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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第4話 秋鮭と記念日


壁の時計が止まっていることに気づいたのは、十五日目の朝だった。


 書斎で書類を広げて、ふと顔を上げた。時計の針が九時二十三分を指したまま動いていない。


 昨日も九時二十三分だったか。一昨日は。わからない。いつ止まったのかもわからない。


 ゼンマイ式の時計だ。定期的に巻かなければ止まる。結婚祝いに母上からもらったもので、毎年一度はゼンマイが狂う。


 誰が巻いていたのか。


 使用人の誰かだろう。エルザか。ハンナか。。マリアージュか。


 考えて、やめた。時計のことは後で使用人に言えばいい。


◇◇◇


 その日の午後、庭を歩いた。


 領地の視察に出る前に、屋敷の周りを少し歩く習慣がある。庭師のフリッツが薔薇の手入れをしていた。秋薔薇の花弁が小さくなっている。


「フリッツ。あの端の薔薇は枯れかかっているのか」


「は——申し訳ございません、旦那様。あの株は今年、日当たりが変わりまして。奥様が位置を動かすようにと仰せでしたが、まだ——」


 奥様が。


「好きにしろ」


 歩き続けた。


 中庭を通り過ぎる時、厩舎の前で馬が鼻を鳴らした。柵の隙間から鼻面を突き出して、何かを探している。


 馬丁のオスカーが少し離れた場所で馬具を磨いていた。


「あの馬は何をしている」


「さあ。ここのところ毎朝、こうやって鼻を出すんですが。何か匂いでも探しているのか——」


 林檎の匂いだ、とは思わなかった。マリアージュが毎朝、厩舎の前を通る時に馬に林檎の切れ端をやっていたことを、俺は知らなかった。


◇◇◇


 下女のハンナが、最近よく目を赤くしている。


 廊下ですれ違うたびに、鼻をすすっている。風邪にしては長い。


 エルザに聞いた。


「ハンナは体調が悪いのか」


「いいえ。……奥様がお帰りにならないことが堪えているようでございます」


「使用人が一人いなくなったくらいで泣くものか」


 エルザが黙った。少し長い沈黙だった。


「……奥様は、ハンナに毎日スープの残りをお分けになっていました。ハンナは体が弱く、温かいものが少ないと冬を越すのが辛いと——奥様はそれを覚えておいででした」


 知らなかった。


 マリアージュが使用人にスープを分けていたことも、ハンナの体が弱いことも。


 八年間、同じ屋敷にいたのに。


「エルザ。一つ聞く」


「はい」


「結婚五年目の記念日に、何かあったか」


 唐突な質問だった。自分でもなぜ聞いたのかわからない。さっき書斎で書類を整理していた時、五年前の秋の日付が目に入って、何か引っかかったのだ。


 エルザの顔色が変わった。ほんの一瞬。


「奥様が、お食事会をご準備されていました」


「食事会」


「はい。旦那様とお二人でのお夕食を、特別に。銀の食器を磨かせ、蝋燭を新しくし、秋の食材で献立を組んで——」


「覚えていない」


「……旦那様は、その日、夜会にお出かけでございました」


 夜会。


 覚えている。五年前の秋の夜会。誰の主催だったか。王都の伯爵家だったか。ナディアと会ったのも——ナディアとの関係が始まったのも、あの頃だったか。


「翌朝、旦那様は『昨日は何かあったか』とお尋ねになりました。奥様は『いいえ、何も』とお答えになりました」


 そうか。「何もない」と言ったのか。


「奥様は、その日のために薄紫のシルクのドレスを仕立てておいでました。銀貨三十枚の。一度もお召しにならないまま——」


「もういい」


 遮った。


 エルザが口を閉じた。


 銀貨三十枚のドレス。一度も着なかった。俺が夜会に行ったからだ。記念日を忘れて、夜会に行って、誰かと踊って帰ってきて、翌朝「何かあったか」と聞いた。


 それを聞いて、マリアージュは「何もない」と答えた。


 怒ってもよかったはずだ。泣いてもよかったはずだ。なぜ「何もない」と言ったのか。


 ——聞いたところで、もう答える人間はいない。


◇◇◇


 十八日目。


 エルザが応接間に来た。いつもより少し身なりを整えている。外出の支度だった。


「旦那様。お許しをいただきたいことがございます」


「何だ」


「港町ノーヴァへ参ります。領民の方々からの嘆願書を、奥様にお届けに」


 嘆願書。


「収穫祭の件でございます。準備が間に合わず、領民から不安の声が上がっております。奥様にお戻りいただけないかと——」


 収穫祭。あと数日だ。


「マリアージュが戻るわけがないだろう」


「……はい。承知しております。ですが、領民にはお約束をした手前——」


「好きにしろ」


 エルザが一瞬、目を伏せた。


 俺は「好きにしろ」と言った。面倒だったからだ。嘆願書がどうなろうと、マリアージュが戻ろうと戻るまいと、俺には関係がない。


 。いや。関係がないわけではない。領主として、収穫祭の運営は俺の管轄だ。


 だが祭りの中身を知らない。何を作り、何人分用意し、どの順番で出すか。書類に「収穫祭費用:金貨十五枚」としか書いていない。承認の判は毎年押していた。中身はマリアージュに任せていた。


 任せていた、という言い方は正確ではない。「押し付けていた」の方が近い。いや、それも違う。マリアージュが自分でやるのだから、俺は止める理由がなかっただけだ。


 中身は全部、マリアージュの頭の中にあった。


 エルザが出ていった後、窓の外を見た。秋の空が高い。薔薇が一株、枯れかかっている。


 手に余っていた。全部が。


 事態が自分の手に余っていることを、認める代わりに不機嫌で蓋をしている。手に余っていることを認める代わりに「面倒だ」と名付けている。


 認められるようになるには、もう少し時間が要る。

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