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Rosalie: A Human History  作者: 田中


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第七話 The Night They Disappeared

 ──ミシガン州デトロイト市ローワータウン地区にて


 デトロイトの少年たちの事件から一週間。

 誰もが“悲しい事故”として話題を終えようとしていた。

 けれど、その頃から街では、別の静かな変化が起き始めていた。


 まず消えたのは、野犬たちだった。

 ごみ置き場を荒らし、夜の通りを走っていた群れが、一匹残らず姿を見せなくなる。


 夜になると、街の奥から低い唸り声が響いていた。

 錆びたフェンスの隙間を抜けて、数匹の野犬が現れる。

 痩せこけた体、剥き出しの肋骨。

 食料を求めて、街外れのごみ集積所に群がるのは、いつもの光景だった。


 だが──その夜は違った。


 群れの一頭が、鼻を鳴らして動きを止めた。

 耳を伏せ、尾を巻き込むようにして後ずさる。

 次の瞬間、彼らの視線の先でごみ袋が微かに動いた。

 風ではない。

 袋の内側から、何かが蠢いている。


 リーダー格の犬が警戒の唸りを上げた。

 その瞬間、袋の裂け目から、ぬるりと何かが這い出してきた。

 黒緑色の粘膜に覆われた体。短い四肢の間には薄い水掻きが見える。

 街灯の光を受けて、その粘膜の内側が淡く光った。


 犬たちは吠え立てた。

 しかし、そのうちの一匹が突然、声を上げたまま、頭から飲み込まれる。横に裂けた大きな口は、まるで夜のように犬の姿を覆い隠す。

 他の犬たちは怯えて逃げ出した。

 残された袋の中では、ぬめる音がゆっくりと静まっていく。


 翌朝、ごみ置き場には荒らされた形跡すらなかった。

 ただ、地面に散らばった犬の足跡が途中で途切れている。

 それだけだった。


 街中から消えた野犬たちに、保健所は「駆除が成功した」と声明を出したが、捕獲記録も死体もなかった。

 SNSでは「夜、鳴き声が突然途切れる」といった投稿が断続的に上がった。

 それを不気味がる者もいれば、「犬が減って安全になった」と喜ぶ者もいた。


 そして次に、猫が変わった。

 人懐っこかった飼い猫が、夜になると外に出なくなった。

 野良猫は昼間しか動かず、夜は屋根や塀の上で丸まっていた。

 暗闇を恐れている──そんな印象だった。



 ──デトロイト南部・グリーナー通り。


 この通りには、いつも猫がいた。

 パン屋の裏手で小麦粉を被りながら寝る白猫。

 ガソリンスタンドの裏にあるドラム缶の上で日向ぼっこをする黒猫。

 ゴミ箱を漁る野良猫たちが小さな群れを作り、人の足音を聞けば一斉に散っていく──そんな日常。


 それが、三日前からぴたりと消えた。


 パン屋の店主は最初、誰かが保護したのだと思った。

 だが、裏口に残った餌皿の中のカリカリは、誰にも荒らされないまま湿っていく。

 夜になると、あの小さな鳴き声がしない。

 ドラム缶の上には、猫の毛が数本、風に吹かれて貼りついていた。


 ゴミ収集員が通りを掃除していたとき、袋の間に小さな水の跡を見つけた。

 乾きかけた泥のような跡が、路地裏へと続いている。

 懐中電灯の光を当てても、何もいない。

 ただ、生ぬるい湿気だけが残っていた。


 その夜、通りの子どもたちは、路地の奥で奇妙な光を見たという。

 薄い水膜のような青白い揺らめきが、静かに壁を這っていった。

 誰も近づこうとはしなかった。

 翌朝、その話は笑い話になりかけて──けれど、街角のポスターに貼られた「迷い猫」の数だけが、日を追うごとに増えていった。


 子供たちがいつものように通学路を歩くと、昨日までそこにいた白猫の姿が、どこにもなかった。

 鳴き声も、足跡も、血の跡すら残さずに。



────


 ──ミシガン州デトロイト市内 ヴァイオラ・マクティアのアパートメント


 夜勤明けのヴァイオラ・マクティアは、いつものようにデリの制服のままアパートに帰った。

 鍵を二重にかけ、カーテンを閉める。いつもの習慣だった。


 猫のシャーベットが、ベッドの下で小さく鳴いている。

 臆病な猫だった。誰かが廊下を通るだけでベッドの下に隠れる。

 だからヴァイオラは、帰るたびにそっと声をかける。


「シャーベット、ママだよ。大丈夫、帰ったわ」


 部屋の中は、出る前と同じくきちんと整っていた。

 冷蔵庫の音、窓の外を走る車の音──いつもの夜。

 でも、その夜だけは少し違った。

 愛猫が、ベッドの下から出てこない。

 いつもなら皿にザラザラと出された餌の音で出てくるのに。


 ヴァイオラはしゃがみ込み、ベッドの下を覗き込んだ。

 暗がりの中で、シャーベットがじっと一点を見つめている。

 窓の方だ。


「シャーベット?」


 小さく声をかけても、返事はない。

 代わりに、低く喉を鳴らす音がした。警戒の音。

 ヴァイオラは不安を覚えながら部屋を見渡す。


 部屋の空気が──“乾きすぎている”。

 暖房を入れた覚えはないのに、喉がひりついた。

 まるで、何かが空気中の湿気を奪っているみたいだった。


 カーテンの隙間から、外の光がわずかに漏れている。

 その光の中を、黒い影が一瞬横切った。

 ヴァイオラは息を呑み、そっとカーテンを閉めた。


 その瞬間、背後で──ベッドの下のシャーベットが、ひどく、低い声で唸った。


 外では、遠くに救急車のサイレンが響き、風がビルの間を抜けていく。

 ヴァイオラは、恐怖を直視しないようテーブルの上に置いた半分飲みかけの紅茶を見つめた。


 その窓は、ほんの数センチだけ開いている。

 昼間、シャーベットが外の空気を感じるために──いつものことだ。

 虫も入らないよう、細く、慎重に開けたはずだった。


 けれど、風が吹き抜けるたびに、カーテンが少しずつ持ち上がり、外の黒い夜気が、部屋に染み込んでいた。


 ──ぬるり。


 その音が、部屋のどこかから聞こえた。

 冷蔵庫のモーターでも、配管の水音でもない。

 ヴァイオラは息を止め、音のする方を見た。


 カーテンの奥で、何かが動いている。

 それは風ではなかった。

 黒緑色の光沢を帯びた影が、ゆっくりと──狭い窓の隙間を、押し広げながら入り込んでいた。


 先に現れたのは頭だった。

 丸く平たい頭、短い首、そして湿った楕円の青紫色の舌が、一度空気を舐める。

 それはまるで、部屋の匂いを“確かめている”ようだった。


 ヴァイオラは声を失った。

 動けない。息すら詰まる。


 次の瞬間、床に“どさり”と音が落ちた。

 重たい肉の塊が、ゆっくりと這い出てくる。

 それは──三メートル近い、ずんぐりとしたトカゲだった。

 光沢のある皮膚がかすかに青く光り、短い四肢が床を這うたびに、静かな湿音を立てる。その手足の指の間には水掻きが付いているのが見える。

 その鋭い爪が、フローリングを掠めてカチカチと音を鳴らす。


 シャーベットが、いままで聞いた事のないほどの威嚇音を出す。

 毛を逆立て、尻尾を膨らませ、喉の奥から低く唸っている。

 しかし、シャーベットのその足は動かなかった。

 猫特有の本能が、全身を縫いつけているかのようだった。


 ヴァイオラが立ち上がった時、巨大なトカゲは既に、彼女の足元にいた。

 彼女の心臓が喉を殴りつけるように跳ねる。

 その拍動の音さえ、大トカゲには聞こえている気がした。


 ──動くな。


 そう心が叫んだが、ヴァイオラの体は言うことを聞かない。

 トカゲはゆっくりと、ヴァイオラの足元に近付いてくる。


 湿った皮膚が床を這う音。爪が音を鳴らしヴァイオラへと近付いてくる音。

 冷たい息が足首に触れた瞬間、ヴァイオラは悲鳴を上げた。


「いやっ……いやぁぁっ!」


 トカゲの頭部が一気に持ち上がる。

 口が横に裂けるように開いた。

 歯は見えない。ただ粘膜が、ぬるりと光を反射する。青白い光が、ヴァイオラの目を釘付けにする。


 掴むことも、噛み砕くこともなく、

 トカゲはヴァイオラの足へと食らいついた。


 まるで咀嚼などせず、ごくごくと胃袋の中へヴァイオラを飲み込んでいく。

 足首、ふくらはぎ、膝──すべてが沈むように体内へと消えていく。

 痛みよりも、冷たさが速かった。


「助け──」


 声が途切れる。

 胸まで呑まれたヴァイオラの指先が、床を掻いた。

 爪が剥がれ、床に血が滲む。


 シャーベットが鳴いた。

 その声は、警戒ではなく──哀しみの声のようだった。


 ヴァイオラの頭が飲み込まれる頃には、

 部屋にはもう、音がなかった。


 静かな夜。

 隣室の住人が、イヤホンを外して顔をしかめる。

 映画かと思ったのだ。

 隣の部屋から聞こえた叫びが、あまりに“リアルすぎて”。


 そして──誰も、警察には電話をしなかった。

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