1. 停戦祝いの求婚
「戦が終われば、女の剣は飾りです。和平の印に、嫁いでいただきますよ、隊長殿」
燭台の火が、王都の外交官モルツの片眼鏡に映る。停戦の宴だ。町の会館の大広間で、長い卓の南に王国の者、北に川向こうの者が座っている。十年で初めて、同じ焼いた羊の匂いを嗅ぐ夜になった。卓を挟めば、敵も手の届くところにいる。
宴のために籠手を外してきた手を、膝の上で握る。髪留めでまとめた銅色の髪が重い。慣れない金具の冷たさが、首筋から離れない。モルツの薄い金の髪は油で撫でつけてある。細い顎を上げ、口の端だけで笑う。
細く長い指が書を広げた。中指にインクの染み。卓の真ん中、両国の使節のあいだに置かれた書には、私の名前がある。私に見せる前から、行き先まで決まっていたらしい。
〈縁組の書。王国国境の砦の隊長ジルベルタを、和平の印として北の王弟殿下に嫁がせる。砦には、王都より新しい隊長を送る〉
上座の北の王弟が白い髭を撫でる。卓の端では、副官のウーゴが樽のような腹を揺らし、菓子を頬張っていた。胡麻塩の髪の下、団子鼻が動く。跳ね上がった口髭に菓子屑。モルツが書を私のほうへ押し出す。
「隊長殿は十年、『私より強い方でなければ』と縁談を全部お断りになった。ですから、王都が選んで差し上げたのです」
王弟が私の腕と自分の腕を見比べ、髭を持ち上げる。
「余は、腕相撲なら三つ数える前に負けるぞ。相手を選ぶのが王都なら、条件も王都が変えるのであろうか?」
大広間に笑いが広がった。書は開かれたままだ。ウーゴは菓子を飲み下すと、口髭の屑も払わず声を張る。
「わしは反対じゃ。わしの弟子を、わしに断りなく嫁がせるとは、どういう了見じゃ!」
モルツは書の端を指で押さえ直した。
「副官殿の許しは要りません。停戦のあと、砦は減ります。この先も同じ数の兵を置くわけにはいかないのです」
ウーゴの口髭が跳ねる。師匠が言い返す前に、私は握っていた手をほどいた。
「モルツ殿。兵を減らす話と、私の夫を選ぶ話は別です。橋を守る者は要ります。私は砦の隊長です」
「ならば、その剣より大きな働きをなさってください。両国の縁を結ぶことなら、隊長殿にもできるでしょう?」
卓の真ん中の書へは、手を伸ばさない。自分の名前を見ていると、顎の奥が固くなる。私はモルツを見上げた。
「夫には、自分の背中を任せます。王都の名で選ばれても、その条件は変わりません」
「戦は終わるのですから、夫婦で剣を振る必要はございませんよ。そのお年なら、ご自分の務めはお分かりのはずです」
「では、私の返事は不要ですか? 砦を離れるとも、夫選びを任せるとも言っていません。私抜きで話を進めないでください」
「王都の決定です。ご不満は承りますが、和平には形が要るのです。この縁組は、そのためのものです」
私より強い方としか結婚しない。条件は本気だった。そして十年、合う男は川の向こうにしかいない。剣を弾かれるたび、悔しさで奥歯が鳴る。それでも、自分の背中を守る剣を思うと、あの男の手が浮かんだ。
立つと礼装の袖が肩と腕の筋に張る。背の高い私に、卓の両側から目が集まった。顎の先の小さな白い傷に触れる。考えるときの癖だ。考えは決まっている。口だけが、すぐにはついてこない。
「結論を申します。相手は、自分で選びます」
卓を回り、北側の席へ向かった。
「ど、どういうことだ?」「誰?」「いいのか?」
どよめきが広がる。
彼の黒い髪から前髪が一筋落ちている。彫りの深い顔に、眉間の縦皺。私が前に立つと、その皺が深くなる。剣のない腰が、妙に軽い。
卓の上で、剣だこの大きな手が動きを止めた。礼装を押す厚い胸が目の前にある。北の砦の将、エンツォ。十年、一騎打ちで十二度剣を交え、一本も取れなかった男だ。
襟の内から鎖を引き出した。細い銀の輪に、小さな緑の石。「いつか、自分で選んだ人に」と、十五で砦へ発つ朝に母が首に掛けてくれた指輪だ。指の腹で石を撫で、縁組の書の横へ置く。銀が卓に触れて、小さく鳴った。鎖の重みが消えた首元に、まだ何か掛かっているような気がする。
「あなたに求婚します」
「え……?」「か、彼……?」「本当に……?」
大広間の音が消えた。燭台の火だけが揺れている。藍色の目が、指輪から私へ上がる。はしばみ色の目で見返すと、彼は指輪に触れないまま口を開いた。
「……それは、両国のために?」
「私のためです。あなたと暮らしたいので」
戦場では一度も崩れなかった彼の整った顔が、耳まで赤くなる。
片手が口元を覆った。十年で初めて、この男から取る一本。一本目だ。なのに、指輪を離した私の手まで熱い。礼装の脇へ下ろしても、指先が落ち着かない。
上座の王弟が、白い髭の奥で目を細める。
「ほう。北の将の耳が、あれほど赤くなるとはな。指輪は小さいのに、ははっ! これは面白い縁だ」
北の使節たちが顔を見合わせた。笑う者はいない。揺れる火の向こうで、彼の耳だけが、隠しようもなく赤い。
指輪は彼の大きな手のすぐ前にある。緑の石を彼に向けた。置いてしまえば平気になる、というわけでもない。口の端を上げるのに、少し力が要る。
「指輪は小さいですが、母が持たせてくれたものです。肌身離さず持っていました。将軍の手に合わなければ、鎖ごと受け取ってください」
彼の低い声が、途中から丁寧になる。口元を覆う手は下りない。
「……待て。今、その先までお話しになりますか? 少々、お待ちください。俺は、まだ……」
「お待ちします。ただ、口元を隠さないでください。笑われているのかと、落ち着きません」
「笑っていません。笑える余裕があるように見えますか? ……少し黙っていてください」
モルツが片眼鏡を押し上げた。奥の淡い水色の目が見える。指輪には触れず、書の端を細い指で押さえる。
「隊長殿! 敵将への求婚など、余興では済みませんよ。今この席で決めることではありません!」
「余興ではありません。結論は、先ほど申しました。王都はここで私の夫を決めるのに、私にだけ、選ぶ間も与えないおつもりですか?」
「殿下をお迎えしたのです。その御前で、将軍に指輪を渡すなど、王国の顔が立ちません!」
王弟が書を巻いた。両国の使節の目の前で、モルツの指から紙の端が抜ける。
「隊長も承知と聞いておったが、話が違うようだな。王国の顔なら、余の顔も見てくれぬか? 余は怒っておらん。この隊長が指輪を置いたのは将軍の前だ。和平の印なら、どちらの縁でも同じであろう。それに、余より強いのは、確かにあの男だ。ふんっ!」
モルツの指が、巻かれた紙の端を追う。
「殿下、それは王都が取り決めた縁組で――」
巻物はモルツの前へ押し返された。ウーゴの鳶色の目が、私に向かって片方だけ閉じる。その手はもう菓子を取っている。王弟は空いた卓を軽く叩く。
「余の名を使うなら、余の耳にも届くように話せ。将軍、どう答える?」
エンツォが立つ。指輪を鎖ごと手に収め、私を見る。銀の輪が、剣だこに隠れた。耳の色はまだ戻らない。鎖を握る指の節だけが白い。
「返事は、明日だ。武器を置いて、会ってくれ」
「はい。剣は置いていきます。……橋の真ん中で、お待ちしてよいですか?」
彼が小さく頷いた。一晩、待てと言われるとは。一本、取られた。待つのは昔から苦手だ。彼が戸口へ歩く。追いかけそうになる足を止める。彼の手には、母の指輪がある。返事をせがむ言葉を、歯の裏で押し留めた。戸口の梁の下で長身を屈め、彼はこちらを振り向かないまま言う。
「武器も持たずに攻めてくるとは、卑怯だろう」
「卑怯で結構です。私より強い方は、あなたしかいませんので。ふふっ」




