第1話 最後の晩餐の支度
夫のアレルギーは十二品目。全部暗記するのに、三日かかった。
銅鍋の底で、玉葱がじわりと色づいていく。
弱火。焦がしてはいけない。グレン様は焦げた匂いに敏感だから——もっとも、焦げた匂いがすると不機嫌になることに気づいたのは、結婚二年目の冬だったけれど。
八年。
この厨房に立ち続けて、八年が過ぎた。
壁にかけたハーブの乾燥棚から、タイムを一枝抜く。指先でしごくと、青い香りが鼻をくすぐった。
この香りをグレン様は好むと知ったのも、二年目だった。最初の一年は手探りだった。何を出しても「ああ」としか言わない人の好みを読み解くのに、私は毎晩献立ノートとにらめっこした。
◇◇◇
鋳鉄のフライパンを左手で持ち上げ、干し林檎の砂糖煮を小皿に移す。
明日の朝食の下準備だけれど、今夜の夕食にも少しだけ添えるつもりだった。グレン様は甘いものが好きだ。本人は「甘いものは苦手だ」と社交の席で公言しているが、干し林檎の皿だけはいつも空になる。
八年も一緒にいれば、嘘くらい見抜ける。
嘘を見抜けなかったのは、一つだけだ。
……このスープの隠し味を、夫は一度も聞いてこなかった。
手が止まった。ほんの一瞬。
ローリエを一枚。塩は二つまみ。最後に蜂蜜をほんの少し——小さじの半分より気持ち少なめ。
これがこの家のスープの味だ。
厨房に出入りする料理長のトマスでさえ、蜂蜜の量は私に聞く。「奥様、今日は蜂蜜どのくらいで?」「いつも通りよ、トマス」。
いつも通り。八年間、いつも通り。
◇◇◇
結婚したのは十八の春だった。
リヴェール子爵家の長女として、ヴァルフォート伯爵家に嫁いだ。政略結婚。恋愛感情はなかった。
花嫁衣裳のレースが首元で擦れて痒かったことの方が、結婚式の記憶としては鮮明だ。
それでも、夫と食卓を囲む時間だけは本物だと思いたかった。
同じものを食べて、同じ時間にカトラリーを置いて、「ごちそうさま」を交わす。それだけで——それだけあれば、夫婦でいられると信じていた。
初日、夫が目の前で蕁麻疹を起こした。
山羊乳のチーズを出したのが原因だった。真っ赤に腫れた首元を見て、私は自分の血の気が引くのを感じた。
嫁いだ初日に夫を毒殺しかけた花嫁。冗談にもならない。
その夜、私は羊皮紙を広げて献立ノートを作り始めた。
「グレン様アレルギー一覧」と、震える字で表紙に書いた。
甲殻類。山羊乳。くるみ——いや、くるみは加熱すれば大丈夫だと後で知った。ノートにはそうした細かい注記が、八年分びっしりと並んでいる。
◇◇◇
毎朝、夫の顔色を見る。
少し疲れている日は消化の良い粥を。風邪気味なら生姜を多めに。社交の前日は胃に負担をかけない軽い食事を。真夏には冷製のスープを、真冬にはとろみのある根菜の煮込みを。
季節が変わるたびに食材を見直し、仕入先を変え、トマスと相談して新しい献立を組んだ。
献立ノートは八冊になった。
八冊分の、夫の体調と味の好みの記録。表紙の色を毎年変えた。一冊目は白、二冊目は薄い青、三冊目は——まあ、いい。色の話は今はいい。
◇◇◇
三年前の秋。
夫が夜会から戻らなかった日、侍女長のエルザが私の部屋を訪ねてきた。
エルザは五十を過ぎた女で、この屋敷の誰よりも目が鋭い。彼女がわざわざ夜に来るのは、よほどのことだ。
「奥様。……旦那様には、お相手がいらっしゃいます」
ナディア・ブランシュ。男爵令嬢。歳は私より四つ下で、社交ダンスが得意で、笑う時に首を少し傾ける癖がある——と、後に社交界の噂で知った。
エルザの言葉を聞いた瞬間、私の頭に浮かんだのは不思議なことに怒りでも悲しみでもなく、「明日の朝食はどうしよう」だった。
そう。ちょうど秋鮭の季節で、塩加減を変えようかと考えていた最中だった。
人間の頭は、壊れそうになると関係ないことを考えるらしい。
その夜も、私は厨房に立った。翌朝の朝食を準備した。
なぜか。
意地だった。
——ええ、意地ですとも。
この食卓を崩すのは私であって、あの男ではない。あの男の裏切りで私が厨房を去るのではなく、私が去ると決めた時に去る。
そう決めた。三年前のあの夜に。
◇◇◇
それから三年。証拠を集め、教会に相談し、離縁の書類を整えた。
持参金の返還額を計算し、港町ノーヴァの叔母に手紙を書き、荷物をまとめる順番まで決めた。すべて、台所に立ちながら。
スープを煮込む鍋の横で、離縁届の下書きをした夜もあった。蜂蜜の瓶と、インク瓶を間違えそうになったのは一度だけだ。
今夜が最後だった。
鍋の蓋を開ける。湯気が立ち上り、頬にかかる。温かい。
塩漬け鱒のハーブ焼き。蜂蜜とクルミのパン粥——くるみは加熱済み。干し林檎の砂糖煮。山羊乳を除いた献立。
八年間の集大成のような一膳を、銀の皿に盛りつけていく。
鱒の焼き加減は、表面がぱりっと音を立てるくらい。中はしっとり。グレン様はこの食感が好きだ。知っている。八年間で何十回と焼いたから。
なぜ最後に丁寧にするのか、自分でもよくわからない。
ただ、雑に終わらせたくなかった。これは私の八年間だ。最後の一膳まで、手を抜かない。
それが私の——まあ、意地というやつだ。
◇◇◇
食卓に並べる。銀の食器が、燭台の灯りを受けて静かに光る。
二人分の皿。二人分の水杯。二人分の布巾。
でも、夫はきっと新聞を広げたまま食べるだろう。
八年間で、私の顔を見ながら食事をしたのは何回あっただろう。
十回くらいは、あったかもしれない。結婚記念日と、それから——いや。数えるのはやめよう。数えたら、きっと腹が立つ。今夜は穏やかに終わりたい。
厨房に戻り、エプロンを外す。リネンの生地を丁寧に畳んで、いつもの場所にかける。壁掛けの三番目のフック。
このフックが少し曲がっているのは、二年目の冬に大鍋をぶつけたからだ。直そう直そうと思って、六年が過ぎた。
もう直す必要はない。
机の上には、離縁届が置いてある。乾いた羊皮紙の上に、インク瓶と羽根ペンが、静かにその横で待っている。
明日の朝、署名する。
明日の朝食を出して——八年間で一番丁寧な、最後の一膳を出して、この紙を差し出して、この屋敷を出る。
持っていくものは決めてある。献立ノート八冊と、嫁入りの時に持ってきた包丁セット。それだけでいい。ドレスも宝石もいらない。
スープの鍋が、かすかにことことと音を立てていた。
弱火。焦がしてはいけない。
——最後まで。




