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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第2話 署名と蜂蜜


 インクの匂いがした。署名用の、少しだけ甘い匂い。


 羽根ペンを持つ手は、不思議と震えなかった。


 三年も準備してきたのだ。震える余裕など、とうに使い切っている。


 離縁届の羊皮紙は、机の上で微かにカールしていた。昨夜の湿気のせいだろう。端を左手で押さえ、右手でペン先をインク壺に浸す。


 壺の縁でペン先の余分なインクを落とす。一滴。二滴。


 三年間、この瞬間を何度夢に見たかわからない。


 ——マリアージュ・リヴェール。


 旧姓で署名する。ヴァルフォートの名前は、今日この瞬間に返す。


 八年間借りていた名前だ。利子はつけない。つけたいけれど。



◇◇◇



 署名したインクが乾くのを待つ間、私は窓を開けた。


 秋の朝の空気が頬に当たる。冷たい。けれど厨房の熱気に慣れた肌には、これくらいがちょうどいい。


 下の中庭では、庭師のフリッツが薔薇の手入れをしている。秋薔薇は花弁が小さくて、色が濃い。この屋敷の庭には三十二種の薔薇があって、私はその全部の名前を覚えた。


 なぜかって、グレン様に聞かれた時に答えられるようにだ。


 一度も聞かれなかったけれど。


 フリッツは私が離縁することを知らない。明日にはこの屋敷中が知るだろう。


 使用人たちの反応を、一人ずつ想像してみた。


 料理長のトマスは無言で背を向けるだろう。涙もろい下女のハンナは泣くかもしれない。彼女はいつも私の残り物のスープをもらいに来ていた。「奥様のスープは体が温まります」と言って。


 馬丁のオスカーは——まあ、彼はそもそも私の顔を知っているかどうか怪しい。八年間で三回しか話していない。


 こういう数え方ばかり上手くなった。何年、何回、何冊。



◇◇◇



 扉を叩く音。三回、間を置いて一回。エルザの癖だ。


「どうぞ」


 侍女長が入ってきた。朝の支度を整えた、きちんとした姿。白髪が増えた。三年前より確実に増えた。


 この人も、私の離縁計画に付き合わされて気苦労が多かったのだろう。


「エルザ。署名しました」


 彼女は離縁届を見た。それから私の顔を見た。視線が行き来した。書類の上の私の名前と、生きている私の顔と。


「……お荷物は、いつお運びしますか」


「今日中にまとめます。持っていくものは少ないから」


 エルザは頷いた。何か言いたそうに口を開き、閉じ、もう一度開いた。


「奥様。——お幸せに」


 その一言だけだった。


 泣かないでいてくれたことに、感謝した。泣かれていたら、私も崩れていたかもしれない。いや、崩れていただろう。確実に。


 エルザが出ていった後、しばらく椅子に座ったままでいた。


 壁の時計が時を刻んでいる。この時計は結婚祝いにグレン様の母上から贈られたもので、毎年ゼンマイが狂う。私が毎月巻き直していたのだけれど、来月からは誰が巻くのだろう。


 ——それは、もう私の心配ではない。



◇◇◇



 書斎の棚から革の鞄を下ろした。


 三年前に市場で買っておいたものだ。離縁用の鞄を三年前に買う女がこの世に何人いるだろう。私くらいだと思う。


 中身の確認。まず証拠書類、五通。


 一通目。ナディア・ブランシュとの逢瀬を目撃した使用人二名の署名入り証言書。日付は三年前の冬。証言してくれた二人には、口止め料ではなく、ただ「ありがとう」と言った。


 二通目。グレンが愛人に贈った宝飾品の領収書の写し——翡翠のブローチに真珠の首飾り、合わせて金貨十五枚。これはエルザが帳簿から見つけてくれた。


 三通目は教会への離縁事前申請書。四通目はその受理証明。


 五通目は持参金返還の算定書。子爵家からの持参金は金貨百二十枚だった。八年間の利息を加えると、百四十四枚。


 教会の算定士が「これほど正確な申請書は初めてです」と言った時、私は「三年ありましたから」と答えた。


 五通。五通で八年が終わる。


 ——いいえ。八年は終わらない。


 証拠書類で終わるのは婚姻であって、私が費やした時間は別の場所に残る。献立ノートの中に。壁の三番目のフックの曲がりに。蜂蜜の壺の減り具合に。



◇◇◇



 荷造りは簡単だった。というより、簡単にした。


 着替えは三日分。下着と、リネンのワンピースが二着と、予備のエプロン。


 エプロンを旅に持っていくのかと思われるかもしれないが、料理をする人間にとってエプロンは鎧だ。これがないと心もとない。


 宝石箱は開けもしなかった。


 結婚指輪は——少し迷って、化粧台の引き出しに置いた。銀の細い指輪。嵌めた日のことは覚えている。グレン様の手が冷たかったことも覚えている。


 でも、それだけだ。持っていく理由がない。


 棚の奥から、紺色の布に包まれたものを取り出す。嫁入りの時に持ってきた包丁セット。五本。母が「料理人の手は包丁で決まるのよ」と言って選んでくれた。


 柄の木目が、八年経って飴色に変わっている。刃は毎月研いでいるから、まだ銀色に光る。


 それから、献立ノート。八冊。


 一冊目の白い表紙はもう黄ばんで、角が丸くなっている。八冊目はまだ半分しか書いていない。残りの半分は、もう埋まることがない。


 紐で束ねると、ちょうど赤子を抱えるくらいの重さになった。


 八年分の夫の体調と好みの記録は、赤子の重さだった。


 荷物はこれで全部だ。


 ドレスは置いていく。一着だけ、目が留まった。薄紫のシルクのイブニングドレス。結婚五年目の記念日に仕立てた。仕立代は銀貨三十枚。


 グレン様は食事会を忘れて夜会に行った。翌朝、「昨日は何かあったか」と聞かれた。「いいえ、何も」と答えた。


 ドレスはあの日から一度も箪笥から出していない。


 ——銀貨三十枚分の記念日を忘れる男と、離縁届一枚で縁を切る。算数としては、私の勝ちだ。



◇◇◇



 午後、厨房に下りた。


 明日の朝食の食材を確認する。これが最後の厨房仕事だ。


 卵は六つ。殻を指で弾いてみる。澄んだ音。鮮度は良い。パンは昨夜焼いた丸パンが四つ。蜂蜜の壺は半分ほど残っている。バターは十分。鱒の燻製は昨日届いたばかりで、身がまだしっとりしている。


 すべて揃っている。


 トマスが厨房の隅から私を見ていた。何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、私の手元を見ていた。


 彼も気づいているのかもしれない。この厨房の空気が変わることに。


 蜂蜜の壺の蓋を閉めた。


 明日の朝、これを小さじ半分より気持ち少なめ、スープに入れる。いつも通り。最後の朝も、いつも通りに。


 明日の朝食は、八年間で一番美味しく作る。手を抜かない。それが私のけじめだ。


 ——そして、けじめの後に来るものを、私はまだ知らない。

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