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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第5話 祭りの崩壊


収穫祭の朝は、晴れていた。


 領地の広場に幕が張られ、長テーブルが並べられ、領民が集まり始めている。子供が走り回っている。老人が木陰に椅子を出して座っている。干し草の匂いと、どこかで焼いているパンの匂いが混じっていた。


 俺は領主として広場に顔を出した。毎年のことだ。挨拶をして、乾杯の音頭を取る。それが俺の仕事だ。


 料理はトマスが統括していた。厨房から大鍋が運び出され、パイが並べられ、パンが山のように積まれている。見た目は例年通りに見えた。


 テーブルの配置も例年と同じ。いや、少し違う。去年は長テーブルの端に小さなテーブルが一つ追加されていたはずだ。何のためだったか思い出せない。


 乾杯をした。領民が食べ始めた。


◇◇◇


 最初の異変は、子供だった。


 七つか八つの男の子が、テーブルの端から端まで走り回って、何かを探している。きょろきょろと首を回して、大人の間をすり抜けて、皿の合間を覗き込んでいる。


 近くにいた女に聞いている声が聞こえた。


「飴は? 飴、ないの?」


 飴。


 蜂蜜飴のことだろうか。俺は収穫祭で飴を配る慣習があったことを知らなかった。


 女が困った顔で子供の頭を撫でている。「今年はないみたいよ」。子供の顔がしわくちゃになった。泣きはしなかったが、唇を噛んで俯いた。


 その子だけではなかった。広場のあちこちで、子供たちが何かを探している。飴だ。毎年もらえるはずの蜂蜜飴。


 誰が作って、誰が配っていたのか。


 トマスが広場の隅で額の汗を拭いていた。エプロンが朝から汗と油で汚れている。


「トマス。飴は出さないのか」


「飴、でございますか?」


「子供が探している。蜂蜜飴のようだが」


 トマスの顔が白くなった。


「存じませんでした。奥様が……奥様が毎年、子供たちに別にご準備されていたのかと」


 奥様が。また、奥様が。


「数は」


「わかりません。何人分お作りになっていたのか——」


 わかるはずがない。飴の存在すら知らなかったのだから。


◇◇◇


 昼を過ぎた頃から、空気が変わった。


 料理の量が足りなかった。テーブルの端の方では、皿が空になったまま補充されていない。パイは足りているが、煮込みが途中でなくなった。大鍋が二つしかない。例年は三つだったらしい。三つ目の鍋に何が入っていたか、トマスは知らなかった。


 トマスが走り回っている。厨房と広場を何往復もして、追加のパンを焼き、急遽芋を茹でて出した。額だけでなく背中まで汗で濡れている。


 トマスを責める気にはなれなかった。あの男は腕のいい料理人だ。今も全力で走り回っている。問題は腕ではない。祭りの全体設計がないのだ。


 百五十人の領民に、何をどの量で出すか。朝から夕方までの時間配分。暑さ対策。子供向けの甘味。高齢者向けの柔らかい料理。酒の量。パンの予備。


 そういう「設計」を頭の中に持っていた人間が、もういない。


 領民の反応は二つに分かれた。


 若い者は気にしていない。酒があって、パンがあって、天気がいい。それで十分だ。笑い声は聞こえる。


 年配の領民は、違う。


 窓際に座っていた老婆が、隣の女に言った声が聞こえた。


「奥方様のカブの甘煮がないのかい。毎年あれを楽しみにしていたんだけどねぇ」


 カブの甘煮。


 初めて聞く料理名だった。マリアージュが領民のために作っていた料理。俺は一度も食べたことがない。一度も存在を知らなかった。


 老婆の隣の女が答えた。「今年は奥方様がいらっしゃらないから。仕方ないわ」


 「仕方ない」と言いながら、女の声にも諦めが混じっていた。


 別の老人が言った。「今年はポタージュもないのか。いつもの、あの柔らかい——歯がなくても食べられるやつ」


 高齢の領民向けに、柔らかく煮た根菜のポタージュを別途用意していた。去年、テーブルの端に追加されていた小さなテーブル。あれは高齢者用の席だったのか。


 誰がそれを設計したのか。マリアージュだ。


◇◇◇


 午後、さらに問題が起きた。


 パイの焼き加減がばらついていた。表面が焦げているものと、まだ生焼けのものが混在している。トマスが一人で全部を見ているのだから、無理もない。例年はマリアージュがオーブンの前に立って、一つ一つ焼き加減を確認していたのだという。後から聞いた話だ。


 配膳の順番もおかしかった。煮込みとパンが同時に出て、付け合わせが遅れた。デザートの干し林檎のタルトが真昼に出た。例年は夕方に出していたらしい。「奥方様はいつも最後の楽しみにと」——領民の古株がそう言っていた。


 こういう細かい段取りは、マリアージュの頭の中にだけあった。


 祭りの終盤、子供たちが一人、また一人と帰り始めた。飴がない。楽しみにしていた飴がない。親に手を引かれて帰っていく背中を、俺は広場の端から見ていた。


◇◇◇


 祭りが終わった。


 片付けが始まった広場を見下ろしながら、俺は馬車の中にいた。


 例年なら、夕方まで歌声が聞こえてくる。マリアージュが祭りの締めくくりに出す温かいスープが、領民の最後の楽しみだったと、後でエルザから聞いた。


 今年は早かった。昼過ぎには人がまばらになり、残り物を持ち帰る者もいなかった。残り物がなかったのだから。


 トマスに確認した。


「全部で何品目出したんだ」


「十五品目でございます」


「マリアージュは何品目だった」


 トマスが少し間を置いた。


「……二十二品目でございます」


 七品目が消えた。高齢者用のポタージュ。子供の蜂蜜飴。カブの甘煮。干し林檎のタルトの配膳タイミング。締めのスープ。それから、名前も知らない何かが、あと二つ。


◇◇◇


 帰邸後、書斎で一人になった。


 来年の収穫祭の予算書がある。まだ白紙だ。


 カブの甘煮のレシピを知っている人間は、ここにはいない。蜂蜜飴の作り方も。高齢者用ポタージュの配合も。


 領民の老婆の声が頭に残っていた。「奥方様のカブの甘煮がないのかい」。


 奥方様。


 領民はマリアージュをそう呼んでいたのか。親しげに。まるで——自分たちの食卓を作ってくれる人として。


 俺にとっての「マリアージュ」と、領民にとっての「奥方様」は、同じ人間のはずだった。だが俺の知っているマリアージュと、領民の知っている奥方様は、まるで別人だった。


 エルザが出発の支度をしている。港町へ、嘆願書を持って。


「旦那様。お許しをいただきたいことがございます」


「好きにしろ」


 面倒だったからだ。面倒だということは、つまり——事態が自分の手に余っているということだ。


 八年間、俺は新聞を見ていた。新聞の向こう側で、妻が何をしていたかを、一度も見なかった。

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