
お子さんが家出をした可能性も考えて、捜索を進めますね」
「幻覚なんかじゃないのよ!」
エイダの声が震える。
「助けようとしたの。モップで叩いたの。でも、あの子は……!」
その警官の可哀想なものを見るような目に、エイダは絶句した。
誰も、彼女を信じていなかった。
婦人警官は沈黙したまま、記録用紙を閉じた。
「ご心労のほど、お察しします。まずは家出として捜索を開始しますね」
警察が去ったあと、家の中は静まり返った。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ジェイミーの座る椅子の前へ置かれた朝食用の皿を照らしていた。
──その小さな皿が、彼の存在を示す唯一の痕跡だった。




