第3話 婚約者の秘密を調べたら、知らない靴下が出てきました
第3話 婚約者の秘密を調べたら、知らない靴下が出てきました
王宮の鐘が朝の九時を告げる頃、コーデリアはレイヴン侯爵家の玄関へ到着した。夜の雨は上がっていたが、馬車道には深い水溜まりが残り、黄色い菊の花びらが泥の上へ貼りついている。彼女は葡萄色の毛織りドレスに焦げ茶色の外套を重ね、王宮の階段で汚れた靴ではなく、底の厚い編み上げ靴を履いてきた。
玄関を開けた家令は、コーデリアの後ろに王室警備隊がいないことを確かめてから、屋敷へ通した。広間には昨夜使われなかった雨傘が三本並び、暖炉の前では濡れた手袋と靴下が干されている。朝食の片づけが終わっていないのか、廊下の奥から焼いた林檎と温めた山羊乳の匂いが漂っていた。
「アルノーの部屋を見せてください」
「王室警備隊が昨日、すでに調べております。引き出しも衣装箱も、すべて確認されました」
「警備隊が見つけたものだけで、アルノーは牢へ入れられました。今度は、見つけなかったものを探します」
「コーデリア様が若様のお部屋へ入ったと知られますと、証拠を隠したと疑われるおそれがございます」
家令は銀縁の眼鏡を外し、胸元の布でゆっくり拭いた。彼はアルノーが幼い頃から仕えており、誰より主人を信じているはずだった。それでも、無実だと声を上げるのではなく、部屋へ入る危険を先に説明した。
「何を動かしたか、すべて記録します。あなたも一緒にいてください。何か見つけても、私一人で持ち出しません」
「分かりました。ただし、寝台の下には長年の埃がございます。お召し物を汚されても、私の責任ではございません」
「侯爵家の寝台の下にも、埃はあるのね」
「埃は身分を選びません。若様は机の上ばかり片づけ、見えないところは使用人へ任せますので」
二階へ上がる途中、コーデリアは壁際の花瓶へ目を留めた。橙色のダリアが七本挿されていたが、一本だけ頭を垂れ、水へ浸かっている葉には白い粉がついている。アルノーなら水を替えるよう言うだろうと考え、花瓶の横に置かれた水差しを持ち上げた。
「その水は昨日のものでございます」
「では、新しい水を持ってきて。アルノーが帰ったとき、花まで枯れていたら、私が世話を怠ったと思われるわ」
「お嬢様がこの屋敷の花を世話なさったことは、今まで一度もございません」
「今日が最初よ。何事にも最初はあるでしょう」
家令が使用人へ水を頼んでいる間に、コーデリアはアルノーの部屋へ入った。室内は東向きで、薄い朝日が紺色の絨毯へ斜めに差している。机、本棚、長椅子、衣装箱はきちんと並んでいたが、警備隊が調べたため、便箋や封蝋の箱だけが元の位置からずれていた。
机の端には、皮を途中までむいた林檎が皿へ残されていた。三日前のものらしく、果肉は茶色く縮み、細長い皮は途中で切れている。隣には胡桃割り器が置かれていたが、胡桃の殻は一つもなかった。
「アルノーは、林檎を途中まで食べて出かけたの?」
「皮が切れたので、食べるのをやめられたのでしょう」
「皮が切れただけで?」
「若様は、ご自分でむくときだけ、皮を一本につなげようとなさいます。途中で切れますと、うまくできなかった林檎を見る気まで失うようです」
「それなら、皮を捨てて食べればよいでしょう」
「私も何度か申し上げました」
十一年間一緒にいても、コーデリアはその癖を知らなかった。食卓へ出る林檎は料理人が切っていたため、アルノー自身が皮をむくところなど見たことがない。彼が林檎一つを食べられなくなる理由さえ、家令のほうが知っていた。
コーデリアは自分の帳面へ、机の上にあった物と場所を書き込んだ。筆記具、書類、林檎、胡桃割り器、空の杯。王室警備隊が押収した毒薬の購入記録が置かれていた場所には、四角く埃が抜けていた。
「アルノーは、いつも印章をどこへ置いていましたか」
「一番上の引き出しでございます。昨夜、警備隊が本物を押収しました」
「鍵は誰が持っていたの?」
「若様ご本人と私、それから従者のユベールでございます。もっとも、昼間は鍵を掛けないことも多くありました」
「用心深いのか、無防備なのか、分からない人ね」
コーデリアは引き出しを開けた。内側には黒い封蝋が薄くつき、角には羽根ペンの削りくずが溜まっている。脅迫状に使われた便箋と同じものはなく、手紙の下書きも見つからなかった。
本棚には領地経営、法律、馬の育て方についての本が並び、料理の本だけが一冊、上下を逆に差し込まれていた。引き抜くと、頁の間から乾燥させた四つ葉のクローバーが落ちた。十歳のコーデリアが庭で見つけ、アルノーへ押しつけたものだった。
「まだ持っていたのね」
「何かおっしゃいましたか」
「何でもありません。この本は、元の場所へ戻しておいて」
コーデリアはクローバーを頁へ挟み直した。押し花は茶色くなり、葉の一枚が半分欠けている。アルノーが捨てなかった理由を考えかけたが、今は彼を懐かしむために来たのではないと、本を閉じた。
寝台は白い覆いをかけられ、枕元には半分まで読んだ歴史書と、水の入っていない杯が置かれていた。床には毛糸の靴下が一足落ちている。片方の踵には繕った跡があり、黒い糸の中へ一本だけ青い糸が混ざっていた。
「侯爵家の跡継ぎが、穴の開いた靴下を履いているの?」
「捨てる必要はないと申されますので、洗濯係が繕っております」
「その洗濯係は、色を合わせる気がないのね」
「青い糸しか残っていなかったそうです。若様は靴を履けば見えないとおっしゃいました」
コーデリアは寝台の脇へしゃがんだ。床に頬を近づけると、石鹸、古い木、乾いた埃の匂いが混じっている。奥には丸まった紙、泥のついた革靴、青い毛糸のようなものが見えた。
日傘の柄を差し込み、まず革靴を引き寄せた。アルノーは脱いだ靴を扉脇の棚へそろえる癖がある。それなのに、その一足だけは泥をつけたまま、寝台の奥へ押し込まれていた。
靴底には灰色の泥、細かな白い石、麦藁の切れ端が固まっていた。爪先には暗い赤色の花びらが一枚貼りつき、乾いて紙のように薄くなっている。コーデリアが靴を逆さにすると、中から折り畳まれた紙が四枚落ちた。
「西鐘楼亭……一泊二食付き、銀貨十二枚」
領収書には、王都西地区にある安宿の名が記されていた。一か月前から毎週同じ曜日に一室を借り、代金を払っている。アルノーが結婚式の打ち合わせを、王宮の仕事があると言って断った日と重なっていた。
「この日、アルノーはどこへ行ったことになっていたの?」
「王宮の宿直室へ泊まると聞いておりました」
「私には、礼装の仕立屋へ行くと言ったわ」
「仕立屋に泊まったのでしょうか」
「服を着たまま縫い直されるつもりだったなら、あり得るわね」
家令は眼鏡を押し上げ、領収書を日付順に並べた。どの日も酒や追加の食事を注文した記録はない。ただ部屋を一つ借り、夕刻前に代金を払っていた。
コーデリアは日傘の柄で、寝台の奥に残っていた青いものを引き寄せた。出てきたのは、柔らかな毛糸で編まれた細長い靴下だった。履き口には白い小花の刺繍があり、アルノーの足には小さすぎる。
「家令。これは誰のもの?」
「私にお尋ねになられましても……」
「アルノーの足は、これほど細くないわね」
「若様は、もう少し大きな靴をお履きになります」
「では、女性の靴下よね」
コーデリアは両手で青い靴下を広げた。洗濯はされているが、林檎を香辛料と一緒に煮たような甘い匂いが残っている。踵には泥が少しつき、白い花の刺繍だけが妙に新しかった。
そのとき、階段を駆け上がる靴音が近づいた。扉が勢いよく開き、黄色い格子模様のドレスを着たミレーヌが飛び込んでくる。青い帽子は片側へずれ、右手には食べかけの梨を持っていた。
「女性の靴下ですわ!」
「挨拶より先に、それを言うの?」
「ごきげんよう。女性の靴下ですわ!」
「言い直しても同じでしょう。なぜ、あなたがここへ来たの」
ミレーヌは梨を机の皿へ置き、アルノーの部屋を見回した。王女付きの衣装係である彼女は、事件当夜の衣装を調べる途中、コーデリアが侯爵邸へ向かったと聞いて追ってきたという。梨の果汁が机へ垂れそうになり、家令が急いで皿の中央へ置き直した。
「婚約者の寝台の下から、見知らぬ女性の靴下が出たのでしょう。秘密の恋人に決まっていますわ」
「なぜ決まるのよ。洗濯係が落としたのかもしれないでしょう」
「洗濯係なら、寝台の下へ隠しません。しかも上質な青い毛糸に、白い小花の刺繍です。これは贈り物ですわ」
「片方しかないけれど」
「もう片方は、恋人が履いて帰ったのでしょう」
「片足だけ靴下を履いて?」
「慌てていたのですわ。逢瀬が発覚しそうになり、片方を忘れて裸足で逃げたのです」
ミレーヌは青い靴下へ鼻を近づけた。林檎と丁子の甘い匂いは、女性の香油だと断定する。コーデリアは安宿の領収書を一枚取り上げ、靴下の隣へ並べた。
毎週同じ宿へ通い、女性物の靴下を寝台の下へ隠していた。王女と密会し、婚約者には仕立屋へ行くと嘘をついていた。アルノーが本当に暗殺犯かどうかとは別に、聞かなければならないことが増えていく。
「恋人がいたとしても、王女を毒殺しようとした証拠にはなりません」
「そのとおりですわ。でも、婚約破棄の理由にはなるかもしれません」
「まだ恋人と決まっていないでしょう!」
「声が大きいほど、気にしていらっしゃるように聞こえますわ」
コーデリアが青い靴下を握り締めたところへ、控えめなノックが響いた。扉の外には、アルノーの従者ユベールが立っていた。灰色の上着の襟は少し曲がり、昨夜から眠っていないのか、目の下へ黒い影ができている。
「ユベール。よいところへ来たわ。この靴下の持ち主を知っている?」
ユベールは青い靴下を見て、一度だけ目を閉じた。どう答えても話がこじれると考えた顔だったが、コーデリアは扉の前に立ち、逃げ道を塞いだ。ミレーヌも梨を持ち直し、恋愛劇の続きを待つように身を乗り出した。
「若様は毎週、青い目の方に会っておられました」
「青い目の女性なのね」
「青い目ではございますが、女性と申し上げますと、少々語弊が……」
「名前は?」
「私の口から申し上げることはできません」
「なぜ。アルノーに口止めされているの?」
ユベールは答えず、机に置かれた梨を見た。切り口から果汁が流れ、アルノーの便箋へ届きそうになっている。彼は布巾を取り、梨を別の皿へ移してから、残った果汁を丁寧に拭った。
「お嬢様、若様ご本人へお尋ねください。ただし、どうか最後まで話をお聞きください」
「聞きます。青い靴下も領収書も、全部見せて聞いてきます」
「その前に申し上げますが、青い目の方は人では――」
「本人に聞くと言っています!」
コーデリアは領収書を鞄へ入れ、青い靴下をつかんだまま部屋を出た。ミレーヌも梨を持って後へ続く。家令は寝台の下から出てきた埃を箒で集めながら、若様も説明する順番を間違えなければよいがと呟いた。
地下牢の面会室では、アルノーが昼食のスープを前に座っていた。木の椀には薄い豆のスープが入り、人参の欠片と月桂樹の葉が一枚浮かんでいる。黒パンは乾いて硬く、彼は小さくちぎってスープへ浸し、柔らかくなるのを待っていた。
コーデリアは鉄格子の前まで進み、青い靴下を高く掲げた。急いで歩いたため、葡萄色のドレスの裾には馬車の泥が跳ね、編み上げ靴の紐が片方だけ緩んでいる。アルノーは青い靴下を見てから、その後ろにいるミレーヌとユベールへ視線を移した。
「青い目の女性とは、どなたですか」
「雌馬だ」
面会室の空気が止まった。看守が書類をめくる音と、廊下の先で誰かが咳をする声だけが聞こえる。コーデリアは手にした靴下を見て、もう一度アルノーを見た。
「雌馬?」
「西地区の運送屋が飼っている栗毛の馬だ。青灰色の目をしている」
「では、この青い靴下は?」
「その馬の脚に履かせた保温布だ。右前脚に古傷があり、冷えると動かなくなる」
「白い花の刺繍があります」
「運送屋の娘が縫った。あの娘は、父親の腹巻きにも花を刺す」
「甘い香油の匂いがします」
「馬の脚へ塗る薬油だ。林檎、丁子、獣脂を混ぜている」
ミレーヌは青い靴下へ顔を近づけ、改めて匂いを確かめた。甘さの奥には、確かに薬草と獣脂の重い匂いがある。彼女は真面目な顔で靴下を折り畳み、コーデリアへ返した。
「馬の靴下としては、たいへん可愛らしいですわ」
「あなた、秘密の恋人に違いないと言ったでしょう」
「恋人ではなく、愛馬でしたのね。どちらも大切な女性ですわ」
「馬より説明が足りないのは、あなたも同じよ!」
コーデリアは青い靴下を鞄へ押し込んだ。次に安宿の領収書を取り出し、鉄格子へ一枚ずつ並べて見せる。アルノーはスープの椀へ目を落とし、月桂樹の葉を匙で端へ寄せた。
「安宿へ通っていた理由は?」
「王女殿下から口止めされている」
「馬より説明が足りません!」
「馬のことは、聞かれた内容へ答えただけだ」
「では宿のことも答えなさい。誰と会っていたの? なぜ私には仕立屋へ行くと言ったの?」
「宿へ泊まってはいない。部屋を借りていただけだ」
「何のために?」
「調査だ。それ以上は、今は話せない」
アルノーは右の親指を曲げた。何かを考えるときの癖は、子どもの頃から変わっていない。だが、その指が隠しているものを、コーデリアは知らなかった。
「私に疑われても、黙っているの?」
「話せば危険になる者がいる」
「その中に、私は含まれていないのね。私は何も知らないから、安全だと思っているのでしょう」
「君を巻き込みたくない」
「もう巻き込まれています。私は女性用の靴下を持って地下牢へ来たのよ!」
看守が横を向き、肩を震わせた。ミレーヌも口元を梨で隠している。アルノーは額へ手を当て、牢へ入れられてから最も疲れた顔をした。
「西地区へ行くつもりか」
「ええ。この宿と泥の場所を調べます」
「一人で行くな。夜は酔客も多い」
「あなたも一人で行ったのでしょう」
「僕は護身術を使える」
「私は日傘で犬を追い払ったことがあります」
「犬と犯罪者を同じにするな」
「では、ミレーヌとユベールを連れていきます。三人なら、あなたより人数が多いわ」
アルノーはユベールを見た。従者は一度うなずき、コーデリアを一人にはしないと約束する。アルノーはなお何か言いたそうだったが、面会時間を知らせる鐘が鳴った。
コーデリアは椅子から立ち上がり、鞄の口を閉めた。青い靴下が半分飛び出していたため、指で奥へ押し込む。アルノーは黒パンをまだ一口も食べておらず、スープへ浸した部分だけが崩れていた。
「戻ったら、分かったことを全部話します。あなたに都合が悪くても」
「それでいい」
「あなたも、話せることまで隠したら、次は馬用の靴下を履かせますからね」
「僕の足には入らない」
「切ってつなぎます。ミレーヌは衣装係ですもの」
ミレーヌが、馬具は専門外ですと答えた。コーデリアは踵を返したが、扉の前で一度だけ振り向いた。アルノーはスープへ沈んだパンを匙で持ち上げ、ようやく口へ運んでいた。
王都西地区へ向かう馬車の中で、コーデリアはアルノーの革靴を膝へ載せた。靴底の灰色の泥には、白い石の粒と短い麦藁が混ざっている。爪先に貼りついた暗赤色の花びらは、雨に濡れても色を残していた。
街の中央を通り過ぎると、整えられた石畳は次第に狭くなった。染物屋の軒先には藍色の布が何枚も干され、鍛冶屋からは鉄を打つ音と炭の匂いが流れてくる。屋根と屋根の間には洗濯紐が張られ、子どもの小さな服、繕った下着、片方だけの靴下が秋風に揺れていた。
「この泥、アルノーの靴底と同じです」
コーデリアは御者へ馬車を止めさせた。道脇の土を紙へ少量取り、革靴に残った泥と見比べる。どちらにも白い石灰の粒と、染物屋が捨てた細かな灰が混じっていた。
さらに、靴の爪先についた花びらと同じ暗赤色の秋明菊が、民家の窓辺へ植えられていた。近くの修道院が株を分け、西地区の家々へ配ったものだと、通りがかった老婆が教えた。花は雨に打たれながらも細い茎を伸ばし、灰色の壁の前で揺れている。
西鐘楼亭は、傾いた時計塔の隣にあった。一階は食堂で、天井から玉葱と乾燥させた薬草が吊るされている。昼食時を過ぎていたが、職人が二人、豆と塩漬け豚肉の煮込みを食べ、皿の底へ残った汁を黒パンで拭っていた。
女将は赤い布で髪を包み、煮込み鍋を木の匙でかき混ぜていた。コーデリアがアルノーの名を出すと、女将は鍋の蓋を閉め、二階へ顎を向けた。驚いた様子はなく、むしろ遅かったねと言うように肩をすくめた。
「泊まってなんかいないよ。二階の端の部屋を借りて、日暮れ前には帰っていた。夕食を出しても、数字を見ているうちに冷たくしていたね」
「誰と会っていたのですか」
「救貧院の修道女、荷運び人、薬問屋の小僧、粉ひき職人さ。貴族のお坊ちゃんにしては、ずいぶん泥臭い客ばかりだったよ」
「女性を連れ込んだことは?」
「女なら修道女が三人ほど来たね。皆、あんたの母親より年上だよ」
ミレーヌが、恋物語には少し年齢差があると呟いた。コーデリアは彼女の靴を軽く踏み、二階へ案内するよう頼んだ。女将は厨房から豆の煮込みを三皿運ばせ、調査するなら先に食べろと命じた。
二階の端の部屋には、寝台の代わりに長机と六脚の椅子が置かれていた。机には空の木箱、破れた小麦袋、薬瓶の栓、荷車の通行証が残されている。窓辺では子ども用の靴下が二足干され、隙間風を防ぐため、古い新聞が硝子の縁へ詰め込まれていた。
年配の修道女が、救貧院の帳面を抱えて待っていた。茶色い修道服の袖には小麦粉がつき、指先からは石鹸と煮豆の匂いがする。彼女はコーデリアを見ると、帳面の頁を開き、二つの数字を指した。
王室救済局から送ったと記録されている小麦粉は二百袋だった。しかし救貧院へ届いたのは百二十二袋である。毛布は百二十枚のうち六十九枚、解熱薬は五十瓶のうち十九瓶しか届いていなかった。
「アルノー様は、王女殿下の命令で、物資がどこへ消えたのか調べておられました。王宮で正式な監査を始めれば、横流しに関わる役人が証拠を消します。そのため、この宿で一人ずつ話を聞いておられたのです」
「薬草の購入記録へ、アルノーが署名していました」
「救貧院へ送られるはずだった薬を、王都の倉庫で確認した際の署名でしょう。そのあと荷車へ積まれましたが、こちらへ着いたときには半分以上なくなっていました」
修道女は、小さな薬瓶を机へ置いた。封をする蝋は一度切られ、似た色の蝋でつなぎ直されている。中身も薄められ、正しい量を飲んでも効かない状態だった。
「王女殿下は、この件をいつ知ったのですか」
「二か月ほど前です。アルノー様へ調査を命じ、結果が出るまで誰にも話さないようおっしゃいました」
「私にも?」
「婚約者へ話せば危険に巻き込むと、アルノー様ご自身が決められました」
コーデリアは机の角を指でこすった。木の溝には小麦粉が入り込み、白い線になっている。危険から遠ざけるためという言葉は立派に聞こえるが、遠ざけられた側には、暗殺容疑の証拠だけが突然並べられた。
女将が運んだ豆の煮込みは、話を聞く間に冷めていた。肉は小さな欠片が二つだけで、蕪と豆が皿の大半を占めている。コーデリアが匙を入れると、底には焦げた玉葱が貼りついていた。
アルノーも、毎週この部屋で同じ煮込みを冷たくしていたのだろう。彼女が婚礼の花や客席について手紙を書いていた頃、彼は届かなかった薬と小麦袋の数を調べていた。それでも、何も話さなかった事実まで立派な行いへ変わるわけではなかった。
「この帳面を、警備隊へ見せていただけますか」
「原本を渡せば、横流しに関わる者へ証拠のありかが伝わるかもしれません」
「では、三部写します。一部は王女殿下、一部は王室警備隊、もう一部は救貧院と関係のない場所へ預けます」
「アルノー様の無実を証明するためですか」
「それだけではありません。この帳面には、あの人に不利なことも書かれています。毒の材料になる薬草へ近づけたことも、危険性を知っていたことも」
修道女はコーデリアの顔を見てから、帳面を机の中央へ置いた。ミレーヌが紙を並べ、ユベールが窓と扉を確認する。三人は数字を分け、一行ずつ書き写し始めた。
裏の厩舎から、馬のいななきが聞こえた。休憩のため窓を開けると、青灰色の目をした栗毛の雌馬が、右前脚に青い靴下を履いて立っている。履き口には白い小花が刺繍され、コーデリアの鞄に入っている片方と同じものだった。
「あなたが、青い目の方なのね」
コーデリアが厩舎へ下りると、雌馬は鼻を鳴らして近づいてきた。鞄の中に残っていた林檎の干菓子を見つけたらしく、鼻先で蓋を押している。ミレーヌは馬の横顔を眺め、確かに青い目の美人ですわと感心した。
「私より、この馬のほうがアルノーの秘密を知っているのね」
「毎週、会っておりましたから」
ユベールが答え、すぐに口を閉じた。コーデリアは干菓子を半分だけ馬へ与え、残りを自分で食べた。林檎と丁子の香りは、靴下に残っていた薬油の匂いとよく似ていた。
部屋へ戻った三人は、夕方まで帳面を書き写した。窓の外では赤い秋明菊が風に揺れ、花びらが灰色の泥へ一枚ずつ落ちていく。コーデリアの指にはインクがつき、葡萄色の袖口には豆の煮込みの染みが増えていた。
最後の頁には、横流しされた物資を運んだ荷車の印が描かれていた。翼を閉じた鷹と、その下に並ぶ三本の麦穂である。コーデリアは別紙へ印を写し、半分の木彫りの鳥と一緒に物入れへ収めた。
恋人の疑いは消えた。だが、アルノーが命を狙われかねない調査を婚約者へ隠し、一人で進めていた事実は残った。彼を信じるために調べ始めたはずなのに、調べるほど、知らなかった彼の暮らしが増えていく。
「無実を証明できそうですか」
ミレーヌが尋ねた。コーデリアは写した帳面を閉じ、原本と頁数が同じであることを確かめた。机の上には、冷めた豆の煮込みと、誰も食べなかった黒パンが残っている。
「まだです。王女殿下の命令で調査していたことが分かっただけです。毒を入れなかった証拠にはなりません」
「それでも、アルノー卿を信じたいのでしょう?」
「信じたいから、都合の悪いことまで調べます。次は、王女殿下ご本人へお尋ねします」
コーデリアは窓を閉め、鞄を肩へ掛けた。青い靴下は雌馬へ返すため、厩舎の柵へ掛けてきた。代わりに鞄の中には、救貧院の数字と荷車の印、それからアルノーへ問いただすべき新しい秘密が入っていた。




