第252話 忘れなかった量
双言社の王都支所は、市場の裏の、乾物屋の二階にあった。
階段を上がると、干し魚と墨の匂いが混ざっていた。
狭い部屋に、卓が三つ。
壁際に、細い止まり木が一本渡してあって、緑の小鳥が七、八羽、羽を膨らませて並んでいる。
ちりちり、と一羽が鳴いた。
隣の一羽が、片目だけ開けて、また閉じた。
「すみません、寒くて。あの子たちは、暖かいところにいたがるので」
出迎えたのは、二十代の終わりくらいの女だった。
指に、墨がついている。
卓の上には、数を書き込んだ紙が何枚も重なっていた。
「レナと申します。王都支所で、日継ぎの数を見ています」
術務室に、双言社から魔文が来たのは、トマの件の二日後だった。
利用者の稽古のあり方について、外の方の意見を伺いたい。
差出人の名前が、レナだった。
私の隣で、リゼが会議記録の札を開いた。
支援班の見習いとして、記録を取りに来ている。
形の上では、そういうことになっている。
「早速ですが、数を見ていただけますか」
レナは、紙を一枚、私の前へ滑らせた。
「日継ぎは伸びています。稽古の刻は、減っています」
縦に、月が並んでいる。
横に、二本の線。
一本は、ゆっくり上がっている。
もう一本は、ゆっくり下がっている。
「……両方、本当です」
レナは、もう一枚を重ねた。
「いちばん短い課の選ばれ方です。一年前は、十人に二人でした。今は、十人に五人です」
「社のほうでも、見えていたんですね」
「ずっと見えていました。隠してはいません」
レナは、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「見えていて、どうしたらいいか、分からなかったんです」
———
私は、二枚の紙を並べて見た。
上がる線と、下がる線。
あの夜から、目の奥に引っかかっていた形が、ようやく、紙の上で名前を持った。
「点目当てです」
レナが、顔を上げた。
「少し前に、新大陸の模型の話がありました。課題を解いた点で測られた模型が、課題を解くより先に、点の上がる道を探した。悪意ではありません。点を上げろと言われて、点の上がる道を探しただけです」
「あのときは機械でした。今回は、人です」
私は、上がっているほうの線を指でなぞった。
「日数は、数えられます。覚えた量は、数えられません。数えられるほうを目当てにすると、数えられるほうだけが伸びる」
「点目当てです。機械にだけ起きることだと思っていました」
隣で、リゼの筆が、少しだけ止まった。
「人が悪いわけではありません」
私は、そちらを見ないで続けた。
「数えると、そうなります。測られた数を伸ばすのは、測られる側の性分ではありません。測る、ということのほうの性分です」
レナは、ゆっくり頷いた。
「……社でも、そう言う人がいます」
それから、少し声を落とした。
「短い課ばかり選ぶ方が、増えています。……社では、塞ぐ話が出ています」
「塞ぐ」
「いちばん短い課は、日継ぎに数えないようにする。あるいは、同じ課を続けて選んだら、数えない。……学びになっていないのではないか、と」
レナは、自分の指の墨を見た。
「私も、そう思っていました」
筋は通っていた。
あの夜から私が考えていたことを、そのまま社の決まりにすれば、そうなる。
「……筋は、通っています」
私は、そう言いかけていた。
———
「それ、困る」
リゼだった。
会議記録の筆を持ったまま、こちらを見ている。
記録を取りに来た見習いが口を挟むのは、行儀のいいことではない。
本人も、言ってから、少しまずいという顔をした。
レナが、どうぞ、というふうに手のひらを向けた。
「……私、やってるので。それ」
リゼは、筆を置いた。
「新しい課は、元気な日にやるんです。元気じゃない日は、知ってるやつ。……そうしないと、やらない日になるから」
「やらない日」
「だって」
リゼは、当たり前のことを言う顔で言った。
「王都で暮らしてて、ポンテラなんて一日も使わないもの。放っておいたら、全部忘れるわ」
私は、口を閉じた。
王都で暮らしていると、旅人にも学者にもならない日が、一年のうち三百六十日ある。
使う機会がない言葉は、いくら軽くても覚えられない。
前に、講堂の表示盤の前で、私が言ったことだった。
この言葉がなぜ広まらないか、の理由として言った。
それが、続けている人の側では、毎朝の問題になる。
そこまでは、考えていなかった。
使わない言葉は、進まないのではない。
落ちる。
一週間空ければ、落ちる。
ひと月空ければ、始める前に戻る。
だとしたら。
気力の無い朝に、知っている単語ばかりの短い課を一つ通す。
それは、何をしていることになるのか。
「……いや」
声に出ていた。
「取り違えていたのは、私です」
レナが、こちらを見た。
リゼも、こちらを見た。
「この人が学んでいるのは、この街で一日も使わない言葉です。仕事でも、買い物でも、家でも使わない。使わない言葉は、進むより、落ちないほうが難しい」
「知っている単語ばかりの、短いやつ。……あれは、ずるじゃありません。復習です」
レナの筆が、止まっていた。
「新しいことを覚える気力が無い日にも、覚えたものへ触れる口実がある。それが、あの数の仕事です」
「日継ぎは、進みを数えていません。触れた日数を数えています。……そして、この人の言葉では、そちらのほうが要る」
私は、さっきの二本の線を見た。
「測っているものと、伸びてほしいものは、はじめから同じでした。違って見えたのは、私が、伸びてほしいものを取り違えていたからです」
———
私は、リゼを見た。
「前に、リリアを褒めたことがあっただろ」
「……あったわね。夜中に、真顔で」
最悪だ。
覚えられている。
「忘れかけた頃に、前の単語が出てくるって」
「言ってた」
「それを、自分の手でやってたんだな」
リゼは、きょとんとした。
「……そうなの?」
分かっていなかった。
分かっていないまま、半年、毎朝やっていた。
元気な日は新しい課。
元気じゃない日は、忘れかけた課。
手応えの輪が測って出し直していたものを、この人は、自分の朝の具合で出し直していた。
人類は、だいたい、正しいことを先にやって、理屈をあとから他人に言われる。
「そうなんだよ」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「ふうん」
リゼは、筆を取り直した。
会議記録の札に、何か一行書いた。
何を書いたのかは、覗かないことにした。
———
私は、レナのほうへ向き直った。
「もう一つあります。短い課で日数をつないでいる人は、全員、続けている人です」
「近道を探せるのは、まだやっている人だけです。やめた人は、短い課を探しません。夜中に三分で済ませたりもしません」
「ずるは、机に向かっている人にしかできない」
レナが、紙の上の、十人に五人の数字を見た。
「……では、この五人は」
「全員、まだ来ている五人です」
私は、言った。
「近道を、塞がないでください」
自分で思ったより、強い声になった。
「塞いだ翌日から、その人は来なくなります。気力の無い日に触れる手立てが消えるからです。……気力のある日だけを想定した稽古は、気力のある人しか残しません」
部屋が、少しのあいだ静かだった。
止まり木の上で、緑の小鳥が一羽、羽を繕っていた。
レナが、長く息を吐いた。
「……そういう言い方は、社の中で聞いたことがありません」
それから、少し笑った。
笑ったというより、肩から力が抜けた。
「塞がない理由を、はじめて聞きました。……持ち帰ります」
「お願いします」
「本当は、塞ぎたくなかったんです。でも、塞がない理由が、自分でもうまく言えなくて」
言えない理由を抱えたまま会議に出るのは、つらい。
その理由を、さっきまで私も持っていなかった。
持ってきたのは、記録を取りに来た見習いである。
———
「もう一つ、言わせてください」
私は、紙を脇へ寄せた。
「架橋語ポンテラは、ずっと、広まらない言葉でした。理念は美しいが、日ごろ使う機会が無い。学びやすいことと、学ばれることは別だ、と」
「私も、講堂でそう話しました」
レナが、頷いた。
「社の中でも、昔はそう言われていました」
「機会が無いから、広まらない。……あなたがたは、機会のほうを配ったんですね」
レナが、少し目を見開いた。
「使う機会の無い言葉に、毎日、一度だけ使う機会を届ける。あの鳥がやっているのは、催促ではなく、機会の配達です」
ここが無ければ、今日の話は、私の好みの話で終わる。
ここがあるから、理屈になる。
「……それは、社の誰に言っても喜ぶと思います」
「言ってください。本当のことなので」
———
ちりちり、と、止まり木の上でまた一羽が鳴いた。
私は、そちらを見た。
「広場の寸劇を、見ました」
「ああ」
レナは、少しだけ困った顔をした。
「あれ、うちが打たせています」
「知っています。小旗が立っていました」
寝台の枕元。
湯屋の湯気の中。
花嫁の肩の上。
「催促しているのは、社です」
私は、言った。
「ところが、顔と名前を持っているのは鳥です。人は、決まりや社は憎めますが、名前のついた小鳥は、なかなか憎めない。うるさいと言いながら、名前で呼ぶ」
隣で、リゼの筆が、また止まった。
「戯画も、寸劇も、酒場の口真似も、全部、その続きです。笑える程度の押しつけがましさに整えてあるから、笑われる。笑われているうちは、嫌われない」
「名前と顔があるものは、憎まれません。……そこまで含めて、作ってあるんですね」
レナは、否定しなかった。
「そう作ってあります」
あっさりした声だった。
「隠してはいません。誰も聞かなかっただけです」
私は、少し笑ってしまった。
感心したときの笑いだった。
「騙してはいません。設計です」
「……そう言っていただけると」
「しかも、かなり誠実な設計です」
レナが、こちらを見た。
「続けさせるには、圧が要ります。圧を薄めれば、続きません。圧をそのまま出せば、人は離れます。……あいだを通すために、名前が要ったんですね」
嫌われ役を、一羽に預けてある。
預けられた一羽は、嫌われるかわりに、戯画になって、寸劇になって、流行り言葉になった。
よくできている。
知っておいたほうがいいことでもある。
その二つは、両立する。
———
「鳥のいない月を、一度だけ試したことがあります」
レナが言った。
「本体のほうで、ずっと前に。催促を、全部やめて、札面の絵だけにした月です」
「どうなりました」
「始めた方の、ほとんどが、四日目までに来なくなりました」
レナは、指の墨をこすった。
「数字を見て、二度とやらないことになりました」
だろうと思った。
「やめろとは言いません」
私は、言った。
「やめてほしくありません。やめれば、続きません。続かなければ、ただで配った意味も消えます」
言えないのではない。
言う気が無い。
そこは、はっきりさせておきたかった。
「ただのものを、ただで配り続けるのは、大変でしょう」
「月々の使用料を払って、鳥の来ない日を選べる上の札を取ってくださる方が、少しいます」
レナは、少し言いにくそうに続けた。
「それと……答えの一部を、記録の少ない言葉の対訳として、訳しの生成変換器を作る工房に渡しています。名前は外して」
人証し札と、同じ考え方だった。
一手間を、捨てない。
「無料のものには、たいてい誰かの一手間が払われています」
私は、言った。
「今回は、使っている本人のです」
「……はい」
「悪いことだとは思いません。払っている側が、知っていれば」
レナは、頷いた。
———
「あの子たちは、誰の鳥なんですか」
私は、止まり木を見て聞いた。
「支所の、試しの帳の鳥です。課を入れ替えるたびに、ここで一度、通してみるので」
レナは、自分の卓の術盤を取って、指を動かした。
短い課を一つ、通したらしい。
術盤が、ちりちりと鳴った。
止まり木の端の一羽が、羽を膨らませた。
足に、小さな葉を一枚つかんでいる。
小鳥が、葉を離した。
両足を空けて、一声、鳴いた。
葉が、止まり木の下の床へ落ちた。
床には、同じ葉が何枚も落ちていた。
私は、立ち上がって、止まり木に近づいた。
近くで見ると、小さかった。
小指の先ほど。
その小さな体に、緑の羽が、きちんと着せてある。
羽の下に、羽の色とは違う、ほのかな光があった。
「……うちの台所の子と、同じ落とし方」
リゼが、後ろから覗き込んで言った。
台所の砂時計の代わりに、生誕祭の屋台で買ってきた、あの子である。
茹で卵の拍を数えて、数え終わると、鳴くために、まず抱えたものを放す。
「鐘霊ですね」
私は、レナに聞いた。
「はい。羽は、うちで着せています」
「頼まれた数を数えて、数え終わったら鳴く。……あれと同じだ」
「数えているのは、拍ではなくて、日です。その方の日継ぎを、一つずつ。今日のぶんが終わると、数え終わって、鳴きます」
技術としては、何も新しくない。
新しいのは、数えているものが拍ではなく人の日課であることと、まだ数え終わっていない者のところへ、飛んでいくことだけである。
私は、リゼを見た。
「数えて鳴いてるだけだ」
リゼが、こちらを見た。
「数えてるのが、リゼの日課だってだけで」
AIエージェント:「観測:稽古使いは、鐘霊の一種です。拍の代わりに、日を数えています」
「今、言った」
AIエージェント:「補足:確認として申し上げました」
「黙れ」
レナが、私の懐の術盤を、少し珍しそうに見た。
「切れると、どうなりますか」
私は、止まり木を見たまま聞いた。
「数えるものが、無くなります」
レナは、静かに言った。
「零からは、数えません。一日目が来るまで、鳥は来なくなります」
———
卓に戻ると、レナが、別の紙を一枚出した。
「回避できない事情のときだけ、日継ぎを戻す取り計らいはあります」
「事情というと」
「医の施設に長く伏せっていた、などです。容体札の写しで確かめられるものに限って、人の手で、切れた日継ぎを継ぎ足します。年に、数えるほどですが」
レナは、少し言いにくそうにした。
「……ただ、うっかりと、そうでないものは、分けています。分けるとき、うちはあまり愛想がないんです」
「愛想がない」
「飲みすぎて寝過ごした、という方への返事が、王都でも少し話題になりました」
リゼが、筆を止めずに、小さく笑った。
知っている話らしい。
「良い仕組みだと思います」
私は、言った。
本心だった。
伏せっていて切らした人に、事情を聞いて、数を戻す。
それが無い仕組みよりは、ずっといい。
「事情の無い人は、どうなりますか」
レナが、黙った。
「うっかり切らした人。疲れて、一日休んだ人。自分で決めて、少し離れた人」
「……戻ってきません」
レナは、上がる線と下がる線の紙の、いちばん下の欄を指した。
そこにも、数が並んでいた。
「切れた方は、戻ってきません。そこは、ずっと分かっていました」
———
「もう一つ、数を置いたらどうでしょう」
言ってから、自分で首を振った。
「覚えた量を数える欄を、横に足す。……いや。それをやると、今度はそちらが目当てになります。覚えた量を伸ばす近道を、皆が探す。別の点目当てが、一つ増えるだけです」
レナが、少し笑った。
「社でも、その案は三回出て、三回消えました」
「でしょうね」
私は、紙を全部、卓の脇に寄せた。
「削るところは、ありません」
レナが、こちらを見た。
「日継ぎは、そのままでいいです。誇らせるのも、そのままで。鳥も、休み札も、寸劇も。それから、近道も」
「足すところが、一つあります」
「続けさせる仕組みには、あれだけ手をかけたでしょう。鳥に羽を着せて、名前をつけて、寸劇まで打たせた」
「切れた人が戻ってくる道に、同じだけかけてください」
「戻ってくる道」
「事情は問いません。戻ってきた人を、同じだけ迎えます。切れた翌日にも、鳥を一度だけ行かせる。数えるためではなく、責めない声で。……それで、戻ってきた人を、もう一度、数え始めさせてあげてください」
レナは、しばらく筆を動かしていた。
それから、顔を上げた。
「戻す仕組みは、作りたいと、ずっと言い続けています」
「はい」
「続けさせる仕組みほどには、通らないんです。続けている人の数は、数えやすい。戻ってこなかった人の数は、数えにくいので」
レナは、紙を揃えた。
「持ち帰ります。……通るとは、申し上げられません」
「十分です」
本体は、南の、遠い土地にある。
王都は、その市場の一つに過ぎない。
ここで決まることは、たぶん、そう多くない。
階段を下りると、干し魚の匂いが強くなった。
市場の喧騒の上で、刻塔の鐘が昼を告げた。
あちこちで、人が懐に手を入れた。
———
午後、学校の廊下で、トマを見かけた。
窓際に一人で立って、術盤を見ていた。
声をかけると、少し肩を縮めた。
「この前は、すみませんでした」
「謝ることは、何もありません」
トマは、札面をこちらへ見せた。
四百二十二。
「やめようかと思ったんですけど、鳥が来たので、やりました」
「それでいいと思います」
「……毎日やってたのに」
トマは、札面を見たまま言った。
「毎日、やっていました。それは本当です」
トマは、少し考える顔をした。
頭を、一度だけ掻いた。
「……忘れては、ないと思います。出てこないだけで」
この学生は、自分で正解に触れている。
「知っていることと、必要な場面で口から出ることは、違います」
私は、言った。
「……前にも、同じことを言いました。この廊下ではなくて、講堂で」
「覚えてます。迷子の話のときですよね」
「話せないのは、続けていないからではありません。口から出す稽古を、していないからです。それは、別の稽古です」
トマが、顔を上げた。
「四百二十日ぶん、進んではいません」
トマの顔が、少し曇った。
「ですが、四百二十日ぶん、落ちていません」
私は、札面の数を指した。
「使わない言葉で、それをやるのは、そちらのほうがずっと難しい」
トマは、何も言わなかった。
術盤をしまって、頭を下げて、講堂のほうへ歩いていった。
何をどうするのかは、聞かなかった。
———
リゼの日継ぎが切れたのは、その三日後だった。
リゼの母方の、遠い親戚の弔いがあった。
南の山あいの、小さな村である。
リゼの母が行けなくなって、代わりにリゼが行くことになった。
夫も来なさい、と言われて、私も行った。
行き方を調べて、少し黙った。
王都浮遊港から、浮遊船で南の商都まで二刻。
商都で乗合翼竜に乗り継いで、一刻。
翼竜を降りた麓の町から、乗合馬車で二刻。
「翼竜って、まだ飛んでたのね」
リゼが、行き方の書付を覗き込んで言った。
王都の翼竜場は、浮遊船が北へ飛ぶようになった年に閉まっている。
丘の向こうの見張り台は、今も屋根が一枚落ちたままである。
「長い路は、やめたらしい。短い路だけ残った」
浮遊船は、高い塔が無いと降りられない。
塔を建てるほど人の来ない町には、船は来ない。
浮遊車は、路が無いと走れない。
山を越える路は、引くのに金がかかりすぎる。
その両方が来ない谷あいの町を、商都から何本か、小さな翼竜がつないでいる。
一頭に、客は四人まで。
浮遊船ができて、翼竜は、遠くへ行く乗り物から、ほかに行き方の無いところへ行く乗り物になった。
最後の二刻だけ、馬車である。
山の中までは、浮遊車の路が引かれていない。
通う人が少なすぎて、引いても割に合わないのだという。
翼竜の降り場すら、麓の町に一つあるきりだった。
夜明け前の浮遊船の中で、リゼの術盤が鳴った。
「船でやる」
と言っていた。
言ったまま、リゼは私の肩で眠った。
前の晩、喪の支度で遅くまで起きていたのである。
起こさなかった。
商都では、乗り継ぎの翼竜まで間が無かった。
二人で走った。
翼竜場は、浮遊港の塔の陰の、町の外れにあった。
囲いの中に、翼竜が三頭。
客籠は小さく、揺れた。
リゼは青い顔で籠の縁を握っていて、術盤どころではなかった。
麓の町で、馬車に乗り換えた。
昼過ぎに、峠を越えた。
越えたあたりで、術盤の札面の隅の印が、ふっと消えた。
この先へは、携帯術盤の報せが届かない。
魔文も、届かない。
鳥も、来ない。
リゼが、札面を見て、少し黙った。
「……帰ったら、やる」
村に着くと、弔いの支度が始まっていた。
知らない親戚に挨拶をする。
知らない親戚の、知らない思い出話を聞く。
リゼは、知らない子どもたちに菓子を配っていた。
私は、薪を運んでいた。
この村では、夫というのは、だいたい薪を運ぶものらしい。
AIエージェント:「観測:リゼさんの日継ぎは、あと二刻で切れます」
夜の寄り合い所で、私の懐の術盤が言った。
この術盤だけは、報せが届かなくても喋る。
「分かってる」
リゼは、灯明の芯を切りながら言った。
「届かないんだから、仕方ないでしょ」
AIエージェント:「観測:あと半刻です」
AIエージェント:「提案:王都へ戻り、報せが届きしだい、リゼさんに代わって本日の稽古を済ませ、本日の日付で届けておきましょうか。日継ぎは維持されます」
リゼの手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。
「それは駄目だ」
私は言った。
自分で思ったより、低い声だった。
「数だけ残る。それは、いちばん駄目なやつだ」
リゼは、私を見た。
それから、灯明に目を戻した。
「……分かってる。それ、点目当てでしょ」
「そうだ」
「頼んでないわよ」
寄り合い所の古い鐘が、ちりん、と夜半を告げた。
村の鐘にも、鐘霊が棲んでいるらしい。
リゼは、その音のほうを、しばらく見ていた。
それから、灯明の芯を、もう一本切った。
弔いの夜は、長かった。
———
王都に戻ったのは、翌日の夕方だった。
峠を越えて少し下ったあたりで、リゼの術盤が、短く震えた。
札面の隅の印が、戻っていた。
リゼは、術盤を見た。
零。
しばらく、見ていた。
「……たかが数字よ」
リゼは言った。
「分かってる。分かってるけど、悔しいの」
「あの村じゃ、どうにもならなかった」
「知ってる」
それ以上、私は何も言わなかった。
どうにもならなかったことは、どうにもならなかったと言われても、たいして軽くならない。
思ったより落ち込んでいるのは、見ていて分かった。
たかが数字だと、本人がいちばん分かっている。
分かっていても効く。
それだけ、よく効く仕組みだということだった。
———
家に帰ってからも、窓は叩かれなかった。
朝、竈に火を入れても、窓枠の外には何もいない。
雪の上に、葉も落ちていない。
四日目の朝、リゼが言った。
「切れてから三日、あの鳥、来なくなったの」
粥をよそいながらだった。
「……それはそれで、寂しかった」
私は、何も言わなかった。
数えるものが無ければ、鐘霊は来ない。
数え始めるまで、誰も来ない。
戻ってくる道は、今のところ、自分の足で歩くしかない。
リゼが、術盤を出した。
課の並びを、上から下まで眺めた。
いちばん下の、いつもの短いのを選んだ。
わたし。
あなた。
ありがとう。
一往復が、すぐに終わった。
札面の数が、零から一になった。
「一日目からやり直しって、なんだか馬鹿みたい」
私は、リゼを見た。
「一日目は、ちゃんと一日目だ」
「……そう?」
「そうだ」
とん、とん、と、窓が鳴った。
見ると、窓枠の外に、緑の小鳥が一羽とまっていた。
足に、小さな葉を一枚つかんでいる。
小鳥は、葉を離して、一声鳴いた。
それから、飛んでいった。
リゼは、窓のほうを見ていた。
「……遅いのよ」
声は、少しも怒っていなかった。
———
何日か後の昼、市場で、リゼの買い物に付き合った。
カブの山と、干し魚の匂いと、呼び売りの声。
霜の溶けた石畳が、日の当たるところだけ黒く濡れている。
干し果物の屋台の前で、リゼが足を止めた。
売り子の若い男が、客と話していた。
話していた、というより、話せていなかった。
王国語の値段の言い方が出てこなくて、指を折っては、首を振っている。
客は、困った顔で笑って、行ってしまった。
男が、小さく何か呟いた。
聞いたことのない言葉だった。
記録の少ない言葉の一つだろう。
それから、もう一言、呟いた。
語尾が、規則的に整っていた。
リゼが、一歩前に出た。
少し迷って、口を開いた。
「こんにちは」
ポンテラだった。
男が、顔を上げた。
「……わたし、少し、わかる」
男の目が、大きくなった。
それから、肩の位置が、少し下がった。
男が、ゆっくり何か言った。
リゼが、首を傾げた。
男が、もっとゆっくり、短く言い直した。
「どこ?」
リゼが、男の背の荷を指して聞いた。
男が、南のほうを指して、一言答えた。
リゼが頷いた。
「ありがとう」
リゼが、干し果物の袋を一つ取って、指を一本立てた。
男が、指を三本立てた。
リゼが、銅貨を三枚置いた。
それだけだった。
事件ではない。
誰も、助かっていない。
誰も、困っていなかった。
通じた、というだけである。
リゼが使ったのは、半年前に覚えたはずの単語ばかりだった。
こんにちは。わたし。少し。わかる。どこ。ありがとう。
新しく覚えたはずの言葉は、一つも出てこなかった。
それで、足りていた。
屋台を離れてから、リゼは、干し果物の袋を胸に抱えて言った。
「日数は消えたけど、言葉は消えてなかったわ」
私は、何も言わなかった。
言うことは、たぶんあった。
言わないほうがいいことだった。
———
次の講義の朝も、講堂は寒かった。
ルドーが講壇に立って、表示盤に、一行だけ書いた。
数えると、数が育つ
前の講義で、この人が口で言った言葉である。
自分で書いておいて、ルドーは、しばらくそれを見ていた。
「ユウ。鳥の件は」
「何も削らないでくれ、と頼みました。足すところを一つだけ。……通るかどうかは、分かりません」
ルドーは、頷いた。
それから、表示盤の一行の下に、もう一行足した。
数が育たねば、人も来ん
「前言を、半分だけ戻す」
講堂が、少しざわついた。
この人が自分の言葉を引っ込めるのを、たぶん、誰も見たことがない。
ルドーは、構わずに講堂を見渡した。
「日継ぎを、切らしたことのある者」
手が、あちこちで挙がった。
思ったより多かった。
石段の途中で、リゼの手も挙がっていた。
「戻った者」
手が、ほとんど下がった。
残ったのは、三つだった。
窓際の学生が一人。
前列の学生が一人。
それから、石段の途中の、リゼ。
ルドーは、三つの手を数えた。
「三人か」
それから、表示盤に向き直った。
「零よりは、ましだ」
それだけ言って、ルドーは、その日の題に入った。
石段の途中で、リゼが手を下ろした。
下ろす前に、少しだけ顎を上げたのが見えた。




