七つの軌跡が紡ぐ未来
――七年。
長い時間を越えて、
アキラはようやく、
自分自身の人生を歩き始める。
罪も。
後悔も。
失ったものも。
すべてを抱えたまま。
それでも、
帰る場所がある。
待ってくれる人がいる。
そして――
守りたい家族がいる。
これは、
世界を救った英雄の物語ではない。
最後まで誰かの隣にいることを選んだ、
一人の魔術師の物語。
そして彼の物語は、
夕暮れの光の中で、
静かに幕を閉じる。
夕暮れの風が、アカデミーの中庭をそっと撫でていた。
柔らかな光が石畳の上に伸びていくのを、いつものように回廊に立ったまま眺めた。ここに来るたびに感じる静けさは変わらないのに……今日は、なぜか違う。何かが、違う。心の奥に、言葉にならない重さがある。
胸の奥で、鼓動が少し速くなった。静けさの中に、別れの予感が混じっている。
もう七年が経ったんだ、とあらためて思った。アザエルとのあの凄絶な戦いから、もう七年。魔力の使い方を覚えることから始まり、マジクス・テラとマジクス純粋の差異を学んだこと、魔術と魔法がいかに本質的に異なるものであるかを理解したこと、魔術師であることと魔法使いであることが何を意味するのかを体で知っていったこと。
その記憶を辿るたび、指先に熱が蘇る。あの日々は苦しかったけれど、確かに自分を形作った。
全部、この石の壁の内側で、ゆっくりと、時に苦しみながら、積み重ねてきた。長くて、重くて、それでも――ひとりじゃなかった。アリズがいた。リディアも、いた。そして今日、ようやく、卒業の日を迎えた。
その名前を心の中で呼ぶと、胸が温かくなった。支えてくれた人たちがいたから、ここまで来られた。
アカデミー全体に、普段はない活気が漲っていた。各地から家族が集まり、長い研鑽を終えた若い魔術師たちを祝うために、厳かな表情の学者や師たちが式典の場へと歩いていく。
その光景を横目に、胃の辺りがぎゅっと締まるような感覚を覚えた。緊張だ。誤魔化しようもない。深く息を吸って、少し落ち着こうと、頭の隅にある雑学に意識を向けてみた。
そうだ、入学年齢のことでも考えよう。六歳から始めた子どもは北棟で学び、十八で卒業するのが一般的だ。でも、アカデミーはどんな年齢でも受け入れる。遅く入った者は、だいたい二十三歳で終わる。今日の僕がちょうどそれだ。二十三歳。
右手を持ち上げて、掌を見た。かつて、この手は何も知らなかった。そして顔を上げて、晴れた空を見た。初めてこの門をくぐった日のことが、まだ鮮明に残っている。不安と恐怖を全身に抱えた、一人の少年。何度も立ち止まりそうになった。それでも次の一歩が踏み出せたのは、いつも誰かがそこにいてくれたからで……一番借りているのは、やっぱりアリズだ。何年経っても、あの人への感謝は消えない。
その名を思い浮かべると、胸が熱くなった。師であり、友であり、導き手であった人。その存在がなければ、今の自分はここに立っていない。
「卒業おめでとう、アキラ!」
声と同時に、肩に力強い手が置かれた。振り返ると、アリズが満面の笑みを向けていた。
「ありがとう、アリズ」
と微笑みながら答えた。胸の奥が少し軽くなる。
「探索魔術師としての仕事はどうだ?」
「まだまだ新米よ」
と彼女は笑って、少し照れくさそうに髪を直した。
「先輩から学ぶこと、まだいっぱいあるわよ。でも……絶対に、最高になってみせるから!」
その言葉に、自然と心が温かくなった。世界を旅し、遺跡を探索し、まだ見ぬ魔術の痕跡を追う――それが、ずっとアリズの夢だった。僕より一年早く卒業して、もうその夢の中を生きている。すごい人だ、と思う。本当に。
ところが、アリズがふと口を閉じた。わずかに目が揺れた。
「……どうした?」
彼女は視線を逸らし、小さく肩を竦めてから、ゆっくりと息を吐いた。それから覚悟を決めたように、もう一度こちらを見た。
「……お父さんとお母さんが来てるわ」
小さな声で言った。
「あんたに会いに」
胸の中で、複数の感情が一度にぶつかった。驚き、恐れ、そしてわずかな期待。次の瞬間、するどい疑問が全部を押しのけた。
「……父さんも、来てる?」
反芻するように言いながら、息が詰まるのを感じた。喉が乾き、心臓が強く打ち始める。
「もう……釈放されたのか?」
アリズはゆっくり頷いた。
「最終試験の邪魔になるって、内緒にしてたの。本当はね……アザエルとの戦いの後、しばらくしてからよ。ストロン先生がお父さんと話してくれたんだって。うちのお父さんも一緒に、長いこと向き合ってくれたらしくて……初めて会ったとき、あたしもびっくりした。本当に、変わってた。心から申し訳なかったって、そういう顔をしてた。おじいちゃんも、同じよ」
信じられなかった。ストロン先生が、父を――祖父を――変えた。
胸の奥で、長く閉ざされていた扉が軋むように開いていくのを感じた。以前、祖父のことは噂で聞いていたけれど、父がもう自由の身で、しかもそれほど変わっていたなんて、まるで知らなかった。
「……会いに行く」
気づいたら走っていた。石畳の回廊を、魔術師たちの間を、式典のために集まった家族たちの群れを縫うようにして、正門に向かって全力で駆けた。
大きな門に着いた瞬間、足が止まった。
世界が、一瞬、静止した気がした。
父さんと母さんが、ちょうど敷居をまたいでいた。二人の目が、僕を見つけた。そして――笑った。どこかで失ったと思っていた、あの柔らかい笑顔で。
胸に迷いはなかった。彼らも苦しんでいた。彼らも、この日を待っていた。過去の痛みは本物だけれど……それでも、愛している。
走り寄って、両腕で二人を同時に抱きしめた。
「会いたかった……! ずっと、会いたかった……!」
声が割れた。涙が出た。恥ずかしいとは思わなかった。魂の奥深くにあった、長いひびが、音もなく塞がっていくのを感じた。
「許してくれ、アキラ……頼む、許してくれ」
父さんの声も、震えていた。
「本当に……馬鹿だった……」
その言葉に、胸が強く締め付けられた。けれど、もう憎しみはなかった。
「いいんだ」
嗚咽の隙間から言葉を押し出した。
「……いいんだ。憎んでなんかいない。ずっと、二人が好きだった。今も、好きだ」
長い抱擁だった。三人分の、長い時間の重さを持った抱擁だった。父さんの背中に回した腕から、母さんの肩に触れた指先から、伝わってくるものがあった。解けていく、という感覚。長い間凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていく感覚。
そのあと、式典が始まった。
壇上に名前を呼ばれ、石畳を歩いた。心臓の鼓動が足音より大きかった。差し出された卒業証書に指が触れた瞬間、羊皮紙は金色の光の粒子に変わり、音もなく空気に溶けていった――〝認証〟の術式が、流れの中に刻まれた感触だけを残して。
魔力が増えるわけでも、何か特別な力が宿るわけでもない。ただ、ほんの少し、自分の内側の何かが落ち着いた。ここまで来た、という感触が、温かく胸に広がった。
式典が終わり、人の波がゆるやかに動き始めた頃、静かな足音が近づいてきた。
「アキラくん。ストロン先生が呼んでおられる。家族も一緒に、とのことだ」
カイト先生だった。穏やかな声で、そう告げた。
父さんと母さんとアリズを連れて、先生の執務室へ向かった。扉を開けると、ストロン先生が暖かな目でこちらを見た。
「家族が揃った姿を見られて、わしは本当に嬉しいのう」
先生はゆっくりと言った。声の奥に、深い安堵が滲んでいた。
「……先生、お話というのは?」
かすかに緊張しながら聞いた。胸の奥で鼓動が速くなる。
「良い知らせじゃ、アキラくん。そなたへの行政処分は、正式に取り消された。完全にじゃ。これからは何の縛りもなく、自分の望む道を歩んでよい」
長い間、背負い続けていたものがす、と消えた。
気づいたら笑っていた。父さんを抱きしめて、母さんを抱きしめて、アリズも抱きしめた。笑いながら、泣きそうになった。この喜びを、あと一人と分かち合いたかった。
リディア。
式典の場に、彼女の姿はなかった。ナイトシェイド一族の次期長が公の場に来れば、余計な波紋が広がる。僕たちの関係は、まだ魔術師社会に公式には知られていない。それはわかっている。でも――群衆の端に目をやって、木陰の辺りを探した。
つばの広い帽子、サングラス、マスク。あまりにも不自然な、あまりにも彼女らしい変装が、遠くに見えた。
それだけで、笑みがこぼれた。胸の奥が温かくなった。彼女は、やっぱり来てくれていた。
* * *
卒業の後、進む道は最初から決まっていた。
アカデミーの先生になる。
かつては人間社会に戻ることを望んでいた。でも今は、ここにいたい。ここに、大切なものが全部ある。あの戦いを経て、迷い、傷つき、それでも立ち上がった若い魔術師たちを――これから同じ道を歩もうとする子どもたちを――助けたいと思った。自分が感じたような孤独と混乱を、次の世代には味わってほしくなかった。
教師への道は、簡単ではなかった。アカデミーの教員には、研究職と教育職の二系統がある。選んだのは、教育の方だ。試験と評価の連続だった。でも、一つずつ乗り越えた。
その過程で、何度も思った。――僕はもう、過去に囚われていない。未来を選んでいる。
そして今、ようやく胸を張って言える。
「ここが、僕の居場所だ」
ある日、リディアに誘われて、二人で街を歩いた。
話しながら笑いながら、気づいたら住宅街の静かな通りに出ていた。木が多くて、風が通る、穏やかな場所だった。彼女が足を止めた先に、二階建ての家があった。
「……ここは?」
「買ったの」
と彼女は言った。まっすぐに前を向いたまま、でも少し照れているような声で。
「私たちの家に、しようかと思いましてわ」
胸に、大きな感情がやってきた。それと一緒に、自分が先に踏み出せなかった悔しさも来た。彼女に手を引かれて、一緒に中に入った。
リディアは静かに説明してくれた。ナイトシェイド家の大邸宅には帰りたくない、と。政治と血統と問題が詰まったあの場所ではなく、ここで暮らしたい、と。法的な義務はない。ただ、望んだのだ、この場所を。
強く抱きしめた。この人と、この家で、たくさんの記憶を作ろうと思った。
夕方から夜へ、二人で空き部屋を歩いて回り、リビングで映画を見た。ロマンス映画で、彼女はいつの間にか画面に引き込まれていた。クライマックスで、涙がこぼれた。
「……リディア」
彼女は黙ったまま、ぎゅっと抱きついてきた。
「眠る?」
肩の中で、コクン、と頷いた。
手を繋いで、寝室の扉の前まで来た。そっと手を放そうとしたら――放してくれなかった。どういう意味か、考える必要もなかった。一緒に入った。
窓が開け放たれていて、月の光が床に真っ直ぐ落ちていた。夜風がジャスミンの香りを運んでいた。
リディアはベッドの縁に座った。膝の上で指を組んで、髪を下ろして、目はまだほんのり赤くて、シャツの裾がふとももの途中までで、何も言わずに、でも全部が言葉だった。
「気に入ってくれる?」
と聞いた。家のことを言っているのではない、とわかった。
「こんなに綺麗な家具は、見たことがない」
と答えた。
「……家具のことじゃなくて」
と彼女は笑った。はじめて、本当に緊張した顔で笑った。膝の上の指が、シャツの裾をそっとつまんだ。
「……実はね、台所の窓から朝の光が入るのを見て、一目惚れしちゃったの。でも、その瞬間に思ったの――アキラに見せたいって。それからは、何かを選ぶたびに……あなたならどう思うかなって、考えながら選んでたの」
心臓が、ずきん、と鳴った。うまく言葉が出なかった。彼女の隣に座った。膝が触れないくらいの距離で。
その距離が、未来を象徴しているように思えた。近すぎず、遠すぎず――でも確かに、同じ場所にいる。ここから始まるのだ。二人の家で、二人の時間が。
「……僕も、同じだよ」
やっと言えた。胸の奥で長く渦巻いていた言葉が、ようやく形になった。
「どこかのドアをくぐるたびに、君が好き。何か美味しいものを食べたら、取っておきたいと思う」
「本当に?」
「本当に。あの時、君を助けに行ったとき――終わって、君が息をしているのを確認したとき――思ったよ。この先に何があっても、これ以上大事なものはないって」
彼女は答えなかった。ただ、こちらを見た。そのまなざしは、どんな言葉よりも雄弁だった。その沈黙は心地よかった。埋める必要のない種類の沈黙だった。庭でこおろぎが鳴いていた。月がゆっくり動いていた。
リディアが顔を向けた。琥珀色の目が、月明かりを受けて金色に揺れていた。
「……少し、馬鹿げた夢を聞いてくれる?」
「君の夢に馬鹿げたものなんてない」
「……これは、あるのよ」
深く息を吸った。指が、また裾の端を探った。
「こういう家の夢を見たの。庭にトマトとミントが育ってて、日曜には台所がパンの匂いで満たされて……そして」
声が、かすかに揺れた。それから、小さな笑いが漏れて、口を手で押さえた。
「……もう、恥ずかしい」
「言って」
「……子供たちの夢を見たのよ。廊下を走り回る、小さな子たちの。朝、私を起こしてくれる人がいて、お茶の淹れ方をちゃんと知っていて……」
黙った。膝の上の手を見つめた。まるでひどいことを打ち明けたような沈黙だった。
呼吸ができなかった。驚いたのではない。そのテーブルの向こう側に、ずっと自分がいたから。彼女がそれを見ていたなんて、知らなかっただけで。
「……そのテーブルの向こうで、起こしにくるのは誰?」
かすれた声で聞いた。
「あなたよ」
と彼女は言った。視線は手の上に落としたまま。
「いつも、あなただった」
部屋の空気が、ぴんと張った。リディアはそれを感じて、微笑んだ。その微笑みは、何も言わずに何かを確かめていた。
「好きだ」
言葉が出た。考えたわけじゃなかった。ずっとそこにあったものが、やっと外に出ただけだった。
「好きだよ、リディア。いつからかわからない。名前がつく前から、ずっと」
胸の奥で、何かが静かにほどけていった。長い時間を経て、ようやく辿り着いた答えだった。
彼女はこちらを見た。瞳に、月明かりだけじゃない光が積もっていた。一度、瞬きして、また一度。笑おうとして――小さな嗚咽になった。それがすぐに笑いに変わった。
「泣かせないで……」
手の甲で頬を拭いながら言った。声は震えていたけれど、柔らかさを失っていなかった。
「……今夜は、計画があったのに」
「どんな?」
「こう」
キスをされた。不器用で、完璧なキスだった。唇が、かすかに震えていた。頬に手を当てた。熱かった。髪が柔らかかった。離れたとき、二人とも走ってきたみたいに息をしていた。
「……大丈夫?」
「ええ……大丈夫。それ以上に、大丈夫」
彼女が先に目を伏せて、先に顔を上げた。ボタンを、一つずつ外し始めた。丁寧に、静かに、それが儀式のように。指先が、時々、迷うように止まった。そのたびに待った。どれだけでも待てた。
「……あなたも?……怖くない?」
「全然。これほど確かなことは、他にない」
シャツを、そっと脱がせた。壊れ物を扱うように。月の光が彼女を照らした。彼女は腕で胸を隠して――それから、ゆっくりと、下ろした。見てほしいから、と言っているようだった。見た。どこも見落としたくなかった。
「綺麗だ」
それだけ言った。それ以外に、何も要らなかった。
肌が触れ合ったとき、長い時間をかけてひびが入っていた何かが、静かに元の形に戻った感じがした。急がなかった。ただ、二人だけがいた。月と、ジャスミンと、混じり合う呼吸だけがいた。ベッドが小さく軋んで、彼女が笑って、その笑いが全部を解きほぐした。
肘で体重を支えながら、見下ろした。
「……見てくれる?」
「ああ」
ずっと、見ていた。目が潤んでいた。悲しいのではない。廊下を走る子どもたちを夢見るときと、同じ目の光だった。ゆっくりと動き出した。二人で、同じリズムを探した。やがてリズムの方が二人を見つけて、どこまでが自分でどこからが彼女なのか、わからなくなった。
月が窓を打ち、ジャスミンが部屋を満たして、世界が止まった瞬間、彼女が名前を呼んだ。祈りのように。
同じように、名前を呼んだ。
それで十分だった。その一瞬に、二つの魂の軌跡が交わり、世界の織物にそっと刻まれた――もう離れない、という証が。そして遠い空の果てで、新しい星が一つ、静かに灯った。
あとは静かだった。月は高く、シーツは乱れて、彼女が胸の上に頬を乗せた。手が、ゆっくりと髪に触れた。呼吸が、少しずつ穏やかになっていった。動きたくなかった。永遠に、ここにいてもよかった。
「好きよ」
と彼女は言った。長い間しまっておいたものを、やっと手放したような声で。
心臓が、どくん、と鳴った。彼女は皮膚の向こうにいるのに、聞こえたかもしれない。
「僕も。これが好きって呼ぶものだと知る前から、ずっと」
小さな、眠たげな笑いが、胸の上で揺れた。
「……明日も?」
彼女はぽつりと言った、目を閉じたまま。
「何が?」
「……ここにいてくれる? 明日も」
「いるよ」
「……ずっとは長すぎる」
「それが、欲しいんだ」
カーテンが揺れた。月の光が、床に川のように流れた。庭のジャスミンが、季節外れに咲いていた。見なくても、わかった。魔術師の家の花は、待つことを覚えるから。
その夜、リディアが買った家で、時間が止まった。最初の朝の光が差し込んだとき、彼女はまだ胸の上で眠っていた。子どもたちが廊下を走る夢でも、見ているのかもしれなかった。
ずっと見ていた。そして気づいた――この家は、もうリディアだけのものではない。僕たちの家だ。
胸の奥で、静かな確信が芽生えた。過去の痛みも、未来の不安も、この場所でなら受け止められる。彼女となら、どんな朝も迎えられる。
* * *
月日は、静かに流れた。
リディアがナイトシェイド一族に、正式に伝えた。自分の彼氏が誰か。そして、子どもを授かったことを。保守的な一族の中から、反発の声が出た。でも、氏族長は予想より遥かに穏やかで、理性的だった。僕たちの関係を認め、正式に承認してくれた。
年月をかけて、評価をくぐり抜け、ようやく先生として認められた。家には笑い声と足音が増えて、リディアと僕は、五人の子を育てた。
ある日、アカデミーのあのバルコニーに立った。若い頃、何度も迷い立ち尽くした場所。青い空を見上げながら、かつて問い続けた問いに、今なら答えられると思った。
「英雄」とは何か。ヒーローになるために生まれたんじゃない。ただ、過ちを贖いたかっただけだ。でも今は思う――英雄とは、化け物を倒す者じゃない。翌朝また立ち上がって、大切な人のそばにいることを選び続ける者だ、と。
「家族」とは何か。空白を埋めるために作るものじゃない。愛は偶然じゃなく、毎日の決断だと証明するために生きている。五人の子どもたちは、一族の後継ぎじゃない。それぞれの夢を持つ、一人ひとりの人間だ。それが、何より美しい。
魔術師たちは長い間、隠れてきた。自分たちが優れていると思っていた。でも――教えられたのは、魔術は人を優れた者にはしない、ということだ。魔力はただの道具に過ぎない。大事なのは、弱い者にどう向き合うか。魔術のない人間には、魔術では決して叶わない輝きがある――魔術なしで、それでも前へ進む、頑固なまでの力強さだ。だから未来は、隠れることではなく、橋を架けることにある、と思う。
あの最終決戦での変身は、自分のものじゃなかった。特別でも何でもない。ただ、正しい場所に、正しい時間にいただけだ。だから若い魔術師に「英雄になるにはどうすれば」と聞かれたとき、いつもこう答える。
「目指すな。ただ、大切な人を守りたいと思えるような人間でいなさい」
そのとき、ふと視線を下ろした。庭の木立の陰に、人影があった。黒いスーツに赤いネクタイ。こちらをじっと見ている男が立っていた。一瞬の沈黙の後、男は静かに微笑んだ。それは、裁くのでも哀れむのでもなく――すべての選択を、ただ穏やかに肯定するような、不思議な笑みだった。
視線が合った瞬間、胸の奥に、名前のつかない温もりが灯った。
*
*
*
―― 美しいだろう? この、小さな時間の断片は。
ゆっくりと、しかし確実に、盤面の針が回る。止まることなく、迷うことなく。私はいつもここにいた。人が泣いたとき。人が笑ったとき。人が誰かの名を呼びながら息を引き取ったとき。いつも、ただ見ていた。そして今、この夕暮れの中で、また一つの物語が――終わりではなく――息継ぎをしようとしている。
アキラ・アッシュフォード。
君は生きた。それも、中途半端にではない。泣いた。愛した。戦った。そして、何かを播いた。目に見えぬものを、心の土の中に。しかしこれは終わりではない。君が今立っているこの場所は、私の盤面にある無数の針のうちの、ただ一本に過ぎない。だから、もう少しだけ私の話を聞いてくれ。
見てごらん、あの男を。
かつてその背中には、自らが自らに課した罰の重さが乗っていた。一人の少女の記憶を消すことで、何かが赦されると信じていた。しかし赦しとは、忘却の中にあるものではない。振り返っても逃げない、その勇気の中にあるものだ。君は黄金の鉄則を破った。しかしそれと同時に、自らの罪悪感が作り上げた牢獄をも、内側から打ち破った。そして騎士マジクスとなったとき―― それは霊輝が君を英雄にしたのではない。恐れながらも、それでも動くと決めたその意志が、君を英雄にしたのだ。
魔術師たちは忘れている。勇気とは恐れのないことではない。恐れながらも、足を踏み出す意志のことだ。
今の君は師だ。誰よりも知っているからではない。倒れることも、立ち上がることも、どちらも自分に許してきたからこそ、他者にそれを思い出させることができる。それが教えるということだ。
―― そして、マーカス・ワイルドソウル。
肩の広いあの男を見るといい。
長い年月、その魂は封じられていた。義務こそが自分だと信じ、感じることは、失った者たちへの裏切りだと思い込んでいた。しかし愛とは、過去への裏切りではない。命の続きだ。君は黒木を赦した。ダミーラの愛に気づいた、たとえ遅くとも。そしてアイリスが手を伸ばしたとき、君はその手を取る勇気を持った。それはな、ハンターよ、どんな獣を仕留めることよりも難しいことだ。命に殺されて、命の中で生まれ直すことなのだから。もう君の心は空虚な城砦ではない。それは、家だ。
―― 春花・ナイトシェイド。
彼女は……彼女だけは、少し胸が痛む。
死んだからではない。愛されるに値する自分を、最後の最後まで知らずにいたから。嘘から生まれたプロジェクトを追いながら、一つの真実を見つけた。エレノアの愛だ。春花、君の天才は魔術にあったのではない。感じるなと教えられながらも、感じ続けた、その心の中にあった。愛した女の腕の中で逝った。その瞬間は、短くとも、承認を求めて過ごしたどの年月よりも本物だった。だから悼まない。祝う。君の死は終わりではなかった。それは種だった。君の犠牲から、他者の意志が芽吹いた。
―― エレノア・ウィンターフォール。
茶色の髪と、疲れた瞳の女。
かつてリリウムを見るとき、事故を見ていた。失敗を見ていた。自分が足りないという証拠を見ていた。しかし愛は失敗ではない。宇宙で最も古い力だ。リリウムは君の技術から生まれたのではない。愛し返してくれるものを作りたいという、その切なる望みから生まれた。それを理解したとき、世界は霊輝という形で君に答えた。君は偽りの天才ではない。疑いを確信へと変えることを知った、一人の母だ。今、未来という名の深淵の前で、リリウムの手を握りながら歩いている。春花への痛みは消えない。だが、その痛みを抱えて歩くことそのものが、最も深い愛の形だと、君はもう知っている。
―― ヴィクター・グリムストーン。
この男は暗闇の中に生きていた。夜の闇ではない。罪悪感という名の闇の中に。自分の過ちが自分を定義すると信じていた。しかし過去とは鎖ではない。礎だ。楓との誓約を断ち切った。海を解放するための装置を作った。そうすることで、蓮次郎を赦したわけでも、過ちを消したわけでもない。ただ、未来は後悔ではなく、この両手で作るものだと示した。今は娘がいる。目的がある。そして、来たるものへの静かな好奇心がある。それは、エンジニアよ、君がこれまで作ったどんな機械よりも強い力を持っている。
―― 楓・エンバーストロム。
そして彼女……いつも完璧だった。いつも期待通りのことをした。
しかし完璧さとは自由ではない。黄金の檻だ。父が築いた鎧を砕くことは、反逆ではなかった。それは生き延びるための、切実な行為だった。禁断の図書館に踏み込んだとき。恐怖と向き合ったとき。最後の戦いで増援を動かしたとき―― 一族の道具ではないと示した。己の意志を持つ、一人の女だと。今は自由に、何も知らない明日へと歩いている。あの金髪の少年との出会い……さて、どうなるだろう。それは別の物語の芽かもしれない。しかし愛しき楓よ、それを語るのはもう私の番ではない。
―― 龍牙・ドラゴンズベイン。
この若者は……おお、この若者。
世界は自分の痛みを中心に回っていると信じていた。死んだ父を取り戻すことに意味があると信じていた。しかし意味とは、死者の中にあるのではない。留まることを選んだ生者の中にある。グレインを呼んだ。そして彼は彼なりの方法で教えた――真の力とは他者を制することではなく、他者に支えられることを許すことだと。今、君を必要としている女たちに囲まれながら、己の場所を見つけた。この物語の英雄ではない。嵐の中で他者が流されないための錨だ。そしてそれは、愛しき召喚師よ、これまで呼び出したどんな竜よりも価値がある。
―― 七人。七つの道。七つの傷が、橋になった。
アキラ・アッシュフォード。
マーカス・ワイルドソウル。
春花・ナイトシェイド。
エレノア・ウィンターフォール。
ヴィクター・グリムストーン。
楓・エンバーストロム。
龍牙・ドラゴンズベイン。
英雄ではない。神でもない。世界が崩れ落ちる中でも前へと進むことを選んだ、ただの人間だ。
では、何を学んだのか。
力とは魔術の中にあるのではないということを。信じる決意の中に。赦す決意の中に。痛くても愛する決意の中に。もっと痛くても手放す決意の中に。
魔術師の世界は、強さとは孤独だと信じていた。しかし君たちは証明した。強さとは、共に分かち合う脆さのことだと。霊輝は閉じた者ではなく、開いた者の中を流れると。そして知らぬ間に、君たちはものの秩序を変えた。呪文一つでではなく。戦い一つでもなく。人間であることを選ぶという、ただそれだけの、しかし革命的な決断によって。
さあ、この夕暮れを見てごらん。
明日また、陽は昇る。新しい魔術師が生まれ。新しい者たちが霊輝を欲しがる。新しい英雄たちが倒れ、立ち上がる。なぜなら、これは終わりではないから。歯車の中の、ただの静止だ。
んー?
……私が誰か、と?
――私は時計だ。
神ではない。語り手でもない。時が止まらないことの、証人だ。語ろうとする者がいる限り……世界は回り続ける。
これを読む君たちも、歯車の一部だ。一つの物語に心を動かされるたびに、一つの宇宙に命を吹き込む。だから泣かないでくれ、これが終わるからといって。笑っていてくれ。彼らにとって、本物だったのだから。
さあ、アキラよ。
子供たちが夕飯に呼んでいる。行きなさい。それが君の永遠だ。皆の永遠でもある。栄光の中にではない。力の中にでもない。共にいることを選ぶという、あの小さく、壊れやすく、美しい瞬間の中に。
私はここにいる。
観て。待って。なぜなら世界には……いつも、新しい物語があるから。
【 ――時計は、静かに溶けていく 】
アキラは瞬きをした。風は変わらず吹いている。
家の中から、子供の声が響いてきた。
「パパーー! ご飯が冷めちゃうよーー!!」
――笑みが、ゆっくりと広がる。振り返る。光の方へ、歩いていく。
アカデミー・エンディミオンの上に夕暮れが降りる。まるで、長い読書を終えた本が、そっと棚に戻されていくように。
ここまで『マジクス ~世界はまだ魔術を知らない~』を読んでくださった皆様へ。
まずは、本当にありがとうございました。
この物語を書き始めてから今日まで、
こうして最後まで書き切ることができたことを、
とても嬉しく思っています。
そして何より、
『マジクス』という物語を書いている時間は、
自分にとって本当に楽しいものでした。
この物語は、
「もし魔術師たちが現代、そして少し未来の世界で、
人間社会に隠れて暮らしていたら?」
そんなところから始まった物語です。
現代的な社会の中に魔術が存在していて、
それでも人々には知られていない。
そんな世界で、
魔術師たちはどのように生きているのか。
彼らは何を考え、
何を恐れ、
そして何を守ろうとするのか。
それを自分なりに描いてみたかった。
それが『マジクス』を書いた理由の一つでした。
そして、ここで一つ皆様にお伝えしたいことがあります。
実は――
これまで自分が書いてきた物語は、
すべて同じ世界を舞台にしています。
物語によって時代が違い、
登場する人物も、
起こる事件も違います。
ですが、
そのすべては同じ世界の中で繋がっています。
もし『マジクス』を楽しんでいただけたのであれば、
ぜひ他に公開している作品も読んでみてください。
違う時代、
違う場所、
違う主人公たちの物語ですが、
いつかどこかで、
「この世界は繋がっているんだ」
と思っていただける瞬間があるかもしれません。
そして、
これで自分の物語が終わるわけではありません。
この世界には、
まだまだ描きたい物語がたくさんあります。
すでに次の物語についても少しずつ考え始めています。
ただ、
次の作品を公開するまでには、
もう少し時間がかかるかもしれません。
それでも、
これからも自分自身の作り上げた世界を、
少しずつ広げていきたいと思っています。
いつかまた、
この世界のどこかで、
新しい物語を皆様に届けられたら嬉しいです。
最後になりますが、
ここまで『マジクス』を読んでくださった皆様。
一話でも読んでくださった方。
途中から読み始めてくださった方。
そして最後まで付き合ってくださった方。
本当にありがとうございました。
もし『マジクス ~世界はまだ魔術を知らない~』を楽しんでいただけたのであれば、
ぜひリアクションや評価などで応援していただけると嬉しいです。
皆様からいただく反応が、
これから物語を書いていくための大きな力になります。
それでは、
これで『マジクス ~世界はまだ魔術を知らない~』の物語を終わりたいと思います。
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
あなたがこれを読んでいる時間が、
朝でも、昼でも、夜でも――
ありがとうございました。




