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Rosalie: A Human History  作者: 田中


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第一九話 The Continent Breathes

 ──ヨーロッパ中部



 ──ドイツ・ベルリン


 二〇三二年一月三日 午前九時三六分。


 ブランデンブルク門の空は鉛色だった。

 雪ではない、細かな灰が降っていた。

 それが灰なのか、凍りついた塩なのか、誰にもわからなかった。


 環境省の副長官クラウス・マイヤーは、防寒コートの襟を立てながら門の向こうを見た。

 ライン川上流で沈んだ貨物船から、異常な生体反応──その報告が来たのは、前夜だった。

 積荷には“生体反応を持つ粒子”が混入しており、輸入元はカナダであった。


 マイヤーは眉をひそめた。


「また、アメリカ経由か……」


「はい、バッファロー港を経由した可能性があります」


 部下の報告を聞きながら、彼はゆっくりと歩いた。


 ブランデンブルク門の前に、灰色の防護服を着た兵士たちが整列している。

 門の向こう、ウンター・デン・リンデン通りには市民の姿はない。

 政府は“汚染警報”を理由に、中心街を封鎖していた。



 午前一〇時四分。


 環境分析車両が現場に到着した。

 試料採取班が、川沿いに沈んだ貨物船の残骸へと近づく。

 隊員のひとりが、計測器を掲げた。


「放射線反応、ゼロです!」


「生体反応は?」


「──ある、あります。まだ動いています」


 モニターには、赤い線がゆっくりと脈打っていた。

 それは心拍のようなリズム。

 しかし生物反応の強度は、水中で異常に安定していた。


「何か……呼吸してるのか?」


「水流です、たぶん」


「いや、違う」


 隊員が呟いた瞬間、センサーの針が跳ね上がった。

 水面が膨らみ、気泡が弾ける。

 青黒い液体が、彼らの防護服を濡らした。


「何だこれ……油か?」


「違う、動いて──」


 音が消えた。

 無線は静まり返り、画面には“静止した赤”が、ただ映っていた。



 ──連邦政府臨時会議


 午後一時。


 マイヤー副長官が報告書を机に置いた。


「……生体反応は依然として継続しています。川の流れに沿って南下中」


「拡散の恐れは?」


「あります。しかし正体はまだ不明」


「不明? 科学者が“不明”とはどういう意味だ」


 老齢の議員が苛立った声を上げる。

 マイヤーは小さく息を吐いた。


「──存在を定義できない、という意味です」


 室内が沈黙した。

 モニターには衛星写真。

 黒い川の帯が、ゆっくりと地図を這うように広がっていた。


「感染か? 有機兵器か?」


「違います」


「なら何だ」


「ただ、生きている」


 その言葉のあと、会議室の蛍光灯が一瞬だけ明滅した。



 ──ベルリン工科大学 生物物理学研究所


 午後三時。


 研究員の若い女性がデータを解析していた。

 試料に含まれる物質は未知のタンパク構造。

 しかも、分子レベルで“再配列”を続けていた。


「エネルギー源は……外部からではない。内部構造そのものが反応してる」


 彼女は小さく呟いた。


「まるで、自己燃焼してるみたい」


 隣の席の教授が顔を上げる。


「それは有機的な反応か?」


「はい。でも……意志的です」


「意志?」


 教授の声が低くなる。


「それは比喩だな?」


「──わかりません」



 夜。

 ライン川の支流で、漁師が通報した。


「魚が……全部いなくなった」


「死体は?」


「一つもない。網を下ろしても、何もかからないんだ」


 その夜、ベルリンの街は静まり返った。

 だが、静寂の奥で、どこかの配管が“呼吸”していた。

 その音に気づいた者は、誰もいなかった。



 ベルリンは合理の街だった。

 だが今、理性は観測を超えた。

 科学はまだ生きている──ただ、理解の外で。



──


 ──ポーランド・クラクフ


 二〇三二年一月四日 午後二時二八分。


 ヴァヴェル城の影が伸びて、ヴィスワ川の水面に溶けていた。

 冬の太陽は低く、空気は澄んでいるのに、光は重たかった。


 市立インフラ庁の技師マレク・コヴァルスキは、旧地下水道の再整備工事の監督として現場に立っていた。

 老朽化したパイプの交換作業の最中、ドリルが地中の空洞にぶつかったのだ。

 図面には載っていない──それだけで嫌な予感がした。


「下へ降りて確認する」


 マレクがライトを持って降りていくと、足元の泥がかすかに揺れた。

 水滴の音が絶え間なく響く。

 地下水の匂いではない。

 生き物の匂いだ。


 ライトの光が壁を照らした。

 そこに、白い球体が無数に張り付いていた。


 ──卵。


 大小取り混ぜて、五〇以上。

 外殻は半透明で、内部で何かが動いている。

 マレクは無線を掴んだ。


「上に連絡を──」


 その瞬間、球体のひとつが割れた。

 空気の抜けるような音がその空間の響く。

 泥の匂いとともに、温かい蒸気が立ち上る。

 マレクは一歩後ずさった。


 割れた殻の中で、黒い舌のようなものが蠢いた。

 その一瞬で、照明が落ちた。

 闇の中で、何かが擦れる音がした。

 石と皮膚が触れ合う音。

 そして無線が、途切れた。



 二時間後。

 市庁舎の地下通信室では、交信が完全に遮断されたことが報告された。


「またか」


 上司の男が吐き捨てるように言った。

 ここ数日、同じような通信障害が各地で起きていた。

 最初の内は、機器の老朽化だと笑っていた。

 だが今は、誰も笑わない。


 マレクのチームが戻らないまま、夜が来た。

 復旧班が出動したが、地下への入口は塞がっていた。

 誰かが内側から、鉄扉を溶かしたように。



 翌朝、地上に異変が現れた。

 ヴィスワ川沿いのマンホールが一斉に呼吸していた。

 冬の冷気の中、白い蒸気が規則的に上がっては沈む。

 市民がその光景を撮影してSNSに投稿する。


“クラクフが息をしている”。


 その動画は、数時間で百万回再生された。


 だが、市当局はすぐに投稿を削除し、報道規制を敷いた。

 理由は「インフラ関連の誤報拡散防止」。

 実際には、政府も正体を知らなかった。



 一月五日 午前〇時。


 クラクフ全域が停電した。

 電力制御システムの異常。

 原因不明。

 非常灯だけが、街を赤く染めていた。


 警察が地下通路に突入した時、空気は“温かかった”。

 外気温は氷点下八度。

 それにも関わらず、地下は二五度を超えていた。

 湿った壁の奥から、一定間隔で音がする。


 ──吸って、吐く。吸って、吐く。


 それは巨大な呼吸の合唱だった。


「生き物だ……地下全体が」


 隊員の声が震える。


 その直後、音声は途切れた。



 二〇三二年一月六日。


 ポーランド政府は、クラクフ市全域を立入禁止区域に指定した。

 名目は、“地盤沈下による危険性”であったが、誰もがそれが詭弁だと理解していた。

 避難完了後、都市ガスを封鎖したが、地中の熱は下がらなかった。


 現場を最後に監視していたドローンが、上空から最後の映像を送った。

 市街地の中心部──地下鉄の換気口から、微かに蒸気が立ち上っている。

 それは、まるで冬空へと向かって“息を吐く”ように。



 この国は何度も焼かれ、何度も蘇った。

 だが今回は、誰も火を見ていない。

 それでも、灰だけが静かに降っていた。



──


 ──フランス・リヨン


 二〇三二年一月二九日 午後六時四五分。

 リヨン市北部の研究地区では、下水処理施設の自動センサーが“水質の変化”を検知していた。

 硝酸濃度の急減、リン酸の増加、そして──未知の有機構造。


「まただ……カナダの観測と同じ構造だ」


 環境技師のマチュー・デュランは、

 ディスプレイに映る曲線を見つめて息を呑む。


 それは、ロザリー02の脂質配列と完全に一致していた。



 同日午後七時。


 ローヌ川の水面が淡く光を放ち始めた。

 だが、誰もそれを“異常”と呼ばなかった。

 夕暮れ時の川は、いつだって光を映すものだから。


 ただ、その光は水銀灯でも夕陽でもなく──微細な有機体の放射性補酵素の反応だった。


 翌朝、川沿いの漁師が魚を見つけた。

 しかしそれは、頭から尻尾まで、透明だった。

 骨も、血も、残っていない。

 細胞一つ残らず、ロザリーの体表構造と融合していた。


 それは死ではなく、ただ“構成要素が移動した”だけだった。


 フランス生物研究庁の報告ではこう記されている。


「ロザリーは都市を攻撃していない。

 ただ、熱と代謝を利用して拡散している。

 彼女にとって人も魚も同じ、“構造物”にすぎない。

 それが骨格を持つ以上、栄養であり、素材でもある」



 夜、マチューは窓を開けて外を見た。

 街はいつも通り光に包まれている。

 ただ、街灯の下で影が消えていた。


 それは恐怖ではなかった。

 彼の中では、こう結論づけるしかなかった。


「この都市は、生物圏の一部になったんだ」


 その後、リヨンでは行方不明者が相次いだ。

 だが、彼らの遺体も血痕も発見されなかった。

 代わりに、ローヌ川の流速がほんのわずかに遅くなった。


 ──川が、“何かを抱えている”。



「ロザリーは人類を滅ぼしていない。

 ただ、環境の一部として取り込んでいる。

 これは死でも災厄でもない。

 生態系の更新だ」

─フランス生態学会 第五次ロザリー報告書



──


 ──スイス・ジュネーヴ 国際連合欧州本部・会議棟A


 二〇三二年一月一二日 午前一〇時一六分。


 冬の光が厚い雲の向こうで鈍く揺れていた。

 レマン湖は灰色に沈み、雪に濡れたガラス窓の向こうで水鳥がゆっくりと軌跡を描いている。


 会議室には二七か国の代表が集まり、

 冷えきった空気の中でスクリーンの光だけが人々の顔を照らしていた。

 ただ、記者たちのシャッターを切る音だけが、その場に響いている。


 投影された衛星地図には、ヨーロッパ大陸を横断する赤い熱反応の帯がいくつも描かれていた。

 まるで呼吸のような周期性を持ち、規則的に明滅している。


「自然由来の放射ではありません」


 WHOの生物物理学者が報告を始めた。


「環境放射線の波形は安定しています。

 これは生物的な代謝活動、つまり“何かが生きている”痕跡です」


 ざわめきが広がる。

 フランス代表が言った。


「それは……我々を攻撃しているという意味か?」


 学者は首を振った。


「いいえ。

 攻撃ではありません。この反応には、意図がありません。

 単純に、あの生物は自らを維持しているだけです。

 放射性物質を抱えた身体を安定させるために、環境中の元素を吸収し、再配置している。

 それが結果的に、我々の観測系を乱しているのです」


 誰かが低く呟いた。


「……つまり、我々の存在が偶然その行動範囲に入ってしまっただけだと?」


「その通りです」


 学者は淡々と答えた。


「生物学的には極めて単純な構造です。

 行動にも敵意や目的は見られません。

 あくまで、環境と反応しているだけです」


 沈黙が落ちた。

 人類がこの数世紀、

 “理解できない現象には必ず意味がある”と信じてきたことを、誰もが心のどこかで思い出していた。


 スイス代表が小さく息を吐く。


「……ならば、我々は何をすればいいのだ」


「観測を、続けるしかありません」


 科学者は静かに言った。


「彼女は敵ではない。

 ただ、同じ地表にいるだけのひとつの生物です。人間が殺すことのできない唯一の、という注釈は付きますが」


 その言葉に、誰も反論しなかった。

 外では雪が音もなく降り続けていた。

 そしてレマン湖の底で、微かに放射のリズムが脈打っていた。

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