第247話 挿して、祈れ
冬の朝の台所で、温かいのは鍋の湯気だけだった。
窓の下の隅に、霜が薄く残っている。
リゼが、麦の粥を二つの椀によそっていた。木の匙が椀の縁に当たって、こつ、と鳴る。
「北区役所の窓口、昨日の昼から、控え札が出てないんだって」
椀を置きながら、リゼが言った。
朝の一言目が仕事の話のときは、たいてい、班の誰かが夜のうちに魔文を回している。
「出てない?」
「刷れてないの。申請を受けたら、受けましたって控え札を刷って渡すでしょ。あれが出ないから、窓口の人が全部、手で書いてるんだって」
「全部」
「昨日の午後だけで、二百枚くらい」
冬の窓口で、手書きの控え札が二百枚。
紙より先に、指が終わる。
「受付の術式は、翠路工房が見てるやつ。刷り札盤が古くなって、紙を送る歯車が欠けたから、新しいのに替えたんだって。そしたら、新しいほうも刷れない」
「新しいほうも」
「マルクさん、夜中まで工房に残ってたらしいよ。作ったところに返すって言ってるって」
新しく買った道具が、最初から動かない。
よくある話だ。運んでくる途中でぶつけたか、倉で湿気を吸ったか。
「初めから壊れてたんだろう。替えてもらえば済む」
「そう?」
「そうだ。刷り札盤は、だいたい紙送りから壊れる」
リゼは、粥に蜂蜜を垂らした。
垂らしながら、少しだけ首を傾けた。
「だったらいいけど。窓口のおばさん、今日も手で書くんだよ」
「今日中に、替えが届けばいいな」
「届けばね」
リゼは匙を口に運んで、熱そうに眉を寄せた。
———
学校の門の前に、ルドーが立っていた。
外套の襟を立てている。
立っている、というより、待っていた。待っている人の立ち方だった。
「行くぞ」
「どこへですか」
「翠路だ」
ルドーは、それだけ言って歩き出した。
誰に呼ばれたのかは、言わなかった。
講義は、と訊きかけて、やめた。
訊けば、現場こそ授業だ、と返ってくる。返ってくると分かっている問いを口から出すのは、冬の朝には、熱の無駄である。
最悪だ。
今朝の粥が、まだ胃の中で温かいうちだった。
———
翠路工房の窓は、冬でも曇っていた。
中が暖かいのである。
術盤が何台も起きていると、部屋は勝手に温まる。人の吐く息と、術盤の吐く熱が、窓の内側で水になって、筋を引いて垂れていた。
戸を開けると、匂いがした。
温まった埃の匂い。古い線の被せ物が、ほんの少し焦げたような匂い。それから、冷めた茶。
奥の作業台の前に、マルクがいた。
前に会ったときより、少し背筋が伸びた気がする。
目の下は、前と同じだった。
「ユウさん。……ルドー先生まで」
マルクは立ち上がりかけて、座り直して、また立った。
「すみません。呼ぶほどのことじゃないって、言ったんですが」
「呼ぶほどのことだ」
ルドーが言った。
それで、その話は終わった。
ルドーは、窓際の椅子を一つ引き寄せて、座った。
座ったきり、こちらを見なかった。見なくても、聞いている人である。
———
作業台の上は、林だった。
術盤が三台。大きさも、色の褪せ方も、それぞれ違う。
そのまわりに、術具が並んでいる。
手のひらに収まる、丸い入力器。
重たそうな、記憶板の箱。
遠くと文をやり取りするための、ずいぶん古い箱。
筒の形をした、絵を撮るための術具。
それから、紙送りの歯車が欠けた、前の刷り札盤。
その間を、線が這っていた。
太い線、細い線、平たい線、撚った線。根のように絡み合って、どれがどこから出てどこへ入るのか、目で追うと途中で分からなくなる。
台の真ん中に、新しい刷り札盤が座っていた。
白い。角が丸い。今の術具の形をしている。
林の中で、そこだけ、季節が違った。
「北区役所の窓口の盤と、同じ型の盤です」
マルクは、いちばん古い術盤を指した。
灰色の、角ばった箱である。表示鏡は、別の台に載っていた。
「申請受付の術式は、この型でしか動かない作りなんです。いずれ新しい盤に移すことにはなっているんですが、まだで。……新しい刷り札盤は、窓口へ持っていく前に、まずここで試すことにしていました」
「試したら、刷れなかった」
「刷れました」
「刷れた?」
「紙は、出てくるんです。でも」
マルクは、台の端に積んだ紙の束から、一枚抜いて私に渡した。
控え札の紙だった。
申請の番、受けた日、窓口の名。そういうものが並ぶはずの欄に、並んでいたのは、記号だった。
鉤のような字。点。斜めの棒。意味をなさない並びが、行の頭をそろえて、きれいに紙の端まで続いている。
きれいなのが、かえって気味が悪い。
「替えてから、ずっとこれです。三十枚」
窓口で二百枚の控え札を手で書いているあいだに、ここでは三十枚、記号を刷っていたことになる。
「作ったところに、返そうと思っています」
マルクは言った。
「たぶん、初めから壊れていたんです」
今朝、私が粥の前で言ったのと、同じ言葉だった。
———
「刷り札盤だけで、刷れますか。盤に繋がずに」
私は訊いた。
「……刷れます。たしか、脇の押し札を押しながら起こすと、自分で一枚」
マルクは、刷り札盤の背中から線を抜いた。
抜くとき、指が一度止まった。止まってから、抜いた。
脇の押し札を押したまま、刷り札盤を起こす。
かた、と小さく鳴って、紙が一枚、出てきた。
きれいな紙だった。
刷り札盤の型の名。刷れる字の一覧。墨の濃さの段。枠の線。全部がまっすぐ、正しい字で並んでいる。
「刷り札盤は、壊れていません」
私は言った。
マルクは、その紙を見た。
自分の手の中の、記号の紙を見た。
また、きれいな紙を見た。
「じゃあ……盤ですか。盤のほうが、壊れて」
「見てみましょう」
最悪だ。
今朝の私は、見てもいない刷り札盤に、判決を出していた。
———
私は、灰色の術盤の後ろへ回った。
背中に、口が並んでいた。
五つあった。
小さな丸い口。針の穴が六つ。
幅の広い台形の口。穴が二列で、二十五。
小ぶりの台形の口。こちらは穴ではなく、針が九本、こちらへ突き出している。
もう一つ、幅の広い台形の口。穴が二列で、二十五。
いちばん端に、平たい小さな口。片側の角だけが丸い。
刷り札盤から来ていた線は、三つ目の、針が九本の口に挿さっていた。
二つ目と四つ目は、同じ形をしていた。
幅も、穴の数も、並び方も同じである。並べて置くと、どちらがどちらか、見ただけでは分からない。
「マルクさん。刷り札盤は、いつもは、どの口に」
「……本当は、四つ目です」
マルクは、私の横にしゃがんだ。
「前の刷り札盤は、四つ目に挿していました。でも、去年、一度、間違えて二つ目に挿したことがあって」
「二つ目には」
「記憶板の箱が繋がるんです。同じ形なので、線は、どちらにも入ってしまう。……そのまま起こしたら、記憶板の箱が熱くなって、焦げた匂いがして。慌てて抜いたので、箱は無事でした。でも、危うく、駄目にするところでした」
マルクは、二つ目の口の縁を、指でなぞった。
「手順書には、口の見分け方までは書いていなくて。四つ目に挿す、とだけ。……端から数え間違えたら、終わりです」
「それで、今度は三つ目に」
「三つ目なら、形が違うので、間違えようがないと思って。新しい刷り札盤の背中にも、同じ形の口が付いていたので」
私は、白い刷り札盤の背中を見た。
口が、三つあった。
いちばん大きく、いちばん真ん中にあるのは、今のどの術具にも付いている口である。
万継ぎ口。
その脇に、昔の盤のための口が、遠慮がちに二つ並んでいた。四つ目と同じ幅の広い口と、三つ目と同じ針の九本の口である。
なるほど、と思った。
間違えれば記憶板が焦げる口と、間違えようのない口。
一度焦げる匂いを嗅いだ人間が、どちらを選ぶかは、決まっている。
マルクは、悪いことは何もしていない。
怖い口を避けて、怖くない口を選んだだけだ。
残っているのは、線である。
刷り札盤は、試し刷りで、壊れていないと分かった。
だが、試し刷りは、刷り札盤の中だけで済む。盤から刷り札盤までのあいだを通る線は、まだ一度も試されていない。
「この線は」
「刷り札盤の箱に、一緒に入っていた線です。新しいので、大丈夫だと思うんですが」
「新しい線も、壊れていることはあります」
線は、黙って壊れる。
中の細い筋が一本切れていても、外からは分からない。切れた一本のぶんだけ、届く字が欠ける。欠けた字は、記号に見える。
見てもいないものに判決を出すのは、今朝、私が刷り札盤にやったのと、同じことだ。
「三つ目の口は、ふだんは何に」
「あの、遠くと文をやり取りする箱です。今朝も、取引先と文を一往復させてから、試すあいだだけ外しました」
「その箱の線を、借りましょう。今朝まで、ちゃんと文を運んでいた線です」
マルクは、台の端に丸めてあった線を取って、刷り札盤と盤のあいだに挿し替えた。
控え札を、一枚。
かた、と鳴って、紙が出てきた。
鉤と、点と、斜めの棒。
AIエージェント:「観測:三十一枚目は、これまでの三十枚と、一字も違いません」
「線が切れているなら、線を替えれば、欠ける場所が変わるはずです」
私は言った。
「変わらない。今朝まで動いていた線でも、同じ記号が、同じ場所に出る。……線のせいではありません」
盤の三つ目の口も、今朝まで、遠くの相手とちゃんと話していた。
刷り札盤は、ひとりで正しい字を刷る。
線は、替えても同じ。
「壊れてはいません」
私は言った。
「刷り札盤も、線も、盤も。……ただ、違う言葉で話しかけています」
「違う言葉」
「三つ目の口は、字を一つずつ、ゆっくり送る口です。送る側と受ける側が、どれくらいの間を空けて、どこで区切って送るかを、先に決めておかないといけない。盤のほうは、盤の決め方で送っています。刷り札盤のほうは、刷り札盤の決め方で聞いています。……字は、届いているんです。届いた字を、違う区切りで読んでいるので、記号になる」
マルクは、手の中の紙を見下ろした。
鉤と、点と、斜めの棒。
「これ、字なんですか」
「字の、切れ端です」
———
工房の壁に、表示盤が掛かっていた。
配備の日程が、端のほうに、薄く消え残っている。
「口の名前を、端から言ってもらえますか」
私が言うと、マルクは、少し不思議そうな顔をした。
「名前、ですか。ユウさんなら、ご存じかと」
「性質は分かります。名前は、マルクさんのほうが知っています」
マルクは、しゃがんだまま、口を一つずつ指した。
「弐式継ぎ口。小術盤継ぎ口。推奨標準継ぎ。行刷り継ぎ口。……それと、炎糸です」
私は、名前の横に、それぞれの口が何をするかを書いた。
弐式継ぎ口 位置と動きだけを、細く途切れず送る
小術盤継ぎ口 多くの量を、一度にまとめて送る
推奨標準継ぎ 遅い相手に合わせて、ゆっくり一つずつ送る
行刷り継ぎ口 一方へしか流れない。返事は、脇の細い線で聞く
炎糸 絵と音を、遅れさせずに流し続ける
炎糸。
五つ並べると、一つだけ、毛色が違った。
ほかの四つには、どれも「継ぎ」が付いている。これには、継ぎも口も付いていない。名前の顔つきからして、仲間に入っていない。
「弐式継ぎ口は、そこの丸い入力器の口です」
私は、台の上の入力器を指した。
「手で転がすと、表示鏡の上の印が動く。あれが送っているのは、どちらへ、どれだけ動いたか、だけです。字は送りません。この口は、指し示す動きだけを伝える口です。記憶を流すようにはできていません」
「小術盤継ぎ口は」
「記憶板の箱です。量を、まとめて運ぶ。……そして、まとめて運ぶ口と、一方へだけ流す口が、同じ形をしている」
二つ目と、四つ目。
形は同じで、口の中でやり取りする約束事が、まるで違う。
「同じ形の口に、違う約束事の相手を挿せば、話が噛み合わないだけでは済みません。運ぶ量も、流す向きも違うので、受ける側が、受けきれない」
「……焦げます」
「焦げます」
AIエージェント:「観測:この五つの口は、互いに何も理解し合えません」
「今、言わなくていい」
マルクが、私の手元を見た。
見て、何も訊かなかった。この工房の人たちは、もう慣れている。
窓際から、ルドーが言った。
「口が違うと、話も通じん」
———
「どうして、こんなに、ばらばらなんですか」
マルクが訊いた。
「同じ盤の背中に、五つも。最初から全部、一つの口にしてくれていれば」
「たぶん」
私は言った。
「作ったところが、それぞれ、自分の術具のことだけを見ていたからだと思います。動きを送りたい工房は、動きを送るのに一番いい形を作った。量を運びたい工房は、量を運ぶのに一番いい形を作った。誰も、間違えてはいない。ほかの工房と合わせる理由が、なかっただけです」
「……たぶん、ですか」
「たぶん、です。見ていないので」
この口が何をするかは、物を見れば分かる。
誰が、いつ、なぜこう作ったかは、物を見ても分からない。
「じゃあ、名前は」
マルクが、表示盤の一行目を指した。
「弐式って、何が弐なんですか」
「……分かりません」
マルクが、瞬きをした。
「性質は分かります。名前の由来は、分かりません」
私は言った。
私は、この口が何をするかは知っている。
知らないのは、この世界の側が、それを何と呼ぶことにして、なぜそう呼ぶことにしたかである。
前にも一度、同じ線の手前で立ち止まったことがある。そのときも、線の向こうへは、聞かなければ行けなかった。
「調べましょう」
「ユウさんが、調べるんですか」
「一緒に、です」
———
マルクが、奥の棚から書付を出してきた。
盤を買ったときに付いてきた手引きである。紙が厚い。角が丸くなっている。何年か前に誰かが茶をこぼした跡が、地図のように広がっていた。
口の一覧の頁があった。
口の名。針の数。何を繋ぐか。挿すときの向き。
それだけだった。
「……形と手順しか、書いてないですね」
「手引きですから」
形と手順だけで、手引きとしては十分である。
手引きを書いた人は、口の名がなぜその名なのかを、使う人が知りたがるとは思っていなかったのだろう。たいていの人は、知りたがらない。困ったときだけ、知りたがる。
一行目の、弐式継ぎ口の欄に、細い字の添え書きがあった。
「弐式個人用体系に倣う、とあります」
私は読み上げた。
「弐式個人用体系」
「昔の術盤の、型の名前……らしいです。その術盤に付いていた口の形を、そのまま使った、ということかもしれません。書付には、それ以上は書いてありません」
「その術盤、見たことないです」
「私もです」
小術盤継ぎ口と、行刷り継ぎ口には、添え書きが無かった。
無くても、名前の字面が、だいたいのことを言っていた。
「小さな術盤のための口。一行ずつ刷るための口。……この二つは、使い道で呼ばれている、ように読めます」
「推奨標準継ぎは」
添え書きは、無かった。
名前の字面のほうも、何も言っていなかった。
「推奨の、標準」
私は、字を一つずつ読んだ。
「勧める決まり、とだけ言っています。何を繋ぐのかも、誰が作ったのかも、言っていない」
マルクが、表示盤のその行を、しばらく見ていた。
「……それ、名前になっていますか」
「なっていません。でも、そう呼ばれてきたので、そう呼ぶしかありません」
たぶん、決めた側が、こうするのを勧める標準の決まり、とだけ題を付けて、その題が、口の名として残ったのだろう。
らしい、としか言えない。だが、名前の顔を見る限り、そういう残り方をした名前だった。
マルクが、頁の最後の行に指を移した。
炎糸の欄だった。
炎糸、と書いた横に、括弧で、もう一つ、ずいぶん長い名前が添えてある。
「西方新大陸魔術師協会千三百九十四式……?」
マルクは、読み上げてから、自分で首を傾げた。
「炎糸のことです」
私は言った。
「括弧の中に、そう書いてあります。同じ口の、もう一つの名前です」
「同じ口に、名前が二つ」
「作ったところが付けた名前と、後から揃えたところが付けた名前……なんだと思います。協会の名前に、番号。何をする口なのかは、一言も言っていませんが」
「工房で、長いほうを言っている人、見たことないです」
「書付には、長いほうも載っているんですけどね」
書付には長いほうも載っているのに、口に出す人はいない。
名前というのは、正しいほうではなく、言いやすいほうが生き残る。
マルクは、書付を閉じかけて、手を止めた。
台の端の、筒の形の術具を持ち上げる。
絵を撮るための、古い術具である。極東島国渡りの品だと、さっきマルクが言っていた。
側面に、平たい小さな口が付いている。片側の角だけが丸い。炎糸と、同じ形だった。
その口の脇に、細い字が刻んであった。
愛・絆。
「……こっちには、こう書いてあります」
マルクが、刻まれた字を、指の腹でなぞった。
「……それも、同じ口です」
「なぜ」
「分かりません」
マルクは、筒を持ったまま、しばらく動かなかった。
窓際の椅子から、ルドーが言った。
「繋ぐだけだろう」
身も蓋もない。
だが、たぶん、この部屋でいちばん正しい。
———
「賢い箱に、聞いてみませんか」
マルクが言った。
書付は、形と手順で終わっていた。
物は、刻まれた字までしか教えてくれない。
この先は、聞くしかなかった。
工房の札面から、変換器に繋いだ。
白い欄が一つ。その奥に、底の見えない何かがいる。
マルクが、一つずつ尋ねた。
弐式継ぎ口は、なぜ弐式というのか。
推奨標準継ぎは、何を推奨しているのか。
炎糸の名は、誰が付けたのか。
返事は、すぐに来た。三つとも、整っていた。
弐式継ぎ口は、弐式個人用体系と呼ばれた古い術盤に初めて備えられたことから、その名で呼ばれております。
推奨標準継ぎの名は、これを定めた文書の題に由来し、特定の用途を指すものではございません。
炎糸は、知恵之実社が自社の術具に用いた名でございます。後年、標準として取りまとめられた際に、協会の名と通し番号による正式名が付されました。
書付の添え書きと、食い違ってはいない。
名前の字面とも、食い違ってはいない。
たぶん、合っている。
たぶん、としか言えないのは、合っているかどうかを確かめる先を、私が持っていないからだ。
「知恵之実社って、あの、携帯術盤の」
「昔は、こういう口も作っていた……らしいですね」
今では、王都の半分の人の手の中にいる商会である。
その商会が、昔、口を一つ作って、名前だけを残していった。らしい、である。
マルクが、四つ目を書いた。
極東島国の術具に、炎糸と同じ口があり、別の名が刻まれている。その名の由来は。
今度は、少し間があった。
そして、返事が来た。
長かった。
その名は、遠く離れた術具と術具を、一本の糸のように結び合わせる働きに寄せて名づけられたものと伝えられております。作り手の異なる術具であっても、ひとたび結ばれれば互いを慈しみ、同じ絵と音とを分かち合う。その在り方を、極東島国の人々は、人と人との情けの結び目になぞらえたのでございましょう。繋ぐという営みの奥には、いつの世も、相手を思う心がございます。
整っていた。
前の三つより、ずっと整っていた。
語尾の一つまで、磨いてあった。
AIエージェント:「補足:四つ目の返答だけ、文が三倍の長さです」
「……本当ですか、これ」
マルクが、札面を見たまま言った。
「分かりません」
私は言った。
「確かめようがない」
本当だと言える材料も、嘘だと言える材料も、この工房には無い。
あるのは、整った文と、筒の脇に刻まれた字だけだった。
私は、表示盤の五行を見た。
「名の付け方さえ、揃っていなかったんです」
私は言った。
「昔の術盤の名で呼ばれるものもあれば、使い道だけで呼ばれるものもある。……何も言っていないものも、名前が三つあるものもある」
マルクが、表示盤を、端から読み直した。
読み直して、小さく笑った。
「口だけじゃなくて、名前まで、ばらばらだったんですね」
笑えるようになったなら、もう大丈夫だ。
怖いものに名前が付くと、人はだいたい、少しだけ笑える。
———
直すのは、マルクがやった。
まず、口を戻す。
二つ目と四つ目の、同じ形の口。マルクは手燭を近づけて、口の縁を探した。
四つ目の口の縁に、小さな刻みがあった。
刷り札盤の絵が、爪の先ほどの大きさで彫ってある。二つ目の縁には、筒を寝かせたような絵。記憶板の印である。
「……ありました」
「書付には」
「載っていません。手引きの絵には、刻みまで描いてありませんでした」
見分け方は、最初から盤に彫ってあった。
書付に、載っていなかっただけだ。
「手順書に、書き足します。刻みの場所と、絵の形と」
マルクは、刷り札盤の線を、四つ目の口に挿した。
挿すとき、指は止まらなかった。
次は、起動巻物である。
盤が、刷り札盤にどんな言葉で話しかけるかを決める行。そこには、前の刷り札盤の制御術式の名が、まだ残っていた。
「新しい刷り札盤の制御術式が、要ります」
「……そんなもの、付いてましたっけ」
マルクは、刷り札盤の入っていた箱をひっくり返した。
詰め物の底に、紙に包んだ記憶石が一枚、貼りついていた。
包み紙には、古い盤をお使いの方へ、とだけ書いてあった。
「今の術具の箱、開けても、詰め物しか見ないので」
「今の盤なら、要りませんからね」
マルクは、記憶石の中の制御術式を、起動巻物の一行に書き写した。
盤を、起こし直す。
控え札の試しを、一枚。
かた、と鳴って、紙が出てきた。
申請の番。受けた日。北区役所、第二窓口。
まっすぐな字で、並んでいた。
「……出た」
マルクが言った。
声が、少し裏返っていた。
「出ました。ユウさん、出ました」
「出ましたね」
「窓口へ持っていけ」
窓際から、ルドーが言った。
「はい、はい。すぐに」
「はいは一回だ」
マルクは、背筋を伸ばした。
伸ばしたまま、刷り札盤を抱えて、箱に戻しはじめた。
———
箱に戻す手を、マルクが一度止めた。
刷り札盤の背中の、真ん中の大きな口を、親指でなぞっている。
「今の盤なら、万継ぎ口に挿して、それで終わりなんですよね」
マルクは言った。
「口も迷わないし、制御術式も、向こうが勝手に選んでくれる。僕が術師になったころには、もう、それが当たり前で。……万継ぎ口を使っている術具は、こんなに迷わずに済むんですね」
「昔は、これが当たり前だった……んだと思います」
言ってから、思います、では足りない、と思った。
私は、この世界の昔を、見ていない。
「知っていそうな人が、一人います」
———
その晩は、リゼの実家で夕飯を食べることになっていた。
冬になってから、月に二度は呼ばれる。呼ばれる、というより、義母がそう決めた。
鍋が、卓の真ん中で煮えていた。根菜と、塩漬けの肉と、白い豆。湯気が、天井の梁まで上がっていく。
ノルは友達の家に行っていて、いなかった。
「北区役所の控え札、出たって。午後に、班に魔文が来てた」
リゼが言った。
「窓口に新しい刷り札盤が入ったんだって。窓口のおばさん、マルクさんに飴をあげたらしいよ」
「よかった」
「で、何だったの。壊れてたの」
「壊れてなかった。挿す口が違った」
私は、昼間の五つの口の話をした。
同じ形の二つの口。焦げた匂い。間違えようのない口を選んだら、違う言葉で話しかけていたこと。
リゼは、豆を一粒ずつ匙ですくいながら聞いていた。
「昔の道具って、みんな鍵穴が違ったんでしょ」
「違ったらしい」
「実家の合鍵、友達の家では使えないしね」
「……それはそうだ」
義父は、黙って鍋の肉を取っていた。
黙っているが、聞いていた。箸の動きが、推奨標準継ぎのところで一度止まったのを、私は見ていた。
「お義父さん」
「何だ」
「昔は、術具を繋ぐとき、どうしていたんですか」
リゼが、匙を置いた。
「お父さん、その話になると長いから覚悟して」
「長くない」
「長いわよ」
義母が言った。
鍋に豆を足しながら、である。
義父は、箸を置いた。
置いて、立ち上がった。奥の部屋へ入っていく。
「ほら」
リゼが言った。
家庭である。
———
義父は、九千八百式を抱えて戻ってきた。
卓の上の鍋を、義母が黙って端へ寄せた。
何十年もこうしてきた人の、迷いのない寄せ方だった。
義父は、天の板の、四隅の爪を外した。
この前、冬の埃を払ったときに開けたのは、背の板だった。今日は、上である。
中に、細長い溝が、縦に三つ並んでいた。
背の側からは見えない、奥の溝である。
そのうちの一つに、板が一枚、立てて挿してあった。手のひらを二つ並べたくらいの板である。表に、小さな黒い粒が、行儀よく並んでいた。
「拡張嵌め台だ」
義父は、溝を指した。
「術盤の腹を開けて、ここに板を挿す。挿した板のぶんだけ、術盤にできることが増える」
「これは」
「音出し板だ」
義父は、その板に、指先で触れた。
触れた、というより、確かめた。まだそこにあるかを。
「この型は、そのままでは、ろくに鳴らん。鳴らしたければ、板を挿す」
「拡張嵌め台の形は、どこでも同じだったんですか」
「違った」
即答だった。
「嵌め台は、工房ごとに形が違った。溝の長さも、爪の数も、どこに何の合図を通すかも違う。この嵌め台に合う板は、この嵌め台の形に合わせて作った板だけだ。よその形の板は、挿さらん。挿さっても、話が通じん」
「では、合う板を探すのは」
「うちのに合う音出し板を探すだけで、半年かかった」
「半年」
「魔法横丁を、毎週回った。板の端の、爪の数を数えて歩いた。……数えていると、店の親父が、嫌な顔をする」
「買わないからでしょ」
リゼが言った。
「合わんものは、買わん」
義父は、当たり前のことを言う顔で言った。
———
「ようやく板が挿さったときは……」
義父は、そこで少し黙った。
蓋を開けたままの九千八百式を、見下ろしている。
「あれは、感動というより、勝った、という気持ちだった。鳴るところまでは、まだ先だったが」
「まだ先」
「板を挿しただけじゃ鳴らんのだ。中に、音を鳴らす術式も、別に入れてやらんと」
義父は、そこで言葉を切った。
切って、私を見た。
「……その先は、前に話したな」
「はい。夜通し起動巻物を書き換えた話です。音楽術式を、上位記憶晶に押し込む」
「そうだ」
義父は、少しだけ頷いた。
「板を挿すまでが今日の話で、そこから先は、君も知っての通りだ」
知っている。
前に、この卓で聞いた。
今日聞いたのは、その手前だった。
巻物を書き換える前の、板を手に入れるまでの話である。
手前に、まだ、半年あった。
「最初に鳴らしたのは、何だったんですか」
「『三途の川の中心で勇気を説く老人DUN-NO』だ」
義父は、迷わなかった。
「あれは、音が鳴る場面が少なくてな。ほとんどの刻、黙っている。文字が流れるだけだ。……だからこそ、鳴った瞬間が効いた」
「どこで鳴るんですか」
「言わん」
即答だった。
「遊べば分かる」
リゼが、横で、小さく溜め息をついた。
「お父さん、それ、わたしが十歳のときも言ってた」
「十歳のときに遊べばよかった」
「遊ばせてくれなかったじゃない」
「『先輩』と同じ棚にあったからだ」
義母が、鍋の蓋で、卓の端を軽く叩いた。
義父は、黙った。
———
「昔は、鳴るだけで、えらかった」
しばらくして、義父が言った。
「今の盤は、鳴って当たり前だ。誰も、鳴ったことに驚かん。……あの頃は、鳴った、というだけで、隣の家まで聞かせに行った」
「行ったの?」
「行った」
「迷惑ね」
義母が言った。
「迷惑だった」
義父は、認めた。
認めた顔が、少しだけ、誇らしそうだった。
音が鳴ること。
今の王都では、誰も数えない。携帯術盤は、魔文が届けば鳴り、遠話が来れば鳴り、黙っていてほしいときにも鳴る。
鳴ることが値打ちだった時代を、私はこの世界で見ていない。見ていないが、この人の顔を見れば、だいたい分かる。
———
「板を挿したら、こちらから、術盤に教えてやらんといかん」
義父は、指を一本立てた。
「この溝に、こういう板が挿してある。何番の道で話せ。何番の合図で呼べ。……全部、こちらが巻物に書く。間違えれば、鳴らん。悪くすれば、固まる」
「今は」
「今は、向こうが名乗るんだろう」
義父は言った。
「挿した瞬間に、術具のほうが、自分は何者だと名乗る。術盤のほうも、名乗り返す。名乗り合って、勝手に話の道を決める。……名乗り合い、という」
名乗り合い。
昼間、マルクが、名前を言わずに使っていたものだ。挿せば、向こうが勝手に選んでくれる。
「その名乗り合いが出てきたのは、まだ口がばらばらだった頃だ。これからは挿すだけでよくなる、という触れ込みでな」
義父は、指を下ろした。
「触れ込みは、『挿して、演れ』だった」
挿して、演れ(さして、やれ)。
挿せば、あとは向こうが勝手にやる、ということらしい。よその言葉から引き写したような、少し据わりの悪い言い回しである。
「……実際は、『挿して、祈れ』だ」
挿して、祈れ(さして、いのれ)。
「名乗ったつもりで、違う顔で名乗ってくる術具もあってな。こちらは信じて、その顔に合う術式を当てる。合わんから、固まる。固まったら、腹を開けて、板を抜いて、挿し直しだ。だから、祈るんだ。挿すたびに」
「誰が言い出したんですか。祈れ、って」
「知らん。気づいたら、みんな言っとった」
語尾を一つ替えただけで、触れ込みが、悪口になる。
うまいことを言う人間は、どの世界にもいるらしい。そして、うまいことを言われた側は、だいたい、言い返せない。
リゼが、匙を置いた。
「今は、挿したら向こうが『あ、これは合鍵ですね』って言ってくれるってこと?」
「そうだ」
義父は、少し間を置いた。
「祈らんでも、名乗る」
———
義父は、九千八百式の天の板を、ゆっくり戻した。
爪を、一つずつ掛けていく。
四つ目を掛けたところで、手を止めた。
「……今は挿すだけで、向こうが名乗るんだろう」
誰に言うでもなく、義父は言った。
「いい時代だ」
少し、照れていた。
昔の話を長くした人が、最後に今を褒めるときの、照れ方だった。
義母が、鍋を卓の真ん中へ戻した。
鍋は、まだ温かかった。
最悪だ。
豆が、すっかり煮崩れていた。誰も、文句は言わなかった。
———
帰り道は、星がよく見えた。
冬の空気は、音をよく通す。どこかの家で、遅い鍋の蓋が鳴っていた。
リゼは、外套の襟に顎を埋めて、私の半歩前を歩いていた。
「お父さん、楽しそうだった」
「楽しそうだった」
「ユウが訊くと、ちゃんと答えるんだよね。わたしが訊くと、遊べば分かる、なのに」
「俺も、どこで鳴るかは教えてもらってない」
「それはそう」
リゼが、少し笑った。白い息が、星の手前で崩れた。
工房の盤の背中には、口が五つあった。
口ごとに形が違い、口ごとに話し方が違い、名前の付け方まで違った。
繋ぐ人は、口を見分け、話し方を選び、起動巻物に一行ずつ書き込んだ。間違えれば、焦げた。合わなければ、固まった。だから、祈った。
今の術具は、万継ぎ口に挿すだけだ。
見分けなくていい。選ばなくていい。書き込まなくていい。祈らなくていい。
面倒が、消えたわけではないのだと思う。
名乗って、名乗り返して、話の道を決める。その手間は、今も、挿した瞬間の小さな間の中で、毎回起きている。
人の手の上から、見えないところへ、移っただけだ。
見えないところへ移った手間は、全部、うまくいっているのだろうか。
「何、考えてるの」
リゼが、振り返った。
「挿したら名乗る、っていうのは、本当に毎回うまくいくのかな、と」
「いってるでしょ。いってなかったら、ノルが毎日文句言ってるよ」
「……それはそうだ」
ノルは、その晩、まだ友達の家から帰っていなかった。




