第70話 誤差の小ささで、傷の重さを量るな
朝、リゼの家の台所は温かかった。
鍋から立つ湯気が窓の光に混じり、匙が器に当たる音が小さく鳴っている。
「今日は何を教えるの」
「算術盤の傷の話」
リゼが皿を置く手を止めた。
「壊れているってこと?」
「完全に壊れてはいない。大半の計算は速く正しく返す。ただ、ごく限られた除しだけ、少し違う答えになる」
「面倒な壊れ方ね」
「そう」
それが一番面倒だ。
人間は、分かりやすく壊れたものには強い。
たまにだけ間違うものには弱い。
最悪だ。
「ちょっとしかずれないなら、見逃されそう」
「見逃される。だから危ない」
リゼは鍋をかき混ぜながら言った。
「塩をひとつまみ間違えるだけでも、大鍋で何度もやったら別の味になるものね」
「だいたいそういう話」
———
講堂には、冷えた石の匂いが残っていた。
窓から入る光が表示盤を斜めに照らしている。
学生たちはいつもより少し眠そうだった。朝の講義で算術盤の話をすると、人間はだいたい眠くなる。分かる。私も向こうの世界で似た話を聞いたとき眠かった。
ルドーが前に立った。
「問う」
学生たちの背が少し伸びた。
「高速で評判の算術盤がある。だが、ごく限られた除しで、わずかに違う答えを返すらしい」
短く間を置く。
「無視してよいか」
学生の一人が手を上げた。
「少しだけなら、よいのでは」
「浅い」
別の学生。
「めったに起きないなら、現場では困らないかと」
「混ぜるな」
三人目。
「速さの利益の方が大きい場合もあります」
「それはある」
ルドーが私を見た。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
「……はい」
言ってから、しまったと思った。
講堂の端でリゼが少し笑いを堪えていた。
———
表示盤の横に、小さな算術盤を置いた。
王宮の練習用に借りたものだ。木枠の中に薄い石板が何枚も収まり、銀の線が細かく走っている。
「まず、普通の計算を通します」
いくつかの除しを入れる。
答えは正しい。
学生たちは少し安心した顔をした。
「次に、型を少し変えます」
別の数の組を入れる。
これも正しい。
「さらに、特定の組を入れます」
盤が短く光った。
答えが出る。
私は手元の筆算と見比べ、表示盤に書いた。
盤の答え
手計算の答え
差は小さい。
本当に小さい。
見ただけでは、どうでもよく見える。
「今、少し違いました」
学生の一人が眉を寄せた。
「でも、ほんの少しです」
「そうです」
うなずいた。
「ほんの少しです。普段の雑務なら気づかないかもしれません。倉庫の数合わせ、簡単な割り勘、だいたいの見積もり。そういうものなら、影響は見えにくい」
表示盤に書く。
小さい誤り
小さい問題
「この二つは同じではありません」
———
「測量で境界を出す者がいます」
地図用の線を引く。
「財計で利の積み上げを見る者がいます」
帳簿の欄を書く。
「研究で同じ型の除しを何百回も繰り返す者がいます」
算術盤の横に、小さな石を並べた。
「その人たちにとって、今の『ほんの少し』は、ほんの少しで済みません」
学生たちの顔が変わった。
「一回だけなら小さい。ですが、同じ型を何度も通せば、同じ傷に何度も当たります。雑に使えば珍しいかもしれません。ですが、この盤を本気で使う者には珍しくない」
沈黙が落ちた。
よし。
眠気が少し消えた。
———
別の学生が手を上げた。
「でも、大多数の人が困らないなら、すぐ交換するほどではないのでは」
「大多数に関係ないことと、無視してよいことは違います」
即答した。
「困る側にだけ証明を押しつけると、何が起きると思いますか」
学生は黙った。
「困っている者は、自分で調べます。再現する組を探します。仲間に見せます。報せ札へ流します。すると、最初に軽く扱った側への不信だけが大きくなる」
ルドーが短く言う。
「火になる」
「そうです」
表示盤に書いた。
傷そのもの
傷への向き合い方
「盤に傷があることは、もちろん問題です。ただ、傷が見つかったあとに『大多数には関係ない』『本当に困る者だけ申し出ろ』と言えば、傷より先に信頼が壊れます」
———
リゼが教室の端から言った。
「つまり、ちょっとしかずれなくても、そのちょっとを何度も使う人には全然ちょっとじゃないのね」
「その通り」
「鍋で一回味見するだけなら分からなくても、毎日同じ店で出したら客が気づく、みたいなもの」
「かなり近い」
学生たちがうなずいた。
比喩の力は強い。
人類は鍋と帳簿に弱い。
———
講義の終わりに、ルドーが言った。
「小さい傷ほど、見誤るな」
表示盤の前で腕を組む。
「まれと軽いを混ぜるな」
学生たちが書き取る音がした。
「上等な盤にも傷はある。だから全部捨てろ、ではない。見つけたあと、どう扱うかだ」
私はうなずいた。
「誤差の小ささで、傷の重さを量ってはいけません」
———
授業後、王宮の廊下へ向かう途中で、官吏が駆けてきた。
紙束を抱えている。
顔が、困惑と諦めの中間だった。
こういう顔はだいたい、授業が現場に追いつかれたときに出る。
「ユウさん。少しよろしいですか」
「何ですか」
「王都の高級算術盤について、大工房から告知が出ました」
紙を受け取った。
墨の匂いがまだ新しい。
そこには、こう書かれていた。
ごく一部の除しでのみ起こる。
大多数の使用には問題ない。
本当に困る者だけ申し出れば、個別に見よう。
私はしばらく紙を見た。
「……最悪だ」
声に出ていた。
官吏が不安そうに見る。
「大工房は、軽く見ているのでしょうか」
「軽く見ています」
紙を畳んだ。
「傷より、向き合い方が危ない」
———
大工房の作業場へ行くことになった。
王都の西側、石造りの大きな建物だ。
煙突から薄い煙が上がり、中から金属を削る音が響いている。
良い仕事場の音だった。
だからこそ、余計に嫌だった。
応対した責任者は、疲れた顔で言った。
「確かに一部で違いが出るようです。しかし、ほとんどの方には関係ありません。盤の速さと便利さを考えれば、騒ぐほどのものでは」
「再現する条件は整理していますか」
「おおまかには」
「誰が困るかは調べましたか」
「申し出があれば」
私は少し黙った。
壊れない入力しか試していない。
しかも、困る人間にだけ証明を持って来いと言っている。
最悪だ。
———
帰り道、リゼが隣を歩いていた。
夕方の通りは少し湿っていて、石畳が薄く光っている。
「あれ、放っておくと揉めるわね」
「揉める」
「小さい傷なのに?」
「小さい傷だから。軽く見られた人ほど、ちゃんと怒る」
リゼは少し考えた。
「じゃあ、明日はその傷を、ちゃんと見える形にするのね」
「そういうことだ」
空の端が暗くなっていた。
私は畳んだ告知を懐に入れた。
紙は軽かった。
だが、たぶん明日には重くなる。




