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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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250/256

第250話 消せないから、効いた

 帳場の小部屋の灯りが、少しだけ明るくなった気がした。


 誰かが灯りをいじったわけではない。

 顔を上げた人が、増えただけだった。


「記録番の、シオです」


 若い記録番は、卓の端まで来て、それだけ言った。

 袖口の墨の染みを、もう片方の手で隠すようにしていた。


「消すという操作を持っていない、というのは」


 私は訊いた。


「どういう棚なんですか」


「書けます。読めます」


 シオは言った。


「でも、消せません。書き換えもできません。……そういう棚なんです。深雪倉の端に、そういう棚を置かせてくれるところがあります。消せぬ控え、と、倉では呼んでいます」


「ずっと、ですか」


「ずっとでは、ありません」


 シオは、首を振った。


「棚を作るときに、何日のあいだ消せないかを決めます。解けぬ日数、といいます。うちの棚は、三年と一日です」


「一日」


「定めが、三年なので。三年ちょうどにすると、どこから数えるかで揉めます」


 几帳面な人だった。


「その日数は、あとから変えられますか」


「伸ばすことは、できます。縮めることは、誰にもできません」


 シオは、少し間を置いた。


「……作った私にも、です」


 私は、卓の上の記録札を見た。

 錠の前の晩。この棚の、解けぬ日数の短縮を求む。応え。この棚に、その操作は無い。


「縮められるなら、向こうが縮めます」


 私は言った。


「消せないなら、消せなくなっている日数を縮めればいい。……向こうも、そう考えました。考えて、試して、できなかった」


 カナメが、その記録札を、自分の部下のほうへ少し寄せた。

 写しを取っておけ、という手つきだった。


「高いんです」


 シオが言った。

 訊かれてもいないのに、言った。言わずにはいられない、という顔だった。


「消せないので、毎晩の時写しが、三年と一日、一つも消えずに溜まっていきます。去年の夏の、もう誰も見ない時写しも。間違えて入れたものも。……要らない控えまで、全部残ります。深雪倉は、置くぶんには安い倉ですが、それでも」


 要らないものが残る、だけでは済まないこともある。

 現世で勤めていたころ、皆で使う記録庫の控えを、長い帯に写して巻き取り、その巻きを倉の棚に積んでいた。あるとき、決まりの都合で、その中の特定の記録だけを消せと言われた。巻きの途中の一件だけを選んで消す方法は、無かった。

 結局できたのは、「巻きから戻すとき、消すはずだった記録は戻さない」という取り決めだった。消せないものは、戻さないことでしか、消せなかった。


「戻し稽古は」


「毎季、していました」


「何を、戻しましたか」


 シオは、少し黙った。


「……一つの蔵の、冷えの記録を、一季ぶんです」


 定めが求めているのは、それだった。

 定めが求めていることを、シオは、きちんと毎季やっていた。


———

 年配の術者が、卓に手をついたまま、まだ顔を上げられずにいた。


「三つ残せ、二つの器に分けよ、一つは遠くへ置け」


 私は、卓についた年配の術者の手を見ながら言った。


「あの三箇条には、"消される"という項目がありませんでした」


 年配の術者が、顔を上げた。


「落ち度ではありません。当時、そこまで書けなかったというだけです」


「三箇条は、正しいです。今日も正しかった。三つあったから、向こうは五晩かけなければならなかった。……ただ、足りない一行がありました」


 私は、表示盤に、一本の線を描いた。

 今朝、講堂で三つの箱を結んだのと、同じ線である。


「強い印で守ろうとすると、いつか誰かが、一番強い印を取ります」


 カナメが、黙って頷いた。

 この部屋で、それをいちばん多く見てきた人だった。


「取られない印は、ありません。今回は余り印から入られて、決まった仕事の日に写されました。次は、別の道から来ます」


「では、印を」


 年配の術者が言いかけた。


「要るだけの印を配る。余り印を棚卸しする。一番強い印を、常に持たせない。……あれは、全部正しいです。今回も、五年前の工房の印が一つ残っていたから、入られました。あれは、これからも、やります」


 私は、線の外に、小さな箱を一つ描いた。


「ただ、どれだけ印を正しく配っても、一番強い印が取られた日に、その印で届くものには、全部届きます。印をどう配るか、という話の外側に、もう一つ、置き場所が要るんです」


「外側」


「印の強さが、効かない場所です」


 私は、小さな箱を指した。


「大権印は、消せと言えます。……あの棚は、消すという言葉を知りません」


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 守りを、印の強さで作るかぎり、守りは、いちばん強い印と同じだけしか強くない。

 だから、強さの話をやめる。

 消すという操作が、そもそも無い器に書く。命じる言葉がどれだけ強くても、相手がその言葉を持っていなければ、命令は届かない。


 それは、自分の手を縛ることでもあった。

 消せない棚は、作った本人にも消せない。シオにも。当主にも。


———

 階段を上がる足音がした。


 重い。急いでいる。

 タルムだった。外套の前は、まだ開いたままだった。


「残っとるのか」


 部屋に入るなり、タルムは言った。

 誰かが、荷積み場まで知らせに走ったらしい。


「残っています」


 私は言った。


「深雪倉の、冷えの記録の棚です。……ただ、中身は、冷えの記録だけではないようです」


 私はシオを見た。

 シオは、当主を見て、それから、卓の上の自分の指を見た。


「冷えの記録は、どの箱が、いつ、どの棚にあったかと組でないと、記録になりません」


 シオは言った。


「棚の温かさだけ残っていても、そこに何の荷がいたかが分からなければ、何かあったときに、どの荷を捨てればいいのか分かりません。だから、荷繰り帳を入れました。荷繰り帳は、得意先の帳面と組でないと、読めません。得意先の帳面は、勘定の帳面と組でないと……」


「丸ごとか」


「丸ごとです」


 シオは、言った。


「丸ごと入れる、と、伺い書の三枚目の、下のほうに書きました」


———

 最初の伺い書は、四年前の秋だった。

 鳳凰書肆の帳場が錠を掛けられた、その年の秋である。


 帳場の帳面を、誰にも消せない控えに置きたい。

 一度目は、高いと言われて落ちた。

 二度目は、要らない控えまで残る、と言われて落ちた。

 三度目は、三つ残しているのだから足りている、と言われて落ちた。


 どれも、間違った理由ではなかった。

 高いのは本当だし、要らないものまで残るのも本当だし、三つ残していたのも本当だった。


「どうして、伺い書を」


 私が訊くと、シオは、少し困った顔をした。


「鳳凰書肆の件を、報せで読みました。……うちの控えは、誰になら消せるのかと考えたら、怖くなっただけです」


「次の春に、定めが出ました」


 シオは言った。


「冷やし物を扱う蔵は、蔵ごとの冷えの記録を三年残せ、という定めです。……四度目は、それを預ける棚として出しました。そうしたら、通りました」


「三度落としたのは、俺だ」


 タルムが言った。

 低い声だった。


「鳳凰書肆のことは、書肆の話だと思っとった。うちは、蔵だ、とな」


 タルムは、そこで一度、言葉を切った。


「四度目に判を押したのも、俺だ。……三枚目は、読んどらん」


 誰も、何も言わなかった。


「通ったのは、私が正しかったからではありません」


 シオが言った。


「定めが、あったからです」


 私は、少し考えてから、言った。


「制度は、正しい理由で通らないものを、別の理由で通すために使われることがあります」


 シオが、私を見た。


「褒められたやり方ではないかもしれません。ただ、残ったものは、残ったものです」


 タルムは、しばらく、シオの袖口の墨の染みを見ていた。

 それから、外套の前を閉じた。


「紙を、直す」


 タルムは言った。


「明日は、早い」


 階段を下りていく足音が、さっきより少しだけ遅かった。


———

 翌朝の荷積み場は、昨日と同じくらい寒かった。


 同じくらい寒くて、昨日より、うるさかった。


 門の外の荷車の列が、動いていた。

 速くはない。一台が門をくぐり、荷積み場の端に寄せ、倉番が箱を運び、御者が紙に何か書き、受け取りの印を確かめてから、門を出ていく。そのあいだに、次の一台が門の前まで進む。


 紙が、回っていた。


 昨日の紙と、同じ紙だった。

 ただ、欄の横に、字が増えていた。棚の番は、二つの欄に収まらない三つ目を、欄の外に倉番が書き足していた。冷やしの区分は、紙の右の余白に、凍、冷、と一文字ずつ書いてある。


 一枚だけ、新しい紙があった。


「夜明けに、町の刷り屋を叩き起こした」


 タルムが言った。

 目が赤い。寝ていない。


「全部は刷り直せん。行き先ごとの、まとめの一枚だけだ。それだけは、欄が足りんと回らん」


 刷りたての紙には、蔵の欄が十一あった。


 得意先のほうも、動いていた。

 宿や食堂の使いが、自分の側の注文の控えを持って、門の前に並んでいた。昨日、タルムが走らせた使いが、得意先を一軒ずつ回って、そう頼んだのだという。


 こちらの帳面は閉じている。

 閉じているなら、向こうの帳面を持ってきてもらえばいい。


 倉番が、使いの持ってきた控えを読み、蔵の番と棚の番に引き直し、箱を探しに行く。探して、開けて、確かめて、紙に書く。

 遅い。

 遅いが、止まってはいなかった。


「宿と、学校の賄いが先だ」


 タルムが、紙の束を振り分けながら言った。


「泊まり客の朝は、待てん。子どもの昼もだ。北の食堂の大口は、明日へ回せ。あそこの親父には、俺が頭を下げる」


 誰を先にするかを、タルムは、顔で決めていた。

 どの得意先が何日待てるか。どの得意先が、待たせたら二度と来ないか。四十年分の顔が、紙の上の順番になっていた。


「どれくらい、出ていますか」


 私は訊いた。


「三割だ」


 タルムは言った。


「三割は出る。……全部は無理だ」


———

 私は、荷積み場の真ん中で、回り始めた紙を見ていた。


 前に、西区役所の台帳が壊れたとき、窓口に紙の仮受付を立てたことがある。あれは、その場で作った。窓口一つなら、その場で作れる。

 荷車百二十台と、得意先四百軒は、その場では作れない。

 その場で作れないものは、前の日までに作っておくしかない。


 四年前の鳳凰書肆も、帳面が止まっていたあいだ、新しい本だけはいつもどおりに出し、古い本は三分の一ほどしか出せなかった、と聞く。

 待てないものから先に通す。帳面の無い日の商いは、どこでも同じ形になるらしい。


「それは、備えです」


 私は言った。


 タルムが、紙の束から顔を上げた。


「備え、なんて上等なもんじゃない。蔵が止まったときの、ただの段取りだ」


「止まる前に、段取りが書いてあった。それを、備えと言います」


 私は、タルムの足元の、黄ばんだ束を見た。


「二十年前のものでも、備えです」


「欄が足りんかった」


「古い備えは、たいてい欄が足りません」


 私は言った。


「それでも、無いよりは、はるかにましです。昨日、何も無かったら、今日の朝、刷り屋に何を刷らせればいいのかも、分からなかったはずです」


 タルムは、何も言わなかった。

 足元の束を、靴の先で、少しだけ揃えた。


———

「一つ、分けて考えてほしいことがあります」


 私は言った。


「戻るまでの日数と、耐えられる日数です」


「同じだろう」


「別です」


 私は、地面に、棒で二本の線を引いた。


「戻るまでの日数は、帳面が全部開くまでの日数です。これを決めているのは、控えです。消せない棚が残っていたから、戻るまでの日数は、数えられるものになりました。……手回しは、これを短くしません」


「手回し」


「今、ここでやっていることです。帳面が使えないあいだ、紙と口と足で、商いを細く回すこと」


 タルムは、荷積み場を見回した。

 紙を持った倉番と、紙を持った御者と、門の前の得意先の使いを。


「手回しが延ばすのは、もう一本のほうです。帳面が戻るまで、商いが何日耐えられるか。……一日も回らなければ、耐えられる日数は、得意先が離れていくまでの日数です。三割回れば、それが延びます」


「二本の線か」


「二本の線です。戻るまでの日数は、私が数えます。耐えられる日数は……」


 私は、タルムを見た。


「タルムさんにしか、数えられません」


 タルムは、長いあいだ、地面の線を見ていた。


「三割なら」


 それから、言った。


「得意先に頭を下げて回れるのは、半月だ。それより先は、頭が足りん」


「半月」


「半月だ」


「では、その数を、午後まで持っていてください」


 私は言った。


「戻るまでの日数と、耐えられる日数は、別に数えてください。混ぜると、払う理由が生まれます」


———

 午後、帳場の奥の間に、人が集まった。


 タルム。シオ。年配の術者。カナメ。私。

 そして、マリエが来た。


 商務院から術務室に、払うか払わないかを商会が決めるための整理を手伝える者を、と頼みが来たのだそうだ。

 頼みの文言を聞いた時点で、マリエの仕事だった。


「決めるのは、商会です」


 マリエは、卓に紙を広げながら言った。


「私が用意するのは、決めるための紙です」


 紙には、三つの欄があった。


失われたもの

戻るもの

戻らないもの


「払っても、払わなくても、埋まる欄です。払う場合と、払わない場合で、二枚作ります」


 マリエは、筆を取った。


「当主。払う理由を、先に聞かせてください。払わない理由は、たいてい、皆さん口にしやすいので」


 タルムは、少し驚いた顔をした。

 それから、ゆっくり口を開いた。


「明日戻るなら、安い」


 タルムは言った。


「鳳凰書肆を、覚えとるだろう。あそこの流れ座は、元に戻るまでに二月かかった。あれだけの書肆でも、だ」


 部屋の誰も、首を横に振らなかった。

 覚えていない者は、いなかった。


「金貨二千枚は、大金だ。だが、うちが二月止まれば、得意先の三割が離れる。三割離れた得意先は、戻ってこん。……戻ってこん得意先の十年分を数えれば、二千枚は、安い」


 卓の上で、タルムの太い指が、一本ずつ折られた。

 得意先の名を、一つずつ折っていく指だった。


「……そう考えるのは、そんなにおかしいか」


「おかしくありません」


 マリエは言った。

 そのまま、払う場合の紙の、戻るものの欄に書いた。帳面、明日。……ただし、鍵が届けば。


AIエージェント:「補足:解き代を払った場合、鍵が届かない・遅れる・届いても開かない事例が確認されています」


 誰も訊いていなかった。

 こいつは、そういうときに、いちばん正しいことを言う。


AIエージェント:「補足:一度払った相手は、払う相手として覚えられます」


「……それも、書いておくわ」


 マリエは、払う場合の紙の、失われたものの欄に、小さく書き足した。


 カナメが、口を開いた。


「手口として、申し上げます」


 カナメは、卓の上の号外を指した。


「名前を借りると、相手が慌てます。慌てた相手は、払います。……そこまでが、手口です。魔王軍の名は、金貨二千枚を払わせるために、貼られた可能性があります。可能性です」


「本物なら」


「本物なら、慌てる理由は、なおさらありません。払っても、本物は止まりません」


 タルムは、黙った。

 それから、私のほうを向いた。


「あんたは、どう思う」


 部屋の全員が、こちらを見た。


「私は、いつ戻るかを見積もる係です」


 私は言った。


「払うかどうかは、商会が決めることです」


 タルムの眉が、少しだけ動いた。

 突き放されたと思ったのかもしれない。そう思われても、ここは引かなかった。


「その代わり、見積もりは、今ここで出します」


———

 私は、表示盤に書いた。


「十日です」


 タルムの指が、止まった。


「三日ではありません。……三日と言った者がいたら、その者は数えていません」


 一つずつ、数えた。


「錠が見つかった朝から数えて、十日です。今日は、三日目です」


「帳場の術盤は、全部、まっさらにして組み直します。仕込み術式が残っているかもしれない盤には、戻せません。二十台のうち、荷繰り帳と得意先の帳面を載せる四台を先に。……四台は、昨夜から組み直してもらっています。明日の朝までに」


 年配の術者が、頷いた。目の下の色が、また一段濃くなっていた。


「並行して、深雪倉から掘り出します。三年分の棚から、錠の晩の夕方の時写しだけを。急ぎ賃を払えば、今夜まで。払わなければ、五日かかります」


「急ぎ賃」


「急いで掘り出させるための割り増しです。……払うかどうかは、これも商会が決めることですが」


 タルムが、鼻で笑った。この人が笑うのを見たのは、初めてだった。


「それは払う」


「荷繰り帳と、得意先の帳面を、先に戻します。この二つがあれば、どの箱が誰のものかが分かる。明日、四日目に、帳面で一部の荷が動きます。……残りの十六台を組み直しながら、仕入れの帳面、勘定の帳面、御者の割り振りを、そのあとから順に。戻したものが正しいかを確かめながら」


 私は、表示盤の数字を指した。


「四日目に、一部が動きます。全部が戻るのは、十日目です。……この二つは、別の数です」


「十日も」


 タルムが言った。

 払えば明日、と書いてある紙の隣に置くと、十日は長い。


 来た、と思った。


「鳳凰書肆の流れ座は、二月かかりました」


 私は言った。


「遅かったのではありません。錠を掛けられた盤には、戻さなかったんです。閉じた盤の中身を一つずつ確かめて、無事な記録だけを救い出して、まっさらな場に組み直した。……錠を掛けた者が何を残していったか分からない盤に戻せば、また同じことが起きます」


 タルムが、顔を上げた。


「正しいやり方です。正しいやり方は、大きいところほど、時間がかかります。白霜商会でやるのも、同じことです。二十台ぶん、ですが」


「カナメさん」


 私は、カナメのほうを向いた。


「新大陸の報せでは、この形の錠を掛けられたところは、どれくらいで戻っていますか」


 カナメは、少し考えてから答えた。

 確かめた数だけを選ぶ、いつもの間だった。


「新大陸から届いている報せの範囲では、元どおりになるまでに、ひと月を越えたところが、半分ほどです。数か月止まったところも、珍しくありません。……控えを持っていたところでも、そこから全部を戻せたところは、多くありません」


 私は、タルムのほうへ向き直った。


「十日で戻る商会は、多くありません」


 タルムは、黙っていた。


「季節が変わっても戻らないところがあります。戻る前に、商いのほうが終わったところもあります。……控えを持っていた、というだけの商会なら、いくらでもあります。そこから本当に戻せた商会は、ずっと少ない」


 タルムは、それを聞いても、嬉しそうな顔をしなかった。

 当然だった。十日のあいだ、毎朝、荷積み場で得意先の使いの顔を見るのは、この人である。


「中にいると、十日は長いです」


 私は言った。


「外から見ると、十日は速いです。どちらも本当ですが、決めるときに使うのは、外の数字のほうです」


———

 マリエが、二枚の紙を並べ直した。


「払わない場合」


 マリエは、筆の先で、紙を叩いた。


「帳面、十日目に全部。四日目に一部。それまでの十日は、手回しで三割」


 それから、タルムを見た。


「当主。三割で、何日もちますか」


「半月だ」


 タルムは言った。

 朝、地面の線の前で言った数と、同じ数だった。


 十日と、半月。

 部屋の誰も、それ以上の計算をしなかった。しなくても、分かった。


 十日止まる、という話なら、払う理由はあった。

 十日、三割で回る、という話なら、払う理由は、どこにも無かった。


「払わん」


 タルムが言った。


 部屋の空気が、少しだけ動いた。

 誰も、立派だ、とは言わなかった。


「勘違いするな」


 タルムは、卓の上の紙を見たまま言った。


「金を払わんのが正しいから、払わんのじゃない。十日もつと分かったから、払わんのだ」


 タルムは、窓の外の荷積み場を、顎で指した。


「昨日のままなら、払っとった」


 マリエが、払わない場合の紙の下に、一行書き足した。


 払わない。

 理由 十日、三割で耐えられる見込みが立ったため。


———

 十日は、十日だった。


 最初の四台は、年配の術者と帳場の術者たちが、二晩寝ずに組み直した。

 中をまっさらにして、外文路から切り離したまま、別の卓に並べる。残りの十六台は、そのあとに回された。余り印は、三日目のうちに全部数え直された。五年前の工房の印のほかに、三つ見つかった。


 三日目の夜、深雪倉から、最初の時写しが掘り出されてきた。


 そこで、手が止まった。


「どれから、戻せばいいんですか」


 帳場の若い術者が訊いた。

 誰も、すぐには答えられなかった。


 荷繰り帳と得意先の帳面を先に戻す、とは、私が言った。

 ただ、その二つだけでは、荷は出ない。どの箱が誰のもので、その誰かがどこにいるのかは分かっても、どの荷車がどの道を回るのかは、御者の割り振りの中にある。割り振りは、勘定の帳面の掛けの残りを見て決めている。掛けが溜まりすぎた得意先には、荷を出さない決まりがあるからだ。勘定の帳面は、仕入れの帳面と突き合わせないと、残りが正しいかどうか分からない。

 一つを戻すと、その一つが頼っている帳面が、また一つ出てくる。


 何が揃えば、商いが動き出すのか。

 それを、誰も書いていなかった。


 最悪だ。

 決めていなかったことが、いちばん眠い夜に回ってきた。


 年配の術者が、帳場の壁に大きな紙を貼った。

 帳面の名前を一つずつ書き、どれがどれに頼っているかを、線でつないでいった。線は、何度も引き直された。


「戻し稽古は、毎季、していたんです」


 年配の術者が、線を引きながら言った。

 自分を責める声だった。


「稽古は、していました」


 私は言った。


「一つを戻す稽古です」


 年配の術者の手が、止まった。


「一つ戻せることと、全部戻せることは、別のことです。全部を、どの順で戻せば商いが動くのか。……それを、誰も決めていませんでした。決めていないものは、その日に決めることになります」


 私は、壁の紙の、引き直された線を見た。


「その日は、いちばん決められない日です」


 年配の術者は、それきり何も言わずに、線を引き続けた。

 線は、明け方に、ようやく引き直されなくなった。

 勘定の帳面が戻るまでの割り振りは、紙で、当主が見ることになった。掛けの溜まった得意先の顔なら、帳面より先に、当主の頭に入っている。


———

 四日目の昼、荷繰り帳と得意先の帳面が戻った。


 戻したものが正しいかを、シオが確かめた。

 錠の晩の夕方の時写しから戻したので、その晩の夕方から夜にかけての数刻ぶんが、帳面に無い。その数刻に出た荷と入った荷を、御者の受け取りの控えと、倉番の手元の書き付けから、一件ずつ手で入れ直した。


 四日目の夕方、帳面から割り振った荷車が、門を出た。

 六十台だった。


 手回しの紙も、そこで止まったわけではなかった。

 止まったどころか、仕事が増えた。三日分の紙に書かれた荷の出入りを、戻った帳面へ、あとから一枚ずつ書き戻さなければならない。倉番が欄の外に書き足した棚の番を、術者が読み解いて、入れる。


 手回しは、戻るのを早くはしなかった。

 戻ったあとに、片づける紙を一束、増やした。

 それでも、三日目の朝からは、宿の朝と学校の昼が、細く続いていた。


 手回しのほうも、稽古をしていなかった分の代償は、払っていた。

 初日は、空振りだった。次の朝は、刷り屋を叩き起こした。誰を先にするかは、帳面ではなく、当主の顔で決まっていた。当主が倒れていたら、誰も決められなかった。


「一度でも、やっとけばな」


 四日目の夜、荷積み場で、黄ばんだ束を見下ろして、タルムが言った。


「欄が足りんことは、一度やれば分かった。初日から回った」


———

 仕入れの帳面が戻ったのが、七日目。

 勘定の帳面と、御者の割り振りが戻ったのが、九日目。


 十日目の朝、白霜商会の門を、百二十台の荷車が出ていった。


 その日の夕方、帳場の奥の間で、マリエと一緒に、失われたものの欄を埋めた。


 取り消された注文が、十日分。

 待てずに、よその卸へ移った得意先が、宿が二軒と、食堂が一軒。

 持ち主の分からなくなった箱が、三十一。錠の晩の数刻に出入りした荷のうち、どの控えにも残っていなかった分だった。

 帳場の術盤を組み直した費え。深雪倉の急ぎ賃。十日分の、御者と倉番の、ほとんど何もできなかった日の手間賃。


 マリエは、それを、一つずつ紙に書いた。

 書き終えるまで、私は口を開かなかった。


 書き終えてから、言った。


「これは、自慢していい数字です」


 タルムが、顔を上げた。


「十日で、全部戻しました。……それでも、失った荷は戻りません。離れた得意先も、戻らないかもしれません」


 私は、紙の上の二つの欄を、順に指した。


「両方、本当です」


 タルムは、しばらく紙を見ていた。

 それから、短く言った。


「……両方か」


———

 声明の出どころは、最後まで割れなかった。


 踏み台継ぎは、どこかの借り場の一角で途切れていた。その先の外印は、もう誰にも貸されていなかった。

 連絡の宛先として残されていた魔文には、期限の七日目を過ぎてから、一度も、何も届かなかった。

 声明は、二度目が出なかった。


「分かりません」


 十日目の夜、カナメは、魔安対としての締めの紙を読み上げて、そう言った。


「誰だったのか。魔王軍の名を使った理由が、ただの脅しだったのか、それ以上だったのか。……魔王軍だったのか、そうでなかったのかも、分かりません」


 カナメは、紙を卓に置いた。


「分からないまま、締めます。分かったことにするほうが、危ういので」


 分かったことにすれば、次の声明が出たとき、人は前と同じ顔で信じるか、前と同じ顔で笑う。

 どちらも、危うい。


 王都の帳場という帳場へ、魔安対からの報せが回った。

 取り決めの切れた工房の印を、全部数えて、切ること。

 それだけの報せだった。


———

 数日後、王都術務室の小部屋で、マリエが一枚の紙を読み上げた。


「王都の役所の帳面の控えについて。前の三箇条に、一行足します」


 マリエは、紙を卓に置いた。


三つ残せ。

二つの器に分けよ。

一つは遠くへ置け。

一つは、己にも消せぬ器に置け。


「最後の行の、己、というのが要るの」


 マリエは言った。


「誰にも、だと、誰か一人だけは消せる器を作ってしまう人が出るわ。自分は、その誰にもに入っていない、と思うから」


 それから、紙の下のほうを指した。

 少し離して、別の項が書いてあった。


帳面が止まった日の段取りを綴りにして、持て。

年に一度、そのとおりに回してみよ。

回したら、綴りの欄を、今の荷に合わせて直せ。


「手回し稽古」


 マリエは言った。


「綴りのほうにも、名前が要るわね。手回し帳。……戻し稽古は、もう決まりに入っています。その隣へ、もう一つ入れます。……控えの話と、止まった日の話は、別の項にしたわ。混ぜると、どちらかが、片方の付け足しに見えるもの」


「別の備え、ですから」


「別の備えよ」


 マリエは、二つの項のあいだの余白を、指で叩いた。


「書いてあるだけの綴りは、無いのとほとんど同じです」


 マリエは、そこで一度、言葉を切った。


「……ほとんど、です。今回は、その"ほとんど"に助けられました」


「民間には」


「書いて配るところまで。役所の帳面には決まりとして、商会には手引きとして。商務院の名で出すわ」


 マリエは、紙を二つに折った。


「今回は、払わずに済みました。済まないところも、出ます」


 済まないところが出たとき、その商会を、誰が責めるのか。

 マリエは、それを書かなかった。書かないことに決めた顔だった。


———

 十日目から、さらに五日が過ぎた日、私は白霜商会の帳場に寄った。


 帳場の隅の卓に、シオがいた。

 卓の上に、菓子の箱が三つ積んであった。角の宿のおかみさんと、北の食堂の親父と、学校の賄い方からだという。


「食べてください」


 シオは、箱を一つ、こちらへ押した。


「皆さん、来てくださるんです。……礼を言いに」


 シオは、困った顔をしていた。

 褒められている人の顔ではなかった。褒められ慣れていない人の、居場所を探している顔だった。


「褒められると、思っていませんでした」


 シオは言った。


「……いまも、思っていません」


 私は、菓子の箱を見た。

 三年前の伺い書のときには、一つも無かった箱である。


「あなたの仕事が認められたのは、事故が起きたからです」


 私は言った。


 シオは、少しのあいだ、私を見ていた。

 それから、頷いた。


「はい」


 分かっている、という頷きだった。

 事故が起きなければ、あの棚は、三年と一日ごとに、誰にも知られずに更新されていっただろう。要らない控えを溜め込む、高い棚として。三度落とされた伺い書の、四度目の名残として。


 帳場の戸が開いて、タルムが入ってきた。

 脇に、あの黄ばんだ束を抱えていた。麻の紐が、新しい紐に替わっている。


「刷り屋に、全部刷り直させる」


 タルムは言った。


「蔵の欄を十一。冷やしの欄を一つ。棚の欄を三つ。……刷り上がったら、春のうちに一度、回す。全員で」


 タルムは、シオの卓の前で、立ち止まった。

 シオが、慌てて立ち上がった。


 私は、二人を見た。


「よくやりました」


 私は言った。


「今日ではなく、三年前と、二十年前にです」


 徹夜で術盤を組み直した術者たちの頑張りは、本物だった。

 それでも、十日で戻れたのは、三年前に一つの棚が作られていたからだ。十日を耐えられたのは、二十年前に一束の紙が書かれていたからだ。

 讃えるべきものは、事件の日には、もう終わっていた。


 タルムは、何も言わなかった。

 シオも、何も言わなかった。


 それから、タルムが、シオのほうへ顎をしゃくった。


「次の伺い書は、三枚目から読む」


 シオは、少しだけ目を見開いた。

 それから、小さく、はい、と言った。


 タルムは、束を抱えたまま、荷積み場のほうへ出ていった。

 シオは、座り直して、筆を取った。


 卓の上の紙に、棚の名前と、数字が書かれていく。

 新しい棚を、もう一つ作るのだそうだ。


「解けぬ日数を、決めないといけないので」


 シオは、顔を上げずに言った。


 帳場の窓から、荷積み場が見えた。

 タルムが、新しい紐で括った束を、倉番の一人に渡していた。

 帳場の中では、シオが、数字を一つ書いて、消せない棚の、消せない日数を決めていた。


———

 その夜、家の台所には、魚の匂いがした。


「魚屋さん、今日から前の値に戻したって」


 リゼが、鍋の蓋を開けながら言った。

 湯気の向こうに、鱈の身が白く沈んでいた。


「戻ってからしばらく、高かったでしょ。止まってた十日分を、取り返したかったんだって。……取り返し終わったって、笑ってた」


「笑ってた」


「泣くより、ましでしょ」


 リゼは、椀によそった。


 しばらく、二人で黙って食べた。

 温かかった。


 椀が半分ほど空いたところで、リゼが言った。


「あなたが決めてあげたほうが、あの人は楽だったんじゃないの」


 リゼの声は、責める声ではなかった。

 確かめる声だった。


「楽だったと思う」


 私は言った。


「でも、決められる者が決めないと、決めた者が、責を負えなくなる」


「責」


「払って、鍵が来なかったら、俺のせいになる。払わないで、得意先が離れても、俺のせいになる。……どっちになっても、あの人は、自分で決めたことにできない。できないと、次に同じことが起きたとき、また誰かに決めてもらうしかなくなる」


 リゼは、椀を両手で包んだ。


「あの人が、自分で決めたことにするために、決めなかったんだ」


「俺は、日数を数えただけだ」


「数えるだけで、ずいぶん疲れた顔してる」


「数えるのは、疲れる」


 リゼは、少し笑った。


「でも、数えてもらえるのは、いいことだよ」


 リゼは、椀を卓に置いた。


「流れ座が止まった夏、わたし、毎晩、寝る前に開いてたの」


「毎晩」


「毎晩。開かないのを確かめてから、寝てた。……遊戯をしてる人の映像に、みんなで書き込みを流すのが好きだったの。それが、ある朝から、無いの」


 リゼは、椀の縁を指でなぞった。


「すぐに仮のが立ったけど、前のとは違ってて。ひと月より長くかかる、って出て、ひと月たっても、まだだった。……止まってることより、いつまで止まるのか分からないほうが、ずっと怖かった」


 私は、白霜商会の門の前に並んでいた荷車を思い出した。

 御者たちは、三日目の午後まで、いつまで待てばいいのかを知らなかった。


「だから、最初に日数を数えたんだ」


「十日って言われたら、十日は待てるもんね」


「待てる」


 私は言った。


「……分からないのは、待てない」


———

「消せない棚、だっけ」


 リゼが言った。


「自分で開けられない棚を作って、鍵を、自分から取り上げたってこと?」


「そういうことだ」


「変なの」


「変だ。でも、取り上げてあったから、取られなかった」


 リゼは、少し考えた。


「前に、消せないせいで困った話、したよね。千年残る証明の会社の」


「した」


「あのときは、消せないのが怖い、って話だった。……今度は、消せないから、助かったのね」


「同じ性質だ」


 私は言った。


「置き場所が違う。……それに、今度の棚は、ずっと消せないわけじゃない。決めた日数が過ぎたら、消せる。忘れ方まで、最初に決めてある」


「忘れ方を、設計したんだ」


 リゼは、言葉を確かめるように言った。

 前にも、リゼは、この言葉を同じように確かめたことがある。


「それと、もう一つの、紙のほう」


「手回し」


「それ」


 リゼは、鍋の下の火を見た。


「竈が壊れたら、庭で火を熾して、鍋で炊くでしょ。遅いけど、ごはんは食べられる」


「……そうだな」


「でも、毎日それは嫌」


「嫌だ」


「竈は、直さないと」


「竈を直すのは、控えのほうだ。鍋は、直るまでのあいだ食べるためのものだ」


 リゼは、頷いた。


「庭で火を熾したこと、一度もなかったら?」


「初日は、生煮えだ」


「白霜さん、生煮えだったんだ」


「初日は、生煮えだった」


 リゼは、椀の中の鱈を、箸でつついた。

 ちゃんと、煮えている。


「じゃあ、うちも一回やっとこうか。庭で」


「……冬にか」


「冬に止まったら、冬にやるんでしょ」


 それは、そうだった。

 冬の庭で火を熾す夫婦を、近所がどう見るのかは、考えないことにした。

 最悪だ。たぶん、本当にやる。


———

 次の講義の朝も、講堂は寒かった。


 高い窓の霜の花は、前と同じ形をしていた。

 後ろの列のひそひそ声は、もう、昼の賄いの話をしていなかった。


 ルドーが、表示盤に、前と同じ一行を書いた。


控えが、消された。


「答え」


 前列の学生が、少し迷ってから言った。


「……一つだけ、消されないところに置いておきます」


「消されない、とは」


「誰にも、消せないところです」


「誰にも、とは誰だ」


 学生は、黙った。

 それから、ゆっくり言った。


「……自分も、です」


 ルドーは、頷いた。


「縛れ。自分をだ」


 短い。

 それきり、ルドーは、表示盤に二行を書き足した。


戻す稽古。

止まる稽古。


「戻す稽古はしたか」


 講堂が、静かになった。


「……止まる稽古は」


 誰も、手を挙げなかった。


 学生たちが、一斉に嫌そうな顔をした。

 その顔を見て、私は、少しだけ安心した。嫌そうな顔をする人間は、それが自分の仕事になると分かっている人間である。


———

 白霜商会の蔵は、今日も、白い息を吐いている。


 十日のあいだも、一度も冷えを落とさなかった蔵である。

 荷は、ずっとそこにあった。足りなかったのは、荷ではなかった。


 深雪倉の端の、白霜商会の消せない棚は、二つになった。

 荷積み場の棚には、刷り直した紙の束が、新しい紐で括られて置いてある。

 どちらも、使われない日のほうが、ずっと長い。


 守りとは、自分にもできないことを増やすことである。

 そして、帳面が止まった日のために、紙と足を、先に用意しておくことである。


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