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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第9話 卵の殻


六十日目の朝。


 新しい料理人が卵を割った。殻が白身の中に落ちた。三人目の料理人だ。一人目のフィリップは二週間で辞めた。二人目は蕎麦粉の一覧を見て顔を青くして、翌日来なかった。三人目のピエールは若くて真面目だが、経験が浅い。


 卵の殻の破片を匙で掬い取ろうとしているピエールの手元を見ながら、俺は無意識に言った。


「秋は殻が薄くなる。力加減を変えろ」


 言ってから、自分で驚いた。


 なぜ俺がそれを知っている。


 卵の殻が季節で変わるなど、料理人でもない俺が知っているはずがない。


 だが知っていた。確かに知っていた。


 ——朝食の席で。いつだったか。何年前か思い出せない。マリアージュが独り言のように言ったのだ。


「秋の卵は殻が薄いですから」


 俺は「ああ」と返した。いつも通り。新聞を読みながら。聞き流した——はずだった。


 聞き流したはずの言葉が、舌の裏に残っていた。八年間、一度も意識しなかった言葉が、唐突に口をついて出た。


◇◇◇


 それを皮切りに、断片が蘇り始めた。


 食堂で椅子に座った時。スープの匂いを嗅いだ時。パンを千切った時。脈絡なく、マリアージュの声が頭の中で鳴る。


「くるみは加熱すれば大丈夫ですよ」


「今日はお顔色が少し悪いですね」


「干し林檎、お好きでしょう?」


 全部「ああ」で返した。全部聞いていたのに、全部流した。


 流したはずの言葉が、水底の石のように沈んでいたのだ。何年も何年も。引き揚げようとしなかっただけで、ずっとそこにあった。


「干し林檎、お好きでしょう?」


 好きだった。干し林檎の砂糖煮は好きだった。「甘いものは苦手だ」と社交の場で言っていたくせに、干し林檎の皿だけはいつも空にした——。


 それはマリアージュの観察だ。俺の行動を見て、俺が言わない本音を読み取っていた。「甘いものは苦手」と言葉で言った俺の嘘を、干し林檎の空の皿で見破っていた。


 八年分の嘘を全部見抜かれていたのだと思うと、背中がぞわりとした。見抜いた上で何も言わず、ただ干し林檎の砂糖煮を出し続けた。


 俺は、マリアージュについて同じことができただろうか。あの女が何を好み、何を嫌い、何を望んでいたか——一つでも答えられるだろうか。


 好きな食べ物。知らない。好きな色。知らない。好きな季節。好きな花。好きな音楽。何一つ知らない。


 八年間隣にいて、何も知らない。


 答えられなかった。


◇◇◇


 六十五日目。


 書斎で、ナディアに言った。


「手紙を書きたい」


 ナディアの手が止まった。彼女は窓際で刺繍をしていた。針を持つ指が一瞬硬くなったのが見えた。


「……奥様に、ですか」


「ああ」


 長い間があった。ナディアが針を布に刺し直した。刺繍の花びらが一つ増えた。


「お書きなさいませ」


 顔を上げなかった。声は平坦だった。だが、その平坦さの中に何かが、きちんと折り畳まれた感情が——あった。


 ナディアは聡い女だ。グレンの目が自分を見ていないことに、もう気づいている。


 俺はナディアに何か言うべきだったのかもしれない。「お前のことは大事に思っている」とか。「これとそれは別だ」とか。


 言わなかった。嘘になるかもしれないと思ったからだ。嘘をつくのは、マリアージュにされたことを、今度はナディアにすることだ。


 それだけは、やりたくなかった。


◇◇◇


 机に向かった。羊皮紙を広げて、ペン先をインク壺に浸した。


 書けなかった。


 何を書けばいい。


 「戻ってきてほしい」か。——それは俺の都合だ。スープの味を戻したいから戻れと言うのか。


 「すまなかった」か。——何を謝る。八年間を? 記念日を忘れたことを? ナディアのことを? 全部か。全部なら、羊皮紙が何枚あっても足りない。


 「味が、違う」か。——書いてどうなる。あの女が蜂蜜の量を教えてくれるとでも。


 書いては消した。消しては書いた。インクが滲んで、羊皮紙が二枚駄目になった。


 一枚目には「戻ってきてほしい」と書いた。書いた瞬間に手が止まった。なぜ戻ってほしいのか。スープの味か。時計のゼンマイか。収穫祭の運営か。。全部、俺の都合だ。丸めて捨てた。


 二枚目には「すまなかった」と書いた。何に対して。記念日か。ナディアか。新聞か。蜂蜜か。全部に対してだとすれば、「すまなかった」だけでは足りない。何に対しての謝罪なのか書き足そうとして、インクが滲んだ。


 三枚目で——何を書いたのか。


 自分でもよくわからなかった。頭で考えたことと、手が書いたことが一致しているかどうか、確信が持てなかった。


 ペンを置いた。指がインクで汚れていた。爪の間にまで黒い染みが入り込んでいた。


 封蝋で封をした。宛名を書いた。「マリアージュ」。八年間一緒にいた女の名前を、初めて自分の手で紙に書いた。


 字が少し歪んでいた。


 ——エルザに預けた。「港町に届けてくれ」。エルザは黙って受け取った。


 エルザが手紙を持って出ていった後、書斎に一人残った。


 インクの匂いがまだ指先に残っていた。甘い匂い。署名用のインクは、少しだけ甘い匂いがする。


 マリアージュも、離縁届に署名した時、この匂いを嗅いだのだろうか。


 同じインクの匂いを嗅ぎながら、俺とあの女は、まるで違うものに署名をした。

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