第257話 一行も走っていない
術務室へ向かう通りで、リゼが足を止めた。
止めて、通りの先を見た。
まだ青い朝の中に、術務室の屋根が小さく見えている。
「昨日から、術務室の入口に、人が並んでるの」
リゼは、外套の前を掻き合わせながら言った。
「並んでる」
「朝から。わたしが帰るときも、まだいた」
「何の列だ」
リゼは、少し考えた。
考えてから、首を傾げた。
「……何の列なんだろう」
「並んでる人に、聞かなかったのか」
「聞いたよ。聞いたら、みんな違うことを言うの」
リゼは、また歩き出した。
「行けば分かる。……分からないかもしれないけど」
嫌な言い方だった。
リゼがこういう言い方をするときは、だいたい、本当に分からないのである。
私は、外套の内から自分の携帯術盤を出した。
札面には、今日の天気と、魔法日暦の報せが一つ。昼に打ち合わせ。いつもどおりだった。
いつもどおりのものを見ると、人は安心する。安心したことを、あとで後悔する。
盤を仕舞って、リゼの後を追った。
術務室の石段は、朝の冷えをそのまま溜めていた。
列は、石段の下から始まって、通りの角まで続いていた。
吐く息が、並んだ頭の上で白く溶けている。
外套の襟を立てた職人。籠を提げた女の人。前掛けのままの屋台の主。届け物の袋を背負った若い男。
皆、手に、携帯術盤を持っていた。
持ち方が、それぞれ違った。
割れた札面を、指で隠すように持っている人。布で包んで、両手で抱えている人。何も持っていない手を、何度も外套の物入れに入れては出している人。
そして、光っている札面を、睨むように見下ろしている人。
顔だけが、同じだった。
困惑と諦め。
ここは、王都の術務を整える部屋である。
携帯術盤を直す店ではない。売る店でもない。
それでも、人は来る。
石段の上に、ルドーが立っていた。
脇に、紙の束を抱えている。
「学校にも来た」
ルドーは、それだけ言った。
「学校に」
「術の学校なら、直せるだろうと」
ルドーは、紙の束を私に渡した。
名前と、困りごとが、一行ずつ書いてある。学校の事務の字だった。
「うちの窓口ではない」
ルドーは、列を見下ろした。
「……だが、来ている」
短い。
それ以上は言わなかった。言わなくても、分かった。窓口でないところに人が来るのは、窓口がどこにあるのか、誰も知らないからである。
「直すな」
ルドーが言った。
「分けろ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
ルドーは、石段を降りていった。
列の人たちが、道を空けた。誰も、あの人に助けを求めなかった。助けてくれそうな顔ではないからだ。正しい判断である。
———
術務室の中は、外より少しだけ暖かかった。
リゼは、もう自分の卓にいた。
卓の上に、紙が三枚並んでいる。昨日、列の人から聞いたことを、一人ずつ書きつけたものらしい。
「昨日だけで、四十一人」
リゼは言った。
「今日は、まだ数えてない。……たぶん、もっと来る」
私は、一枚目を読んだ。
昨夜、石畳に落として札面が割れた。
川の渡しで、桶の水に落とした。
市場で、外套の物入れから抜かれた。
札面は光っているのに、何を触っても開かない。
昨日まで使えていたのに、今朝から何も開かない。
待ち合わせの相手に、連絡がつかない。
今日の届け先の道順が、出てこない。
屋台の売り上げの控えが、見られない。
二枚目も、三枚目も、だいたい同じだった。
「言ってることは、全部違うのに」
リゼが、三枚の紙を指で揃えた。
「困ってる顔が、全部同じなのよ」
私は、紙をもう一度、上から読んだ。
割った。落とした。盗られた。光っているのに、開かない。
原因の欄が、ばらばらだった。
困りごとの欄は、ほとんど同じ言葉で埋まっていた。連絡がつかない。道が分からない。控えが見られない。
———
私は、表示盤の前に立った。
術務室の何人かが、手を止めてこちらを見た。
基盤魔術班のセシルも、向かいの卓から顔を上げた。
表示盤に書く。
携帯術盤が使えない
一、盤が壊れた
・割った、落とした、濡らした
二、盤を失った
・盗られた、置き忘れた
三、盤は動いているのに、小術が開かない
「同じ苦情に見えますが、三つ違うものが混ざっています」
私は言った。
「一と二は、盤の話です。盤が無いか、盤が壊れている。……三だけ、盤の話ではありません」
「三は、盤の話じゃないの?」
「盤は、光ってる。触れば応える。札面も出る。壊れていない盤で、中のものが開かない。……盤じゃないところで、何かが起きている」
リゼは、自分の紙を見下ろした。
指で、一人ずつ数えていく。
「一と二のほうが、数は多いよ」
「多い」
私は頷いて、術務室のほうへ向き直った。
「一と二は、捨てません。必ず戻ります。……ただ、一と二には、もう道があります。壊れた盤は直す店がある。失った盤は届け出る先がある。遅いし、高いし、面倒ですが、道はある」
「三には」
「三には、道が無い。だから、ここに来てる」
リゼは、少し黙ってから、立ち上がった。
「列を、三つに分けてくる」
「頼む」
「わかった」
リゼは、紙を三枚とも持って出ていった。
戸の向こうで、リゼの声が聞こえた。割った人はこちら。失くした人はこちら。光ってるのに開かない人は、この柱の前。
列が、ざわざわと動く音がした。
人間は、自分の困りごとに名前が付くと、少しだけ落ち着く。
名前が付いても、何も直っていないのに、である。
———
「入れ直しても、駄目です」
セシルが、自分の卓の携帯術盤を、こちらへ向けた。
セシルのではなかった。術務室の若い術務担当、フィンの盤である。
「フィンの盤が、三です」
フィンが、セシルの後ろで、肩をすくめていた。
「今朝からです」
フィンは言った。
「双言が、開かないんです。……日継ぎが、今夜で切れます」
声が、本気だった。
本人には、本気の話なのである。
「見せてください」
セシルが、札面の小術の一つに触れた。
札面が、ふっと明るくなった。
小術の最初の絵が、浮かびかけた。
一呼吸。
それから、すっと消えて、盤の最初の札面へ戻った。何事もなかったように、小術の札が並んでいる。
「これです」
セシルは言った。
「双言だけじゃありません。魔文の見出しをまとめる小術も、道案内の小術も、買い物控えの小術も。触ると、一呼吸で戻ります。……術式庫から一度消して、入れ直しました。入れ直しても、同じところで落ちます」
「全部、同じところで」
「全部です」
セシルの声は、少し硬かった。
技術者は、自分の手が効かないとき、声が硬くなる。
「若葉綴りさんの工房の前にも、列ができてるそうです」
フィンが言った。
「若葉綴り」
「東市場の。ほら、魔文の見出しと日暦と買い物控えを、一つの札にまとめてくれる小術の。……あれ、朝いちばんに開く人が多いんですよ。開いて、今日の分を見て、それから出かける」
私は、ナギの顔を思い出した。
目の下の隈。落としたら終わる物を持つ手。
「朝いちばんに開くものが、開かない」
「はい。だから、みんな、あの小術が壊れたと思って」
人類は、原因が見えないとき、最後に触ったものを疑う。
あるいは、最初に触るものを疑う。
どちらにしても、疑われるのは作り手である。
「小術の側に、何か悪いものが入ったんでしょうか」
セシルが言った。
「これだけ一度に落ちるなら、どこかの共通の術を、皆が使っていて、それが」
「まだ分かりません」
私は言った。
分からなかった。
開かない盤を覗いても、何も分からない。触れば一呼吸で戻る。入れ直しても戻る。札面は、何も言わない。
何も言わない盤を前にすると、人は、作り手を疑うしかなくなる。
最悪だ。
———
「盤の中の記録札を、見ましょう」
私は言った。
「携帯術盤にも、記録札はあります。何が起きたか、盤は自分で書いている。……ただ、それを、手元の盤では読めません」
「読めないんですか」
フィンが、自分の盤を見た。
「読む札面が、無いんです。書いてはいる。でも、持ち主に見せる作りになっていない。……自分の盤が何を言っているか、自分の盤では読めない」
変な話である。
自分の日記を、自分では開けない、というのに近い。
「大きい盤に、繋げば読めます」
セシルが、もう立ち上がっていた。
「線を持ってきます」
セシルは、基盤魔術班の棚から、細い線を一本持ってきた。
片方を、フィンの携帯術盤の背の万継ぎ口に挿す。もう片方を、術務室の卓に据え置いた大きな術盤に挿す。
大きな術盤の札面に、フィンの盤の名前が浮かんだ。
それから、記録札が、流れ始めた。
流れる、というより、溢れた。
小さな盤の中に、こんなに書いてあったのか、と思うほど、行が下から上へ駆け上がっていく。
AIエージェント:「観測:記録札、およそ九万行。昨日の夕刻から今朝までの分です」
「九万」
フィンが、小さく言った。
「全部、読むんですか」
「全部読む必要はありません」
私は言った。
「開こうとした刻の、前後だけでいいです」
私は、フィンに盤を持たせた。
「私が数えたら、双言に触ってください。一度だけ」
「はい」
「三、二、一」
フィンが触った。
卓の上の携帯術盤の札面が、一呼吸だけ明るくなって、また戻った。
私は、その刻を、表示盤の端に書いた。
「その刻の前後、それぞれ十数えるぶんだけ、抜き出してくれ」
AIエージェント:「観測:該当範囲、四百十二行。双言に関わる行に絞ると、九行です」
九行。
九万行から、九行。
セシルが、大きな術盤の札面に顔を寄せた。
———
九行は、こう並んでいた。
双言を起こす 求め
開きの許しを確かめる
許しの束、合わず
双言を起こす 取りやめ
盤の最初の札面へ戻る
許しの束を取り直す 求め
遠方より、断り
持ち主の証が見当たらない
取り直し 取りやめ
AIエージェント:「補足:当該小術の術式列に、走った記録がありません」
私は、九行を、上から二度読んだ。
双言の術式列は、どこにも出てこない。
双言の中身が書いた行は、一つも無い。
起こせ、と盤が言い、許しを確かめ、許しが合わず、取りやめた。それだけである。
「……一行も走っていません」
私は言った。
「走る前に、閉じられています」
セシルが、札面から顔を離さずに言った。
「……走ってないんですか、これ」
「走っていません。双言は、一行も動いていない。動く前に、盤のほうが止めています」
「では、双言は」
「壊れていません」
私は、表示盤の三の横に、一行書き足した。
三、盤は動いているのに、小術が開かない
・壊れたのは、小術でも盤でもない
「壊れたのは小術じゃない」
私は言った。
「開いてよい、という許しです」
———
術務室が、少し静かになった。
「許し」
フィンが言った。
「術式庫から入れた小術は、開くたびに、確かめているんです」
私は、表示盤の端に、小さな盤と、遠くの大きな盤を描いた。
小さな盤の中に、小さな束を一つ描き足す。
「盤の中に、許しの束があります。この盤の持ち主は、これを使ってよい、という許しです。遠くの、知恵之実社の盤から受け取って、束ねて持っている。……開くたびに、その束と照らし合わせます」
「毎回、遠くへ尋ねるんですか」
「尋ねません。照らし合わせるのは、盤の中だけです。だから、遠くと繋がらない山の中でも開く」
私は、二つの盤を、一本の線で結んだ。
線の上に、行きと帰りの矢を描く。
「遠くへ行くのは、束を新しくするときだけです。……今朝、盤の中の束が、合わなくなった。盤は、新しい束を取りに行った。遠くの盤が、渡さなかった。渡さないから、開かない」
「でも、双言は、買ったんです」
フィンが言った。
「上位札を。月々、払ってます。持ってるんですよ、ちゃんと」
「持っています」
私は頷いた。
「持っているだけでは、使えないんです。……使ってよいという束を、どこかが渡し続けている」
戸が開いて、リゼが戻ってきた。
外の冷えを、外套の肩に乗せていた。
「三の列、十九人。まだ増えてる」
リゼは、表示盤を見上げた。
小さな盤と、遠くの盤と、行きと帰りの矢。
「何、これ」
「三の人の盤は、小術を開く許しを、束にして持っている。……今朝、その束が合わなくなって、取り直しに行ったら、遠くが渡さない」
リゼは、少し考えた。
「鍵が合わなくなって、大家さんに替えをもらいに行ったら、あなた誰、って言われたみたいなものね」
「かなり近い」
「部屋、借りてるのに」
「借りてる」
リゼは、表示盤の矢を、もう一度見た。
何か言いかけて、やめた。
———
「あのときは」
私は、セシルとリゼに言った。
「載せる載せないの話でした」
リゼが、こちらを見た。
リゼは、あの講堂にいた。術式庫の門を、表示盤に描いた日である。若葉綴り工房の審査返しの札束も、一緒に読んだ。
「術式庫を握る者は、配ってよいものを決められる。……あのときは、そこまででした」
私は、表示盤の門の絵を、思い出しながら言った。
「今度は、載ったあとの話です。配ったあとも、開いてよいかを、決め続けている」
「決め続けてる」
「束を新しくさせる、というのは、そういうことです。渡す側が、渡すかどうかを、決め続けている。……渡す側が、今朝から、この盤の持ち主を、持ち主だと思っていない」
セシルが、腕を組んだ。
「思わなくなった理由は」
「分かりません。ここからは、見えません」
見えないものは、見えないと言うしかない。
遠くの盤は、遠くにある。
———
「動いているものを、見てください」
私は言った。
「フィン、その盤で、入っている小術を、全部開いてみてください」
フィンが、札面の小術を、一つずつ触っていった。
刻を映す札。開いた。
灯りの札。開いた。
盤に最初から入っている、魔文を読む札。開いた。
盤に最初から入っている、地図の札。開いた。
術務室の、勤めの出入りの札。開いた。
術務室の、談じ場。開いた。
双言。閉じた。
魔文の見出しをまとめる小術。閉じた。
道案内の小術。閉じた。
買い物控え。閉じた。
若葉綴り工房の、生活整理の小術。閉じた。
開くものと閉じるものを、セシルが表示盤に二列で書いた。
開く
・刻、灯り、魔文読み、地図
・勤めの出入り札、談じ場
開かない
・双言、見出しまとめ、道案内、買い物控え、生活整理
セシルは、二列を見比べた。
それから、少し顔をしかめた。
「……勤めの小術だけが、生き残っていますね」
「はい」
「術務室の配りの決まりで、勤めの盤には、ほかの小術を止める項目が入っていたんでしょうか。うちの班の配り札が、ほかのものを締め出している、とか」
筋の通った読み方だった。
生き残っているのが術務室の小術なら、術務室が何かをした、と考えるのは自然である。
「配り札を、見せてください」
セシルが、大きな術盤に、術務室の配り札を出した。
フィンの盤に、術務室が何を入れ、何を決めているかの一覧である。
私は、それを上から下まで読んだ。
勤めの出入り札を入れる。談じ場を入れる。盤の札面に、勤めの印を一つ置く。盤をなくしたら、勤めの小術だけを遠くから消せるようにする。
止める項目は、無かった。
「締め出してはいません」
私は言った。
「術務室の配り札は、ほかの小術に、何もしていない。……勤めの小術が生き残っているのは、ほかを止めたからではありません。別の道を通ってきたからです」
AIエージェント:「観測:生存している小術は、いずれも術式庫を経由していません」
「据え付けの札は、最初から盤に入っています。勤めの札は、術務室が直に配っている」
私は、表示盤の二列のあいだに、線を一本引いた。
「遠くの束にぶら下がっていないものだけが、動いています」
———
「直に配る、というのは」
リゼが言った。
「術式庫からしか、小術は入れられないんじゃなかったっけ。……閉じた庭だって、言ってなかった?」
「それは、普通の持ち主の話です」
答えたのは、セシルだった。
勤めの小術を配っているのは、基盤魔術班である。
「知恵之実社は、役所と、大きな商会にだけ、別の配り口を開けています。術式庫を通さずに、勤めの盤へ、勤めの小術を配る口です。……開けてもらうのに、かなり書類を出しました」
「庭に、脇の戸があったのね」
「脇の戸だ」
私は言った。
「庭の外じゃない。戸の鍵も、知恵之実社が渡したものだ。庭の中の、別の小径だ」
「小径だと、断られないの?」
「勤めの小術の許しは、配るときに、術務室がまとめて先に持っています」
セシルが言った。
「人の数ぶん、先に。……一人一人の持ち主に、束を取り直させません」
直配りの小術。
術式庫を通さず、配る側が直に使い手へ渡す小術である。許しは配る側がまとめて持っているので、使い手の持ち主の証を遠くが見失っても開く。
ただし、誰でも開けられる戸ではない。
書類を出せる役所と、書類を出せる商会だけの戸だ。
「ほかの小術の許しは、誰が持っているんですか」
フィンが言った。
「持ち主です。フィンが、です」
「でも、さっき」
「持ち主が持っている、ということを、遠くの盤が覚えている」
私は、九行の中の一行を指した。
持ち主の証が見当たらない
「これが、持ち主の証です。この盤は、正しい持ち主のものだ、という記録。……盤の中ではなく、遠くの盤の側にある」
フィンは、自分の盤を見下ろした。
「盤の中に、ないんですか」
「束は、盤の中にあります。束を出してもらうための証が、向こうにある。向こうが、それを見失っている」
九行の後ろの三行は、盤が自分で直そうとした跡だった。
束が合わないので、盤は、新しい束を取りに行った。遠くの盤は、断った。持ち主の証が見当たらない、と言って。
盤は、自分で直そうとしていた。直す手を、向こうに断られていた。
———
「では、証を入れ直せば」
セシルが言った。
「試しましょう」
術式庫への持ち主の名乗りを、一度外す。
盤を寝かせて、起こす。
名乗り直す。
もう一度、寝かせて、起こす。
フィンが、言われたとおりに、一つずつやった。
盤が寝て、起きるたびに、札面が暗くなって、また明るくなった。
四度目に明るくなったとき、フィンが、双言に触れた。
札面が、明るくなった。
小術の最初の絵が、浮かんだ。
一呼吸。
消えなかった。
緑の小さな絵が、札面の真ん中に居座った。
その下に、日継ぎの数が出ていた。
「……開いた」
フィンが言った。
「開いた。日継ぎ、間に合いました」
術務室の何人かが、息を吐いた。
セシルの肩が、少しだけ下がった。
リゼが、もう戸のほうへ走っていた。
三の柱の前に並んでいる人たちに、手順を伝えに行ったのである。名乗りを外す。寝かせて起こす。名乗り直す。もう一度、寝かせて起こす。
戸の向こうで、小さな声が上がった。
開いた、という声だった。一つ。少しして、もう一つ。
悪くない声だった。
久しぶりに、悪くない声を聞いた。
私は、表示盤の前に戻った。
九行を、もう一度見た。
「直りました」
私は言った。
「……なぜ直ったかは、分かっていません」
セシルが、こちらを見た。
「名乗り直しで、向こうが、証を見つけ直した、のでは」
「たぶん、そうです。たぶん。……でも、なぜ見失ったのかが分かっていない。見失った理由が残っているなら、また見失います」
直ったことと、直る仕組みが分かったことは、別である。
前者は、気分がいい。後者は、だいたい気分が悪い。
今日は、前者だけを持っていた。
———
昼を過ぎて、列は短くなった。
三の柱の前の人は、名乗り直しで、半分ほどが帰っていった。
開かなかった人もいた。名乗り直すための確かめの報せが、開かない小術の中に届く人。それから、何度やっても、どうしても開かない人。
一と二の列は、短くならなかった。壊れた盤も、失った盤も、名乗り直しでは戻らない。
私は、一と二の列の紙を、卓の端に積んだ。
捨てたのではない。積んだのである。
昼の打ち合わせを済ませて戻ると、フィンが、卓の前で固まっていた。
「ユウさん」
声が、朝より低かった。
「……落ちました」
フィンの盤の札面で、双言が、一呼吸だけ明るくなって、戻った。
朝と同じ戻り方だった。
「いつからですか」
「さっきです。開いて、昼の稽古をしようとしたら」
直ってから、三刻ほどだった。
「名乗り直しを」
「もうやりました。二回」
フィンは、盤を卓に置いた。
「効かないんです。朝は効いたのに」
セシルが、黙って線を挿し直した。
大きな術盤の札面に、記録札が溢れた。
AIエージェント:「観測:名乗り直しの行が、二度あります。二度とも、遠方より断り。持ち主の証が見当たらない」
朝と、同じ行だった。
朝と違うのは、名乗り直しの後ろにも、同じ断りが続いていることだけだった。
二度目は、同じ手が効かない。
一度目に効いた手が、なぜ効いたのか分かっていないのだから、二度目に効かない理由も分からない。
最悪だ。
戸の向こうから、また声がした。
朝に開いた、と言って帰った人が、戻ってきていた。
私は、無意識に、自分の携帯術盤を出していた。
札面に触れる。魔法日暦の報せが開く。開いた。
AIエージェント:「観測:あなたは今、自分の携帯術盤を確かめました」
「黙れ」
確かめた。
確かめずにはいられなかった。私の盤は、今のところ、開く。今のところ、である。
———
「知恵之実社に、尋ねましょう」
セシルが言った。
「向こうの盤の話なら、向こうに言うしかありません」
「相談の小術があります」
フィンが、自分の盤の札面を探った。
「知恵之実社の、相談の小術。困ったときにここから、って、買ったときに案内されました」
フィンが、相談の小術に触れた。
札面が、一呼吸だけ明るくなって、戻った。
術務室が、静かになった。
「……これも、術式庫からですか」
セシルが言った。
「そうみたいです」
フィンは、もう一度触れた。
一呼吸。戻った。
「苦情の届け出は」
リゼが、戸口から言った。
「商務院の。術具の苦情は、去年から携帯術盤の小術で受けてるでしょ。並んでる人にも、そっちに出してって言おうとしたの。……そしたら、それも、開かないって」
私は、表示盤の前で、しばらく黙っていた。
知恵之実社への相談は、知恵之実社の相談の小術から。
商務院への苦情は、商務院の届け出の小術から。
どちらも、術式庫から入れる小術である。
どちらも、同じ束で開き、同じ証にぶら下がっている。
「助けを呼ぶ道具が」
私は言った。
「壊れた側に、乗っていました」
壊れたのは、開いてよいという許しだった。
許しの束が無いと、小術が開かない。
小術が開かないと、束が無いことを、誰にも言えない。
助けを呼ぶ道具が、助けを呼ぶ理由と、同じ線にぶら下がっていた。
セシルが、大きな術盤の札面に、魔文の書き札を開いた。
据え置きの盤からなら、魔文は出せる。宛先は、知恵之実社の王都の窓口。
私は、九行を写して添え、短く書いた。王都で、術式庫の小術が一斉に開かない。名乗り直しで一度戻り、三刻で再び落ちる。記録札を添える。
送った。
すぐに、返りの魔文が来た。
受け付けました。
それだけだった。
受け付けた、というのは、届いた、ということである。読んだ、ということではない。
———
夕方、列の最後の一人が、表示盤の前まで来た。
白い髭の、屋台の主だった。
朝、前掛けのまま列にいた人である。手に、光る携帯術盤を持っていた。
「壊れてるのかね」
屋台の主は、盤をこちらへ向けた。
「孫が、買ってくれたんだ。売り上げの控えを、この中に付けてる。三年分。……三年分、壊れたのかね」
札面は、光っていた。
触れば応える。売り上げの控えの小術の札も、ちゃんと並んでいる。触れば、一呼吸で戻るだけだ。
私は、九行の写しを、もう一度見た。
一行も、走っていない。走る前に、閉じられている。
中にあるものには、誰も触っていない。
「盤は、無事です」
私は言った。
「中身も、無事です」
屋台の主は、札面を見下ろした。
「では、なんで」
「開けないだけです」




