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Rosalie: A Human History  作者: 田中


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第一八話 The World Begins to Breathe

 ──中国 広東省・軍直轄区生物兵器研究所 第三地下棟


 二〇三一年一一月二二日 午前九時五四分。


 厚い鉛壁に囲まれた実験区画の温度は摂氏七度。

 低温に保たれた室内の中央、耐圧ガラスのケースの中に“それ”はあった。


 直径およそ六〇センチ。半透明の卵形。

 表面は滑らかで、微細な血管のような筋が脈打っている。

 青白い光が時折、内部からにじんでいるのが分かる。

 その光を前に、主任研究員リウ・ファンは口を引き結んだ。


「……発光周期、九秒間隔。熱反応は安定している」


 助手が記録する。


「試料採取の許可を」


「許可する。ただし深部損傷は避けろ」


 彼はマニピュレーターを操作し、注射針のような装置を卵に刺す。

 内部から粘性の液体が少量吸い上げられる。

 針の先のセンサーが微弱な放射を検出。


「……核種同定、失敗。既知の同位体構造に該当せず」


 リウは静かに言った。


「代謝型放射性補酵素──理論上の産物が、現実に存在している」


「軍へ報告を?」


「報告内容は“無害な生体組織”。発表は私がする」


 彼は冷却槽のモニターを見つめた。

 表面がわずかに波打ち、内側から微かな泡が上がる。

 生きている──。

 誰もその事実を口にしなかった。



 ──中国 北京・中央軍事委員会 特別生物兵器会議


 午後二時。


 灰色のスーツを着た幹部が冷ややかに言った。


「生体試料は確認済みか?」


「はい。安定状態にあります。反応値は予測範囲内」


「利用可能か?」


「現段階では不明です。ただ、細胞の代謝エネルギーを模倣できれば──」


「“模倣”ではない。“抽出”だ」


 議場が静まる。

 スクリーンには“RZ-β細胞複製実験計画”と書かれた資料。


「対象動物は?」


「ラット二〇体です。免疫抑制下で細胞移植を実施します」


「人間への応用は?」


「段階的に」


 会議は二〇分で終了した。

 誰も倫理の話をしなかった。



 ──広東研究所 実験区画B-12


 二〇三一年一一月二五日。


 ラット群のケージには静寂が広がっていた。

 昨日まで走り回っていた個体が、一体も動かない。

 体表は乾いておらず、ただ内部が“空”になっていた。

 リウ・ファンはマスク越しに息を詰めた。


「……臓器が、無い」


「分解ではなく“消失”です。組織そのものが消えています」


 助手の声が震える。

 モニターに映る赤外線映像。

 ケージの奥、まだ生き残っている一匹がいた。

 その腹部が異常に膨らんでいた。


「リウ主任! 呼吸、異常です!」


 次の瞬間、腹部が裂けた。

 血ではなく、青白い粘液が噴き出す。

 中から、指のように細い透明な肢が伸びた。


 警報が鳴り響く。

 研究区画が自動的に封鎖される。

 監視カメラが捉えた最後の映像──床に転がるリウの防護マスクの上で、小さな影がゆっくりと首をもたげていた。



 ──中国国防省・広報発表


 二〇三一年十一月二六日 午前〇時。



「広東省軍区内の実験施設で、設備の不具合による爆発事故が発生しました。

 放射性物質の漏洩は確認されておりません」


 そのわずか一時間後。

 広東沿岸の漁港で、釣り人が「黒い魚のようなもの」を海で見たと証言した。

 波間をすべるように進み、沖へ消えたという。


 調査は、行われなかった。



 解剖は理解ではない。

 理解を試みた時点で、人は“その外側”に立ってしまう。


──


 ──ロシア アルハンゲリスク州・北方防衛科学基地「ゼヴェズダ」


 二〇三一年一二月一日 午前六時。


 外気温マイナス二九度。

 白い大地の下、氷を削って造られた地下研究棟に、数一〇人の科学者と軍人が集められていた。


 壁一面に映し出された衛星写真。

 カレリア地方の凍った湖面に、楕円形の黒い痕がいくつも広がっている。


「これが、自然現象の範囲内だと言うのか?」


 軍司令官の声に、研究主任のパーヴェル博士は目を細めた。


「はい。隕石ではありません。

 しかし、地表の氷が内側から溶けています。中心部の温度は摂氏二十七度。

 氷の下で“何か”が生きています」


 司令官は腕を組む。


「中国の事故との関連は?」


「確定はできません。ですが──同様の生体パターンが出ています」


「どこまで掘り進めた?」


「二メートル。これ以上は危険です。熱源が強すぎる」


 沈黙。

 誰も“止めよう”とは言わなかった。



 同日午後。


 研究班が湖底から採取した試料を、基地内の実験室に搬入する。

 見た目はただの黒い氷塊でしかない。

 しかし、中心に赤い筋が走り、微かな振動を繰り返していた。


 若い研究員が息を呑む。


「……脈動してる」


「電磁波ノイズは?」


「低周波で一定。心拍のようです」


 パーヴェル博士はヘッドセットを外して言った。


「各機器の電源を切れ。観測装置が干渉している」


 室内が暗くなる。

 その瞬間、氷塊の内側から鈍い音が響いた。


 “ゴン……ゴン……ゴン……”


 誰かが小さく呟いた。


「……ノックを、しているようだ」



 二時間後。

 試料は融解を始めた。

 中から現れたのは、半透明の球体──直径三〇センチほど。

 表面を覆う薄膜がわずかに震え、周囲の空気が凍る。


「温度が下がっている? 内部は熱を放っていたはず──」


 次の瞬間、照明が一斉に消えた。

 発電機が落ちたわけではない。

 電流が、“吸い取られた”かのようだった。


 非常灯の赤い光の中、パーヴェル博士が静かに言った。


「……これが、ロザリーだ」



 ──ロシア モスクワ・国防会議


 二〇三一年一二月三日。


 国防相が報告を受けていた。


「北方研究基地“ゼヴェズダ”との通信が断絶しました」


「事故か?」


「おそらくは。だが──最後のデータ通信には、奇妙な数列が記録されていました」


 参謀がモニターを操作する。

 そこに映し出されたのは、研究棟から送信された暗号化信号。

 解読結果はただ一行。


“Она дышит медленно.(それは、ゆっくりと呼吸している)”


 室内に、重い沈黙が落ちた。



 翌日、人工衛星“ヴォルガ2号”が撮影した画像が解析班に届く。

 カレリアの湖一帯が、直径一二キロにわたって沈下していた。

 雪原の中央に、巨大な空洞が現れている。

 そこから吹き上がる蒸気が、空へと長く伸びている。

 まるで、大地そのものが呼吸しているように。


 通信記録の最後に残された音声。

 雑音混じりのノイズの向こうで、パーヴェル博士の声が微かに残っていた。


「……寒い。だが、彼らはここを“暖かい”と言っている」


 音声は、そこで途絶えていた。



 ロシアは凍土を愛しすぎた。

 だからこそ、地中に潜む熱の存在を忘れていた。


──


 ──北朝鮮 平壌・国家科学院 生物研究棟


 二〇三一年一二月七日 午前八時一七分。


 硝子窓のない地下実験室には、朝鮮人民軍の兵士が五人。

 中央のテーブルには、青く光る半球状の物体が載せられていた。

 長さは三〇センチメートルほど。海から引き上げられたものだという。

 海岸で拾った漁民は拘束された。


「同志主任、これは放射性物質か?」


「計測ではゼロだ。しかし……」


 主任科学者パク・ソングンは、防護マスク越しにその光を見つめた。

 表面の脈動が心拍のように規則正しい。


「……生きている」


 兵士の一人が呟いた。


「動いているものを海で拾うなど、不吉だ」


「不吉という言葉を使うな。ここは科学の場だ」


 パクは慎重にピンセットで薄片を削り取り、試料皿に落とす。

 その瞬間、蛍光灯が弾けた。

 室内が真っ暗になる。

 青い光だけが残り、彼らの顔を照らす。

 誰も動けなかった。



 同日 午後一二時。


 朝鮮中央通信が、短い報道を流した。


「黄海南道沖合で、外国勢力が投棄した汚染物質を発見。

 科学研究によって安全性が確認された。人民は動揺するな」


 街頭のスピーカーから、繰り返し同じ文が流れる。

 しかし夜になると、沿岸の村では異変が広がり始めた。

 海辺の家畜が一斉に姿を消したのだ。

 浜辺には何も残っていなかった──足跡さえも。



 ──咸興・第一二軍管区


 二〇三一年一二月一〇日。


 監視塔の兵士が、夜間警戒中に光を見た。

 海の上に、波のようにうねる青い光がゆっくりと近づいてくる。


「照明弾か?」


「いいや、海は静かだ」


 通信兵が無線を取るが、砂嵐のようなノイズしか返ってこない。


 光が陸に届いた瞬間、基地全体の電力が落ちた。

 発電機が沈黙する。

 暗闇の中、冷たい風だけが流れ込む。


 翌朝、基地の兵士、二六〇名が行方不明となっていた。

 建物の崩壊はなく、血痕もない。

 机の上には朝食の途中だっただろうパンとスープ。

 そして、誰かが書いたメモが一枚。


“우리는 다시 바다로 돌아간다.(我らは再び海へ還る)”



 ──平壌・朝鮮労働党中央委員会 緊急報告会


 二〇三一年一二月一一日。


 最高幹部たちは報告書を読み、沈黙した。


「……消えた兵士たちは、どこへ行った?」


「不明です。遺体も見つかっておりません」


「アメリカの攻撃ではないのか?」


「痕跡はありません。爆破、毒ガス、いずれの兆候も──」


 幹部の一人が、重く口を開いた。


「……同志、これは“天罰”ではないのか」


 会議室の空気が凍る。


「天罰など存在しない。我々は神を信じぬ国家だ」


「だが人民が恐れている。海を見ただけで祈るようになった」


「祈る? 誰に?」


 返答はなかった。



 ──黄海南道・延安


 二〇三一年一二月一二日。


 沿岸で、民間防衛隊が一体の兵士を発見した。

 生存者はその一人だけだった。

 身体に外傷はないが、皮膚は蒼白く、眼球の動きが極端に遅い。

 質問にも答えず、ただ口を開けていた。


「見たのか?」


 医師が問うと、男は掠れた声で言った。


「海が、呼吸していた」


 その夜、男は息を引き取った。



 二〇三一年一二月一三日。

 朝鮮中央通信が再び声明を発表。


「黄海における異常事態は外国の陰謀によるもの。

 人民は動揺せず、党中央の指導に従え」


 だが、放送の最後の一文だけが違っていた。


「海を恐れるな。海は我々の母である」


 翌日、その放送を流した局のアナウンサーは姿を消した。



 信仰を奪われた国家は、

 信仰を自ら作り出す。

そして、その神を最初に恐れるのも、国家自身だ。


──


 ──北欧 ノルウェー北部・トロムソ


 二〇三一年一二月二〇日 午前七時。


 夜明けのない季節。太陽は水平線の下をさまよい、街は永久の薄闇に包まれていた。

 海から吹く風は重く、塩と鉄の匂いがした。


 港の漁師オーサは、いつも通り漁に出るため桟橋へ向かった。

 だが、海は“凍っていなかった”。

 この時期の海面は本来、薄氷が張る。

 それが、湯のように揺れていた。

 指を浸した瞬間、オーサは息をのんだ。


 ──暖かい。


 沖合に、何かが光った。

 氷でも、船でもない。

 ゆっくりと、呼吸をするように、海面が膨らんでいた。



 ──スウェーデン・ウプサラ大学 気象観測センター


 二〇三一年一二月二一日 午前四時。


 衛星データ班が、海流の異常に気づく。


「バレンツ海の海水温が上昇しています。氷床が溶けているのではありません」


「どういう意味だ?」


「氷床の下から、熱が来ているんです」


 主任のアグネッタ博士は、モニターの波形を見つめた。

 周期的な熱脈動。

 それは心拍に似ていた。


「……まるで、地球が呼吸しているみたいだ」


 若い研究員が小声で言う。


「他国はどう報告してます?」


「中国、ロシア、アメリカ、どこも沈黙だ」


「……では、報告する意味は?」


 博士は、答えなかった。



 ──フィンランド・ラップランド地方


 二〇三一年一二月二三日。


 極夜の森に、小さな観測基地があった。

 トナカイの群れが消え、代わりに雪上に奇妙な滑走痕が残っていた。

 一本ではない。

 無数の細い線が、森の奥へと続いている。

 調査隊の女性研究員が足を止めた。

 雪の下で、何かが“呼吸”している。

 白い地面が、ゆっくりと上下していた。


 通信士が叫ぶ。


「ドローンが……熱反応を喪失!」


 画面が暗転する。

 次の瞬間、雪原全体がゆっくりと陥没した。



 ──アイスランド・レイキャヴィーク


 二〇三一年一二月二五日 午前〇時〇三分。


 火山観測局のモニターが、異常な地熱上昇を示していた。


「火山活動の兆候か?」


「違う、マグマの上昇ではない。地表の下に別の熱源がある」


 その熱源は、海底の方向へと滑っていくように動いていた。


 同時刻、沖合では漁船がSOSを発信。


「海が泡立ってる! まるで何かが“息を吐いて”いるみたいだ!」


 通信はそれきり途絶えた。



 ──スウェーデン ヨーテボリ港


 二〇三一年一二月二六日。


 港湾警備員が、海辺に漂着した一体の生物を発見する。

 長さおよそ一メートル。赤褐色の滑らかな皮膚。

 それは死んでいた。

 検体分析の結果、内部に人間のDNAが微量に検出された。


 スウェーデン政府は報道を禁じた。

 “未知の海洋生物の死骸”として封印される。

 だが、市民の間では別の言葉が囁かれた。


 ──“海の娘”。



 ──北欧各国合同防衛会議


 二〇三一年一二月二八日。


 ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランドの代表が、その場に集まった。


「ロザリーの存在は公式には確認されていない。だが、現象は確かに進行している」


「それは“侵略”か?」


「侵略ではない。拡散だ」


「我々にできることは?」


 誰も答えなかった。

 会議の最後に、フィンランドの環境大臣が静かに言った。


「もし、あれがこの惑星の免疫反応なら──我々こそが、病原体だったのかもしれない」


 誰も否定しなかった。



 北欧の冬は静かだ。

 だからこそ、地球の声が聞こえる。

 それは悲鳴ではなく、ため息だった。

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