第248話 見分けてくれるのは、約束があるから
三日後の翠路工房は、窓の曇りが、少しだけ薄かった。
古い術盤が、二台止められていた。
止まった術盤は、熱を吐かない。熱を吐かない部屋は、冬の部屋に戻る。窓の内側の水の筋が、前より細かった。
作業台の上の林も、少し刈り込まれていた。
前の刷り札盤は、歯車の欠けたまま、棚の下段へ移っている。絡み合っていた線のうち何本かは、束ねて、輪にして、壁の釘に掛けてあった。
代わりに、台の真ん中に、新しい術盤が一台置かれていた。
白い。角が丸い。背中に、万継ぎ口が二つ並んでいる。
「北区役所の窓口の盤を、いずれ、これに替えます」
マルクが言った。
目の下は、三日前より少しましだった。
「受付の術式を移す日取りは、まだ決まっていないんですが。決まってから組むと、また夜中になるので。……先に組んでおこうと思って」
夜中にならないように、先に組む。
夜中に潰れかけた人が、自分で言いだした段取りだった。
隣で、リゼが帳面を広げていた。
今日は、政務術式支援班の見習いとして来ている。北区役所の窓口の盤を替える話は、班の帳面にも載るのだそうだ。
「窓口のおばさんから、伝言。飴、まだあるって」
「……ありがとうございます、と伝えてください」
マルクは、少し赤くなった。
———
マルクが、台の脇の小さな箱を開けた。
中から出てきたのは、手のひらほどの平たい台だった。
一方の端から、短い線が一本出ている。反対側の面に、口が四つ、並んでいた。どれも同じ形である。
「多端継ぎ台です。一つの万継ぎ口を、四つに増やせます」
マルクは、台の線を、術盤の背中の万継ぎ口に挿した。
それから、増えた四つの口に、術具を一つずつ挿していく。
刷り札盤。入力器。記憶板の箱。窓口で使う、札を読み取る小さな術具。
口を探す手は、一度も止まらなかった。
止まったのは、挿す手のほうだった。
刷り札盤の線の先が、口の縁に当たって、入らない。
マルクは、先を裏返した。
また、当たった。
もう一度裏返すと、今度は、すっと入った。
最初の向きで、合っていたらしい。
「……これ、毎回なんですよね」
マルクが、少し恥ずかしそうに言った。
「万継ぎ口は、上と下が、見ただけでは分からなくて。工房では、三回目で入る口、と呼んでいます。一回目で外して、裏返して二回目も外して、もう一度裏返して三回目で入る。最初の向きが合っていても、です」
「わかる」
リゼが、帳面から顔を上げた。
「うちの盤も、毎晩それやってる」
四つ挿し終わるまでに、マルクは、全部で七回、線の先を裏返した。
それでも、手が探したのは、向きだけだった。
どの口に挿すかは、一度も探していない。四つとも、同じ形の口である。
「でも」
マルクは、最後の線を挿し終えて、言った。
「向きを間違えても、入らないだけなんです。焦げはしない」
三日前の、同じ形の二つの口を思い出した。
あちらは、間違えても、入ってしまった。入ってしまって、焦げた。
入らない間違いは、怖くない。
怖いのは、入ってしまう間違いのほうだ。
三回目で入る口は、面倒だ。
面倒だが、口を探さなくていい。穴を数えなくていい。間違えても、何も壊れない。
面倒の種類が、まるで違った。
表示鏡に、細い字が、四行流れた。
刷り札盤を見つけました
入力器を見つけました
記憶板を見つけました
札読みを見つけました
AIエージェント:「観測:四つとも、挿してから瞬き一つぶんで、名乗り合いが終わっています」
「……三日前の苦労は、何だったんでしょう」
マルクが、表示鏡を見ながら言った。
「必要な苦労でした。あの盤には、こうはできないので」
私は言った。
多端継ぎ台の箱の側面に、小さな字が刷ってあった。
何に挿す台なのかを、正式な名で書いてある。
「正式には、万物連続継ぎ口、というんですね」
私は、その字を読み上げた。
「何でも、続けて、運ぶ口。……長いので、誰も言いませんが」
「そんな長い名前だったんですか」
マルクが、箱を覗き込んだ。
「術師の学び舎でも、万継ぎ口としか習いませんでした」
「頭の一文字と、継ぎ口だけ残したんだね」
リゼが、帳面から顔を上げた。
「……連続、が落ちてる」
リゼは、それを、ちょっと面白がる顔で言った。
私は、リゼを見た。
「落ちたほうが、本当は大事なんだ」
「何でも、は残ったのにね」
「何でも、のほうが、売りやすい」
リゼは、それはそう、という顔で、帳面に戻った。
何でも繋がる口。使う人には、それで十分である。
続けて、運ぶ。その仕組みのほうは、名前からも、使う人の頭からも、きれいに抜け落ちていた。
抜け落ちても困らないように、作ってある、ということでもある。
———
「今、挿した瞬間に、何が起きたかというと」
私は、表示鏡の四行を指した。
「術具のほうが、名乗っています。自分は刷り札盤で、こういう刷り方をする。自分は入力器で、動きを送る。術盤のほうも、名乗り返す。名乗り合って、この相手にはこの制御術式で話す、と術盤が自分で決めた。……三日前、マルクさんが記憶石から起動巻物に書き写したことを、挿した瞬間に、術盤がやっています」
「僕が、ずっと当たり前に使っていたものですね」
「当たり前に使えるものは、だいたい、誰かが苦労して当たり前にしてくれたものです」
マルクが、表示鏡の四行を、もう一度見た。
「昔は、継いだあとに、こちらから『これは何か』を教えてやる必要があった……らしいです」
私は言った。
「リゼのお父さんに、聞いたのですが。名乗り合いも、最初からうまくいったわけではないそうです。触れ込みは『挿して、演れ』で、しばらくは『挿して、祈れ』と呼ばれていた」
「祈れ」
マルクが、吹き出した。
吹き出してから、慌てて口を押さえた。
「すみません。でも、分かります。三日前、僕、祈ってました」
「昔の術者も、そうだったそうです」
リゼが、帳面に何か書き付けた。
たぶん、班の帳面には要らないことを。
「それと、もう一つ、聞いた話ですが」
私は続けた。
「名乗り合いは、万継ぎ口より前からあったそうです。口がまだ、五つも六つもばらばらだった頃に。……なら、たぶん、名乗り合いのほうが先に、ちゃんと動くようになって、それから、口の形が一つに揃ったんだと思います」
「口を揃えたから、名乗れるようになったんじゃないんですか」
「順番は、逆だと思います。名乗れるようになっていたから、口を揃えられた」
挿して、祈れ、の時代があった。
祈らなくてよくなるまで、名乗り合いのほうが先に、固まらなくなったのだろう。
形をひとつにする判断は、その上に乗っている。
私は、それを見ていない。
見ていないが、そう考えると、筋は通る。
———
マルクは、新しい術盤の腹の蓋を、捩じ回しで開けた。
中に、細長い溝が並んでいた。
三日前の晩に、義父の九千八百式の中で見たものと、似ていた。似ていたが、溝の長さも、爪の形も、まるで違った。
「中の嵌め台も、今はどの盤も、同じ形です」
マルクは言った。
「共通嵌め台、っていいます。どこの工房の板でも、だいたい挿さります」
「だいたい」
「だいたい、です」
マルクは、正直な人だった。
「リゼのお父さんが聞いたら、半年返せ、と言いますね」
私が言うと、マルクは不思議そうな顔をした。半年の話を、マルクは知らない。
「言う」
リゼが、帳面を見たまま言った。
「絶対言う」
———
「どうして、ここまで揃えられたんでしょう」
マルクが訊いた。
蓋を閉めながら、である。
「三日前の、あの五つの口。作ったところが、それぞれ自分の都合で作っていたんですよね。それが、今は全部、一つの形になっている」
「作りを見る限りですが」
私は、多端継ぎ台を指した。
「揃えたのは、口の形と、名乗り方の作法だけです。名乗ったあとに、刷り札盤が刷り札盤として何を話すか、記憶板の箱が何を運ぶか。そこは、それぞれの工房が自分で作っている。口の形と、口の中で交わす中身の作り方を、分けたんだと思います」
「形だけ、揃えた」
「形と、名乗り方だけです。中身まで揃えろと言ったら、どこの工房も、たぶん、乗らなかった」
マルクが、うなずいた。
「それで、揃えると、何が楽になるかというと」
私は、指を折った。
「術具が十種、術盤が十種あるとします。それぞれに合わせて口を作ったら、合わせ方は百通りです。間に共通の口をひとつ挟めば、術具は口に一度合わせるだけ、術盤も口に一度合わせるだけでいい。十と十の、二十で済みます」
「百が、二十」
「掛け算が、足し算になるんです」
義父が、音出し板を探して、魔法横丁を半年歩いたのは、たぶん、その百通りの側にいたからだ。
自分の嵌め台に合う一枚を、百の中から探していた。
「それ、昔の授業でやったやつでしょ」
リゼが、帳面から顔を上げた。
「全部を全部に繋ぐな、ってやつ」
私は、リゼを見た。
「……そうだ。組み合わせを増やすな、中継点を置け」
「ルドー先生が言ったやつ」
「言ったやつだ」
それから、マルクのほうへ向き直った。
「前に、学校で、同じ数の話をしたことがあるんです。あのときは、真ん中に中継所を置きました。みんなが一度そこへ集まって、そこから配る。……今回は、置くものがありません。間に挟まっているのは、決め事だけです」
「決め事だけで、百が二十に」
「それと、もう一つ」
私は言った。
「二十というのは、作る側の話です。使う側は……一つです。どれとどれを継ぐときも、同じ口に挿すだけ。数えることが、要らなくなります」
マルクが、多端継ぎ台の四つの口を見た。
同じ形の口が、四つ。
「継ぎ方が一つなら、もう何も覚えなくていいってこと?」
リゼが言った。
「最高じゃない」
私は、リゼのほうを向いた。
「最高だ」
「向きは、三回ですけどね」
マルクが言った。
「三回やれば入るなら、覚えなくていいでしょ」
リゼが言った。
それは、そうだった。
口の形がひとつになり、挿せば名乗り合う。
その二つが揃って、はじめて、使う人の継ぎ方はひとつになる。
片方だけでは、こうはならない。口が揃っても名乗らなければ、三日前のマルクのように起動巻物を書くことになる。名乗っても口がばらばらなら、穴の数を数えることになる。
「万継ぎ口にしてしまえば、こんなに迷わなくて済むんですね」
マルクが、多端継ぎ台を撫でながら言った。
「術師の学び舎で、先生に、一つだけ釘を刺されたのを思い出しました。万継ぎ口は便利だが、決まった間合いのうちに必ず応えが返ってこないと困る機の操作には向かない、って」
「向かない、んですか」
「向かない、と。……理由は、忘れました」
「西門の外の塔の籠、これで動かしてたら、また急に止まってたかもね」
リゼが、帳面から顔を上げずに言った。
あの日、あの籠の中にいたのは、リゼと私だった。
私は、リゼのほうを見た。
「……あれは、万継ぎ口じゃ、やりにくいだろうな」
それから、マルクに向き直った。
「向かない、で覚えておけば、今日は十分です」
マルクは、少し笑って、帳面の端に、向かない、とだけ書いた。
———
週の終わりに、また、リゼの実家で夕飯になった。
今夜は、ノルがいた。
いた、というより、待ち構えていた。戸を開けた途端に、卓の向こうから身を乗り出してきた。
「ユウさん、ちょうどよかった」
「何が、ですか」
「姉ちゃん、これ絶対おかしいって」
ノルは、卓の上に、携帯術盤を置いた。
置いた、というより、叩きつける寸前で止めた。
「俺の方だけ減るんだよ。おかしくないか」
「何が減るの」
リゼが、外套を脱ぎながら訊いた。
「力。魔力」
ノルは、盤の札面の隅を指した。
魔力の残りを示す小さな目盛りが、一割を切っていた。
「昼に、友達と、川の氷で滑ってるとこを写し絵に撮ったんだよ。撮ったのを、向こうの盤に写そうと思って、万継ぎ口の線で、盤と盤を継いだんだ。そしたら、写してるあいだに、俺のだけ、どんどん減っていく。半分あったのが、半刻で、これ」
「向こうのは」
「増えてた」
ノルは、両手を広げた。
「向こうは平気な顔してるのに、こっちだけ底をつく。撮ったのは俺なのに。俺が、写してやってるほうなのに」
「線なんか使わないで、飛ばせばいいじゃない。近くの盤どうしなら、そのまま送れるでしょ」
リゼが言った。
「向こうの盤、違う商会のなんだよ。そのまま飛ばすやつは、同じ商会の盤どうしでしか使えない」
「じゃあ、魔文で送れば」
台所から、義母が言った。
「川原は、遠話の届きが悪いんだよ。それに、滑ってるとこを続けて撮ったから、百枚近くある。魔文で送ると、一枚ずつ粗くされて、氷の上の黒い点が、俺か、あいつか、犬か、分かんなくなる」
「犬もいたの」
「いた。……だから、線。線なら粗くならないし、届かないってこともない。向こうが線を持ってたんだよ」
ノルは、自分の盤を睨んだ。
「持ってたのが、悪かった」
最悪だ。
夕飯の前に、仕事が卓に載った。
義母が、鍋を卓に置いた。
置きながら、私の顔を見た。見て、何も言わなかった。言わなくても、食べてからにしなさい、と書いてあった。
———
食べてからにした。
鍋は、今夜は魚だった。白い身が、汁の中でほどけていく。
ノルは、二杯目をよそいながら、まだ自分の盤を睨んでいた。
リゼが、その盤を、横から覗き込んだ。
「……それ、わたしのお下がりじゃない」
「そうだよ。姉ちゃんが新しいのに替えたとき、くれたやつ」
「まだ使ってたんだ」
「使えるんだから、使うだろ」
リゼは、自分の携帯術盤を出して、ノルの盤の隣に並べた。
同じ商会の盤である。リゼのほうが、ひと回り薄い。
「力まで分け合うようになったんなら、そりゃ揉めるでしょ」
リゼは言った。
「どっちが先に出すか、決めてないんだもん」
「決めてないって、何だよ」
「どっちが先に奢るか、みたいな話でしょ。二人で飲みに行って、二人とも黙ってたら、最後に財布を出すのは、気の弱いほう」
「俺、気が弱いのか」
「盤がね」
ノルは、自分の盤を見た。
盤は、何も言わなかった。
———
「試してみていいですか」
私は、ノルに訊いた。
ノルは、継ぎ線を一本、鞄から出して、卓に置いた。
ノルの盤と、リゼの盤を、継ぐ。
リゼの盤の札面に、小さな字が出た。継がれた相手を見つけた、という知らせである。
ノルの盤の札面には、何も出なかった。
AIエージェント:「観測:古いほうの携帯術盤は、現在、力を出す側になっています」
ノルの盤の目盛りが、見ているうちに、ほんの少し減った。
リゼの盤の目盛りが、ほんの少し増えた。
「……わたしの古い盤が、わたしの新しい盤に、貢いでる」
リゼが言った。
「姉ちゃんが、姉ちゃんから取ってる」
「人聞きが悪い」
私は、リゼの盤の札面を開いた。
継ぎ口の設定の奥に、欄が一つあった。
力の譲り合い
この盤の役 受け役
「力の譲り合い」
ノルが、読み上げた。
「そんな欄、あったのか」
「今の盤には、あります」
私は、ノルの盤の札面を開いた。
同じところを探した。
欄が、無かった。
AIエージェント:「補足:出す側と受け取る側は、継いだ瞬間の名乗り合いで決まります。……決まらなかったときに、どちらへ倒れるか。その倒れ方が、今回の原因です」
———
「万継ぎ口は、形だけでなく、力まで運ぶようになったんです」
私は、二つの盤を継いでいる線を指した。
「字も、絵も、音も運ぶ。そのうえ、魔力も運べる。……そうなると、今度は、どちらが力を出す側かを決めなければならなくなります」
「決めればいいだろ」
「決めています。挿した瞬間に、名乗り合いの中で」
私は、リゼの盤を指した。
「リゼの盤は、挿した瞬間に、自分は受けてもいいし、出してもいい、と名乗っています。相手の名乗りを聞いて、どちらになるかを決めるつもりで、待っている」
ノルの盤を指した。
「こちらの盤は、その名乗りに、答えていません。力の名乗りという作法ができる前の盤……なのだと思います。だから、そもそも、その問いが聞こえていない」
「聞こえてないと、どうなるんだよ」
「決まりません。決まらないとき、この盤は、出す側に倒れます」
「なんで出す側なんだよ」
「この盤が作られた頃は、それが当たり前だったんだと思います。継いだほうが、黙って力を出す。相手が受け取れるなら、受け取る。……それで困らなかったんです。力を出す側が、いつも決まっていた頃は」
ノルは、自分の盤を、裏返した。
裏返しても、何も分からない。
義父が、鍋の向こうで、箸を止めていた。
「名乗れんのか、その盤は」
「力のことだけ、名乗れません」
「名乗れん術具は、昔は固まった」
義父は言った。
「今は、黙って出すのか」
「……はい」
私は言った。
「固まらないぶん、気づきにくいです。動いているので。動きながら、少しずつ、出ていく」
義父は、少しのあいだ黙っていた。
「祈るほうが、まだ分かりやすかったな」
———
直すのは、ノルの盤の制御術式を新しくするだけだった。
この型の盤のために、作った商会は、力の名乗りに答える新しい制御術式を、もう出していた。半年前である。
ただ、古い型の盤には、自分から降りてこない作りだった。札面の奥の、さらに奥の欄で、こちらから取りに行かなければ、半年でも一年でも、届かない。
「誰も、悪くないね」
リゼが言った。
「ノルも、商会も、わたしも」
「姉ちゃんは、お下がりを寄越したぞ」
「使えるんだから、使うだろ、って言ったのは誰」
ノルは、黙って、制御術式を取りに行く押し札を押した。
少し待った。
盤が、一度眠って、起き直した。
もう一度、二つの盤を継ぐ。
今度は、二つの札面に、同時に字が出た。
力の譲り合い
この盤の役 出し役
リゼの盤のほうだった。
ノルの盤には、受け役、と出た。目盛りの少ないほうが、受け取るほうに回っていた。
「……姉ちゃんから、取ってる」
「今度は、正しく取ってる」
ノルの盤の目盛りが、ほんの少しだけ、増えた。
ノルは、それを、何度も見直していた。
義母が、空いた椀を重ねながら言った。
「それで、明日、友達の盤も見てあげるのね」
「……俺が?」
「あなたが」
ノルは、少し考えて、うなずいた。
———
翌日、王都術務室の小部屋に、マリエが来た。
マルクが、北区役所の窓口の盤を替える段取りを、班に届けに来る日だった。リゼが、その場にマリエを呼んだ。窓口の盤を替えるとなると、役所が何をどこから買うかの取り決めが絡む。取り決めの話になると、この人の手が要る。
「新婚旅行から戻ってから、休みらしい休みが、まだ二日しかないの」
マリエは、椅子に座りながら言った。
「二日もあったのか、と夫には言われたわ」
マルクの段取りの話は、すぐに済んだ。
受付の術式を移す日取り、それまでの繋ぎ方、刷り札盤の口の見分け方を書き足した手順書の写し。マリエは、三か所に線を引いて、一か所に丸を付けた。
済んだあとで、私は、ノルの盤の話をした。
継いだら、片方だけ減った。
古い盤が、力の名乗りに答えられず、決まらないまま、出す側に倒れていた。
「うちにも、似た相談が来ていました」
マルクが言った。
「工房のお客の商店から、この冬だけで、三件。携帯術盤に、持ち運べる小さな刷り札盤を継いで勘定書きを刷ったら、刷り札盤のほうではなく、携帯術盤のほうが、空になった、と」
「三件」
「僕は、刷り札盤の不良だと思って、作ったところに問い合わせていました」
マルクは、少しだけ下を向いた。
「……また、壊れていなかったんですね」
「壊れていませんでした」
私は言った。
「どちらも、言われたとおりに動いていました。言われたことが、決まっていなかっただけです」
———
マリエは、しばらく、卓の上の自分の指を見ていた。
「出し役と受け役」
それから、言った。
「どちらが先に名乗るか。決まらなかったら、どちらに倒れるか。……術具の説明書に、書かせるわ」
「説明書に」
「買う人が、読めるところに。読まない人がほとんどでしょうけど、書いてあれば、マルクさんみたいな人が、不良だと思う前に確かめられる」
マルクが、顔を上げた。
「それと」
マリエは、指を一本立てた。
「継いだ側が黙って力を出す、という作りを許していたのが、そもそもの緩さよ」
「許していた」
「誰も、禁じていなかった。禁じる理由が無かったのね。力の出る向きが、いつも決まっていた頃は。……向きが決まらなくなった日に、決まり事のほうを、誰も書き直さなかった」
私は、うなずいた。
「ちなみに」
私は言った。
「市場で、最近、携帯魔力瓶を見ました」
「携帯魔力瓶」
「持ち歩ける、予備の魔力の瓶です。万継ぎ口で、ほかの術具に力を分けられる。……あれには、口が二つ付いていました」
私は、卓の上に、指で二つの丸を描いた。
「一つは、両行き口。名乗り合いで、出す側にも受ける側にもなれる、普通の万継ぎ口です。もう一つは、出行き専用口。いつも出す側に決まっていて、名乗り合いすら要らない」
「名乗らないの」
「名乗らなくても、迷いようがないので」
私は、二つ目の丸を指で叩いた。
「両行き口は、こちらが力をもらいたくて継いでも、名乗り合いの成り行きで、瓶のほうが受ける側に回ることがあるんです。そうなると、瓶に分けてもらうはずだった術具が、逆に瓶へ力を吸われる。……出るだけと決まっている口なら、それが起きません。迷ったら、出るだけの口を選べばいい」
「貸すだけの財布と、貸し借りどっちもできる財布を、最初から分けておく感じ?」
リゼが言った。
私は、リゼを見た。
「そういうことだ」
マリエが、少しだけ目を細めた。
「取り決めを増やすだけが、答えじゃないのね」
マリエは言った。
「……迷わない形を、先に作っておくことも」
「名乗り合いを賢くする道と、そもそも迷わせない道と」
私は言った。
「……両方あっていいんです。どちらが正しい、という話ではないので」
———
マリエは、紙を一枚引き寄せて、筆を取った。
しばらく書いて、それから、読み上げた。
「王都の役所に納める、万継ぎ口を持つ術具は、力の譲り合いにおける自らの役の名乗り方と、名乗りが決まらなかった場合の倒れ方とを、説明書に明記すること」
「役所に納めるものだけ、ですか」
マルクが訊いた。
「まずは、ね」
マリエは、筆を置いた。
「役所が買うものなら、役所の取り決めで縛れるわ。商店の棚に並ぶ術具まで届かせるのは、商務院と話してから。……春までには、無理ね」
「春まで」
「早くて、夏」
マリエは、紙の端を揃えた。
「取り決めを増やせば、取り決め同士がぶつかる場所も増えるわ。説明書に書けと言えば、今度は、書いてある名乗りと実際の名乗りが違う術具が出てくる。それを見つける取り決めが、また要る」
マリエは、少しだけ笑った。
「それでも、無いよりはまし」
———
部屋の隅の椅子に、いつのまにか、ルドーが座っていた。
誰が呼んだのかは、誰も知らなかった。
訊いても、たぶん答えない。
「万継ぎ口にしてから、もう安心だと思っていました」
マルクが、誰にともなく言った。
「挿せば繋がるので。繋がったら、それで終わりだと」
「繋がったから安心とは、言っておらん」
ルドーが言った。
それきり、ルドーは黙った。
マルクは、背筋を伸ばして、手元の手順書に、また何か書き足しはじめた。
「継ぎ方は、一つになりました」
私は言った。
マルクに、というより、手順書のほうに向かって。
「……その一つの下で交わされている決め事は、いまも増え続けています」
———
その夜、家の居間で、リゼが、自分の携帯術盤の札面を開いていた。
力の譲り合いの欄を、出したり閉じたりしている。
「ねえ」
「うん」
「昔より、賢くなったってことじゃないの?」
リゼは、札面を私のほうへ向けた。
「挿して、祈れ、の時代から、挿したら名乗る時代になって。今度は、力の出し方まで名乗るようになって。……盤が、賢くなってるんでしょ」
「賢くなったんじゃなくて、決め事が増えただけだ」
私は言った。
「挿したら名乗る、という決め事。名乗ったら、この術式で話す、という決め事。力はどちらから出す、という決め事。決まらなかったら、どちらへ倒れる、という決め事。……賢く見えるのは、決め事を、人に見せなくなったからだ」
リゼは、少し考えた。
「うちの実家の台所と、同じだね」
「台所」
「お父さんが九八式を出すと、お母さん、黙って鍋を端に寄せるでしょ。お父さんは、鍋がどこへ行ったか、たぶん一度も見てない」
「見てないな」
「お母さんの中で、決まってるのよ。九八式が出たら、鍋は端。食べる前に、戻す。……誰にも見せないで、ずっと、そうしてる」
リゼは、札面を閉じた。
「だから、お父さんは、いい時代だ、って言えるんだよ」
私は、何も言い返せなかった。
最悪だ。
うまいことを言うのは、いつも、こちらではない。
———
王都の役所に納める術具は、春のうちに、説明書の書き直しが始まるだろう。
商店の棚の術具は、まだ、名乗りの倒れ方を書かないまま売られている。ノルの友達の盤も、たぶん、まだ古い制御術式のままだ。マリエの仕事は、夏まで続く。
万継ぎ口は、今日も、王都のどこかで、挿されている。
挿された瞬間に、見えないところで、名乗りが交わされている。
誰も、それを見ていない。見なくていいように、作ってある。
見分けてくれるのは、見えない約束があるからだ。




