第76話 低級術式は、境目を自分で守れ
朝、リゼの家の台所は少し冷えていた。
夜の雨が石畳に残り、窓の外から湿った匂いが入ってくる。
卓の上では茶の湯気がゆっくり揺れていた。
「今日は何の授業」
「低級術式の話」
「名前からして、あんまり上品じゃないわね」
「名前で見ない方がいい。低級というのは、雑とか古いという意味ではない」
リゼが皿を置く。
「じゃあ何」
「魔力の流れに近いところへ直接触る術式。速いし、細かく制御できる。ただ、守りも自分で書く」
「包丁みたいね。よく切れるけど、手元を間違えると指も切る」
「かなり近い」
朝から比喩が鋭い。
ありがたい。
同時に、授業で同じことを言うと負けた気になる。
最悪だ。
———
講堂には、小さな木箱をいくつか持ち込んだ。
浅い箱。
細長い箱。
隣同士に並べた二つの箱。
学生たちは何の授業か分からない顔をしている。
ルドーが前に立った。
「問う」
講堂が静まる。
「速く、細かく、無駄なく術を動かすため、魔力の流れを低い層から直接触る術がある」
短い間。
「常に良いか」
学生の一人が手を上げた。
「速いなら良いと思います」
「半分」
別の学生。
「低いところまで触れるなら、強いのでは」
「強い」
三人目。
「熟練者が使えば安全です」
「危うい」
四人目。
「高級な囲いは、遅くて無駄が多いのでは」
「それもある」
ルドーがこちらを見た。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
「……はい」
今日はもう、言われる前に諦めていた。
———
表示盤に書く。
低級術式
「低級術式は強いです」
学生たちが少し意外そうな顔をした。
「速い。細かい。無駄が少ない。術盤の奥の制御や、限られた術勢をぎりぎりまで使う仕事には向きます」
表示盤に追加する。
速い
細かい
無駄が少ない
「だから残ってきました。古いから残っているのではありません。理由があるから残っている」
ここは大事だ。
危ない道具を笑うのは簡単だ。
だが、危ない道具が使われ続ける時は、たいてい理由がある。
———
「ただし」
木箱を二つ並べた。
左の箱には、短い札文を入れる。
ちょうど収まる。
「ここを受け皿とします。印列や札文を一時的に受け取る場所です」
隣の箱に、赤い制御札を置いた。
「こちらは別の区画です。盤の動きを決める大事な札だと思ってください」
短い札文を左の箱に入れる。
何も起きない。
「短いものなら問題ありません」
次に、長い札文を持ち上げた。
学生たちが少し前のめりになる。
「では、長すぎるものを入れると」
箱から札文がはみ出す。
はみ出した端が、隣の赤い制御札を押した。
赤い札が倒れる。
講堂がざわめいた。
———
「これが受け皿あふれです」
表示盤に書く。
受け皿
受け皿あふれ
「本来ここに入るはずの印列や札文が長すぎる。受け皿を超えたぶんがこぼれる。こぼれた先で、隣の記しや制御札まで汚す」
木箱の赤い札を指す。
「受け皿を超えたぶんは、隣を壊します」
学生の一人が言った。
「そんな単純なことで、術盤が壊れるのですか」
「壊れます」
即答した。
「仕組みはおもちゃみたいに単純です。危険は本物です」
———
別の学生が手を上げた。
「でも、術者が気をつければよいのでは」
「気をつける必要があります。低級術式では、特に」
うなずく。
「ただ、受け皿の大きさ、区画の境目、どこまで流してよいか。これを術者が毎回意識しなければならない」
表示盤に書く。
守りを自分で書く
守り忘れも自分で生む
「守りを自分で書く術は、守り忘れも自分で生みます」
学生たちの顔が固くなった。
「低級術式は強い。ですが、柵がありません」
———
リゼが後ろの席から言った。
「つまり、小さい箱に長い札を押し込んで、はみ出したぶんで隣の箱の中身までぐちゃぐちゃにしてるのね」
「その通り」
「速いし細かいけど、柵のない水路みたいなものか。水かさが増えたら、すぐ隣まであふれるのね」
「かなり近い」
学生たちが木箱を見る。
比喩と実物が揃うと、理解は強い。
人間は箱に弱い。
———
表示盤に別の欄を書く。
壊れ方
「あふれた結果、ただ止まることもあります」
木箱の赤い札を倒す。
「記録が壊れることもあります」
別の札を汚す。
「妙な動きになることもあります。本来ありえない札を読んだことになる場合もあります」
学生が顔をしかめた。
「どれが起きるかは、こぼれた先に何があるかで変わります」
表示盤に書く。
ただ止まる
記録が壊れる
妙な動きになる
ありえない札を読む
「だから調べにくい。毎回同じ顔で壊れるとは限らない」
———
次に、別の箱を出した。
縁が高く、あふれる前に止まる仕掛けがついている。
「高級処理系の価値は、こういう囲いです」
長い札文を入れる。
途中で止まる。
隣の札には触れない。
「少し重いこともあります。思い通りに奥まで触れないこともあります。でも、境目見を自動で入れてくれる」
表示盤に書く。
境目見
「受け皿の端を超えないか、自動で確かめる仕組みです」
学生の一人が言った。
「では、全部高級処理系にすればよいのでは」
「それも違います」
首を振る。
「速さや細かさが必要な場所では、低級術式が向くこともあります。問題は、重要盤までいつまでも素手で抱え続けることです」
———
ルドーが腕を組んだ。
「速さと安全は、しばしば別に払う」
学生たちが書き取る。
「低いところへ触れるなら、境目も自分で守れ」
私はうなずいた。
「速い術ほど、境目を忘れるな、です」
表示盤に書いた。
速い術ほど、境目を忘れるな
受け皿を超えたぶんは、隣を壊す
守りを人だけに預けすぎるな
ルドーが短く言った。
「柵のない道は、踏み外す」
———
授業が終わる直前、王宮から使いが来た。
また紙束を抱えている。
昨日までの交易会とは別の紙だ。
こういう時、紙はだいたい不幸を運ぶ。
「申請札受理盤が落ちています」
「どの盤ですか」
「王都の各種申請を受ける重要盤です。氏名、所属、肩書き、備考欄などを読み取って受付記録に流すものです」
嫌な予感がした。
「いつからですか」
「長い申請札を受けた直後から不安定になります。再起動しても、また同じ札を受けると落ちます」
講堂の学生たちが木箱を見た。
今の授業が、まだ机の上に残っている。
ルドーが言った。
「現場は待たん」
責任も待ってくれない。
最悪だ。




