第3話 なぜ妻は厨房にいたのか
結婚初日のことを、思い出す気はなかった。
だが蕁麻疹の痕が首に残っていると、嫌でも思い出す。八年前の秋。あの日も首が腫れた。
式は滞りなく終わった。リヴェール子爵家の長女。十八歳。政略結婚。花嫁の顔は。レースの下に隠れていて、よく見えなかった。
披露宴の食事で、新妻が俺のために取り分けてくれた皿があった。山羊乳のチーズが乗っていた。俺はそれを食べた。
三十分後、首が腫れた。
マリアージュが俺のアレルギーを知らなかったのは、リヴェール家に正確な情報が伝わっていなかったからだ。婚約時の書類には「甲殻類に注意」とだけ書いてあったらしい。山羊乳のことは書かれていなかった。
うちの家の落ち度だ。情報の不備。それだけの話だった。
翌日から、マリアージュは厨房に入り浸るようになった。
当時は「変わった嫁だ」と思った。伯爵夫人が厨房に立つことは、まあ、ないわけではない。料理が趣味の夫人はいる。だがマリアージュのそれは趣味には見えなかった。
トマスに質問攻めにしていた。「グレン様が食べられないものを全部教えてください」。朝も昼も夕も厨房にいて、食材の成分を調べ、反応を記録していた。
一ヶ月もすると、トマスの知識では足りなくなった。トマスが知っているのは「甲殻類」「山羊乳」「くるみ」程度だった。俺の母上からの引き継ぎがその三つだったからだ。
マリアージュはそこから先を自分で調べ始めた。新しい食材を少量ずつ試して、俺の反応を観察して、ノートに書いた。
一年目の終わりには、彼女の方がトマスより俺の体を知っていた。
「監督」から「自分で作る」に変わったのは、二年目の冬だった。トマスが俺に出した汁物に、甲殻類の出汁が微量混じっていた。蕁麻疹は出なかったが、俺が少し顔をしかめたのをマリアージュが見ていた。
翌日から、俺の食事はマリアージュが作るようになった。トマスには他の使用人の食事と、来客時の料理を任せた。
俺はそれを、彼女の趣味だと思っていた。
料理が好きなのだろう。几帳面な性格だから、人に任せるより自分でやりたいのだろう。そう解釈した。
八年間、その解釈を疑わなかった。
初日に夫を倒した罪悪感が、あの女を厨房に立たせていたのだと。今になって思う。思うだけで、確かめる相手はもういない。
◇◇◇
八日目。
ナディアが屋敷に来た。
馬車から降りてきた彼女は、薄い水色のドレスを着て、髪を綺麗に結い上げていた。いつもの笑顔。首を少し傾ける癖は変わっていない。
「グレン様。お加減はいかがですか」
「問題ない」
蕁麻疹のことは伝えていない。ナディアは社交界の噂で離縁を知った。見舞いに来たのだ。
応接間に通した。エルザが茶を運んできた。エルザの目がナディアを見る視線は——冷たかった。一瞬だけ。すぐにいつもの無表情に戻った。
ナディアは気づかなかったかもしれない。あるいは気づいていて、気づかないふりをしたのかもしれない。三年間愛人の立場を維持してきた女だ。視線の冷たさには慣れているだろう。
「グレン様。私——何かお手伝いできることがあれば」
「構わない。使用人が揃っている」
「お食事のことで、何かご不便があるとお聞きしましたので」
誰から聞いた。噂の速さは馬便より速い。
「食事は問題ない。トマスがいる」
「でも、前の奥様が管理されていたことがたくさんあると——」
「ナディア」
名前を呼んだら、彼女が少し姿勢を正した。
「食事のことは使用人の仕事だ。お前が気にすることじゃない」
ナディアが微笑んだ。少しだけ、笑顔の端が揺れた。
「……そうですわね。私、お料理は——不得手ですの」
正直な女だ。できないことを「できます」と言わない。社交界では珍しい。
「構わない」
俺が言った「構わない」は、文字通りの意味だった。妻の代わりに料理を作ってほしいわけではない。料理は使用人の仕事だ。
。妻が料理をしていた意味を、俺はまだ理解していなかった。
◇◇◇
十二日目。
ナディアが三日ほど滞在して帰った後、屋敷は元の静けさに戻った。
食堂で一人で食べる夕食にも慣れてきた。トマスの腕は確かだ。煮込みも焼き物も問題ない。蕎麦粉の一件以来、アレルギーの一覧(七品目分)を厨房の壁に貼ったらしい。残りの五品目は空白のままだが、知っている範囲で避ければ事故は減る。
食事として、困ってはいない。
ただ——スープの味が、やはり違う。
何が違うのか、まだわからない。塩加減か。出汁か。温度か。全部がほんの少しずつ、ずれている気がする。
気がするだけかもしれない。人間の味覚というのは曖昧なものだ。体調によっても変わる。
新聞を広げた。いつもと同じ姿勢。いつもと同じ角度。紙面の向こうに——いつもいた人は、もういない。
それに気づいたのは、もう新聞を読み始めてからだった。気づいてから、「前からいなかったじゃないか」と自分に言い聞かせた。
マリアージュは朝食以外の時間に、この席にいたことがほとんどない。
いなかったのだから、いなくなっても同じだ。
そのはずだった。




