第3話 いただきます、さようなら
今朝の卵は、少しだけ殻が薄かった。秋が深まった証拠だ。
鶏が寒さを感じ始めると、殻のカルシウムが薄くなる。だから秋の卵は割る時に力加減が要る。強すぎると殻が砕けて白身に混ざる。弱すぎると割れない。
この微妙な加減を私は八年分の朝食で体に刻んだ。
こん、と小鉢の縁に当てる。きれいに割れた。白身が透明で、黄身が鮮やかな山吹色。
良い卵だ。最後の朝に、良い卵が来た。
今朝の献立。蜂蜜とバターのオムレツ、焼きたての丸パン、鱒の燻製の薄切り、干し林檎の砂糖煮、そして昨夜から仕込んだスープ。
蜂蜜は小さじ半分より気持ち少なめ。最後の一杯だ。最後も、ぶれない。
オムレツは表面がぷるっと揺れるくらいの半熟に仕上げる。
グレン様は固焼きが嫌いだ。正確に言えば、固焼きのオムレツを出した二年目の冬に眉を顰めたのを、私が見逃さなかっただけだ。本人が「半熟が好きだ」と言ったことは一度もない。
言わなくても、わかる。そういう妻だった。
——「だった」。過去形。もう自然に出る。
◇◇◇
銀の皿に一品ずつ盛りつけていく。
皿の縁を布で拭く。小さな汚れも許さない。燭台の位置を微かに左にずらし、水杯の角度を直す。布巾を真っ白な新しいものに替える。
パンの切り口が上を向くように置き直す。
鱒の薄切りは、一枚ずつが少しだけ重なるように並べる。グレン様はフォークで一枚ずつ取る人だから、重なりすぎると食べにくい。
食堂の窓からは朝の光が差していた。この食堂は東向きで、朝食の時だけ光が入る。夕食は蝋燭だ。
八年間、同じ光の中で、同じ席で、同じ人と食事をしてきた。
二人分の椅子を引く。座面の革が少し擦れている。グレン様の椅子の方が深く擦れているのは、体重のせいだ。
私の椅子は、八年座っていてもまだ硬い。
……今日が最後だ。
◇◇◇
足音が聞こえた。規則正しい、重い足音。グレン様だ。
階段を下りてくる。十二段。この屋敷の階段は十二段で、グレン様は必ず一段ずつ降りる。急いでいる日は二段飛ばしだが、今朝は一段ずつだった。
食堂に入ってきた。いつもと同じ時間に、いつもと同じ朝のコートを羽織ったまま。椅子に腰掛けて、新聞を広げた。
私が「おはようございます」と言うと、「ああ」と返した。
いつも通りだ。
新聞の向こうに、夫の顔がある。はずだ。見えないけれど。
八年間、朝食の席で夫の顔をまともに見たのは数えるほどしかない。新聞か、書類か、窓の外か。視線はいつもそちらに向いていた。
私の顔には来なかった。
オムレツにフォークを入れる音がした。噛む音。飲み込む音。スープを口に運ぶ音。
「——美味いな」
聞こえた。あるいは、聞こえた気がした。
グレン様が食事中に何か言うのは珍しい。年に数回あるかないかだ。
もう遅いですよ、グレン様。その一言は八年遅い。
でもそれは口に出さなかった。代わりに笑った。自分でも驚くくらい穏やかに笑えた。
◇◇◇
グレン様がパンを取る手が止まった。
テーブルの上に、羊皮紙が一枚置かれていたからだ。パン籠の横に。バターナイフの隣に。
離縁届。
昨日署名した、あの紙だ。
「……何だ、これは」
新聞を畳んだ。八年間の朝食中に新聞を畳んだのを見たのは、これが初めてだった。
「離縁届です」
声は震えなかった。三年間、この台詞を練習してきた。鏡の前で。厨房で鍋をかき混ぜながら。寝室で天井を見つめながら。何度も何度も声に出して、震えない速さと間を探った。
「教会の事前承認は取ってあります。グレン様の署名をいただければ、明日にも手続きが完了します」
「……何を言っている」
「ナディア・ブランシュ嬢との三年間の関係について、証拠書類は五通あります。教会にも写しを提出済みです」
グレン様の顔から、ゆっくりと色が引いていった。
朝の光の中で、その白さがよく見えた。オムレツを刺したフォークが、皿の上で止まっている。半熟の卵が、フォークの先で微かに揺れていた。
口元にスープの湯気がかかって、それすら拭おうとしない。
初めてだ。この人がこんな顔をするのを見るのは。
「待て。マリアージュ、待ってくれ。話を——」
「それから——」
私は立ち上がった。エプロンを外し、椅子の背にかけた。八年間つけてきたエプロンだ。リネンの生地。何度洗っても落ちない小さな油染みが、左の裾にある。
「明日からの献立は、愛人の方に聞いてくださいね」
笑顔で言えた。
三年間で一番上手く笑えた、と思う。
グレン様の目が見開かれていた。あの目だ。蕁麻疹を起こした初日に見た、あの驚いた目。
八年前と同じ目で、私を見ている。
——八年遅いと、さっき言ったでしょう。心の中で。
◇◇◇
食堂を出た。廊下を歩いた。
背後でグレン様が椅子を立つ音がした。でも追いかけてはこなかった。
追いかけ方を知らない人だ。八年間、追いかけてこなかった人が、今更立ち上がったところで足が動くはずがない。
正面玄関の前で、エルザが鞄を持って立っていた。目が赤かった。昨日よりもっと赤かった。
「エルザ、ありがとう」
「奥様——どうか、お体だけは」
「トマスにも伝えて。八年間、ありがとうと。それから、スープの蜂蜜の量は——」
言いかけて、止めた。
教えない。教えたら、私の八年間が「引き継ぎ事項」になる。
「……いいえ、何でもないわ」
鞄を受け取った。献立ノートと包丁セットの重さが、右腕にかかった。
正面の扉を、私は自分で開けた。使用人に開けてもらわなかった。これは私が選んだことだから、私の手で開ける。
門の前に馬車が待っていた。御者が扉を開けてくれた。
乗り込む直前、振り返りそうになった。
——振り返らなかった。
振り返ったら足が止まる。足が止まったら、蜂蜜の量を教えに戻ってしまう。
◇◇◇
馬車が動き出した。石畳の振動が、座席の下から伝わってくる。
窓の外を見た。楡の並木道が後ろに流れていく。屋敷の門が小さくなる。見たことのない畑が広がり、見たことのない丘が現れた。
知らない景色だった。
八年間、この屋敷の外をまともに歩いたことがなかった。厨房と食堂と、時々の庭。私の世界はそれだけだった。
風が入ってきた。
馬車の窓から入る風は、厨房の換気口の風とはまるで違った。広くて、冷たくて、何の匂いもしない。鍋の匂いも、蜂蜜の匂いも、焦げた匂いもしない。
——何の匂いもしない風を、私は八年ぶりに吸った。
胸が、少しだけ軽くなった。ほんの少しだけ。




