第4話 好きだから疑わない、では証人になれません
第4話 好きだから疑わない、では証人になれません
救貧院の帳面を三部書き写した翌朝、コーデリアは王宮の薬師室へ向かった。空は鉛色の雲に覆われ、回廊へ吹き込む風には雨に濡れた土と枯れ葉の匂いが混じっている。彼女は濃い藍色の毛織りドレスへ灰色の外套を重ね、インクで汚れた指先を隠すため、薄い革手袋をはめていた。
薬師室の天井には、乾燥させた月眠草、薄荷、西洋鋸草が束ねて吊られていた。棚には茶色や青色の薬瓶が隙間なく並び、窓辺では見習いの少年が、朝食の茹で卵を乳鉢の蓋へ置いて食べている。薬草と酢の匂いの中へ卵の匂いが混じり、王宮の一室とは思えないほど生活臭が残っていた。
王宮薬師のモーリスは、事件当夜にアルノーが使った銀杯を白い布の上へ置いた。杯の底に沈んでいた黒い粒は細い硝子管へ移され、一つずつ分類されている。モーリスは眼鏡を鼻の先まで下ろし、検査結果を書いた紙をコーデリアへ渡した。
「アルノー卿の杯から、毒は検出されませんでした。黒い粒は、丁子、焦がした砂糖、葡萄の種です。祝宴用の温めた酒を漉した際、残ったものでしょう」
「王女殿下の杯から見つかったものとは違うのですね」
「殿下の杯には、月眠草を濃く煮出した液が入っていました。少量なら鎮痛薬になりますが、あの濃さを飲めば呼吸が止まります」
「毒見役の方は?」
「今朝、麦粥を一椀食べました。塩が薄いと料理人へ文句を言ったそうですから、命に別状はありません」
コーデリアは帳面を取り出し、検査結果を書き写した。表紙には救貧院でこぼした豆の煮込みの染みが残り、端は何度も開いたため柔らかくなっている。アルノーの杯に毒がなかったことは彼に有利だが、自分の杯へ毒を入れないのは犯人でも同じだった。
「月眠草は、どこから手に入りますか」
「王宮の薬庫、王立施療院、それから王室救済局が管理する倉庫です。一般の薬種商も扱いますが、購入には医師か上級薬師の許可が必要です」
「アルノーの名で、月眠草を買った記録がありました」
「あれは個人の購入記録ではありません。救済局から救貧院へ送る薬草を確認した際の、受け取り署名です」
モーリスは別の帳簿を開き、先月の薬品搬出記録を見せた。月眠草は二十瓶分が救貧院へ送られたことになっている。しかし西地区の帳面では、一瓶も届いていなかった。
「アルノー卿は、月眠草が途中で消えたことを調べていたのでしょう。その意味では、購入記録は彼が暗殺用の毒を買った証拠ではありません」
「それなら、すぐに王室警備隊へ説明してください」
「すでに説明しました。ただし、アルノー卿が月眠草の所在と使い方を知っていた事実は残ります。横流しされた薬草へ近づく機会もあったかもしれません」
コーデリアは羽根ペンを動かし、同じ購入記録を帳面の左右へ書いた。左の頁には「救貧院の調査による署名」、右の頁には「毒の材料と危険性を知っていた」と記す。書き終えると、左右の文字が互いを押し返すように見えた。
「両方を書くのですか」
「片方だけなら、私が望むアルノーを作ることになります。私が調べたいのは、実際に何をした人なのかです」
「婚約者を犯人だと示すものが出ても?」
「そのときは、その証拠を持って牢へ行きます。あの人自身が、私の目で決めろと言いました」
モーリスはそれ以上尋ねず、窓辺の卓へ戻った。そこには冷えた蕪のスープと、半分に割った黒パンが置かれている。彼は表面に張った薄い膜を匙で端へ寄せ、薬草の匂いが移ったスープを顔をしかめながら飲んだ。
コーデリアは検査結果の写しを鞄へ収め、薬師室を出た。廊下の窓からは、王宮東側の離宮が見える。赤く色づいた蔦が石壁を覆い、庭には紫苑と秋桜が雨上がりの風に揺れていた。
王女マティルダは、その離宮で療養していた。毒を口にしてはいないが、事件の捜査が終わるまで本宮から離され、食事も水もすべて検査されている。入口には四人の兵士が立ち、届けられた花籠まで一本ずつ茎を調べていた。
「王女殿下へお目通りを願います」
「殿下は療養中です。ご面会は許可されておりません」
「こちらは、殿下がアルノー・レイヴンへ命じた調査についての帳面です」
「お預かりいたします」
「あなたへ預けた途端、別の帳面へ替わらないという証拠はありますか」
門衛は眉を上げた。コーデリアは鞄を抱え、石段から動かなかった。後ろでは庭師が雨で折れた秋桜を切り、まだ傷んでいない花だけを小さな籠へ集めている。
しばらくすると、祝宴の夜にアルノーを迎えに来た王女付きの侍女が現れた。今日は紺色の仕事着を着て、腕には洗いたての白い卓布を何枚も掛けている。毒が見つかったあと、離宮の食器と布類をすべて洗い直したため、侍女たちは昨夜から休めていないらしい。
「殿下が、お会いになるそうです。ただし、お茶が冷めるまででございます」
「すでに外は寒いので、最初から冷めているのでは?」
「では、焼き菓子を食べ終えるまでにいたしましょう」
「私が食べなければ、長くお話しできますね」
侍女は返事をせず、離宮の中へ歩き出した。蜜蝋で磨かれた廊下には石鹸と湿った布の匂いが残り、窓辺には洗った銀食器が白い布の上へ伏せて並べられている。侍女は歩きながら、面会を長引かせないよう、焼き菓子は小さいものを用意しますと付け加えた。
王女の居室は暖炉の火で温められていた。マティルダは青灰色の室内着に白い肩掛けを羽織り、長椅子へ腰掛けて書類を読んでいる。髪は夜会のように結い上げず、緩く編んだものを左肩へ垂らしていた。
丸卓には薄荷茶、蜂蜜、薄切りのレモン、それから栗を練り込んだ小さな焼き菓子が三つ並んでいた。毒見が済んだことを示す銀札が添えられているが、王女は茶にも菓子にも手をつけていない。杯の表面から上がる湯気だけが、開いた書類の端をわずかに揺らしていた。
「お掛けなさい、コーデリア嬢。あなたが西地区の救貧院まで行ったと聞きました」
「殿下が答えてくだされば、行かずに済みました」
「私から聞いたことだけを信じれば、証拠にはならないでしょう」
「では、証拠になるようお答えください」
コーデリアは椅子へ座らず、丸卓へ救貧院の帳面の写しを置いた。王女は染みのついた表紙へ目を落とし、指先で頁の端をなぞった。数字を数行見ただけで、それが物資の横流し記録だと分かったようだった。
「アルノーは、殿下の命令で救貧院の物資を調べていたのですか」
「はい。二か月前、救貧院へ送った薬と小麦が届いていないという報告を受けました。正式な監査を始めれば、救済局の内部へ知らせることになります。そのため、アルノー卿へ非公式の調査を命じました」
「殿下と何度も密会していた?」
「四度です。離宮で二度、王立図書館の裏口で一度、最後が事件当夜の私室です」
「恋仲ではありませんね」
「逢瀬に救貧院の小麦袋を持参させるほど、私は変わった趣味を持っておりません」
王女は薄荷茶へ蜂蜜を一匙入れた。銀匙でゆっくり混ぜ、香りを確かめてから口をつける。毒見済みでも、飲み込むまでに少し時間がかかった。
「なぜ、アルノーが殿下の命令で動いていたことを公表なさらないのですか。それが分かれば、薬草の購入記録も、安宿へ通っていた理由も説明できます」
「昨夜、救済局の帳簿が二冊なくなりました。物資を運んだ荷車も一台、倉庫ごと焼かれています」
「だから、アルノーを牢へ置いたままにするのですか」
「調査の存在を公表すれば、残った証人が逃げます。あるいは、逃げる前に口を塞がれるでしょう」
「殿下は暖炉のある部屋でお茶を飲んでおられます。アルノーは、地下牢で豆が三粒しか入っていないスープを食べています」
コーデリアは椅子の背へ手を置いた。磨かれた木へ爪が当たり、乾いた音が鳴る。王女付きの侍女が一歩前へ出たが、マティルダは片手を上げて止めた。
「私は、彼を見捨てたわけではありません」
「見捨てていない人間を、暗殺未遂の容疑者として閉じ込めているのですね」
「調査の公表を止めたのは、アルノー卿自身です」
コーデリアの手が、椅子の背から離れた。王女は卓の引き出しを開け、青い封蝋のついた手紙を取り出した。封筒にはアルノーの署名があり、角には何度か開閉した折り目がついている。
手紙は事件の二日前に書かれたものだった。もし自分が拘束されても、横流しの証拠が揃うまでは調査の存在を公表しないでほしい。自分へ疑いが向いた場合にも、コーデリアへ事情を告げず、彼女自身に証拠を確かめさせてほしいと記されていた。
「なぜ、私にまで黙っているよう頼んだのですか」
「あなたが婚約者という理由だけで、彼の無実を叫ぶ人ではないからです」
「彼は、あなたなら感情で無実を叫ばず、証拠を探すと言いました」
「ずいぶん勝手に私を信じていますね。私には何も説明せず、あとから調べる仕事だけを残したのですから」
「あなたも彼を信じているのでしょう?」
「今の私は、彼を疑うために調べています」
「それでよいのです。疑わないことと、信じることは違います」
王女は焼き菓子を半分へ割った。中には刻んだ栗と少量の胡桃が入っている。コーデリアはアルノーが胡桃を嫌うことを思い出し、本人に尋ねるまでそれさえ知らなかった事実を、舌の奥へ残る苦い薬のように思い出した。
「殿下は、アルノーが無実だと信じておられますか」
「信じています。ただし、私が信じているという言葉は、裁判では証拠になりません」
「王女の言葉でも?」
「王女の言葉だからこそ、周囲は逆らいにくいのです。私が無実だと言えば、証拠を確かめずに無実とする者が出るでしょう。それは彼を救うことではありません」
王女は一口だけ焼き菓子を食べ、残りを皿へ戻した。胡桃の欠片が卓へ落ちたため、侍女が布で静かに拭き取る。暖炉では薪が崩れ、赤い火の粉が灰の上へ散った。
「私の周囲には、私を信じると言う者が大勢います。けれど、私が望む報告だけを持ってくる者ばかりです。不都合な事実を隠す者は、忠実な臣下ではありません」
「アルノーも、私へ不都合な事実を隠しました」
「ええ。ですから、その件については大いに叱りなさい。ただし、秘密を持っていたことと、毒を入れたことは分けて調べるべきです」
コーデリアはようやく椅子へ座り、自分の帳面を開いた。左の頁にはアルノーに有利な材料、右の頁には彼を疑う材料を書いてある。王女はその二つの頁を見比べ、左側だけでなく右側にも文字が並んでいることを確認した。
「殿下へも質問します。答えによっては、殿下がアルノーと口裏を合わせている可能性まで記録します」
侍女が顔を上げた。扉脇の兵士も、槍を持つ手へ力を入れた。マティルダだけは薄荷茶を一口飲み、空いた杯を卓へ戻した。
「よいでしょう。私に不利な事実も書きなさい」
「事件当夜、なぜアルノーを私室へ呼んだのですか」
「横流しに使われた荷車が見つかったからです。その報告書を直接渡す予定でした」
「荷車は、どこにありましたか」
「王都北側の廃倉庫です。救貧院へ運ばれるはずだった月眠草の空瓶と、小麦袋の封印が残されていました」
「荷車の持ち主は?」
王女は別の書類を開き、印が描かれた部分を示した。翼を閉じた鷹と、その下に三本の麦穂が並んでいる。救貧院の帳面に描かれていたものと同じだった。
「この印を使っていた商会は、三年前に解散しています。かつての所有者は、ウェルズ公爵家の傍系でした」
「テオドール様の一族ですね」
「はい。ただし、解散後に荷車が売られた可能性があります。印だけを使い、ウェルズ家へ疑いを向けようとした者がいるかもしれません」
「殿下は、テオドール様を疑っていないのですか」
「疑っています。しかし嫌疑と証明は別です。あなたも、アルノー卿について同じことを学んだのでしょう?」
コーデリアは返事をせず、荷車の印を帳面へ写した。テオドールは王女の補佐官であり、救済局の報告書へ目を通せる立場にある。アルノーが何を調べていたか知る機会もあった。
王女は密会した四回について、日時、場所、同席した侍女、アルノーへ渡した書類を一つずつ答えた。侍女は薄荷茶を二度温め直したが、質問が終わらないため、三度目には鶏肉と根菜のスープを運んできた。コーデリアの分には柔らかな白パンが添えられ、王女の分には毒見を終えたことを示す銀札が載せられていた。
「アルノーを調査役へ選んだ理由は何ですか」
「レイヴン侯爵家が救済局の利権と結びついていないこと。それから、アルノー卿が前年の冬、迎賓館の薪を無断で救貧院へ運び、減俸処分を受けたことです」
「そんなことまでしていたの?」
「彼は、あなたに知られたら、また勝手なことをしたと叱られると言っていました」
「当然です。相談してくれれば、迎賓館の絨毯を売って薪を買う方法も考えられました」
「アルノー卿は、あなたがそう言うと分かっていたのでしょう」
侍女がスープの椀で口元を隠した。コーデリアは、前年の冬に王宮の絨毯の値段を調べたことを思い出した。当時は自宅の居間へ敷くためだったが、アルノーなら別の目的に使われると警戒しても不思議ではない。
王女との話を終えたコーデリアは、離宮を出て王宮の空き部屋へ向かった。外では雲の切れ間から日が差し、濡れた秋桜の花弁が透けている。庭師は雨で折れた花を捨てず、短く切って使用人食堂の小瓶へ飾っていた。
部屋にはミレーヌが待っていた。今日は赤茶色のドレスに金色の木の葉を刺繍した襟をつけ、卓の上へ茸のパイを広げている。パイの皮が帳面へ落ちるたび、彼女は指で拾い、何事もなかったように口へ入れた。
「王女殿下は、恋敵でしたか?」
「違いました。あの方が恋敵なら、密会へ救貧院の小麦袋を持ってくる方です」
「珍しい恋愛ですわね」
「恋愛ではありません。それより、アルノーの外套を調べたいの。逃げた男が着ていた外套は、王室警備隊が保管しているのでしょう?」
「見せてほしいと三度お願いしましたが、衣装係へ証拠は触らせられないと断られました」
「では、四度目を頼みましょう」
「もう頼みました。警備隊長の奥様が昨年お召しになった夜会服の縫い目について、王宮で語ってよいかと尋ねましたら、明日の朝なら見せてくださるそうです」
コーデリアは、それは頼んだのではなく脅したのではないかと考えたが、茸のパイを一つ渡されたため、口には出さなかった。パイはまだ温かく、割ると焼いた茸と玉葱の匂いが広がった。朝から薬師室と離宮を歩き回っていたため、彼女は三口で食べ終えた。
二人は帳面の内容を整理した。左の頁には、アルノーが王女の命令で横流しを調査していたこと、安宿で関係者から話を聞いていたこと、彼の杯から毒が出なかったことを書いた。右の頁には、月眠草へ近づく機会があったこと、毒の作用を知っていたこと、王女との密会を隠していたこと、事件前から自分が拘束される可能性を考えていたことを記した。
「同じことが、両方の頁へ書かれておりますわね」
「見る方向を変えれば、意味も変わるからよ。アルノーの味方になるために証拠を選ぶのではなく、誰が毒を入れたのかを探します」
「犯人がアルノー卿でも?」
「そのときは、私が見つけます。好きだから疑わないと言うだけでは、私は証人になれません」
ミレーヌは茸のパイを食べる手を止め、コーデリアを見た。口元に皮の欠片がついていたため、コーデリアは布を差し出す。ミレーヌは礼を言って拭い、残ったパイを二つに割った。
翌朝、二人は王室警備隊の証拠保管室へ入った。部屋の壁には押収された短剣や衣服が並び、机の上には事件当夜の黒い外套が置かれている。窓辺の鉢では薄紫色の竜胆が咲いていたが、日が足りないため、花は一斉に硝子のほうへ傾いていた。
ミレーヌは白い手袋をはめ、外套を広げた。胸元にはレイヴン侯爵家の鳥の紋章があり、右肩にはコーデリアが青い糸で縫ってしまった古い補修跡も残っている。遠くから見れば、アルノーの外套にしか見えなかった。
しかしミレーヌは肩の内側を返し、黒い裏地へ指を入れた。元の縫い目とは別に、新しい糸が並んでいる。両肩へ細い布を継ぎ足し、袖も付け根から二寸ほど長くしてあった。
「この外套は、アルノー卿には大きすぎます」
「いつ直されたの?」
「新しい糸には、ほとんど擦れがありません。事件の直前でしょう。背が高く、肩幅の広い別の男性が着られるよう作り直されています」
コーデリアは帳面を開き、「確認できた事実」の欄へ寸法を書き込んだ。好きか嫌いか、信じたいか疑いたいかは書かなかった。肩へ足された三寸の布は、どんな愛の言葉よりもはっきりと、事件の夜に別の男がアルノーになろうとしたことを示していた。




